「オレ、どうしたらいいかな……」
 大雅が唐突にそう言ったので、陽太は驚いて呼んでいた野球漫画を放り出して、ベッドから飛び起きる羽目になってしまった。
「えっ!? いきなりどうしたんだ?」
 ふたりが出会ってから、大雅が自ら身の上の相談をもちかけてきたことは初めてだった。それでよく考えてみれば、いまから一週間前に、大雅が一晩帰ってこなかったことがあったが、どうもその日を境に、なにか考えに耽っているような素振りをみせることが多くなったような気がした。食事の最中に突然動きが止まり、箸で掴んでいた唐揚げを皿の上に落下させ、自分で驚いていたこともあった。
「マサノリに出ていけって言われたのか?」
「いや、そうじゃねえよ」
「まあそうだよな」
 自分で聞いておいてなんだが、陽太からみても、藤本が大雅に対して辛辣な物言いをしたりすることはあるが、決して大雅の存在をしょうりつ学園から排除しようだとか、彼を蔑ろに扱おうとしているようには感じられなかった。
「十八歳になるまで、ここに住ませてもらうにしても、突然追い出されるにしても、オレには戻る家ってものがねえだろ」
「……ああ、そう言っていたな」
 大雅の両親は健在だ。だが、あの家に戻る気はさらさらなかった。それは、一番は自分の身を守るためでもあるが、親と自分とのあいだで、これ以上のトラブルを呼び寄せないように自衛するというニュアンスも含まれていた。
オレには親などいない。心に刻むように、何度も自分に言い聞かせてきた。実際はどうあれ、そう思い込むことで、気が済んだ。あんなヤツら、親じゃねえ。親っていう存在は、自分の子に対して、理不尽に暴力をふるったりしないのが普通なのだから。
大雅が両親のもとで暮らしていた頃は、こんな目に遭うのは、自分が悪い子供だからなのかもしれないと思っていた。自分の存在そのものが悪で、生きているだけで父や母に迷惑をかけているから、ふたりが怒るのだと。生まれてきてはいけないゴミのような人間だから、自分は生かしてもらっているだけ有り難いのだと。
 幼いころに根付いた考えは、青年となった大雅の心の奥底にしつこく巣食っている。おおよそ人間らしい生活が送れるようになった今も、自分はほんとうに生きていていいヤツなのだろうかという思いがよぎることがある。とはいえ、今も昔も、自ら命を絶つ勇気はない。

「学園を出たあと、どうしたらいいか分からねえし、多分そういうことはいずれ先生たちが教えてくれるのかもしれねえけど、考えれば考えるほど、不安になってさ。……でもこのあいだ、オレが通っている道場の師匠が、一緒に住まないかって言ってくれたんだ」
 陽太は目を丸くした。「えっ、その人、めっちゃいい人じゃん!」
 大雅はこくりと頷いた。
「……師匠は、オレが唯一信頼できる大人だ。正直、一生ついていきたいって思ってる。でも、オレが師匠の家で生活をすること自体が迷惑になったりしねえかなって思っちまうんだ」
「迷惑だって思ってんなら、そもそもそんな提案してくれねえだろ」
 大雅はふたたび頷いた。児童一人につきひとつ与えられている勉強机の椅子に座り、くるりと椅子の向きを変えて陽太のほうを見る。
「でもオレ……」
 その先は言葉にならなかった。自分の持ち合わせている語彙では、この胸に秘めている思いを陽太に伝えることは不可能だ。言葉は感情をなぞれるけれど、自分の思ったとおりに相手には伝わらない。
「はー、大雅、おまえめんどくせーな!」
 ケラケラと陽太が笑う。「おまえは素直に、その師匠って人の誘いに乗っていればいいのに、なんでそう、グチグチ悩むかなー」
 そうだ、オレはめんどくさいのだ。
 自分でも厄介な性格だということは分かっている。人と距離を置き、打ち解けるのに時間がかかる。そもそも自分のパーソナルスペースに相手が入ってくることを拒み、また自分からも関わろうとしないことのほうが多い。そのくせ、自分は独りでは生きてはいけないこともわかっているから、一方では誰かが手を差し伸べてくれるのを待っている。だのに、実際に手を差し伸べられても、素直に応じられなかった。
「おれがおまえの立場なら、よろしくお願いしますってすぐにとびつくね。……やっぱりさ、おれたちみたいなやつってのは、どうしても社会に出たら苦労するだろうからさ。ほら、こないだ大雅はプロの格闘家になりたいって言ってただろ。だから、やっぱ師匠って人の元で一緒にいれば、そういうのの近道になるんじゃねえの」
 自分が施設で暮らしているから、周りの環境が当たり前のように感じられるけれど、世間的には「施設出身」というレッテルを貼られ、色眼鏡でみられることが多い。
 自分たちはまだ社会人ではないから、働き始めるようになって、そのレッテルがどこまで人生の足枷になるのかは見当もつかないけれど、フィクションであれ、ノンフィクションであれ、自分たちと同じ境遇に立った者たちのストーリーには、「他の人々とは違う」と区別をされることが多い。ということは、自分たちも、周りから色眼鏡で見られ続けるのだろう。
 あるいは、格闘家になって、プロのリングに立ったとき、「幼少時代の辛い過去を乗り越えた少年が、いまここで、栄光を掴もうとしています!」などと持て囃されるのだろうか。
 まだ見ぬ未来の空想だ。頭の中に思い浮かんだ自分の姿に苦笑する。実現できる確証もないのに、どうしてこんなに鮮明に現れてくるのだろう。
 答えは簡単だ。大雅がそれを望んでいるからだ。いま、彼の頭の中に浮かんでいる光景を「夢」というのならば、それは大雅が人生ではじめて抱いた、未来への希望だった。
 ただ、簡単なことほど、当人には見えないものだ。大雅はまだ気付いていない。見えないものを見ようとすることは、いまを信じることよりも難しいのだ。

 陽太の言うとおりなのか。相馬の誘いを素直に受け入れれば、自分は好機を手に入れられるのか。道が拓けるのか。
 疑問ばかりが浮かんでくる。まだ自分はなにも成し遂げていないからだ。
「陽太、オマエは甲子園を目指しているんだよな」
「当たり前だろ。高校球児だぞおれは」
 陽太が目を輝かせる。陽太の通っている高校は、毎年地方予選止まりのいわゆる弱小校だ。今年も準決勝で敗退した。そこまでいけば、順当だろうという評価もあったが、陽太はすでに来年に向けて動き始めている。陽太たちが夢を叶える可能性はゼロではないが、それは高い高い壁をよじ登るような、険しく困難な道のりだ。
 陽太もそれは身にしみて分かっている。普段の練習は、楽しいことばかりじゃないだろう。むしろ苦しいことのほうが多いはずだ。だのに、なぜ彼は頑張れるのだろう。
 答えは聞くまでもない。なりたいもの、成し遂げたいこと。それを持っているからこそ、人はどんなことも乗り越える力を得られるのだ。
 大雅も、爪先を浸そうとしている。陽太とおなじような道のりを歩こうと。
 人生が変わる瞬間なんてものは、日常の中の些末な出来事にあるものだ。そのときは確実にどこかで待っている。巡り会ったタイミングが人生の岐路だというのならば、まずはそこに辿り着くために、歩き始めなければならない。
 夢を叶えるために必要なのは、栄光が待っているゴールに辿り着く膂力を保ち続けること。ただ、それだけだ。
「陽太、頑張れよ」
「おう。大雅に言われなくても、頑張ってるぞ」
 陽太の声を聞いて、大雅はそっと拳を握りしめる。
 オレはこの拳で、のし上がってやる。他のヤツらが経験したこともないような過去を、オレはこの身ひとつで乗り越えたんだ。
 大雅はたしかにそのとき、まだ形容しがたい心地よい温もりに、自分の心を浸していた。