しょうりつ学園の応接室は、誰の趣味なのか、西洋風のインテリアで統一されていた。家具の種類には疎い相馬は、なにか若葉のような模様の入った赤いカーペットが敷かれていて、年季の入った木製のテーブルと、妙に格式張ったソファーがその上に置かれているとしか思えなかった。ここは何度来ても落ち着かない場所だと、相馬は思う。道場のマットの上に胡座をかいているほうが、幾分か気が休まる。
テーブルには先程事務員らしき職員がブラックコーヒーを置いていった。相馬が格闘家であることに気を遣われたのか、そもそも準備するのを忘れられているだけなのか、砂糖やミルクの類いはついていなかった。
「大雅を、引き取りたい……?」
相馬がしょうりつ学園を訪れたのは、圭二が熱中症で体調を崩した日に、彼を病院に連れて行き、自宅へ送り届けたあとのことだった。自分が度々しょうりつ学園を訪れたり、あるいは藤本がつぐみ道場を訪れていることは、大雅には悟られたくなかった。別に隠すようなことをしているわけではないが、このことが露見すれば、また繊細な大雅の心が傷ついてしまうのではないかと考えたうえでの配慮だった。——オレに変な同情なんかしやがって、師匠までオレのことを馬鹿にするんですね——と、屈折した思いを抱かれそうなことは想像に容易い。
相馬の申し出を、彼の正面に座って聞いていた藤本は、最初、相馬の言葉にひどく驚いたようであった。大雅と相馬の関係は、道場に通う生徒と師範でしかなく、そこに並外れた人情があるとは考えていなかったからだ。
相馬は、藤本の驚嘆には気付かないふりをして、懇々とその理由を述べた。大雅が彼の家に泊まったときに口にしたものと同じ内容だった。
「先日、大雅が私の家に泊まったときに、つい私の気持ちが先走ってしまい、彼には先に話してしまっています。もしかするとそれで悩ませてしまっているかもしれません。次に来るまでに考えさせてくださいと、大雅は結論を先送りにしましたが、『次』が何度か訪れても、未だに返事はもらっていません」
「そうでしたか。いや、学園では、とくに変わった様子はみられませんね。学校を退学になってしまったことが相当こたえたのか、まるで別人のように……丸くなったというか、おとなしくなったといいますか……」
頷く。大雅と出会ったばかりの頃や、それ以降の彼の様子を知っている相馬にとっても、最近の彼の変わりようには正直困惑している節があった。
児童相談所を退所してしょうりつ学園に入所した大雅は、ものの数日で『問題児』と認定された。誰とも話さず、目を合わせようともしない。職員が気を遣って様子を見に訪室しても、石のように固まって反応も示さなかった。
その頃、たまたま部屋が空いていたこともあって、大雅は一部屋を一人であてがわれていた。これだけ感情の読み取りにくい児童なのだ。ほかの児童たちと触れ合うことによってトラブルを引き起こす可能性があるから、最初のうちは周りと距離を置いて様子を見てみようという配慮もあった。
事件が起こったのは、大雅が学園に入所して半月ほどが経ったある日のことだった。
日曜日だった。昼下がり、館内は児童たちが銘々で騒いでいる声が響き渡っていた。職員室の前には広いホールがあり、そこでは学園の中で一番大きなテレビが設置してあり、他の部屋では見られない衛星放送などを視聴することができるため、昼間は多くの児童がそこに集まってアニメ放送などを楽しんでいる。その日も例に漏れず、少年兵として生きることになった少年たちがロボットに乗り戦うというアニメの再放送に、児童たちの目が釘付けとなっていた。
ホールに突如として、児童たちの悲鳴が上がったのはそのときだった。職員室にいた職員たちは最初、次々に作中の少年たちが戦禍のなかに倒れていくというアニメの内容に感化された何人かの児童たちが叫んだのかと思ったが、どうも様子がおかしい。ホールで児童たちの様子を見ていた氏原が血相を変えて、「藤本先生!!」と職員室に駆け込んできたからだ。
パソコンに向かっていた藤本は、氏原の様子をみて、すぐに職員室を飛び出した。ものの十歩もない程度の距離を走りホールに出る。
人間、ほんとうに驚いたときは声が出なくなるものなのだと、そのとき藤本は思った。そこにいた誰もが静まりかえり、身を寄せ合って、たったいま起こった出来事を自分なりにのみこもうとしていた。
テレビの前には大雅がぽつんと立っていた。画面の方を向き、こちらには背中をみせている。悲壮感の漂うアニメのエンディング曲がスピーカーから流れているテレビの画面は暗転してノイズがはしっていた。そればかりか、画面の真ん中あたりが、蜘蛛の巣を張ったように割れている。
「あいつがいきなりやってきて、テレビを殴ったんだ! 頭おかしいんじゃねえの?」
藤本の手近にいた男子児童がぽつりと言った。それを皮切りに、児童たちのあいだで、大雅をなじるような言葉がひそひそと囁かれはじめた。
藤本は他の職員に、手分けをしてホールにいる児童たちを生活棟に戻すように指示をした。時間が経てば経つほど、児童たちのあいだで、大雅をなじる言葉が増えてくるだろう。そうすれば、いまは立ち尽くしているだけの大雅の心が刺激され、さらなる危害が加わるかもしれないと判断した結果だった。
「大雅、どうした?」
一対一となった藤本は、大雅に近づいて声をかけた。右の拳でテレビを殴ったのだろう。血が滲んで床に落ちている。だが、大雅は痛がる様子もなく、無表情のままじっと、もうなにも映すことの出来ない液晶画面を見つめていた。
「黙っていては分からないだろう。どうしてこんなことをしたんだ」
テレビは買い換えるか、あるいは修理に出せば、今後もホールで視聴を楽しむことが出来るだろう。出費はかさむが、児童たちの憩いの場を無くすわけにはいかない。しかし、大雅が抱えている心の闇をそんなに早く暴き出せるとは思えなかった。施設運営に携わって以来、たくさんの児童を送り出してきた藤本だったが、大雅は『難しい』児童であった。
ものも言わず、怪我をした拳を痛がることもせず、ただ立ち尽くしているだけの大雅だったが、怪我の治療のために腕を引いて職員室の中に招き入れたときは、とくに抵抗をすることもなく藤本についてきた。
事務机が並ぶ室内に立ったまま、氏原に怪我の処置をされる大雅は、そのときも口を閉ざしたまま、目を伏せてただ床の一点を見つめていただけだった。
その一件があってから、大雅は児童たちの中で、浮いた存在となった。元々入所以来、誰とも口を利こうとしなかったから、大雅自身はなにも変わらない……ように見えていたが、周りの児童たちと、修復の困難な隔たりが出来てしまったことで、より疎外感をおぼえていた。
部屋に戻っても一人。共用部に出てきても、誰も大雅に近寄ろうとしない。かと言って支援員たちが気を遣って話しかけても、なにか言葉を発するわけではない。職員間では、大雅の支援は久しぶりの困難事例だと話題になっていた。
ホールのテレビを破壊してからというもの、大雅はしばしばものを壊すようになった。食器を割ったり、窓ガラスを殴って割ったり、食堂の椅子を蹴り飛ばして破壊したり。そういうとき、彼は必ず体のどこかしらに怪我をつくっていた。
ものを壊すと、ときに児童たちの反感を買い、大雅に突っかかった少年たちと殴り合いの喧嘩に発展することもあった。陽太も、そのうちのひとりであった。
「おまえ、いい加減みんなに迷惑をかけるの、やめろっつってんだろ!!」
至極真っ当なことを言って大雅の胸倉をつかむ陽太は、すぐに無言のままの大雅の反撃を受けた。陽太はカッとなってもみ合いになり、平山たちが制止するまで大騒ぎとなった。
大雅が学園内の誰かと口を利いたのは、陽太が初めてだった。大雅が時として奇行にはしるのは、自分たちのコミュニケーション不足なのではないかと、陽太なりに考えた結果、無視をされても執拗に話しかけてやろうと考えたのだ。元々陽太は陽気な性格であったから、人と話すことには長けていた。大雅はやがて、陽太の声かけに視線だけで反応するようになり、そのうちに頷いたり、首を横に振って意思表示をするようになった。これは大きな進歩だと、陽太は喜んだものだ。支援員の誰もが成し遂げられなかった偉業を成し遂げられたような気がして、得意げに平山に報告したりもした。
「あいつ、うんともすんとも言わなかったくせに、最近はちょっとだけおれにリアクションするようになったぞ」と。
陽太のその報告を聞いて、平山は大雅を陽太と同室にしてみてはどうかと、藤本に打診した。
大雅が時折みせる破壊衝動は、自己表現が上手くできない彼が、誰かの気を引いて助けを求める行動であろうと、支援員たちは予想していた。しょうりつ学園が歩んできた歴史のなかで、なにも大雅だけが特筆して異質な行動をおこしていたわけではない。程度の差はあれど、過去にも同じように周りに助けを求めてきた児童は、少なからずいたのだ。様々なケースはあったものの、子供たちは予想のつかない行動をするものだ。行き当たりばったりでも、現状を打開できる可能性のある策があるのなら、それに賭けてみるほかない。
職員会議で決まったその日のうちに、大雅と陽太は同じ部屋に移された。もちろん、双方の意向を確かめてからである。
大雅は例に漏れず、肯定も否定もしなかったが、陽太は快諾してくれた。誰にも心を開こうとしない大雅の感情を解きほぐせるのは自分しかいないと、彼が密かに意気込んでいるせいもあった。
陽太は半ば強引に部屋に引っ張り込んだ大雅に、根掘り葉掘り質問をした。趣味はあるのか。好きな食べ物はなんだ、好きな女のタイプはどんなやつだ、支援員では誰が好きだ、児童相談所の生活は楽しかったか……など、マシンガントークをかまして大雅を圧倒してたじろがせたことは、大いなる進歩だった。
陽太がかかわるようになってからというもの、大雅は相変わらず口数が少ないままだったが、なにかを壊すなどの問題行動は、目に見えて減った。
陽太のあとについて、学園内の共用部に出てきたときは、ぼそぼそと挨拶をするようになった。注意していないと聞こえないような小さな声だったが、いままで一言も話さなかった大雅が声を出すのは支援員たちを驚かせた。
大雅がしょうりつ学園に入所したのは、ちょうど夏休みに入りかけの七月だったため、学校に通い始めるのは二学期からにしようと決まっていたため、結果的に児童相談所の退所後は、ずっと学園で過ごすことになった。
陽太の尽力もあって、学園内での大雅の生活はそのあいだに落ち着いたが、再び問題が起きたのは、彼が学校に通い始めて間もない頃だった。
中学は学区内のところに通うため、陽太や他の学園の児童たちと同じ学校に登校している。が、学園内では四六時中といっていいほどに一緒にいることが多い陽太と大雅だったが、クラスは別で、陽太が野球部に所属していることもあり、関わり合うことは少なかった。
そのせいか、転校してきたばかりの大雅は、不良生徒たちに目をつけられてしまったのだ。
「藤堂クン、おれらとオトモダチになろうぜ」と、不良のリーダー格である笠原道流が、ニヤニヤと笑いながら大雅に近づいたのは、二学期がはじまって一週間ほどが経過したときのことだった。
笠原とつるんでいる生徒たちは、いずれも髪を染め、学生服の前を開いて服装も乱れている。ピアスを開けている者もいる。一目見ただけで素行不良という印象を抱いてしまうような者たちばかりだ。
大雅は笠原の言葉を、言葉通りに受け取ってしまった。不良とよばれるような少年たちと関わるのは、児童相談所での生活で慣れていたせいもあって、大雅はむしろ声をかけてもらえたことに喜んだのだ。無論、それを表立って感情に出したわけではないが、以降、大雅は笠原たちと行動を共にするようになった。
しょうりつ学園の支援員たちにもそれが発覚したのは、大雅が髪を染めて帰園した日だった。
「えっ!? 大雅……?」
園庭で花壇の水やりをしていた平山が、奇しくも第一発見者であった。ただいまも言わずに自分の横を通り過ぎた大雅の姿を捉えた瞬間、平山は素っ頓狂な声を上げていた。じょうろをほっぽり出して、大雅の元に駆け寄る。朝、彼を見送ったときは黒かった頭髪が、金色に染め上げられていたからだ。
「おまっ……、どうしたんだよ、その頭……」
絶句する。一瞬大雅と平山の視線がかち合ったが、すぐに大雅のほうから逸らされてしまった。
「……染めた。……トモダチにやってもらった」
それでも大雅は、相手が平山だったからか、髪の色が変わった理由をぼそぼそと話した。
しょうりつ学園においては、児童は染髪をしてはいけないという規則はないから、支援員たちが大雅のやったことをとやかく言う筋合いはないのだが、そもそも大雅の通っている中学は、校則で染髪を禁止している。
平山はすぐに藤本に報告をおこなった。その日、藤本は非番だったため、彼の携帯電話に直接連絡を入れた。
「お休みのところすみません。藤堂大雅のことで急を要する報告がありまして」
「どうした」
「大雅、先ほど帰園したんですが、髪を染めて帰ってきたんです。それも、金髪に」
電話の向こうで藤本が息を呑んだ気配がした。
「本人が言うには、友達にやってもらったと……」
楽観的に考えれば、中学でも交友関係が広がったと喜べばいいのかもしれない。あるいはいじめを受けていて、無理矢理髪を染められたのかと訝しんだが、それなら「やってもらった」とは言わないだろう。
平山は、藤本の指示を受け、大雅をこっそり風呂場に呼び寄せ、すぐに髪色を戻させた。大雅は逆らうことなく平山に従ったが、さらなる問題が起こったのは翌日のことだった。
その日も出勤だった平山は、胸騒ぎがして、児童たちが下校する時間になると、そわそわと園庭に出ていた。胸騒ぎの原因とは関係のない児童たちが、「ただいま!」と元気よく挨拶をしてくる。平山はそれに上の空で答えながら、大雅が帰ってくるのを待っていた。
平山が園庭に出てから、一時間近くが経過したとき、ようやく大雅が姿を現した。
「え……」
平山はそのとき、またもや絶句した。学園の門扉をくぐって入ってきた大雅に、無我夢中で駆け寄る。平山の姿をみた途端、ほんの一瞬、大雅が目を丸く見開いたように見えた。
「大雅っ、おまえ、また……」
昨日、たしかに黒く戻したはずの大雅の髪色が、再び金色に戻っていたのだ。そればかりか、顔中が痣だらけだ。鼻の下や口元に血の跡がついていて、白いワイシャツにも点々と血痕が飛び散っている。半袖のワイシャツから伸びた腕も、ところどころが擦りむけていた。
「トモダチが、なんで黒に戻したんだって、ブチギレたから……喧嘩になって……」
そう言った大雅の声は、微かに震えているようにも感じられた。
彼らの関係をみれば、大雅を「友達」としてグループに迎え入れたわけではないことは、大雅以外の誰もがすぐに分かる。
大雅の髪を染めたのは笠原だったが、「トモダチの証だ」と体のいい言葉を使いながら、大雅が自分たちと一緒につるんでいても浮いた存在にならず、『コイツも同類なんだ』と周りに思わせられるように派手な髪色にさせたのだ。
大雅は、本当は心細かったのだ。
突然親元から離れて、今までとはまったく違う環境で暮らさなければならなくなった。暴力を振るわれなくなり、身の安全は保証されたけれど、それだけで彼が安心できるわけもなかった。
大雅が誰とも口を利かず、周りに馴染もうとしないのは、自分の身を守るためだった。その反面、なにかを壊して大人の気を引いたり、言われるがままに行動したりする節があるのは、誰かが自分に関わってくれたときに、相手とのつながりを感じられるからだった。
——笠原は、オレをトモダチとして受け入れてくれた。陽太とはタイプが違うけど、オレはコイツを信じていいのかもしれない……。
いちばんはじめに髪を染めることになったとき、大雅はそう思ってしまったのだ。
「よう藤堂、昨日おれらがわざわざ『証』をつけてやったのに、なんで黒に戻ってるワケ?」
大雅が登校して、笠原に見つかった途端、開口一番にそう言われてしまった。
「オレじゃない。……昨日帰ったら、すぐに色を落とされたんだ……」
大雅がおずおずと弁解した途端、笠原は自分の前にあった机を蹴り飛ばした。耳をつんざくような派手な音が教室中に響き渡り、大雅は硬直した。
クラスメイトたちは、すでに笠原のグループを腫れ物扱いしていたので、机が倒れたときにはしんと静まりかえったものの、誰も彼らに関わろうとするものはいなかった。
「ふざけてんじゃねえよ。なあ藤堂。毛染めの道具って、タダじゃねえワケよ。おれがせーっかく準備してやって、おまえに似合うかなあって思ってカッコイイヘアスタイルにしてやったってのに。おまえはそれを拒否ったわけだよなあ」
「オレは……そんなつもりじゃ……」
「じゃあなんだっつうんだよ!!!」
「……ごめん」
笠原がなぜこんなに激昂しているのか、理由も分からないまま、大雅はただ、謝るしかなかった。詫びの言葉を口にしながら、かつてあの男に言われた言葉を思い出していた。——反省もしてねえくせに、謝って逃げようとしてんじゃねえよ
自分が悪いとは思っていないのに、なにを反省する必要があるのだ。仏頂面のまま笠原を見据えたとき、チャイムが鳴った。
「……放課後、付き合えよ」
笠原はそれだけ言って、仲間たちに目で合図を送る。一人が倒れた机を元に戻す。それは奇しくも、大雅の机だった。
大雅が通う俱利柄中学校には、昭和の時代に建てられたままの旧校舎がある。木造で出来たそこは、老朽化が進んでいて危険なため、生徒の立ち入りが禁止されているが、そのため寄りつく者は少なく、教師の目をかいくぐれば不良たちがたむろする絶好の場所であった。
笠原たちとは同じクラスだった大雅は、一日の授業が終わると、すぐにそこにつれてこられた。平屋建ての旧校舎は鍵をかけても壊され、新しく付け替えても壊されといういたちごっこを繰り返していたから、やがて壊れた鍵がそのまま放置されるようになった。
笠原たちが、いくら教室の中で威張っていても、彼らはまだ一年生であるから、校内全体でみれば小規模なグループであった。二年生、三年生の先輩たちの中にも素行不良の生徒たちがいて、笠原たちは彼らの傘下のようなかたちで一年生のあいだでは幅を利かせているというわけだ。
笠原が畏敬も込めて「アニキ」と呼ぶのは、三年生の大熊という男子生徒だった。
大熊は、その名の通り、横にも縦にも大きい体格をしていて、大人顔負けの腕力の持ち主でもあった。その恵まれた体型を駆使して、かつては柔道部のエースとして名を馳せていたようだが、膝の怪我を理由に競技から離れ、以降はグレてしまったという経緯をもっている。
自分たちの存在を誇示するかのように、髪の色を変えたり、制服を着崩したりしていることの多い彼らの中で、大熊はきっちりと制服を着こなし、頭を短く刈っている。一見、少し大柄で真面目な生徒という印象を持たれがちだが、本性は正反対だった。
笠原は、そんな大熊に従い、校内での己の立場を維持していた。本当のところは、笠原たちと関わりたくないから、誰もが彼らと距離を置いているのだが、笠原はそれを、最早同学年に逆らう者など誰もいないのだという優越感に変換していた。
二学期になって大雅が同じクラスに転校してきたとき、笠原は大雅に対して、得体のしれない感情を抱いた。腕っぷしの強いやつには見えなかったが、喧嘩の強さなんて比べものにならないような、底知れぬ闇を抱えているように感じた。だから、放っておくわけにはいかないと思った。自分の周りに纏わりついているモブ共と同じように、あいつを傍において従わせれば、自分に脅威は降りかかってこないだろうと考えた結果、大雅に声をかけたのだ。
大雅の髪を染めさせたのも、その気持ちのあらわれからくる行動だった。これでおまえはおれたちの仲間だ。逃げることは出来ないぞと、ある意味では呪縛ともとれる儀式のようなものだった。
ところが翌日、大雅は髪の色を元の色に戻して登校してきたのだ。笠原は唖然とした。表情には出さぬよう努めたが、もしかすると態度に焦燥があらわれていたかもしれない。
笠原には、大雅が平然とした態度で反論をしてきたようにみえた。だから余計に苛立った。口数が少なく、また表情も乏しい大雅の言動は、同年代の少年たちにとっては幾許かの憂虞を感じさせるものでもあった。——こいつがおれたちの脅威になる前に、何としてでもねじ伏せておかねばならない——と、笠原はそう考えたのだった。
「大熊さん、相談がありまして」
笠原はそう言って、大雅とのあいだに生まれた、一連の一方的に生じそうになっている軋轢を話してきかせた。
「こいつ、最近転校してきて、おれらの仲間に入れてやったんすけど、すぐに裏切ろうとしてきたんすよ。ありえなくないっすか?」
理路整然と話す者であればともかく、笠原の話は大熊からしてみれば、訳の分からない戯言のようであった。だが、笠原の口調からも、彼が大雅のことを不快に思っているであろうことは理解できた。だから、一言こう言った。
「タイマンでもやって、どっちが正しいのか決めろよ」
大熊にとって、事の経緯などどうでも良かった。退屈な日常の中に刺激を求めていて、目の前で男同士の拳のぶつかり合いが起こるなら、その退屈を紛らわせる一因になり得るかもしれないと考えただけだ。だが、笠原にとっては、大雅を圧倒して潰せば、もっと大熊に認めてもらえる。そして二度と、大雅が自分に逆らうことはしないと、自分の立場を死守する絶好の機会に恵まれたと感じられる展開になったのだ。
こうして大雅は、意図せず不良共の喧嘩に巻き込まれるかたちとなった。
喧嘩にスポーツのようなルールはない。どちらかが倒れるか、相手に降伏するかの鬩ぎ合いでしかない。それまで親の暴力の嵐に耐えることはあれど、他人と闘ったことのない大雅は、あっという間に笠原の拳の餌食となった。
まったく抵抗しなかったわけではない。ただ、笠原からのパンチや蹴りがとんでくるたびに、大雅の頭の中に、あの男から受けた暴力がフラッシュバックした。記憶の中の痛みと、いま受けているほんとうの痛みが重なるたびに、大雅は体が硬直して動けなくなった。そのせいで、結果的に大雅は滅多打ちにあったのだ。
喧嘩に負けた大雅は、大熊の目の前で再び髪を染めさせられた。そのとき、大雅の心には『もしかすると、これはまずい展開になっているのではないか』という思いがよぎったが、自分が抵抗すればまた暴力を奮われると考え、相手の思うままに身を委ねてしまった。
一方的に嬲られて、何も感じなかったわけではない。大雅とて男だ。他者に屈服させられ、無様な目に遭わなければならない自分に腹が立った。笠原に敗北し、さらにそれを数多の不良たちに見られている。そのとき、これからの自分の立場が決まったような気がした。
笠原は、大雅を『トモダチ』という言葉で縛りつけた。その一方で、あれだけボコボコにしたのに、ぐったりはしていたがさほど深刻なダメージは負っていなさそうだった大雅に、やはり物恐ろしさを感じていた。実は自分のほうが怯者であることを隠さねばならないという一心で、笠原は大雅を近くにおいたのだ。
大雅の髪の色がころころと変わったことについては、しょうりつ学園の支援員たちの中では慎重に対応していかなければならない事項として判断された。
「藤堂くんは、学校でいじめに遭っているのではないでしょうか」と発言したのは、支援員の森本だった。あと二年で還暦を迎えるという彼女は、現場で働く支援員の中では最年長である。自らも三人の息子を育て上げた森本は、年齢を感じさせぬパワフルさで児童たちに体当たりでぶつかっていく。普段は女子棟の担当ではあるが、人手が足りないときなどは、にも顔を出すことがある。
「しかし、現状では学校側もこちらにはなにも言ってきませんし、藤堂自身もいじめられているとは訴えてきていません」
「年頃の男の子が、『オレは苛められている』なんてわざわざ言わないでしょうよ」
森本は平山の発言を一蹴した。「それに俱利柄中学の先生方は、昔から生徒たちが問題を起こしても、対応が後手後手になる傾向にあるでしょう。藤堂くんは施設出身の生徒であることはあちらさんも承知しているでしょうから、親が乗り込んでこないことをいいことに、放置している可能性もありますよね」
「あるいは我々と同じように、対応に苦慮しているのかもしれません」
「大雅の見た目が変わったことについて、陽太はなにか反応しているのか?」
藤本だ。彼は職員会議では基本的には傍観につとめているが、時折こうして口を挟んでくることがある。
「やっぱり最初は驚いていたようでした。しかし、藤堂自身が表面上はそれほど深刻そうな様子をみせていないからなのか、すぐに受け入れたようです。僕もそれとなく北村に聞いてみましたが、どうやら藤堂は同じクラスの不良たちとつるんでいるようです」
「平山くん、なぜそれを早く言わないの!?」
森本が吠えた。平山はきょとんとする。「す、すみません。まずかったっすか? 僕、てっきり皆さんはとっくに知っているものだと……」
「報・連・相!!」
森本は最年長の職員だけあって、若手の指導も任されている。そんな彼女にとって平山は、まだ社会人としても支援員としても、まだまだ未熟な存在だ。一番下の息子よりも若い。たくさんの子供の命を預かる者としては、平山のような未熟者では気が揉まれることばかりだが、彼も真面目に職にあたっているのだ。完璧を求めてはならぬとは思うが、小言を言わずにはいられなかった。
結局結論は出なかった。デリケートな問題だ。大雅の髪色を黒に戻すことは容易い。だが、いたちごっこになる可能性もある。現にたった三日で、大雅の髪色は三回も変わった。それだけではなく、顔に傷をこさえて帰ってきた。
今の段階で大人たちが躍起になっても、逆効果になり得ると判断されたのだ。
「大雅、おまえ、一体どうしちゃったんだよ」
「……なにがだよ」
夕食が終わって、自室に戻った大雅は、陽太に詰問を受けていた。陽太は部屋の中でピッチングの真似事をしながら、あくまでもこれは雑談だという雰囲気を醸し出して尋ねてきた。
「おまえ、笠原たちとつるんでんだろ。髪も染めちゃってさ。教師共は笠原を腫れもの扱いしているから、あまり関わらないようにしてるみたいだけどさ、おまえはなんか言われなかったか? ほら、あのうっせえ体育教師とかにさ」
「なにも言われてねえよ」
嘘だった。毎朝校門に立って、登校してくる生徒たちに馬鹿でかい声で挨拶をしている若い体育教師は、大雅の髪が校則に抵触していることを責めてきた。生徒指導室に連れていかれ、学年主任の角野という女性教師とともに大雅を叱ってきた。
「先生は悲しいぞ! お前は、まっすぐな道を歩かなきゃならないんだ! いますぐに髪の色を元に戻せ!」
「……髪の色が黒ければ、オレは真っ当に生きられるってのかよ」
「な……」
「先生に向かって、なんという口の利き方ですか!」
角野が金切り声をあげた。大雅はそのとき、目の前にいる歳ばかり食ったこの大人たちは、なにも分かっていないと思った。どんなに見た目や体裁を取り繕って生きていても、人の道を外れたことを平気でする大人はいる。大雅は現に、そういうヤツを知っている。大人がいくら子供をがんじがらめに縛りつけても、その箍が外れたとき、本性が現れるのだ。コイツらはそれを知らずに、自分たちの監視下にいるガキが品行方正に取り繕って生きていさえすればいいと思っているだけだ。
「じゃあ、笠原たちにも同じことを言えよ」
「いまはお前の話をしているんだ、藤堂!」
「オレが一番、アイツらの中でチョロいヤツだと思ったからですか?」
「藤堂!」
大雅は、目の前で自分の苗字を叫ぶこの体育教師の名前を知らない。これまで授業以外では関わりがなかったからだ。その程度のヤツに、オレのことをとやかく言われる筋合いはないと、反抗心がもくもくと湧いてきた。
「笠原たちも真面目になるっていうなら、オレも元に戻しますよ」
大雅はそう言って、角野たちの制止を振り切って生徒指導室を飛び出した。教室に戻る道すがら、ふと我に返って、自分はなにをやっているのだろうと冷静になる。
立ち止まり、胸に手を当ててみる。心臓がばくばくと波打っていて、感情が高ぶっていることに気付いた。
親の顔色をうかがってびくびくしていた頃とは違う。自分が大人たちの思い通りにいかない行動をとれば、彼らは困り、感情を乱す。——普段はえらそうに余裕をぶっこいているヤツらが、オレの行動ひとつひとつに腹を立ててムキになるくせに、誰もオレを殴れねえ——
大人に向かって反抗することに対して、大雅は一種の快感をおぼえていた。方法はどうあれ、大雅を抑え込んでいた彼の両親がいなくなったのだ。根はやんちゃな一面のある大雅の解き放たれた衝動は、笠原たちとの付き合いもあって、それから悪い方向へと突き進んでいったのだった。
ソーサーを持ってコーヒーカップを取り、一口啜る。相馬の口内に、ブラックコーヒーの酸味と苦みが一気に押し寄せる。やはり、好かない。折角出されたものだから口をつけないと失礼かと思って飲んでみたが、歳を重ねてもコーヒーの味は苦手だった。
「勿論、大雅が学園を卒園するまでは、このままの関係を維持しようと思ってはいます。しかし、こちらを出たあとは、親元に返すわけにもいかないですよね。……私の道場の住み込みの従業員として雇用関係を結べば、彼のことを引き取れるのではないかと考えています」
自分の立場を考えなければ、藤本にとっては手放しで喜びたい申し出だった。しょうりつ学園では、恒久的に児童の面倒を見られるわけではない。時が来れば児童が成熟していなくとも、必ず巣立たさねばならないのだ。
社会の荒波に揉まれて、潰される卒園生の噂を聞くことがある。だが、一度手を離れてしまえば、自分たちから手を差し伸べてやることはかなわない。卒園してそれっきり、消息が分からなくなる児童のほうが多い。
「相馬さんの申し出は、我々にとっても、大雅にとっても、たいへん有り難い内容です。しかし、私の独断で、ここで即断してお願いしますとお任せするわけにもいかない」
「承知の上です」
「相馬さん、貴方も知っているとは思いますが、大雅は正直、ここ数年の入所児童の中でも、最も扱いが難しかったといえる児童でした。それが貴方と出会って、道場に通わせていただくようになってから、少しずつ変わってきた。大雅は我々を含めて誰も大人を信用していなかったようですが、貴方のことは心の底から信用しているようです。おかげで格闘技で食っていきたいという夢を抱き、邁進するようになった。……私は大雅に、幸せになってほしいと思っています。だけど、その幸せというものは、大雅自身で掴み取らないと、あいつも納得しないでしょう。では大雅の思う幸せとは何なのか。プロの格闘家として、華々しくリングに立つことなのか。あるいは世界チャンピオンになることなのか。そんなものは、大雅にしか分かりませんし、おそらくあいつ自身もまだ分かっていないでしょう。でも、いまの大雅は、相馬さんの道場に通って、貴方と一緒に体を鍛えることが、一番の生き甲斐なのではないかと私は思っています。人生の中で生き甲斐を感じられる環境があるということこそ、幸せというものなのではないかと私は考えています。だから私は、大雅を導いてあげなければならないと思っています。それは本来、彼の両親の役目だったのでしょうが、残念ながら叶わない。……大雅は両親に虐待を受け、『辛い』と一括りにはできないほどの壮絶な少年時代を送ってきました。だったら、これから、幸せにならなければならない。生きていて良かったと、心の底から思える日が、あいつにも来なきゃいけないんです」
藤本はそこで言葉を切って、ハッと我に返ったように声のトーンを落とした。
「熱くなって申し訳ない。……あいつをそこまで導いてやれるのは、我々ではなく、相馬さんなのだと、私は思いますよ」
藤本に見送られ、学園を出た相馬は、こみ上げてくる感情を抑えるのに必死だった。必要以上に空を見上げた。藤本は立場上、直接的には言わなかったが、あれは「大雅をよろしく頼みます」と言われたも同然だった。口の中がまだ苦い。
格闘技のことしか知らないような人間が、少年ひとりの人生になにを肩入れしているのだ。お前はそんなに立派な人間なのか。誰かを幸せに導く資格など、あるのか。
門下生たちに、武道の精神などとえらそうに説くことがある。馬鹿馬鹿しい。相馬自身、自分が強くあらねばならなかっただけのことだ。両親が死んで、弟とふたり世の中に投げ出された環境で、家族のためにがむしゃらにやってきただけだ。自分に一番合っていた弟を養う手段が、格闘家になって名声を得るということだけだった。それだけのことだ。そこに崇高な精神などない。
相馬は身震いした。風など吹いていないのに、ぞわりと肌が粟立つ。
——俺が、大雅を幸せに導く……——
プロの格闘家としてデビューしたときに封印した一人称が蘇る。自分のことを「私」と口にした相馬をみて、雄也は腹を抱えて笑っていたことも同時に思い出す。
導けるのか、俺が……。
大雅に信頼されているという自負はあった。大雅を強く育てられる自信もあった。だが、自信ばかりが先走っていてもどうにもならないことも、わかっていた。
自分の考えを、大雅にも、藤本にも口外した。もう後戻りはできない。する必要もない。
相馬はシャツを盛り上げさせている胸の前で、ぎゅっと握りこぶしをつくった。
早く帰ろう。道場には、大雅を待たせている。
テーブルには先程事務員らしき職員がブラックコーヒーを置いていった。相馬が格闘家であることに気を遣われたのか、そもそも準備するのを忘れられているだけなのか、砂糖やミルクの類いはついていなかった。
「大雅を、引き取りたい……?」
相馬がしょうりつ学園を訪れたのは、圭二が熱中症で体調を崩した日に、彼を病院に連れて行き、自宅へ送り届けたあとのことだった。自分が度々しょうりつ学園を訪れたり、あるいは藤本がつぐみ道場を訪れていることは、大雅には悟られたくなかった。別に隠すようなことをしているわけではないが、このことが露見すれば、また繊細な大雅の心が傷ついてしまうのではないかと考えたうえでの配慮だった。——オレに変な同情なんかしやがって、師匠までオレのことを馬鹿にするんですね——と、屈折した思いを抱かれそうなことは想像に容易い。
相馬の申し出を、彼の正面に座って聞いていた藤本は、最初、相馬の言葉にひどく驚いたようであった。大雅と相馬の関係は、道場に通う生徒と師範でしかなく、そこに並外れた人情があるとは考えていなかったからだ。
相馬は、藤本の驚嘆には気付かないふりをして、懇々とその理由を述べた。大雅が彼の家に泊まったときに口にしたものと同じ内容だった。
「先日、大雅が私の家に泊まったときに、つい私の気持ちが先走ってしまい、彼には先に話してしまっています。もしかするとそれで悩ませてしまっているかもしれません。次に来るまでに考えさせてくださいと、大雅は結論を先送りにしましたが、『次』が何度か訪れても、未だに返事はもらっていません」
「そうでしたか。いや、学園では、とくに変わった様子はみられませんね。学校を退学になってしまったことが相当こたえたのか、まるで別人のように……丸くなったというか、おとなしくなったといいますか……」
頷く。大雅と出会ったばかりの頃や、それ以降の彼の様子を知っている相馬にとっても、最近の彼の変わりようには正直困惑している節があった。
児童相談所を退所してしょうりつ学園に入所した大雅は、ものの数日で『問題児』と認定された。誰とも話さず、目を合わせようともしない。職員が気を遣って様子を見に訪室しても、石のように固まって反応も示さなかった。
その頃、たまたま部屋が空いていたこともあって、大雅は一部屋を一人であてがわれていた。これだけ感情の読み取りにくい児童なのだ。ほかの児童たちと触れ合うことによってトラブルを引き起こす可能性があるから、最初のうちは周りと距離を置いて様子を見てみようという配慮もあった。
事件が起こったのは、大雅が学園に入所して半月ほどが経ったある日のことだった。
日曜日だった。昼下がり、館内は児童たちが銘々で騒いでいる声が響き渡っていた。職員室の前には広いホールがあり、そこでは学園の中で一番大きなテレビが設置してあり、他の部屋では見られない衛星放送などを視聴することができるため、昼間は多くの児童がそこに集まってアニメ放送などを楽しんでいる。その日も例に漏れず、少年兵として生きることになった少年たちがロボットに乗り戦うというアニメの再放送に、児童たちの目が釘付けとなっていた。
ホールに突如として、児童たちの悲鳴が上がったのはそのときだった。職員室にいた職員たちは最初、次々に作中の少年たちが戦禍のなかに倒れていくというアニメの内容に感化された何人かの児童たちが叫んだのかと思ったが、どうも様子がおかしい。ホールで児童たちの様子を見ていた氏原が血相を変えて、「藤本先生!!」と職員室に駆け込んできたからだ。
パソコンに向かっていた藤本は、氏原の様子をみて、すぐに職員室を飛び出した。ものの十歩もない程度の距離を走りホールに出る。
人間、ほんとうに驚いたときは声が出なくなるものなのだと、そのとき藤本は思った。そこにいた誰もが静まりかえり、身を寄せ合って、たったいま起こった出来事を自分なりにのみこもうとしていた。
テレビの前には大雅がぽつんと立っていた。画面の方を向き、こちらには背中をみせている。悲壮感の漂うアニメのエンディング曲がスピーカーから流れているテレビの画面は暗転してノイズがはしっていた。そればかりか、画面の真ん中あたりが、蜘蛛の巣を張ったように割れている。
「あいつがいきなりやってきて、テレビを殴ったんだ! 頭おかしいんじゃねえの?」
藤本の手近にいた男子児童がぽつりと言った。それを皮切りに、児童たちのあいだで、大雅をなじるような言葉がひそひそと囁かれはじめた。
藤本は他の職員に、手分けをしてホールにいる児童たちを生活棟に戻すように指示をした。時間が経てば経つほど、児童たちのあいだで、大雅をなじる言葉が増えてくるだろう。そうすれば、いまは立ち尽くしているだけの大雅の心が刺激され、さらなる危害が加わるかもしれないと判断した結果だった。
「大雅、どうした?」
一対一となった藤本は、大雅に近づいて声をかけた。右の拳でテレビを殴ったのだろう。血が滲んで床に落ちている。だが、大雅は痛がる様子もなく、無表情のままじっと、もうなにも映すことの出来ない液晶画面を見つめていた。
「黙っていては分からないだろう。どうしてこんなことをしたんだ」
テレビは買い換えるか、あるいは修理に出せば、今後もホールで視聴を楽しむことが出来るだろう。出費はかさむが、児童たちの憩いの場を無くすわけにはいかない。しかし、大雅が抱えている心の闇をそんなに早く暴き出せるとは思えなかった。施設運営に携わって以来、たくさんの児童を送り出してきた藤本だったが、大雅は『難しい』児童であった。
ものも言わず、怪我をした拳を痛がることもせず、ただ立ち尽くしているだけの大雅だったが、怪我の治療のために腕を引いて職員室の中に招き入れたときは、とくに抵抗をすることもなく藤本についてきた。
事務机が並ぶ室内に立ったまま、氏原に怪我の処置をされる大雅は、そのときも口を閉ざしたまま、目を伏せてただ床の一点を見つめていただけだった。
その一件があってから、大雅は児童たちの中で、浮いた存在となった。元々入所以来、誰とも口を利こうとしなかったから、大雅自身はなにも変わらない……ように見えていたが、周りの児童たちと、修復の困難な隔たりが出来てしまったことで、より疎外感をおぼえていた。
部屋に戻っても一人。共用部に出てきても、誰も大雅に近寄ろうとしない。かと言って支援員たちが気を遣って話しかけても、なにか言葉を発するわけではない。職員間では、大雅の支援は久しぶりの困難事例だと話題になっていた。
ホールのテレビを破壊してからというもの、大雅はしばしばものを壊すようになった。食器を割ったり、窓ガラスを殴って割ったり、食堂の椅子を蹴り飛ばして破壊したり。そういうとき、彼は必ず体のどこかしらに怪我をつくっていた。
ものを壊すと、ときに児童たちの反感を買い、大雅に突っかかった少年たちと殴り合いの喧嘩に発展することもあった。陽太も、そのうちのひとりであった。
「おまえ、いい加減みんなに迷惑をかけるの、やめろっつってんだろ!!」
至極真っ当なことを言って大雅の胸倉をつかむ陽太は、すぐに無言のままの大雅の反撃を受けた。陽太はカッとなってもみ合いになり、平山たちが制止するまで大騒ぎとなった。
大雅が学園内の誰かと口を利いたのは、陽太が初めてだった。大雅が時として奇行にはしるのは、自分たちのコミュニケーション不足なのではないかと、陽太なりに考えた結果、無視をされても執拗に話しかけてやろうと考えたのだ。元々陽太は陽気な性格であったから、人と話すことには長けていた。大雅はやがて、陽太の声かけに視線だけで反応するようになり、そのうちに頷いたり、首を横に振って意思表示をするようになった。これは大きな進歩だと、陽太は喜んだものだ。支援員の誰もが成し遂げられなかった偉業を成し遂げられたような気がして、得意げに平山に報告したりもした。
「あいつ、うんともすんとも言わなかったくせに、最近はちょっとだけおれにリアクションするようになったぞ」と。
陽太のその報告を聞いて、平山は大雅を陽太と同室にしてみてはどうかと、藤本に打診した。
大雅が時折みせる破壊衝動は、自己表現が上手くできない彼が、誰かの気を引いて助けを求める行動であろうと、支援員たちは予想していた。しょうりつ学園が歩んできた歴史のなかで、なにも大雅だけが特筆して異質な行動をおこしていたわけではない。程度の差はあれど、過去にも同じように周りに助けを求めてきた児童は、少なからずいたのだ。様々なケースはあったものの、子供たちは予想のつかない行動をするものだ。行き当たりばったりでも、現状を打開できる可能性のある策があるのなら、それに賭けてみるほかない。
職員会議で決まったその日のうちに、大雅と陽太は同じ部屋に移された。もちろん、双方の意向を確かめてからである。
大雅は例に漏れず、肯定も否定もしなかったが、陽太は快諾してくれた。誰にも心を開こうとしない大雅の感情を解きほぐせるのは自分しかいないと、彼が密かに意気込んでいるせいもあった。
陽太は半ば強引に部屋に引っ張り込んだ大雅に、根掘り葉掘り質問をした。趣味はあるのか。好きな食べ物はなんだ、好きな女のタイプはどんなやつだ、支援員では誰が好きだ、児童相談所の生活は楽しかったか……など、マシンガントークをかまして大雅を圧倒してたじろがせたことは、大いなる進歩だった。
陽太がかかわるようになってからというもの、大雅は相変わらず口数が少ないままだったが、なにかを壊すなどの問題行動は、目に見えて減った。
陽太のあとについて、学園内の共用部に出てきたときは、ぼそぼそと挨拶をするようになった。注意していないと聞こえないような小さな声だったが、いままで一言も話さなかった大雅が声を出すのは支援員たちを驚かせた。
大雅がしょうりつ学園に入所したのは、ちょうど夏休みに入りかけの七月だったため、学校に通い始めるのは二学期からにしようと決まっていたため、結果的に児童相談所の退所後は、ずっと学園で過ごすことになった。
陽太の尽力もあって、学園内での大雅の生活はそのあいだに落ち着いたが、再び問題が起きたのは、彼が学校に通い始めて間もない頃だった。
中学は学区内のところに通うため、陽太や他の学園の児童たちと同じ学校に登校している。が、学園内では四六時中といっていいほどに一緒にいることが多い陽太と大雅だったが、クラスは別で、陽太が野球部に所属していることもあり、関わり合うことは少なかった。
そのせいか、転校してきたばかりの大雅は、不良生徒たちに目をつけられてしまったのだ。
「藤堂クン、おれらとオトモダチになろうぜ」と、不良のリーダー格である笠原道流が、ニヤニヤと笑いながら大雅に近づいたのは、二学期がはじまって一週間ほどが経過したときのことだった。
笠原とつるんでいる生徒たちは、いずれも髪を染め、学生服の前を開いて服装も乱れている。ピアスを開けている者もいる。一目見ただけで素行不良という印象を抱いてしまうような者たちばかりだ。
大雅は笠原の言葉を、言葉通りに受け取ってしまった。不良とよばれるような少年たちと関わるのは、児童相談所での生活で慣れていたせいもあって、大雅はむしろ声をかけてもらえたことに喜んだのだ。無論、それを表立って感情に出したわけではないが、以降、大雅は笠原たちと行動を共にするようになった。
しょうりつ学園の支援員たちにもそれが発覚したのは、大雅が髪を染めて帰園した日だった。
「えっ!? 大雅……?」
園庭で花壇の水やりをしていた平山が、奇しくも第一発見者であった。ただいまも言わずに自分の横を通り過ぎた大雅の姿を捉えた瞬間、平山は素っ頓狂な声を上げていた。じょうろをほっぽり出して、大雅の元に駆け寄る。朝、彼を見送ったときは黒かった頭髪が、金色に染め上げられていたからだ。
「おまっ……、どうしたんだよ、その頭……」
絶句する。一瞬大雅と平山の視線がかち合ったが、すぐに大雅のほうから逸らされてしまった。
「……染めた。……トモダチにやってもらった」
それでも大雅は、相手が平山だったからか、髪の色が変わった理由をぼそぼそと話した。
しょうりつ学園においては、児童は染髪をしてはいけないという規則はないから、支援員たちが大雅のやったことをとやかく言う筋合いはないのだが、そもそも大雅の通っている中学は、校則で染髪を禁止している。
平山はすぐに藤本に報告をおこなった。その日、藤本は非番だったため、彼の携帯電話に直接連絡を入れた。
「お休みのところすみません。藤堂大雅のことで急を要する報告がありまして」
「どうした」
「大雅、先ほど帰園したんですが、髪を染めて帰ってきたんです。それも、金髪に」
電話の向こうで藤本が息を呑んだ気配がした。
「本人が言うには、友達にやってもらったと……」
楽観的に考えれば、中学でも交友関係が広がったと喜べばいいのかもしれない。あるいはいじめを受けていて、無理矢理髪を染められたのかと訝しんだが、それなら「やってもらった」とは言わないだろう。
平山は、藤本の指示を受け、大雅をこっそり風呂場に呼び寄せ、すぐに髪色を戻させた。大雅は逆らうことなく平山に従ったが、さらなる問題が起こったのは翌日のことだった。
その日も出勤だった平山は、胸騒ぎがして、児童たちが下校する時間になると、そわそわと園庭に出ていた。胸騒ぎの原因とは関係のない児童たちが、「ただいま!」と元気よく挨拶をしてくる。平山はそれに上の空で答えながら、大雅が帰ってくるのを待っていた。
平山が園庭に出てから、一時間近くが経過したとき、ようやく大雅が姿を現した。
「え……」
平山はそのとき、またもや絶句した。学園の門扉をくぐって入ってきた大雅に、無我夢中で駆け寄る。平山の姿をみた途端、ほんの一瞬、大雅が目を丸く見開いたように見えた。
「大雅っ、おまえ、また……」
昨日、たしかに黒く戻したはずの大雅の髪色が、再び金色に戻っていたのだ。そればかりか、顔中が痣だらけだ。鼻の下や口元に血の跡がついていて、白いワイシャツにも点々と血痕が飛び散っている。半袖のワイシャツから伸びた腕も、ところどころが擦りむけていた。
「トモダチが、なんで黒に戻したんだって、ブチギレたから……喧嘩になって……」
そう言った大雅の声は、微かに震えているようにも感じられた。
彼らの関係をみれば、大雅を「友達」としてグループに迎え入れたわけではないことは、大雅以外の誰もがすぐに分かる。
大雅の髪を染めたのは笠原だったが、「トモダチの証だ」と体のいい言葉を使いながら、大雅が自分たちと一緒につるんでいても浮いた存在にならず、『コイツも同類なんだ』と周りに思わせられるように派手な髪色にさせたのだ。
大雅は、本当は心細かったのだ。
突然親元から離れて、今までとはまったく違う環境で暮らさなければならなくなった。暴力を振るわれなくなり、身の安全は保証されたけれど、それだけで彼が安心できるわけもなかった。
大雅が誰とも口を利かず、周りに馴染もうとしないのは、自分の身を守るためだった。その反面、なにかを壊して大人の気を引いたり、言われるがままに行動したりする節があるのは、誰かが自分に関わってくれたときに、相手とのつながりを感じられるからだった。
——笠原は、オレをトモダチとして受け入れてくれた。陽太とはタイプが違うけど、オレはコイツを信じていいのかもしれない……。
いちばんはじめに髪を染めることになったとき、大雅はそう思ってしまったのだ。
「よう藤堂、昨日おれらがわざわざ『証』をつけてやったのに、なんで黒に戻ってるワケ?」
大雅が登校して、笠原に見つかった途端、開口一番にそう言われてしまった。
「オレじゃない。……昨日帰ったら、すぐに色を落とされたんだ……」
大雅がおずおずと弁解した途端、笠原は自分の前にあった机を蹴り飛ばした。耳をつんざくような派手な音が教室中に響き渡り、大雅は硬直した。
クラスメイトたちは、すでに笠原のグループを腫れ物扱いしていたので、机が倒れたときにはしんと静まりかえったものの、誰も彼らに関わろうとするものはいなかった。
「ふざけてんじゃねえよ。なあ藤堂。毛染めの道具って、タダじゃねえワケよ。おれがせーっかく準備してやって、おまえに似合うかなあって思ってカッコイイヘアスタイルにしてやったってのに。おまえはそれを拒否ったわけだよなあ」
「オレは……そんなつもりじゃ……」
「じゃあなんだっつうんだよ!!!」
「……ごめん」
笠原がなぜこんなに激昂しているのか、理由も分からないまま、大雅はただ、謝るしかなかった。詫びの言葉を口にしながら、かつてあの男に言われた言葉を思い出していた。——反省もしてねえくせに、謝って逃げようとしてんじゃねえよ
自分が悪いとは思っていないのに、なにを反省する必要があるのだ。仏頂面のまま笠原を見据えたとき、チャイムが鳴った。
「……放課後、付き合えよ」
笠原はそれだけ言って、仲間たちに目で合図を送る。一人が倒れた机を元に戻す。それは奇しくも、大雅の机だった。
大雅が通う俱利柄中学校には、昭和の時代に建てられたままの旧校舎がある。木造で出来たそこは、老朽化が進んでいて危険なため、生徒の立ち入りが禁止されているが、そのため寄りつく者は少なく、教師の目をかいくぐれば不良たちがたむろする絶好の場所であった。
笠原たちとは同じクラスだった大雅は、一日の授業が終わると、すぐにそこにつれてこられた。平屋建ての旧校舎は鍵をかけても壊され、新しく付け替えても壊されといういたちごっこを繰り返していたから、やがて壊れた鍵がそのまま放置されるようになった。
笠原たちが、いくら教室の中で威張っていても、彼らはまだ一年生であるから、校内全体でみれば小規模なグループであった。二年生、三年生の先輩たちの中にも素行不良の生徒たちがいて、笠原たちは彼らの傘下のようなかたちで一年生のあいだでは幅を利かせているというわけだ。
笠原が畏敬も込めて「アニキ」と呼ぶのは、三年生の大熊という男子生徒だった。
大熊は、その名の通り、横にも縦にも大きい体格をしていて、大人顔負けの腕力の持ち主でもあった。その恵まれた体型を駆使して、かつては柔道部のエースとして名を馳せていたようだが、膝の怪我を理由に競技から離れ、以降はグレてしまったという経緯をもっている。
自分たちの存在を誇示するかのように、髪の色を変えたり、制服を着崩したりしていることの多い彼らの中で、大熊はきっちりと制服を着こなし、頭を短く刈っている。一見、少し大柄で真面目な生徒という印象を持たれがちだが、本性は正反対だった。
笠原は、そんな大熊に従い、校内での己の立場を維持していた。本当のところは、笠原たちと関わりたくないから、誰もが彼らと距離を置いているのだが、笠原はそれを、最早同学年に逆らう者など誰もいないのだという優越感に変換していた。
二学期になって大雅が同じクラスに転校してきたとき、笠原は大雅に対して、得体のしれない感情を抱いた。腕っぷしの強いやつには見えなかったが、喧嘩の強さなんて比べものにならないような、底知れぬ闇を抱えているように感じた。だから、放っておくわけにはいかないと思った。自分の周りに纏わりついているモブ共と同じように、あいつを傍において従わせれば、自分に脅威は降りかかってこないだろうと考えた結果、大雅に声をかけたのだ。
大雅の髪を染めさせたのも、その気持ちのあらわれからくる行動だった。これでおまえはおれたちの仲間だ。逃げることは出来ないぞと、ある意味では呪縛ともとれる儀式のようなものだった。
ところが翌日、大雅は髪の色を元の色に戻して登校してきたのだ。笠原は唖然とした。表情には出さぬよう努めたが、もしかすると態度に焦燥があらわれていたかもしれない。
笠原には、大雅が平然とした態度で反論をしてきたようにみえた。だから余計に苛立った。口数が少なく、また表情も乏しい大雅の言動は、同年代の少年たちにとっては幾許かの憂虞を感じさせるものでもあった。——こいつがおれたちの脅威になる前に、何としてでもねじ伏せておかねばならない——と、笠原はそう考えたのだった。
「大熊さん、相談がありまして」
笠原はそう言って、大雅とのあいだに生まれた、一連の一方的に生じそうになっている軋轢を話してきかせた。
「こいつ、最近転校してきて、おれらの仲間に入れてやったんすけど、すぐに裏切ろうとしてきたんすよ。ありえなくないっすか?」
理路整然と話す者であればともかく、笠原の話は大熊からしてみれば、訳の分からない戯言のようであった。だが、笠原の口調からも、彼が大雅のことを不快に思っているであろうことは理解できた。だから、一言こう言った。
「タイマンでもやって、どっちが正しいのか決めろよ」
大熊にとって、事の経緯などどうでも良かった。退屈な日常の中に刺激を求めていて、目の前で男同士の拳のぶつかり合いが起こるなら、その退屈を紛らわせる一因になり得るかもしれないと考えただけだ。だが、笠原にとっては、大雅を圧倒して潰せば、もっと大熊に認めてもらえる。そして二度と、大雅が自分に逆らうことはしないと、自分の立場を死守する絶好の機会に恵まれたと感じられる展開になったのだ。
こうして大雅は、意図せず不良共の喧嘩に巻き込まれるかたちとなった。
喧嘩にスポーツのようなルールはない。どちらかが倒れるか、相手に降伏するかの鬩ぎ合いでしかない。それまで親の暴力の嵐に耐えることはあれど、他人と闘ったことのない大雅は、あっという間に笠原の拳の餌食となった。
まったく抵抗しなかったわけではない。ただ、笠原からのパンチや蹴りがとんでくるたびに、大雅の頭の中に、あの男から受けた暴力がフラッシュバックした。記憶の中の痛みと、いま受けているほんとうの痛みが重なるたびに、大雅は体が硬直して動けなくなった。そのせいで、結果的に大雅は滅多打ちにあったのだ。
喧嘩に負けた大雅は、大熊の目の前で再び髪を染めさせられた。そのとき、大雅の心には『もしかすると、これはまずい展開になっているのではないか』という思いがよぎったが、自分が抵抗すればまた暴力を奮われると考え、相手の思うままに身を委ねてしまった。
一方的に嬲られて、何も感じなかったわけではない。大雅とて男だ。他者に屈服させられ、無様な目に遭わなければならない自分に腹が立った。笠原に敗北し、さらにそれを数多の不良たちに見られている。そのとき、これからの自分の立場が決まったような気がした。
笠原は、大雅を『トモダチ』という言葉で縛りつけた。その一方で、あれだけボコボコにしたのに、ぐったりはしていたがさほど深刻なダメージは負っていなさそうだった大雅に、やはり物恐ろしさを感じていた。実は自分のほうが怯者であることを隠さねばならないという一心で、笠原は大雅を近くにおいたのだ。
大雅の髪の色がころころと変わったことについては、しょうりつ学園の支援員たちの中では慎重に対応していかなければならない事項として判断された。
「藤堂くんは、学校でいじめに遭っているのではないでしょうか」と発言したのは、支援員の森本だった。あと二年で還暦を迎えるという彼女は、現場で働く支援員の中では最年長である。自らも三人の息子を育て上げた森本は、年齢を感じさせぬパワフルさで児童たちに体当たりでぶつかっていく。普段は女子棟の担当ではあるが、人手が足りないときなどは、にも顔を出すことがある。
「しかし、現状では学校側もこちらにはなにも言ってきませんし、藤堂自身もいじめられているとは訴えてきていません」
「年頃の男の子が、『オレは苛められている』なんてわざわざ言わないでしょうよ」
森本は平山の発言を一蹴した。「それに俱利柄中学の先生方は、昔から生徒たちが問題を起こしても、対応が後手後手になる傾向にあるでしょう。藤堂くんは施設出身の生徒であることはあちらさんも承知しているでしょうから、親が乗り込んでこないことをいいことに、放置している可能性もありますよね」
「あるいは我々と同じように、対応に苦慮しているのかもしれません」
「大雅の見た目が変わったことについて、陽太はなにか反応しているのか?」
藤本だ。彼は職員会議では基本的には傍観につとめているが、時折こうして口を挟んでくることがある。
「やっぱり最初は驚いていたようでした。しかし、藤堂自身が表面上はそれほど深刻そうな様子をみせていないからなのか、すぐに受け入れたようです。僕もそれとなく北村に聞いてみましたが、どうやら藤堂は同じクラスの不良たちとつるんでいるようです」
「平山くん、なぜそれを早く言わないの!?」
森本が吠えた。平山はきょとんとする。「す、すみません。まずかったっすか? 僕、てっきり皆さんはとっくに知っているものだと……」
「報・連・相!!」
森本は最年長の職員だけあって、若手の指導も任されている。そんな彼女にとって平山は、まだ社会人としても支援員としても、まだまだ未熟な存在だ。一番下の息子よりも若い。たくさんの子供の命を預かる者としては、平山のような未熟者では気が揉まれることばかりだが、彼も真面目に職にあたっているのだ。完璧を求めてはならぬとは思うが、小言を言わずにはいられなかった。
結局結論は出なかった。デリケートな問題だ。大雅の髪色を黒に戻すことは容易い。だが、いたちごっこになる可能性もある。現にたった三日で、大雅の髪色は三回も変わった。それだけではなく、顔に傷をこさえて帰ってきた。
今の段階で大人たちが躍起になっても、逆効果になり得ると判断されたのだ。
「大雅、おまえ、一体どうしちゃったんだよ」
「……なにがだよ」
夕食が終わって、自室に戻った大雅は、陽太に詰問を受けていた。陽太は部屋の中でピッチングの真似事をしながら、あくまでもこれは雑談だという雰囲気を醸し出して尋ねてきた。
「おまえ、笠原たちとつるんでんだろ。髪も染めちゃってさ。教師共は笠原を腫れもの扱いしているから、あまり関わらないようにしてるみたいだけどさ、おまえはなんか言われなかったか? ほら、あのうっせえ体育教師とかにさ」
「なにも言われてねえよ」
嘘だった。毎朝校門に立って、登校してくる生徒たちに馬鹿でかい声で挨拶をしている若い体育教師は、大雅の髪が校則に抵触していることを責めてきた。生徒指導室に連れていかれ、学年主任の角野という女性教師とともに大雅を叱ってきた。
「先生は悲しいぞ! お前は、まっすぐな道を歩かなきゃならないんだ! いますぐに髪の色を元に戻せ!」
「……髪の色が黒ければ、オレは真っ当に生きられるってのかよ」
「な……」
「先生に向かって、なんという口の利き方ですか!」
角野が金切り声をあげた。大雅はそのとき、目の前にいる歳ばかり食ったこの大人たちは、なにも分かっていないと思った。どんなに見た目や体裁を取り繕って生きていても、人の道を外れたことを平気でする大人はいる。大雅は現に、そういうヤツを知っている。大人がいくら子供をがんじがらめに縛りつけても、その箍が外れたとき、本性が現れるのだ。コイツらはそれを知らずに、自分たちの監視下にいるガキが品行方正に取り繕って生きていさえすればいいと思っているだけだ。
「じゃあ、笠原たちにも同じことを言えよ」
「いまはお前の話をしているんだ、藤堂!」
「オレが一番、アイツらの中でチョロいヤツだと思ったからですか?」
「藤堂!」
大雅は、目の前で自分の苗字を叫ぶこの体育教師の名前を知らない。これまで授業以外では関わりがなかったからだ。その程度のヤツに、オレのことをとやかく言われる筋合いはないと、反抗心がもくもくと湧いてきた。
「笠原たちも真面目になるっていうなら、オレも元に戻しますよ」
大雅はそう言って、角野たちの制止を振り切って生徒指導室を飛び出した。教室に戻る道すがら、ふと我に返って、自分はなにをやっているのだろうと冷静になる。
立ち止まり、胸に手を当ててみる。心臓がばくばくと波打っていて、感情が高ぶっていることに気付いた。
親の顔色をうかがってびくびくしていた頃とは違う。自分が大人たちの思い通りにいかない行動をとれば、彼らは困り、感情を乱す。——普段はえらそうに余裕をぶっこいているヤツらが、オレの行動ひとつひとつに腹を立ててムキになるくせに、誰もオレを殴れねえ——
大人に向かって反抗することに対して、大雅は一種の快感をおぼえていた。方法はどうあれ、大雅を抑え込んでいた彼の両親がいなくなったのだ。根はやんちゃな一面のある大雅の解き放たれた衝動は、笠原たちとの付き合いもあって、それから悪い方向へと突き進んでいったのだった。
ソーサーを持ってコーヒーカップを取り、一口啜る。相馬の口内に、ブラックコーヒーの酸味と苦みが一気に押し寄せる。やはり、好かない。折角出されたものだから口をつけないと失礼かと思って飲んでみたが、歳を重ねてもコーヒーの味は苦手だった。
「勿論、大雅が学園を卒園するまでは、このままの関係を維持しようと思ってはいます。しかし、こちらを出たあとは、親元に返すわけにもいかないですよね。……私の道場の住み込みの従業員として雇用関係を結べば、彼のことを引き取れるのではないかと考えています」
自分の立場を考えなければ、藤本にとっては手放しで喜びたい申し出だった。しょうりつ学園では、恒久的に児童の面倒を見られるわけではない。時が来れば児童が成熟していなくとも、必ず巣立たさねばならないのだ。
社会の荒波に揉まれて、潰される卒園生の噂を聞くことがある。だが、一度手を離れてしまえば、自分たちから手を差し伸べてやることはかなわない。卒園してそれっきり、消息が分からなくなる児童のほうが多い。
「相馬さんの申し出は、我々にとっても、大雅にとっても、たいへん有り難い内容です。しかし、私の独断で、ここで即断してお願いしますとお任せするわけにもいかない」
「承知の上です」
「相馬さん、貴方も知っているとは思いますが、大雅は正直、ここ数年の入所児童の中でも、最も扱いが難しかったといえる児童でした。それが貴方と出会って、道場に通わせていただくようになってから、少しずつ変わってきた。大雅は我々を含めて誰も大人を信用していなかったようですが、貴方のことは心の底から信用しているようです。おかげで格闘技で食っていきたいという夢を抱き、邁進するようになった。……私は大雅に、幸せになってほしいと思っています。だけど、その幸せというものは、大雅自身で掴み取らないと、あいつも納得しないでしょう。では大雅の思う幸せとは何なのか。プロの格闘家として、華々しくリングに立つことなのか。あるいは世界チャンピオンになることなのか。そんなものは、大雅にしか分かりませんし、おそらくあいつ自身もまだ分かっていないでしょう。でも、いまの大雅は、相馬さんの道場に通って、貴方と一緒に体を鍛えることが、一番の生き甲斐なのではないかと私は思っています。人生の中で生き甲斐を感じられる環境があるということこそ、幸せというものなのではないかと私は考えています。だから私は、大雅を導いてあげなければならないと思っています。それは本来、彼の両親の役目だったのでしょうが、残念ながら叶わない。……大雅は両親に虐待を受け、『辛い』と一括りにはできないほどの壮絶な少年時代を送ってきました。だったら、これから、幸せにならなければならない。生きていて良かったと、心の底から思える日が、あいつにも来なきゃいけないんです」
藤本はそこで言葉を切って、ハッと我に返ったように声のトーンを落とした。
「熱くなって申し訳ない。……あいつをそこまで導いてやれるのは、我々ではなく、相馬さんなのだと、私は思いますよ」
藤本に見送られ、学園を出た相馬は、こみ上げてくる感情を抑えるのに必死だった。必要以上に空を見上げた。藤本は立場上、直接的には言わなかったが、あれは「大雅をよろしく頼みます」と言われたも同然だった。口の中がまだ苦い。
格闘技のことしか知らないような人間が、少年ひとりの人生になにを肩入れしているのだ。お前はそんなに立派な人間なのか。誰かを幸せに導く資格など、あるのか。
門下生たちに、武道の精神などとえらそうに説くことがある。馬鹿馬鹿しい。相馬自身、自分が強くあらねばならなかっただけのことだ。両親が死んで、弟とふたり世の中に投げ出された環境で、家族のためにがむしゃらにやってきただけだ。自分に一番合っていた弟を養う手段が、格闘家になって名声を得るということだけだった。それだけのことだ。そこに崇高な精神などない。
相馬は身震いした。風など吹いていないのに、ぞわりと肌が粟立つ。
——俺が、大雅を幸せに導く……——
プロの格闘家としてデビューしたときに封印した一人称が蘇る。自分のことを「私」と口にした相馬をみて、雄也は腹を抱えて笑っていたことも同時に思い出す。
導けるのか、俺が……。
大雅に信頼されているという自負はあった。大雅を強く育てられる自信もあった。だが、自信ばかりが先走っていてもどうにもならないことも、わかっていた。
自分の考えを、大雅にも、藤本にも口外した。もう後戻りはできない。する必要もない。
相馬はシャツを盛り上げさせている胸の前で、ぎゅっと握りこぶしをつくった。
早く帰ろう。道場には、大雅を待たせている。



