「大雅にーちゃん、前から思ってたんだけど、なんで最近ずっと学園にいんの? 学校行かねえの?」
学園の小学生たちに囲まれて無邪気に言われたとき、大雅はついにコイツらにもばれたかとたじろいだ。近くに支援員の平山がいたので、助けを求めるようにそちらに視線をやったが、彼は他の小学生の相手に忙しいようで、こちらの様子には気付いていない。
平山は、支援員の中で一番顔の整った青年だった。目鼻立ちはキリッと精悍で、百八十センチを超えているという身長。学生時代は野球をやっていたということもあり、昔から陽太がいちばん懐いている支援員でもあった。人当たりのいい性格は、大雅にとっても受け入れやすく、学園に入所したとき、最初にぽつぽつと話すようになった大人でもあった。
児童にはひとりひとり、担当の支援員があてがわれていて、日々の生活の支援だとか、困りごとなどは、その担当に相談するきまりとなっている。大雅の担当支援員は、施設長でもある藤本だったが、例に漏れず彼とは折り合いが悪いので、大雅は平山に頼ることがほとんどだった。
平山も大雅の心情は理解していて、事情をくみ取って彼の担当を代わってもいいと藤本に申し出たこともあったが、未だに大雅の担当が藤本なのは、何か事情があるのかもしれないと、それ以上は踏み込まなかった。
「フトーコーになったの? 大雅さん、学校で苛められたのか?」
大雅の右隣に座って、ノートに鉛筆を走らせていた少年がパッと顔を上げて話に入ってくる。
「あ、いや……そんなんじゃねえよ」
夏休みに突入したこともあってか、朝、厨房の手伝いが終わったあと、支援員たちと共に小学生たちの学習の面倒をみるという役割が与えられた。
長期休暇のあいだは、学園で一日のほとんどを過ごす児童たちだったが、生活が乱れないように一日のタイムスケジュールが決められている。平日の午前中は学校で出された宿題や自主学習を行う時間にあてられ、それでも集中力が散漫になりやすい小学生たちは、支援員たちの手も借りて、宿題を進めていくことになっているのだ。
「ほら、喋ってばっかねえで、さっさと宿題やれよ」
大雅は話をそらした。小学生たちは、納得がいかないような表情をしてみせたが、年長者である大雅には逆らえないのか、その表情のまま課題を再開させた。
午前中の学習時間が終わると、昼食をみんなで食べ、午後からは各々の自由時間になる。
もっとも、生活に規律を求められているのは、小学生たちで、中学生以上の児童たちは、自分の生活は自分で管理を行うように指導されている。学園を退所しても通用する自立心を養うためだ。
児童の中には、高校に進学せずに、中学を卒業してすぐに社会に出る者もいる。学園を出た児童たちは、自分の力で生きていかねばならない。だからこそ児童たちが社会の荒波に負けぬような精神を育むことも、藤本たち支援員たちに与えられた役割なのだ。
昼食を終えたあと、大雅はいつものように学園を出てつぐみ道場に向かった。
アスファルトの照りつけが肌を刺す。空は面白いほどに青く、雲ひとつない。大雅はパタパタとシャツをあおぎながら、歩みを進めている。背負ったリュックのせいで、背中がすでに汗ばんでいた。
しょうりつ学園からつぐみ道場までは、大雅の足の速さで歩けば二十分ほどかかる。住宅街を抜けて河川敷を歩き、最寄り駅のほうへ歩いていく二キロ弱の道のりは、道場に近づくにつれて人通りも交通量も増えてくる。
大雅は歩きながらも、ずっと相馬の申し出のことを考えていたから、途中でずっと圭二に呼びかけられていたことに気付かず、彼の大きな図体が横に並んだときに初めて「うおっ!」と飛び上がるように驚いてしまった。
「……なんだてめえかよ」
「ずっと呼びかけても全然気付いてくれなかったんだもん。僕、自分一人で叫んでるやつみたいでめちゃくちゃ恥ずかしかったんだけど」
「しらねえよ」
「今日も暑いね。大雅、ちゃんと昼は食べたか?」
「てめえはオレの親かよ!」
吐き捨てるように言って、大雅は歩みを速めた。しかし圭二も臆することなく、横並びについてくる。
目的地が同じなのだ。圭二はすでにトレーニングウェアに着替えて、ランニングをしてきた帰りのようだ。身軽な格好だというのに、大雅よりもダラダラと汗をかいている。
道場に辿り着くと、圭二は小走りで出入口に近づいていって、扉を開けてくれた。
「……ありがとう」
圭二にもごもごと言ったあと、受付に立っていた相馬と目が合ったので、「ちわっす」と頭を下げた。
「大雅、圭二と一緒だったのか」
「途中で会っただけです」
圭二の姿を目で追うと、彼は自分の汗で濡れそぼったシャツを脱ぎ、新しいものに着替えている最中だった。大雅が靴を脱ぎ、更衣室に入った。
相馬には、いつも通りに振る舞ったつもりだ。表情も、態度も、おかしくなかっただろうか。リュックの中を引っかき回すようにしてトレーニングウェアを出して、いそいそと着替える。部屋の外からは、サンドバッグを打つ音が聞こえてくる。しんと静まりかえった空間では、空調の音が静かに、しかし継続的に響いている。
大雅はふうっと息を吐き、リュックを掴んで更衣室を出た。
「師匠、今日もよろしくお願いいたします!」
わざとらしかっただろうか、と、挨拶をしたあとに思った。だが、どんなときでも挨拶だけはきちんと行いなさいと、相馬から何度も言われている。自分の機嫌が悪いときや、なにか不安があるときなどは、つい目の前の相手をなおざりにしてしまいがちだが、たった一度でも挨拶を疎かにしてしまうと、自分の印象が悪くなってしまう。一度抱かれた印象を相手に塗り替えてもらうには、相応以上の努力をしないといけないと。
「たった一度の失態で、お前の印象が悪くなってしまうくらいなら、自分の機嫌を無視してでも、正しく振る舞うことを、心がけなさい」
相馬の教えをさほど重視せず、かつての大雅は自分の気分のままに相手との距離をはかった。そのせいで、余計に誰かと打ち解けることは出来ず、周囲から孤立していた。べつに誰か友達がほしいとか、話し相手になってほしいとか、そういったことを望んでいたわけではない。
誰かを求めていたわけではないのに、虚しさだけは心に巣くっていた。だけど、どうしたらいいのか分からなかった。
相馬の教えを守ろうと決めたのは、あの日、髪を刈ったときだった。昔の自分を無視するわけではないけれど、ちゃんと真人間になろうと決めた。大人になって、ふといまの自分を振り返ったときに、胸を張っていられるようにしようと思ったのだ。
「大雅、アップ終わったら、ミット打ち付き合ってよ」
ニコニコと笑って、圭二がこちらに近づいてくる。コイツは休むことを知らねえのかよと、心の中で毒づく。それでも圭二が話しかけてくることに嬉しがっている自分がいることに気付いた。どれだけつっけんどんに突き放しても、圭二は自分に関わることをやめようとはしない。たとえば、自分が話しかけなければ、大雅は道場でも孤立するかもしれないと思っているとか、同級生のよしみで仕方なく気を遣ってやっているだけだとか、そう言った類いの付き合い方ではない。
「すぐに済ませる」
大雅はそれだけ言って、ひとりでウォーミングアップをはじめた。
「おら、もっと強く打て! そんなんじゃ試合に勝てねえぞ!」
ミット打ちを始めた瞬間、圭二のパンチにいつもより覇気がないことに気付いた。普段なら油断をすれば吹っ飛びそうになるくらいの威力なのに、体がふわりと浮かび上がる感覚がない。
さすがにそろそろ疲れたのかと思い、叱咤してやろうと声をあげた。
「うん」
圭二は軽く頷いて、大雅の構えたミットにワンツーを打ち込む。やっぱりおかしいと、大雅は確信した。
フリーミットは、大雅がランダムでミットを構えたところに、圭二がパンチやキックを打ち込むという練習だ。大雅の動きには着いてきているものの、パンチの威力は先ほどとあまり変わっていない。ちらりと横目で圭二の様子を見る。発汗量が多い。黒いトレーニングウェアは絞れそうなほどの汗染みが出来ていて、彼の足元にもぽたぽたと全身から流れ落ちている。呼吸が荒い。普段は褐色の顔が、少し赤らんでいる。
「やめだ」
大雅は短くそう言って、バックステップをとった。右のミドルを打ち込もうとした圭二の蹴りが空振り、彼の体はくるりと半回転した。
「え、でも、まだブザーは鳴って……」
「てめえは自分の体調管理も出来ねえのかよ」
おろおろとする圭二の言葉を途中で遮って、大雅は声を張った。
「試合が近いからって焦ってんのか? だとしても、自分の体調も分からなくなるまで追い込んでんじゃねえよ」
「ぼ、僕、そんなつもりじゃ……」
圭二はハアハアと喘鳴混じりの呼吸を繰り返しながら、しどろもどろにそう言ったが、突然目を見開き、「ウッ!」と呻いたあとに体を波打たせ、グローブを着けたままの手を口元に当てた。
(やべえっ!)
大雅は瞬時にリングの外にいる相馬の姿をとらえる。しかし、彼はちょうどかかってきた電話の対応をしていて、すぐにこちらに駆けつけられる状況ではなさそうだ。リングのそばには掃除用のバケツも置いてあるが、取りに行くのは間に合いそうにない。
「くそっ、圭二、我慢すんな!」
咄嗟の行動だった。大雅は自分の着ていたシャツを脱ぎ、風呂敷のように丸めると、圭二の顔にそばにあてがった。
圭二は涙目になりながら体を痙攣させて、えづいた。膝から崩れ落ちるようにリングマットの上にへたり込み、「ごめん……大雅」と消え入るような声で呟く。
電話の終わった相馬が二人の異変に気付き、「おい、大丈夫か!」と走り寄ってくる。事態を察知した相馬は、バケツを引っつかんでリングに上がってきた。
「横になれ、圭二」
大雅は汚れたシャツをバケツに放り込むと、相馬と二人がかりで圭二を横たわらせた。圭二はだらりと弛緩したまま、仰向けになった。相馬が彼の額に手を当てる。
「すまないが大雅、事務所から保冷剤と経口補水液を取ってきてくれないか」
「はい!」
「うぅ……すみません」
意識はあるようだ。吐いてすっきりしたのか、さっきよりは表情が和らいでいる。大雅が相馬から言われたとおりに保冷剤と飲み物をもってリングに戻ってきたとき、圭二は服を脱がされ、濡れタオルを腋や首の後ろにあてがわれていた。
「た、大雅、ごめんね……迷惑かけた……ね」
「しゃべんな。安静にしてろ」
タオルでくるんだ保冷剤を頭の後ろに敷いてやる。ウォーターサーバーの横に置いてある紙コップに、経口補水液を注ぎ、圭二に渡そうとしたが、自力では飲めないかもしれないと思い直し、彼の頭を少し上げてやり、「ほら、飲めよ」とコップの縁を口に当ててやった。
圭二は静かに、ゆっくりとコップの中身を飲み干した。その様子を見届けてから、大雅は相馬に事の詳細を話して聞かせた。
「師匠、コイツは熱中症になっているかもしれません。なんかやたら汗をかいているし、さっき、ミット打ちをしましたが、いつもよりパンチの威力が弱かったからおかしいなと思って、途中でやめました。呼吸も荒くて、やっぱ調子悪いんじゃねえかって思ったら、こんな状態になってしまって……」
「よく気付いてくれたな」
相馬はそう言って、静かに微笑んだ。「ありがとう」
圭二の症状は幸い、大事には至らなかったが、しばらく道場の中で安静にするように相馬から言いつけられた。相馬は、病院に行くことを強くすすめたが、圭二が頑なに拒否したので、そのまま様子をみることとなった。
「圭二の異変に気づけなかったのは、私の責任だ。お前たちがどうこう気に病む必要はない。……圭二、私がついていながら、辛い思いをさせてしまったな、すまなかった」
「あ、いえっ、し、師匠、僕が悪いんですっ」
時間が経って、起き上がれるまでに回復した圭二は、壁にもたれつつ床に足を伸ばして座っていた。大雅も彼の横に胡座をかいている。圭二を放って自分だけトレーニングをしているわけにはいかなかったが、手持ち無沙汰だったから、ダンベルを持って腕を動かしてはいた。
「試合の日が近づいてきて、僕、もっと鍛えておかないとと思って、焦っていました。自分でも分かっていたけど、ちょっとくらいなら大丈夫だってたかをくくっていたんだと思います。そのちょっとがいっぱい積み重なって、自滅しちゃったんですね」
これまでにも何回か、対人戦を経験してきた圭二だったが、今回彼がここまで自分を追い詰めているのには理由があった。それは、対戦相手が外国人だということだった。
ティアンチャイ・ジェラワット。
相手の名前だ。タイ人であるその男は、大雅たちより三歳年上の、ムエタイ出身の格闘家だ。キックボクシングや空手をベースにしてきた相手とまみえたことはあったが、タイの国技でもあるムエタイを相手にするのは初めてであった。相手が外国人であることも、相手のベースとしている格闘技も、圭二にとっては経験のない事で、心にのしかかる重圧はいつもの比ではなかったということだ。
それを誤魔化して平常心を保とうとしたがために、圭二の目論見は裏目に出てしまったのだ。
「私も、初めて外国人と闘ったときは、随分と緊張したものだ」
「え? 師匠も?」
そう聞いたのは大雅だった。あまりにも意外そうに彼が驚いたものだから、相馬は少し笑ってしまった。
「誰だって、何をするにしてもまずは『初めて』の瞬間から向き合わないといけないだろう。私は今でこそ、OPKDフェザー級のチャンピオンだという称号を背負ってはいるが、最初はお前たちとおなじアマチュアだった。いま、私は色々な縁に恵まれてこの立場にいるが、当時はそれまでに経験したことのない物事ばかりに襲われて、ずっと不安の中を彷徨い歩いていたよ」
「なんだか意外っす」
大雅は目を丸くした。少しだけ伸びてきた坊主頭を、ぽりぽりと掻く。首にかけていたタオルで、額を拭った。
「私だって超人ではないからな。ただ、お前たちの少し先を歩いているというだけさ」
相馬は、自分と同じくらいの歳の頃、どんな少年だったのだろうと、大雅は考えた。いまの相馬は質実剛健だとか、実直だとかいう言葉が似合う男だが、昔からそうだったのだろうか。
「師匠は子供の頃、どんな人だったんですか?」
気がつけば口をついて出ていた大雅の疑問を耳にして、相馬は少し恥ずかしそうにはにかんだ。
「私は、わざわざ話題にするまでもない、つまらない子供だったよ」
相馬と出会って三年以上の月日が経過しているが、彼から過去の話を聞いたことがない。大雅からは聞こうともしなかったからだろうが、なにを思って空手をはじめ、やがて総合格闘技に転向したのか、格闘技以外の趣味はあるのかなど、気になりはじめてようやく、自分は相馬のことをなにも知らないのだと気付いた。
「私のことはいい」と相馬が一蹴したため、大雅は彼の過去を聞き出すことはできなかった。
「大雅。すこし留守番を頼めるか?」
「あ、はい」
「やはり、圭二を念のため病院に連れていこうと思ってな。……おそらく圭二は、自発的には受診することもないだろうし、御両親にも謝罪をせねばならない」
「……そんなっ、ぼ、僕なら大丈夫ですから!」
圭二は、慌てた様子で相馬の言葉を制した。本当に大丈夫ですと狼狽えている。
「あとでなにかあったときに示しがつかないだろう。大丈夫だと思っていても、じつは病魔が体を蝕んでいることもあるんだ。ちゃんと医者に診てもらって、そこで異常なしと言われたときに初めて、自分は大丈夫だと思いなさい」
「……はい」
幾分しょんぼりした様子で、圭二は返事をした。腑に落ちていない様子ではあったが、これ以上相馬に反発していても仕方ないと判断したのだろう。
圭二は無言のまま、いそいそと帰り支度をし始めた。彼の横顔に、悔しさが滲み出ている。自分の不調に気付かなかったことによる不甲斐なさと、試合が近いのに、鍛錬を積む時間を大幅に削ってしまったという焦り。彼が衝動的な性格であったら、感情のままに床や壁を殴りつけていたかもしれない。
着替え終わった圭二は、相馬に付き添われて道場を出て行った。ひとり取り残された大雅は、自主練をしようと思い立ち、水を飲んだあと、鏡に向かってシャドーをはじめた。
自分が道場にいるあいだは、相馬をはじめ、他の門下生の誰かがいたから、一人になるというのは初めてだった。
師匠はなぜ、オレを追い出さなかったんだろう。
鏡でフォームを確かめながら拳を繰り出す。空気を裂くような音が、大雅の耳に届く。
相馬が大雅をひとり残したことには、あまり意味はないのかもしれない。あるいは、彼が気を遣って、道場にきたばかりの大雅がまだ練習を続けられるように手筈を整えてくれたのかもしれない。
道場の電話が鳴った。出る者がいないから、コール音は鳴り止まない。
大雅はシャドーの動きを止め、一瞬躊躇ったあと、受付に置いてある子機をつかんだ。
「……はい、つ、つぐみ道場です」
「あれ? 相馬さんじゃあ、ないね」
電話口の向こうから、男の声が聞こえてきた。相手は相馬が電話に出るとふんでいたのだろう。少々戸惑ったような気配がした。
「あっ、すみません、し……相馬さんは只今外出しておりまして」
師匠と言いかけて、慌てて相馬と言い直した。
「ああ、そう。じゃあ、相馬さんが帰ってきたら、野村から電話があったと、伝えてくれるかな?」
「ノムラさん、ですね、わかりました」
大雅が相手の名前を反復すると、「じゃあ」と言って電話は切れた。再び道場に、静寂が訪れる。時刻はまもなく午後の二時半に差し掛かろうとしている。そのとき、道場の扉がガラガラと開いて、三人組の少年たちが入ってきた。
「こんちわーっす」
そのうちの一人は三樹也だった。普段なら学校に行っている時間だろうが、夏休みに入ったから、この時間にやってきたのだ。
「あれ、藤堂サン、ひとりっすか?」
少年たちは、道場の入口で、きっちりと靴をそろえてから中に入ってきた。すでに練習着に着替えてからやって来たようだ。三樹也の両脇にいた少年たちは、大雅を見るなり表情が強ばったが、三樹也が気兼ねない様子で話しかけてきたためか、「ちわっす」と小さく挨拶をしてきた。
「こんにちは。師匠はいま、ちょっと外に出ているぞ」
少年ふたりは、太一と真琴というらしい。太一は三樹也と同じように、髪をスポーツ刈りにして短く揃えているが、真琴はツーブロックの髪を茶色に染めている。大雅は人のことは言えないくせに、小学生のうちから染髪をしていて大丈夫なのだろうかと思った。
「珍しいっすね。……なんかあったのかな」
三樹也は不思議そうに眉をひそめたが、「なんかあった」理由を、大雅は言わないでおいた。なんとなく、圭二の名誉を守ろうと思ったのだ。
少年たちは荷物を更衣室に運び入れると、すぐに戻ってきた。
「おーい、おまえら、先生がいないから、怪我しないようにやっぞ!」
三樹也は、少年たちの中ではまとめ役のようだった。彼の掛け声に、他の二人は「おう」と頷く。
これまで三樹也たちの姿を、道場内で見かけることはあっても、あまり関わりを持とうとしなかったから、自分の目の前で彼らが動き回っているのは新鮮だった。
学園の小学生たちと同年代の少年たちだったせいか、はじめて大きく関わる相手であっても、大雅はあまり抵抗がなかった。
「藤堂サン、先生の代わりに、おれたちの練習をみてくださいよ」
「ああ、いいぞ」
三樹也たちは大雅の快諾に嬉しそうにガッツポーズをすると、各々でウォーミングアップをはじめた。たとえ小学生であっても、大人であっても、ウォーミングアップは各自で行えるように、あらかじめ相馬から教えを受けているのだ。
返事はしたものの、相馬のいないところで、人の練習をみるのは初めてのことだった。怪我をさせてしまわないように気をつけようと思いながら、拳にバンテージを巻いた。
「オマエら、コンビネーションはできるようになったのか?」
相馬に直接教えを乞うていた三樹也はともかく、太一と真琴がどれほどの実力なのかを知らなかった。子供たちは「できる!」と、一様に答えた。
タイマーを設定して、まずは彼らにシャドーをやらせることにした。そのあいだ、大雅はサンドバッグを相手に、打撃の撃ち込みを行う。しばらくすると、視線を感じて「おら、オマエらじろじろ見てねえでさっさとやれ!」と、小学生たちを促した。
三樹也たちは慌てて鏡に向かう。大雅はその様子がおかしくて、口角を上げている自分に気付いた。
ブザーが鳴り、彼らのシャドーが終わると、大雅はミットを持って道場の真ん中辺りに移動し、順番に小学生たちの攻撃を受けた。闇雲にパンチやキックを打たれては困るので、大雅の指示通りにミットに打ち込んでもらうというやり方だった。ワンツー、ワンツーフック、ジャブ、ミドルなどの単調な動きから始めて、次第に動きを増やしていく。自分が指示しておきながら、ミットの位置を間違えるのは恥ずかしいので、そうならないように注力する。三分ごとのブザーが鳴るたびに一人ずつ交代し、それぞれ三ラウンド動けるように配慮した。それだけでおよそ三十分近くの時間を費やしたが、相馬たちはまだ帰ってこなかった。
大雅は汗を拭きながら、小学生たちに「ちゃんと水分を摂れよ」と声をかける。各々、家から持ってきた水筒を出してきて、ごくごくと飲んでいた。
コイツらにはちゃんと水筒にお茶を入れて持たせてくれる親がいるんだなあと、無意識のうちに自分の過去と目の前の小学生たちを重ね合わせていることに気付いた。いや、重ね合わせたのではない。比べたのだ。求めても求めても、自分が手に入れることの出来なかった境遇の中で、彼らは生きている。本当のところはわからない。彼らの中にも、もしかすると家庭環境に悩んでいる者がいるかもしれない。しかしそんな気配を微塵も感じない。着ているものも、持っているものも、どれも上等なものばかりだ。それに家庭に余裕がなければ、親はそもそも自分の子供に格闘技を習わせようなどとは思わないだろう。
嫉妬などという感情は湧いてこない。自分が不幸な生い立ちを経験したからといって、他の子供たちまでもが同じ思いをしろなどとは思わない。
——オマエたちは、オレじゃなくて良かったな……。と、こぼれんばかりの無邪気さを目の当たりにして、そう思うだけだ。
流石に大雅の技量では、彼らに組み手や寝技を教えることはできない。それは少年たちも承知の上だったから、キックボクシング中心の練習を行った。サンドバッグ打ちでは、ミドルキックが上手く出来ないと太一が言ったので、大雅がコツを教えた。
「キックのときは、相手に向かって斜め四十五度の角度から踏み込むんだ。あとは骨盤を相手にぶつけるつもりで回すと、うまくいくかもしれないな」
太一はこくりと頷くと、大雅の言ったとおりに「ふんっ!」とサンドバッグに蹴りをたたき込んだ。先ほどまでとは明らかに違う蹴りの威力に、太一は目を見張る。
「……すげえ! すげえよ!」
それをきっかけに、太一は少し怖がっていた大雅に心を開いたらしく、やたらと気を引くように話しかけてくるようになった。
三人の小学生たちは、各々が大雅に相手をしてほしいと躍起になったので、そこからの大雅は大変だった。一人で黙々と激しい練習を行うよりも疲れはて、道場の戸口に相馬の姿が現れたときには、彼にすがりつきたくなるほどに安堵したのだった。
「大雅、あいつらの相手をしてくれていたのか?」
相馬にそう問われたとき、大雅は圭二の姿がないことが気がかりで、反応が一瞬遅れてしまった。
「あっ、はい。勝手にやってすみません」
「そうか。ありがとう。……圭二は検査の結果、特に異常はないとのことだったが、大事をとって私が家まで送り届けたよ」
「そうっすか……」
良かった、とは口にしなかった。素直に自分の気持ちを吐露できなかったのだ。それでも相馬にはばれていた。圭二の安否をきいた大雅の表情が、ふっと優しく和らいだからだ。
「あっ、師匠、そういえば、ノムラさんって人から電話がありました。オレが出ると、電話があったと伝えてほしいとだけ言われて……」
「……ふむ、ノムラ……」
相馬はその名前にピンとこなかったみたいだ。たしかに珍しくはない苗字だから、これまで出会った人たちの中に埋もれてしまったのか。向こうは相馬のことをよく知っていそうな口ぶりだったから、相馬の反応は意外だった。
相馬がさほど気にもしていないようだったから、その話はそこで打ち切りとなった。小学生たちが、「先生こんにちは!」と、どたどたとこちらに近づいてきたからというのもあるだろう。
「藤堂サンにコツを教えてもらったおかげで、太一のミドルがちょっと上手くなったんですよ!」
三樹也が嬉々とした表情で相馬に伝えたので、大雅は顔が真っ赤になった。
「……オレが始めたばっかりのときに、師匠に教えてもらったことを、そのままアイツに伝えただけっす」
そっぽを向いて言う大雅の横顔を見て、相馬は表情を緩めた。しょうりつ学園でも、大雅は三樹也たちのような年代の子たちの面倒を見ることがあるのだろうと推察する。周りの者たちと触れ合う前に、自分から壁を作ってしまいがちな彼が、自分より幼い子供たちには普通に接している。それは、大雅の取り柄といっても差し支えがないだろう。子供たちは時に大人が驚くほどの純粋さをもって他人に関わろうとする。決して社交的とは言いがたい大雅に、三樹也たちが隔たりもなく接しているのは、大雅は自分たちに害をなす悪い人間ではないことを本能的に察知しているからだ。
学園の小学生たちに囲まれて無邪気に言われたとき、大雅はついにコイツらにもばれたかとたじろいだ。近くに支援員の平山がいたので、助けを求めるようにそちらに視線をやったが、彼は他の小学生の相手に忙しいようで、こちらの様子には気付いていない。
平山は、支援員の中で一番顔の整った青年だった。目鼻立ちはキリッと精悍で、百八十センチを超えているという身長。学生時代は野球をやっていたということもあり、昔から陽太がいちばん懐いている支援員でもあった。人当たりのいい性格は、大雅にとっても受け入れやすく、学園に入所したとき、最初にぽつぽつと話すようになった大人でもあった。
児童にはひとりひとり、担当の支援員があてがわれていて、日々の生活の支援だとか、困りごとなどは、その担当に相談するきまりとなっている。大雅の担当支援員は、施設長でもある藤本だったが、例に漏れず彼とは折り合いが悪いので、大雅は平山に頼ることがほとんどだった。
平山も大雅の心情は理解していて、事情をくみ取って彼の担当を代わってもいいと藤本に申し出たこともあったが、未だに大雅の担当が藤本なのは、何か事情があるのかもしれないと、それ以上は踏み込まなかった。
「フトーコーになったの? 大雅さん、学校で苛められたのか?」
大雅の右隣に座って、ノートに鉛筆を走らせていた少年がパッと顔を上げて話に入ってくる。
「あ、いや……そんなんじゃねえよ」
夏休みに突入したこともあってか、朝、厨房の手伝いが終わったあと、支援員たちと共に小学生たちの学習の面倒をみるという役割が与えられた。
長期休暇のあいだは、学園で一日のほとんどを過ごす児童たちだったが、生活が乱れないように一日のタイムスケジュールが決められている。平日の午前中は学校で出された宿題や自主学習を行う時間にあてられ、それでも集中力が散漫になりやすい小学生たちは、支援員たちの手も借りて、宿題を進めていくことになっているのだ。
「ほら、喋ってばっかねえで、さっさと宿題やれよ」
大雅は話をそらした。小学生たちは、納得がいかないような表情をしてみせたが、年長者である大雅には逆らえないのか、その表情のまま課題を再開させた。
午前中の学習時間が終わると、昼食をみんなで食べ、午後からは各々の自由時間になる。
もっとも、生活に規律を求められているのは、小学生たちで、中学生以上の児童たちは、自分の生活は自分で管理を行うように指導されている。学園を退所しても通用する自立心を養うためだ。
児童の中には、高校に進学せずに、中学を卒業してすぐに社会に出る者もいる。学園を出た児童たちは、自分の力で生きていかねばならない。だからこそ児童たちが社会の荒波に負けぬような精神を育むことも、藤本たち支援員たちに与えられた役割なのだ。
昼食を終えたあと、大雅はいつものように学園を出てつぐみ道場に向かった。
アスファルトの照りつけが肌を刺す。空は面白いほどに青く、雲ひとつない。大雅はパタパタとシャツをあおぎながら、歩みを進めている。背負ったリュックのせいで、背中がすでに汗ばんでいた。
しょうりつ学園からつぐみ道場までは、大雅の足の速さで歩けば二十分ほどかかる。住宅街を抜けて河川敷を歩き、最寄り駅のほうへ歩いていく二キロ弱の道のりは、道場に近づくにつれて人通りも交通量も増えてくる。
大雅は歩きながらも、ずっと相馬の申し出のことを考えていたから、途中でずっと圭二に呼びかけられていたことに気付かず、彼の大きな図体が横に並んだときに初めて「うおっ!」と飛び上がるように驚いてしまった。
「……なんだてめえかよ」
「ずっと呼びかけても全然気付いてくれなかったんだもん。僕、自分一人で叫んでるやつみたいでめちゃくちゃ恥ずかしかったんだけど」
「しらねえよ」
「今日も暑いね。大雅、ちゃんと昼は食べたか?」
「てめえはオレの親かよ!」
吐き捨てるように言って、大雅は歩みを速めた。しかし圭二も臆することなく、横並びについてくる。
目的地が同じなのだ。圭二はすでにトレーニングウェアに着替えて、ランニングをしてきた帰りのようだ。身軽な格好だというのに、大雅よりもダラダラと汗をかいている。
道場に辿り着くと、圭二は小走りで出入口に近づいていって、扉を開けてくれた。
「……ありがとう」
圭二にもごもごと言ったあと、受付に立っていた相馬と目が合ったので、「ちわっす」と頭を下げた。
「大雅、圭二と一緒だったのか」
「途中で会っただけです」
圭二の姿を目で追うと、彼は自分の汗で濡れそぼったシャツを脱ぎ、新しいものに着替えている最中だった。大雅が靴を脱ぎ、更衣室に入った。
相馬には、いつも通りに振る舞ったつもりだ。表情も、態度も、おかしくなかっただろうか。リュックの中を引っかき回すようにしてトレーニングウェアを出して、いそいそと着替える。部屋の外からは、サンドバッグを打つ音が聞こえてくる。しんと静まりかえった空間では、空調の音が静かに、しかし継続的に響いている。
大雅はふうっと息を吐き、リュックを掴んで更衣室を出た。
「師匠、今日もよろしくお願いいたします!」
わざとらしかっただろうか、と、挨拶をしたあとに思った。だが、どんなときでも挨拶だけはきちんと行いなさいと、相馬から何度も言われている。自分の機嫌が悪いときや、なにか不安があるときなどは、つい目の前の相手をなおざりにしてしまいがちだが、たった一度でも挨拶を疎かにしてしまうと、自分の印象が悪くなってしまう。一度抱かれた印象を相手に塗り替えてもらうには、相応以上の努力をしないといけないと。
「たった一度の失態で、お前の印象が悪くなってしまうくらいなら、自分の機嫌を無視してでも、正しく振る舞うことを、心がけなさい」
相馬の教えをさほど重視せず、かつての大雅は自分の気分のままに相手との距離をはかった。そのせいで、余計に誰かと打ち解けることは出来ず、周囲から孤立していた。べつに誰か友達がほしいとか、話し相手になってほしいとか、そういったことを望んでいたわけではない。
誰かを求めていたわけではないのに、虚しさだけは心に巣くっていた。だけど、どうしたらいいのか分からなかった。
相馬の教えを守ろうと決めたのは、あの日、髪を刈ったときだった。昔の自分を無視するわけではないけれど、ちゃんと真人間になろうと決めた。大人になって、ふといまの自分を振り返ったときに、胸を張っていられるようにしようと思ったのだ。
「大雅、アップ終わったら、ミット打ち付き合ってよ」
ニコニコと笑って、圭二がこちらに近づいてくる。コイツは休むことを知らねえのかよと、心の中で毒づく。それでも圭二が話しかけてくることに嬉しがっている自分がいることに気付いた。どれだけつっけんどんに突き放しても、圭二は自分に関わることをやめようとはしない。たとえば、自分が話しかけなければ、大雅は道場でも孤立するかもしれないと思っているとか、同級生のよしみで仕方なく気を遣ってやっているだけだとか、そう言った類いの付き合い方ではない。
「すぐに済ませる」
大雅はそれだけ言って、ひとりでウォーミングアップをはじめた。
「おら、もっと強く打て! そんなんじゃ試合に勝てねえぞ!」
ミット打ちを始めた瞬間、圭二のパンチにいつもより覇気がないことに気付いた。普段なら油断をすれば吹っ飛びそうになるくらいの威力なのに、体がふわりと浮かび上がる感覚がない。
さすがにそろそろ疲れたのかと思い、叱咤してやろうと声をあげた。
「うん」
圭二は軽く頷いて、大雅の構えたミットにワンツーを打ち込む。やっぱりおかしいと、大雅は確信した。
フリーミットは、大雅がランダムでミットを構えたところに、圭二がパンチやキックを打ち込むという練習だ。大雅の動きには着いてきているものの、パンチの威力は先ほどとあまり変わっていない。ちらりと横目で圭二の様子を見る。発汗量が多い。黒いトレーニングウェアは絞れそうなほどの汗染みが出来ていて、彼の足元にもぽたぽたと全身から流れ落ちている。呼吸が荒い。普段は褐色の顔が、少し赤らんでいる。
「やめだ」
大雅は短くそう言って、バックステップをとった。右のミドルを打ち込もうとした圭二の蹴りが空振り、彼の体はくるりと半回転した。
「え、でも、まだブザーは鳴って……」
「てめえは自分の体調管理も出来ねえのかよ」
おろおろとする圭二の言葉を途中で遮って、大雅は声を張った。
「試合が近いからって焦ってんのか? だとしても、自分の体調も分からなくなるまで追い込んでんじゃねえよ」
「ぼ、僕、そんなつもりじゃ……」
圭二はハアハアと喘鳴混じりの呼吸を繰り返しながら、しどろもどろにそう言ったが、突然目を見開き、「ウッ!」と呻いたあとに体を波打たせ、グローブを着けたままの手を口元に当てた。
(やべえっ!)
大雅は瞬時にリングの外にいる相馬の姿をとらえる。しかし、彼はちょうどかかってきた電話の対応をしていて、すぐにこちらに駆けつけられる状況ではなさそうだ。リングのそばには掃除用のバケツも置いてあるが、取りに行くのは間に合いそうにない。
「くそっ、圭二、我慢すんな!」
咄嗟の行動だった。大雅は自分の着ていたシャツを脱ぎ、風呂敷のように丸めると、圭二の顔にそばにあてがった。
圭二は涙目になりながら体を痙攣させて、えづいた。膝から崩れ落ちるようにリングマットの上にへたり込み、「ごめん……大雅」と消え入るような声で呟く。
電話の終わった相馬が二人の異変に気付き、「おい、大丈夫か!」と走り寄ってくる。事態を察知した相馬は、バケツを引っつかんでリングに上がってきた。
「横になれ、圭二」
大雅は汚れたシャツをバケツに放り込むと、相馬と二人がかりで圭二を横たわらせた。圭二はだらりと弛緩したまま、仰向けになった。相馬が彼の額に手を当てる。
「すまないが大雅、事務所から保冷剤と経口補水液を取ってきてくれないか」
「はい!」
「うぅ……すみません」
意識はあるようだ。吐いてすっきりしたのか、さっきよりは表情が和らいでいる。大雅が相馬から言われたとおりに保冷剤と飲み物をもってリングに戻ってきたとき、圭二は服を脱がされ、濡れタオルを腋や首の後ろにあてがわれていた。
「た、大雅、ごめんね……迷惑かけた……ね」
「しゃべんな。安静にしてろ」
タオルでくるんだ保冷剤を頭の後ろに敷いてやる。ウォーターサーバーの横に置いてある紙コップに、経口補水液を注ぎ、圭二に渡そうとしたが、自力では飲めないかもしれないと思い直し、彼の頭を少し上げてやり、「ほら、飲めよ」とコップの縁を口に当ててやった。
圭二は静かに、ゆっくりとコップの中身を飲み干した。その様子を見届けてから、大雅は相馬に事の詳細を話して聞かせた。
「師匠、コイツは熱中症になっているかもしれません。なんかやたら汗をかいているし、さっき、ミット打ちをしましたが、いつもよりパンチの威力が弱かったからおかしいなと思って、途中でやめました。呼吸も荒くて、やっぱ調子悪いんじゃねえかって思ったら、こんな状態になってしまって……」
「よく気付いてくれたな」
相馬はそう言って、静かに微笑んだ。「ありがとう」
圭二の症状は幸い、大事には至らなかったが、しばらく道場の中で安静にするように相馬から言いつけられた。相馬は、病院に行くことを強くすすめたが、圭二が頑なに拒否したので、そのまま様子をみることとなった。
「圭二の異変に気づけなかったのは、私の責任だ。お前たちがどうこう気に病む必要はない。……圭二、私がついていながら、辛い思いをさせてしまったな、すまなかった」
「あ、いえっ、し、師匠、僕が悪いんですっ」
時間が経って、起き上がれるまでに回復した圭二は、壁にもたれつつ床に足を伸ばして座っていた。大雅も彼の横に胡座をかいている。圭二を放って自分だけトレーニングをしているわけにはいかなかったが、手持ち無沙汰だったから、ダンベルを持って腕を動かしてはいた。
「試合の日が近づいてきて、僕、もっと鍛えておかないとと思って、焦っていました。自分でも分かっていたけど、ちょっとくらいなら大丈夫だってたかをくくっていたんだと思います。そのちょっとがいっぱい積み重なって、自滅しちゃったんですね」
これまでにも何回か、対人戦を経験してきた圭二だったが、今回彼がここまで自分を追い詰めているのには理由があった。それは、対戦相手が外国人だということだった。
ティアンチャイ・ジェラワット。
相手の名前だ。タイ人であるその男は、大雅たちより三歳年上の、ムエタイ出身の格闘家だ。キックボクシングや空手をベースにしてきた相手とまみえたことはあったが、タイの国技でもあるムエタイを相手にするのは初めてであった。相手が外国人であることも、相手のベースとしている格闘技も、圭二にとっては経験のない事で、心にのしかかる重圧はいつもの比ではなかったということだ。
それを誤魔化して平常心を保とうとしたがために、圭二の目論見は裏目に出てしまったのだ。
「私も、初めて外国人と闘ったときは、随分と緊張したものだ」
「え? 師匠も?」
そう聞いたのは大雅だった。あまりにも意外そうに彼が驚いたものだから、相馬は少し笑ってしまった。
「誰だって、何をするにしてもまずは『初めて』の瞬間から向き合わないといけないだろう。私は今でこそ、OPKDフェザー級のチャンピオンだという称号を背負ってはいるが、最初はお前たちとおなじアマチュアだった。いま、私は色々な縁に恵まれてこの立場にいるが、当時はそれまでに経験したことのない物事ばかりに襲われて、ずっと不安の中を彷徨い歩いていたよ」
「なんだか意外っす」
大雅は目を丸くした。少しだけ伸びてきた坊主頭を、ぽりぽりと掻く。首にかけていたタオルで、額を拭った。
「私だって超人ではないからな。ただ、お前たちの少し先を歩いているというだけさ」
相馬は、自分と同じくらいの歳の頃、どんな少年だったのだろうと、大雅は考えた。いまの相馬は質実剛健だとか、実直だとかいう言葉が似合う男だが、昔からそうだったのだろうか。
「師匠は子供の頃、どんな人だったんですか?」
気がつけば口をついて出ていた大雅の疑問を耳にして、相馬は少し恥ずかしそうにはにかんだ。
「私は、わざわざ話題にするまでもない、つまらない子供だったよ」
相馬と出会って三年以上の月日が経過しているが、彼から過去の話を聞いたことがない。大雅からは聞こうともしなかったからだろうが、なにを思って空手をはじめ、やがて総合格闘技に転向したのか、格闘技以外の趣味はあるのかなど、気になりはじめてようやく、自分は相馬のことをなにも知らないのだと気付いた。
「私のことはいい」と相馬が一蹴したため、大雅は彼の過去を聞き出すことはできなかった。
「大雅。すこし留守番を頼めるか?」
「あ、はい」
「やはり、圭二を念のため病院に連れていこうと思ってな。……おそらく圭二は、自発的には受診することもないだろうし、御両親にも謝罪をせねばならない」
「……そんなっ、ぼ、僕なら大丈夫ですから!」
圭二は、慌てた様子で相馬の言葉を制した。本当に大丈夫ですと狼狽えている。
「あとでなにかあったときに示しがつかないだろう。大丈夫だと思っていても、じつは病魔が体を蝕んでいることもあるんだ。ちゃんと医者に診てもらって、そこで異常なしと言われたときに初めて、自分は大丈夫だと思いなさい」
「……はい」
幾分しょんぼりした様子で、圭二は返事をした。腑に落ちていない様子ではあったが、これ以上相馬に反発していても仕方ないと判断したのだろう。
圭二は無言のまま、いそいそと帰り支度をし始めた。彼の横顔に、悔しさが滲み出ている。自分の不調に気付かなかったことによる不甲斐なさと、試合が近いのに、鍛錬を積む時間を大幅に削ってしまったという焦り。彼が衝動的な性格であったら、感情のままに床や壁を殴りつけていたかもしれない。
着替え終わった圭二は、相馬に付き添われて道場を出て行った。ひとり取り残された大雅は、自主練をしようと思い立ち、水を飲んだあと、鏡に向かってシャドーをはじめた。
自分が道場にいるあいだは、相馬をはじめ、他の門下生の誰かがいたから、一人になるというのは初めてだった。
師匠はなぜ、オレを追い出さなかったんだろう。
鏡でフォームを確かめながら拳を繰り出す。空気を裂くような音が、大雅の耳に届く。
相馬が大雅をひとり残したことには、あまり意味はないのかもしれない。あるいは、彼が気を遣って、道場にきたばかりの大雅がまだ練習を続けられるように手筈を整えてくれたのかもしれない。
道場の電話が鳴った。出る者がいないから、コール音は鳴り止まない。
大雅はシャドーの動きを止め、一瞬躊躇ったあと、受付に置いてある子機をつかんだ。
「……はい、つ、つぐみ道場です」
「あれ? 相馬さんじゃあ、ないね」
電話口の向こうから、男の声が聞こえてきた。相手は相馬が電話に出るとふんでいたのだろう。少々戸惑ったような気配がした。
「あっ、すみません、し……相馬さんは只今外出しておりまして」
師匠と言いかけて、慌てて相馬と言い直した。
「ああ、そう。じゃあ、相馬さんが帰ってきたら、野村から電話があったと、伝えてくれるかな?」
「ノムラさん、ですね、わかりました」
大雅が相手の名前を反復すると、「じゃあ」と言って電話は切れた。再び道場に、静寂が訪れる。時刻はまもなく午後の二時半に差し掛かろうとしている。そのとき、道場の扉がガラガラと開いて、三人組の少年たちが入ってきた。
「こんちわーっす」
そのうちの一人は三樹也だった。普段なら学校に行っている時間だろうが、夏休みに入ったから、この時間にやってきたのだ。
「あれ、藤堂サン、ひとりっすか?」
少年たちは、道場の入口で、きっちりと靴をそろえてから中に入ってきた。すでに練習着に着替えてからやって来たようだ。三樹也の両脇にいた少年たちは、大雅を見るなり表情が強ばったが、三樹也が気兼ねない様子で話しかけてきたためか、「ちわっす」と小さく挨拶をしてきた。
「こんにちは。師匠はいま、ちょっと外に出ているぞ」
少年ふたりは、太一と真琴というらしい。太一は三樹也と同じように、髪をスポーツ刈りにして短く揃えているが、真琴はツーブロックの髪を茶色に染めている。大雅は人のことは言えないくせに、小学生のうちから染髪をしていて大丈夫なのだろうかと思った。
「珍しいっすね。……なんかあったのかな」
三樹也は不思議そうに眉をひそめたが、「なんかあった」理由を、大雅は言わないでおいた。なんとなく、圭二の名誉を守ろうと思ったのだ。
少年たちは荷物を更衣室に運び入れると、すぐに戻ってきた。
「おーい、おまえら、先生がいないから、怪我しないようにやっぞ!」
三樹也は、少年たちの中ではまとめ役のようだった。彼の掛け声に、他の二人は「おう」と頷く。
これまで三樹也たちの姿を、道場内で見かけることはあっても、あまり関わりを持とうとしなかったから、自分の目の前で彼らが動き回っているのは新鮮だった。
学園の小学生たちと同年代の少年たちだったせいか、はじめて大きく関わる相手であっても、大雅はあまり抵抗がなかった。
「藤堂サン、先生の代わりに、おれたちの練習をみてくださいよ」
「ああ、いいぞ」
三樹也たちは大雅の快諾に嬉しそうにガッツポーズをすると、各々でウォーミングアップをはじめた。たとえ小学生であっても、大人であっても、ウォーミングアップは各自で行えるように、あらかじめ相馬から教えを受けているのだ。
返事はしたものの、相馬のいないところで、人の練習をみるのは初めてのことだった。怪我をさせてしまわないように気をつけようと思いながら、拳にバンテージを巻いた。
「オマエら、コンビネーションはできるようになったのか?」
相馬に直接教えを乞うていた三樹也はともかく、太一と真琴がどれほどの実力なのかを知らなかった。子供たちは「できる!」と、一様に答えた。
タイマーを設定して、まずは彼らにシャドーをやらせることにした。そのあいだ、大雅はサンドバッグを相手に、打撃の撃ち込みを行う。しばらくすると、視線を感じて「おら、オマエらじろじろ見てねえでさっさとやれ!」と、小学生たちを促した。
三樹也たちは慌てて鏡に向かう。大雅はその様子がおかしくて、口角を上げている自分に気付いた。
ブザーが鳴り、彼らのシャドーが終わると、大雅はミットを持って道場の真ん中辺りに移動し、順番に小学生たちの攻撃を受けた。闇雲にパンチやキックを打たれては困るので、大雅の指示通りにミットに打ち込んでもらうというやり方だった。ワンツー、ワンツーフック、ジャブ、ミドルなどの単調な動きから始めて、次第に動きを増やしていく。自分が指示しておきながら、ミットの位置を間違えるのは恥ずかしいので、そうならないように注力する。三分ごとのブザーが鳴るたびに一人ずつ交代し、それぞれ三ラウンド動けるように配慮した。それだけでおよそ三十分近くの時間を費やしたが、相馬たちはまだ帰ってこなかった。
大雅は汗を拭きながら、小学生たちに「ちゃんと水分を摂れよ」と声をかける。各々、家から持ってきた水筒を出してきて、ごくごくと飲んでいた。
コイツらにはちゃんと水筒にお茶を入れて持たせてくれる親がいるんだなあと、無意識のうちに自分の過去と目の前の小学生たちを重ね合わせていることに気付いた。いや、重ね合わせたのではない。比べたのだ。求めても求めても、自分が手に入れることの出来なかった境遇の中で、彼らは生きている。本当のところはわからない。彼らの中にも、もしかすると家庭環境に悩んでいる者がいるかもしれない。しかしそんな気配を微塵も感じない。着ているものも、持っているものも、どれも上等なものばかりだ。それに家庭に余裕がなければ、親はそもそも自分の子供に格闘技を習わせようなどとは思わないだろう。
嫉妬などという感情は湧いてこない。自分が不幸な生い立ちを経験したからといって、他の子供たちまでもが同じ思いをしろなどとは思わない。
——オマエたちは、オレじゃなくて良かったな……。と、こぼれんばかりの無邪気さを目の当たりにして、そう思うだけだ。
流石に大雅の技量では、彼らに組み手や寝技を教えることはできない。それは少年たちも承知の上だったから、キックボクシング中心の練習を行った。サンドバッグ打ちでは、ミドルキックが上手く出来ないと太一が言ったので、大雅がコツを教えた。
「キックのときは、相手に向かって斜め四十五度の角度から踏み込むんだ。あとは骨盤を相手にぶつけるつもりで回すと、うまくいくかもしれないな」
太一はこくりと頷くと、大雅の言ったとおりに「ふんっ!」とサンドバッグに蹴りをたたき込んだ。先ほどまでとは明らかに違う蹴りの威力に、太一は目を見張る。
「……すげえ! すげえよ!」
それをきっかけに、太一は少し怖がっていた大雅に心を開いたらしく、やたらと気を引くように話しかけてくるようになった。
三人の小学生たちは、各々が大雅に相手をしてほしいと躍起になったので、そこからの大雅は大変だった。一人で黙々と激しい練習を行うよりも疲れはて、道場の戸口に相馬の姿が現れたときには、彼にすがりつきたくなるほどに安堵したのだった。
「大雅、あいつらの相手をしてくれていたのか?」
相馬にそう問われたとき、大雅は圭二の姿がないことが気がかりで、反応が一瞬遅れてしまった。
「あっ、はい。勝手にやってすみません」
「そうか。ありがとう。……圭二は検査の結果、特に異常はないとのことだったが、大事をとって私が家まで送り届けたよ」
「そうっすか……」
良かった、とは口にしなかった。素直に自分の気持ちを吐露できなかったのだ。それでも相馬にはばれていた。圭二の安否をきいた大雅の表情が、ふっと優しく和らいだからだ。
「あっ、師匠、そういえば、ノムラさんって人から電話がありました。オレが出ると、電話があったと伝えてほしいとだけ言われて……」
「……ふむ、ノムラ……」
相馬はその名前にピンとこなかったみたいだ。たしかに珍しくはない苗字だから、これまで出会った人たちの中に埋もれてしまったのか。向こうは相馬のことをよく知っていそうな口ぶりだったから、相馬の反応は意外だった。
相馬がさほど気にもしていないようだったから、その話はそこで打ち切りとなった。小学生たちが、「先生こんにちは!」と、どたどたとこちらに近づいてきたからというのもあるだろう。
「藤堂サンにコツを教えてもらったおかげで、太一のミドルがちょっと上手くなったんですよ!」
三樹也が嬉々とした表情で相馬に伝えたので、大雅は顔が真っ赤になった。
「……オレが始めたばっかりのときに、師匠に教えてもらったことを、そのままアイツに伝えただけっす」
そっぽを向いて言う大雅の横顔を見て、相馬は表情を緩めた。しょうりつ学園でも、大雅は三樹也たちのような年代の子たちの面倒を見ることがあるのだろうと推察する。周りの者たちと触れ合う前に、自分から壁を作ってしまいがちな彼が、自分より幼い子供たちには普通に接している。それは、大雅の取り柄といっても差し支えがないだろう。子供たちは時に大人が驚くほどの純粋さをもって他人に関わろうとする。決して社交的とは言いがたい大雅に、三樹也たちが隔たりもなく接しているのは、大雅は自分たちに害をなす悪い人間ではないことを本能的に察知しているからだ。



