朝は五時に目が覚めた。習慣とは怖いもので、目覚まし時計がなくとも、陽太に起こされなくとも、その時間になると、ぱっと目が開いたのだ。
ただ、気分は最悪だった。夜中に飛び起きて、再び眠りについたこともあるが、覚醒すると昨日の出来事がすぐに脳裏をよぎったからだ。
自分がボコボコにやられたことは、もうどうでもいい。悔しかったのは、目の前でグローブを破壊されてしまったこと。それを相馬に見られてしまったことだった。
大雅はしっかりと布団を畳んで押し入れにしまった。シーツは寝汗で汚してしまったから、あとで洗濯に出そうと考え、あらかじめ剥いでおいた。
しょうりつ学園では、児童が週に一度自分が使っているシーツの交換を行う決まりになっている。親からは一度も教わらなかった作業を、大雅は学園の支援員たちに習った。
大雅が外したシーツは、これから洗濯に出して洗うだけだというのに、角をきちんと合わせてピシッと畳まれていた。
部屋を出て、リビングに行くと、すでに雄也がキッチンに立っていた。
「大雅くん、おはよう。随分と早いけど、ちゃんと眠れた?」
「おはようございます。ありがとうございました。あの、これ。寝ているときに汗をかいてしまったので」
「シーツ、外してくれたんだ」
雄也はそう言って、大雅からシーツを受け取った。「ありがとうね」
「兄ちゃんなら、たぶん道場にいると思うよ」
表情をみただけで、大雅が相馬を探していることを察したようだ。大雅はぺこりと頭を下げ、「じゃあ、お礼を言ってきます」とリビングを後にした。
昨夜通ったばかりで記憶に新しい通路を辿って、大雅は道場に向かった。人の気配がする。扉を開けると、相馬の姿が一番に目に入った。
「す、すげえ……」
大雅は思わず呟いていた。目に入ったのは、相馬の研ぎ澄まされた肉体。贅肉のかけらもない背中は、鉱石のような凹凸の陰影が彼の精悍さを際立たせていた。
相馬は建物の梁にぶら下がって懸垂をしていた。指先のみで自重を支えている。痛くないのだろうかと、大雅は思った。
「師匠! おはようございます! あの、泊めていただいてありがとうございました」
大雅は声を張った。相馬はそのとき初めて大雅が道場にやって来たことに気付いたようで、梁から手を離し、ぴょんと地面に降り立った。
「早いな。よく眠れたのか? まだ休んでいてもいいんだぞ」
さすが兄弟だなと、大雅は思った。相馬も雄也も、大雅がちゃんと眠れたのかどうかを気にかけてくれた。昨日あんなことがあったから、身を案じてくれているのかもしれないが、武道家として、あるいは人の健康に気を遣う職を目指している者として、休息としての睡眠の大切さを理解しているからだろう。
「いつもこの時間には起きているので、大丈夫です。師匠はこんな朝早くからトレーニングをしているんですか」
「ああ。昼間や夜間は道場の生徒たちの指導を行っているからな。自主トレができる時間は今しかないんだ」
苦笑混じりに相馬は言った。
「あ、あの、オレ、見ていてもいいですか?」
もしかすると早く学園に帰ったほうがいいのかもしれない。だとしても、まだ朝陽が昇ったばかりであるこの時間に帰るのは、なんとなく憚られた。
「お前も物好きだな」
相馬の苦笑が、さらに深くなった。
自重トレを念入りに行った相馬はその後、シャドーとサンドバッグ打ちをこなし、いずれも大雅を圧倒させた。ファイトショーツから伸びる強靱な足から放たれる蹴りは、ほんとうにサンドバッグが落ちてしまうのではないかとヒヤヒヤするほどに強烈な音を立てていた。あんなもん、まともに喰らったらぶっ倒れるだけじゃすまねえぞと、大雅はごくりと唾を飲み込んだ。
激しい動きを繰り返す相馬の肉体から、汗が迸っている。朝陽に照らされて、まるでダイヤモンドダストのような飛沫が舞う。
大雅はそのとき、相馬の所作が、彼の肉体が見せつけてくるすべてが、まるでひとつの芸術作品のようだと感じていた。まさか、ひとりの男のトレーニングを目の当たりにして、呆けるように見入ってしまうなどということがあるとは。
息をすることも忘れていた。気付いたときに、慌てて周りの酸素を一気に吸い込む。相馬の放った打撃が、自分の体に撃ち込まれたような感覚が駆け巡り、肌が粟立っていることに気付いたとき、大雅は衝動的に立ち上がって、自分も体を動かそうと思った。
「師匠、オレもやります!」
大雅の言葉に反応して、相馬は彼を一瞥した。
「そうか、では、共に行おう」
相馬の声は、静寂な道場内に凜と響いた。普通に話しているだけなのに、どうしてこうも芯の通った勇ましい声が出せるのだろうかと、大雅は思う。
相馬のことを、心から尊敬しているが故の感覚なのだろうか。相馬に対して何の感情も抱いていない者が聞いたら、それは普通の喋り声なのだろうか。
寝起き間もなく体を動かすのは、気持ちが良かった。いまから新しい一日が始まるのだという高揚感も湧いてくる。昨日までのことなどすべて忘れて、一心不乱に拳を動かす。体の芯が温まり、思考が冴えていく感覚は、まるで自分が生まれ変わっていく過程を辿っているようにも感じられた。
軽めの運動だと、相馬は嘯いていたが、それからおおよそ一時間近く体を動かした。終わった頃には、大雅は息が上がっていて、相馬に笑われた。
シャワーを浴び、汗を流したあと、「朝飯にしようか」と相馬に言われて、また大雅は面食らった。
「そんな、いただけません」と気持ちまで後ずさりしたが、相馬は朝飯をしっかりと食べることが重要だと、いかに一日の中で朝食が大事なのかを説いてみせた。
申し訳ないという気持ちは拭えなかったが、大雅も再び相馬家の食卓についた。昨夜と違って、今度は三人で一緒に食事を摂ることとなった。
大雅たちが汗を流しているあいだに、雄也が朝食の準備をしてくれていたようだ。すでに大雅の分もあるということは、あらかじめ兄弟ふたりで示し合わせていたのだろう。
「今日は大雅くんがいるから、ちょっと張り切っちゃった」という雄也が食卓に並べたのは、和食だった。また山盛りの白飯に、大根と油揚げの味噌汁、納豆、鮭の切り身を焼いて、付け合わせには卵焼きときんぴらごぼうが器にのっている。おまけにほうれん草のおひたしとバナナまで置いてあったから、その量の多さに驚いた。
「兄ちゃんを相手に食事を準備していると、感覚がバグっちゃうからね」
大雅の様子を見て、雄也は苦笑した。
食事が中盤に差し掛かった頃だった。
「大雅、食べながらでいいから、聞いてくれ」
茶を啜っていた相馬が、おもむろに話を切り出してきた。
「大雅は再来年の三月には、しょうりつ学園を出なければならないそうだな」
「はい」
朝の鍛錬で払拭したはずの重い気持ちが、心の中に再び湧いてくるのを感じた。過去の自分に降りかかったことや、未来の不確定なことを考えると、途端に感情にざわめきが起こってしまう。咀嚼していた米を喉に押し込んで、大雅は相馬の次の言葉を待った。
「雄也とは以前から話していたのだが、お前に行くあてがないのなら、この家に住まないか?」
大雅は目を丸くして、固まってしまった。
「兄ちゃん、大雅くんがびっくりしてるじゃないか。あまりにも単刀直入すぎるよ」
雄也が呆れたように言う。大雅は取り落としそうになった茶碗を、慌ててテーブルの上に置いた。
「……すまない。回りくどいのは性に合わなくてな。しかし大雅、これはお前にとっては悪くない提案だとは思うのだが。お前が私を師匠だと呼んで慕ってくれていると、私は思っているが、私と一緒に暮らすのは、嫌かな」
大雅はぶんぶんと首を横に振った。
「す、すみません、ちょっとびびってしまって。……あ、いや、師匠と一緒に暮らすことにじゃないです! その、なんというか、オレ、師匠に迷惑ばかりかけてきたから、まさかそんなことを言われるとは思ってもいなかったから……」
「そらみたことか! 兄ちゃん、こういうことはちゃんと説明をしてから、本題に入らないといけないんだからさあ。大雅くん、ごめんね、僕が兄ちゃんの代わりに説明するね」
曰く、大雅がつぐみ道場の門下生として相馬のもとへ通うようになり、彼の過去や、いま養護施設で暮らしている事情を知ったときから、密かに考えていたことのようだった。自身も少年時代に親を亡くして、弟と二人で暮らしていかざるを得ない苦境を乗り越えたこともあって、かねてより家庭環境にハンディキャップのある子供たちの支援をしていきたいと、漠然と思っていたらしい。
だが、格闘技一筋で生きてきた相馬は、そのすべを知らなかった。たとえばどこに申し出て、どういう手続きを踏めばいいのかなどを調べる方法も分からなかった。故に、心の中でぼんやりと考えていた願望を実現することもなく、かといって生きていくうえでは必須ではないことから、後回しになってしまっていた。そんな折、大雅と出会ったのだ。
相馬は、これはチャンスだと考えた。近隣の養護施設とのパイプを作れば、心に秘めていた野望を成し遂げるための絶好の機会に恵まれるのではないかと思ったのだ。
自己満足のために大雅の存在を利用しようとしていると非難されるかもしれない。それでも相馬は、互いにメリットがあるのなら、それでいいじゃないかと考えている。
弟である雄也には、大雅がつぐみ道場に通うようになってから、こういう少年がいるんだと、ぽつぽつと説明をしていた。大雅がプロの格闘家になりたいという意向をみせたときには、相馬は相当喜んでいたらしい。
「兄ちゃん、普段はあんまりお酒を飲んだりはしないんだけどね、その日ばかりは向かいのコンビニでたくさん買い込んで、僕まで付き合わされちゃったよ」
笑って言う雄也に、相馬は顔を赤くして肩を小突いていた。
「これは私が踏み込む話ではないのかもしれないが、大雅、お前がしょうりつ学園を出たあとは、御両親の元には帰らないつもりだろう」
大雅は曖昧に頷いた。学園にいるあいだは、法の下に守られているから、アイツらもオレに手出しをしてこないのかもしれない。でも、十八歳になって、学園を出たら、オレは野放しになる。そのときにアイツらが、たとえば「俺たちに恥をかかせた報復だ」といって、オレに近づいてくるかもしれない。オレにその気がなかったとしても、あっちから関わりをもってくる可能性だってあるのだ。
「帰る家がないのなら、お前はどこか住む場所を探さなくてはならない。ただ、アパートを借りるとすると、家賃が発生するだろうし、御両親には頼れないお前に部屋を貸してくれるような不動産屋があるかどうかもわからない。人が人らしく生きるためには、衣食住の三つをしっかり整えておかねばならないが、まずは住む場所に困ってしまうかもしれないぞ」
相馬は決して大雅を脅しているわけではない。今後、大雅が学園を退所したあとに起こりうるかもしれない現実を、懇々と説いているのだ。
「私のもとに来れば、少なくとも衣食住は保証する。道場の手伝いをしてくれるというなら、少ないが給料を渡すこともできる。勿論、外に出て働いてもいいが、住み込みでつぐみ道場に勤めることになったと考えれば、私の提案もイメージしやすいのではないだろうか」
「オレ、こんな良い思いをしても、いいんでしょうか……」
ぽつりと言葉を零す。「オレみたいな出来損ないは、一生、社会の底辺で這いずり回っていなくちゃいけないって思ってて。……正直、学園を出たあとのことを考えると、不安で不安で、考えるのを避けていました。いつかは絶対そのときが来るし、学校を退学になったから、オレはいつ学園を追い出されるか分からないのに、でもどうしたらいいかわからなくて……」
相馬は、自分に同情をしてくれているのだと分かっている。藤堂大雅という一人の人間の生い立ちを憐れみ、手を差し伸べてくれているのだと。
誰かから寵愛を受けることに慣れていない大雅は、いざそのような場面に出くわすと、途端に自分を卑下してしまう癖がある。それはかつて両親に浴びせられた罵詈雑言のなかに、大雅の人としての尊厳を否定するような言葉が含まれていて、彼の中に『オレは生きている価値のない人間だ』という親からの教えが根付いているからだ。
それに、何度も裏切られてきた。長い間、誰も助けてくれなかった。
ある時、小学生だった大雅は、学校の帰り道に、どうしても空腹が我慢出来なくて、通学路の途中にあるスーパーで、おにぎりを万引きしたことがある。すぐに店員に見つかって、店の事務所に引っ張られていった。
連絡を受けて駆けつけた小学校の教師にも、自分を捕まえた店員にも、なぜこんなことをしたのかと詰問されたが、大雅は口を固く閉ざし、本当のことは言えなかった。
親からろくに食事も与えられず、学校の給食でしか空腹を凌ぐ方法はなかった。腹が減ってどうしようもなくて、店の前を通りがかった瞬間、ものを盗むことを思いついた、と。
あるいはあのとき、おにぎりをポケットに入れずに、売り場で封を開けて口に詰め込んでいたなら、少しだけでも腹を満たすことが出来ただろうか。
事務所の机の上に置かれた一個のおにぎりを睨み付けながら、大雅はそう思っていた。
学校から連絡を受けた大雅の両親は、すぐにスーパーにやってきた。今まで彼が見たこともないような低姿勢で店員や教師に頭を下げる彼らをみて、大雅はこのあと、自分にふりかかるであろう暴力を想像すると、いますぐにそこから逃げ出したくなった。もしも自分の事情を、感情のままにぶちまけていたら、事態は大雅の良いように変わっていたのだろうか。行動を起こさなかった大雅に、その結果は知る由もなかった。
大雅は裏口から、両親や教師とともにスーパーを後にした。大雅のことをよく知らない教師は、彼が出来心で万引きをしたのだと思い込み、「もう二度とこんなことはするなよ」と、笑いながら背中を叩いてきた。励ましのつもりだったのだろう。
両親がもう一度教師に「ほんとうにご迷惑をおかけしました」と頭を下げ、その場は解散となった。
家に帰った大雅が、半殺しの目に遭ったことは言うまでもない。
「俺に恥をかかせやがって! この盗人野郎!!」と、男は玄関に入った途端、大雅を前方に突き飛ばし、その勢いのままに激しく脇腹に蹴りを入れ、さらには全身を滅多打ちに殴打した。泣き喚けばさらに暴力はエスカレートすると分かっていた大雅は、必死で痛みをこらえながら暴力がやむのを待った。
スーパーの事務所では、男の隣で項垂れていたしおりは、大雅のことを無視してさっさと居間に引き上げていった。
骨が折れるかと思うほどに腕をねじり上げられ、慌てて立ち上がった大雅は、息をつく間もなく再び地面に叩きつけられた。ほとんど地面と平行に落下したまま仰向けに倒れ、後頭部を強打して、ぐわりと意識が大きく揺れた。
「そんなに飯が食いたいなら、食わせてやるよ」
血走った目で大雅を睨みつけたあと、男は台所から炊飯器の釜を抱えて持ってきた。困惑する大雅の口に、中で保温していた米をむちゃくちゃに押し込む。
突然気道を塞がれた大雅は、涙目のままに手足をばたつかせた。しかし、男に腹を踏みつけられて、余計に息ができなくなり、むせ込み、もがき苦しんだ。
「ほら、お前の餌だ。折角与えてやったんだから、さっさと食えよ」
男は釜を逆さまにして、中に入っていた米の塊を、大雅の顔面に落下させた。顔の皮膚に余熱が伝わり、あまりの熱さに悶絶する。米にまみれた大雅に、男は「一粒でも無駄にしてみろ。二度と餌なんかやらねえからな」と吐き捨てて立ち去っていった。
ひとり廊下に取り残された大雅は、暴行を受けて痛む体を必死で動かし、与えられた米をもそもそと口にしていた。自分が窃盗という罪を起こしたという罪悪感や、床にぶちまけられた米を拾って食べる屈辱感よりも、空腹のほうが勝っていたのだ。何日も食べられないよりはましだ。殴られて、蹴り上げられて、それだけで済んだうえに食べ物を与えられるなら、これは普段よりましな仕打ちではないだろうかと、大雅はそのとき思っていた。
もしもあのとき、周りの誰かを少しでも信じて助けを求めていたら、なにかが変わっていただろうか。しかしそうなれば、いまの自分はなかっただろう。保護はされたかもしれないが、いまとは違う境遇の中を生きている。だとすれば、相馬と出会うことも、なかったかもしれない。
何の代償もなく、自分が『良い思い』をすることに、大雅は慣れていなかった。飯を与えられれば、またべつの時に殴られる。学校でどれだけクラスの中心人物を装っていても、家に帰れば親の支配のもとで惨めな思いをする。両親から離れて暮らすようになっても、いつ自分はもとの生活に戻されるか分からない恐怖に怯えながら暮らしていくこととなる。
箸を置き、項垂れる大雅は、握りこぶしを膝の上で震わせていた。
師匠と一緒に暮らすなんてことが実現してしまったら、オレはどんなにか幸せになれるだろう。兄なんてものはいないし、そもそも相馬は血の繋がった家族ではないのだから、こんな気持ちを抱くのは烏滸がましいが、ときに、「師匠のような兄ちゃんがいたら、ガキの頃のオレも、少しはましな環境で暮らせていたのだろうか」と思うことが度々ある。妄想の中で、あの男はいつも相馬にぼこぼこにされている。大雅と男のあいだに相馬は立ちはだかり、「もう大丈夫だぞ」と笑いかけてくれる……。
そんなお伽噺など、存在するわけがない。でも、相馬が差し伸べてくれている手を、素直に掴めたらどんなに楽だろうか。
「大雅。お前はもっと幸せになるべきだ。きっとお前は、私などでははかりしることの出来ない苦しみを、まだ私よりも短い人生の中で味わってきたのだろう。だったら、お前は、これから、もっともっと、幸せにならなくてはいけないんだ。私がこう言っても、お前には机上の空論に過ぎないと一笑されるかもしれないが、お前が幸せになれる手助けを、私にさせてくれないか」
相馬の言葉には熱がこもっていた。その熱に、大雅の心の中にあるなにかが溶かされていくような感覚は、確かにあった。
沈黙が流れる。顔を上げれば、相馬とまともに目が合うだろう。そのとき自分が平静でいられる自信は、全くなかった。
鼻をすする。泣きそうになると、どうして総鼻道まで緩んでしまうのだろう。これでは内に潜めようとした感情が丸わかりじゃないか。
ぐっと喉が膨らみ、声が出そうになったので、大雅は咳をして誤魔化した。箸をとり、白飯をかきこむ。
咀嚼しているあいだに、自分が言うべき言葉を考えた。
期待してもいいのだろうか。だけど、今回ばかりは、うまくいかなかったときの落胆は、今までの比ではないだろう。ならば最初から、他人に期待しなければいい。
大雅の瞳に陰が落ちる。その目には、希望などという誰かに飾られたような慈しみが映ることはない。
また喉が鳴った。口の中のものを飲み込んだからではない。そして言葉は、喉元にすら上がってきていない。
諦めきれなかったのだ。
大雅は縋ってしまった。相馬が差し伸べた手に、感情の指先が触れようとしていた。何もない虚空を掴むように、その指先は迷っている。いち早く現状を打破したいのに、そうすることが怖かった。今ある限りの、一縷の忘種を摘んで手に持っていればそれでいいと、無理に自分に言い聞かせていた。大雅にとってそれは、過去に味わった恐怖に怯えることなく、のびのびと自分の好きなことを出来る、つぐみ道場でのひとときだった。
失いたくない。だけど、叶うならば、相馬の手をとりたい。怖い。このままでいい。よくない。——オレは師匠の言うとおり、ほんとうに幸せになってもいいのだろうか。だけど……。
「……考えさせてください」
それは、結論を先延ばしにする常套句だと、大雅とて知っていた。逃げたのだ。たった一言、お願いしますといえばいいだけなのに。
「そうだよな。急に変なことを言ってすまなかったな」
大雅は顔を上げた。ハッと息を呑む。自分の中で、なにかとても大切なものを見失ったような感覚が全身を駆け抜けていった。
雄也が「ほら、大雅くんも困っているじゃないか。兄ちゃん、結論を急ぎすぎだって言っただろ。こればかりは即答できるものじゃないって」と呆れたように言って席を立つ。
「師匠」
相馬を呼ぶ。その広い背中にとびついて、子どものように甘えてみたい衝動にかられる。そんなことは出来るはずはないと、冷静な自分も隣に立っている。
「次に道場に来たときまでに、考えておきます」
大雅はそう言って、残っている自分の分の食事をかきこんだ。結論は保留にしたけれど、近いうちに答えを出そう。そして、相馬との縁を自分から切ってしまわないよう、このことが理由で道場から足を遠のかせないようにしようと、それだけは心に誓ったのだった。
ただ、気分は最悪だった。夜中に飛び起きて、再び眠りについたこともあるが、覚醒すると昨日の出来事がすぐに脳裏をよぎったからだ。
自分がボコボコにやられたことは、もうどうでもいい。悔しかったのは、目の前でグローブを破壊されてしまったこと。それを相馬に見られてしまったことだった。
大雅はしっかりと布団を畳んで押し入れにしまった。シーツは寝汗で汚してしまったから、あとで洗濯に出そうと考え、あらかじめ剥いでおいた。
しょうりつ学園では、児童が週に一度自分が使っているシーツの交換を行う決まりになっている。親からは一度も教わらなかった作業を、大雅は学園の支援員たちに習った。
大雅が外したシーツは、これから洗濯に出して洗うだけだというのに、角をきちんと合わせてピシッと畳まれていた。
部屋を出て、リビングに行くと、すでに雄也がキッチンに立っていた。
「大雅くん、おはよう。随分と早いけど、ちゃんと眠れた?」
「おはようございます。ありがとうございました。あの、これ。寝ているときに汗をかいてしまったので」
「シーツ、外してくれたんだ」
雄也はそう言って、大雅からシーツを受け取った。「ありがとうね」
「兄ちゃんなら、たぶん道場にいると思うよ」
表情をみただけで、大雅が相馬を探していることを察したようだ。大雅はぺこりと頭を下げ、「じゃあ、お礼を言ってきます」とリビングを後にした。
昨夜通ったばかりで記憶に新しい通路を辿って、大雅は道場に向かった。人の気配がする。扉を開けると、相馬の姿が一番に目に入った。
「す、すげえ……」
大雅は思わず呟いていた。目に入ったのは、相馬の研ぎ澄まされた肉体。贅肉のかけらもない背中は、鉱石のような凹凸の陰影が彼の精悍さを際立たせていた。
相馬は建物の梁にぶら下がって懸垂をしていた。指先のみで自重を支えている。痛くないのだろうかと、大雅は思った。
「師匠! おはようございます! あの、泊めていただいてありがとうございました」
大雅は声を張った。相馬はそのとき初めて大雅が道場にやって来たことに気付いたようで、梁から手を離し、ぴょんと地面に降り立った。
「早いな。よく眠れたのか? まだ休んでいてもいいんだぞ」
さすが兄弟だなと、大雅は思った。相馬も雄也も、大雅がちゃんと眠れたのかどうかを気にかけてくれた。昨日あんなことがあったから、身を案じてくれているのかもしれないが、武道家として、あるいは人の健康に気を遣う職を目指している者として、休息としての睡眠の大切さを理解しているからだろう。
「いつもこの時間には起きているので、大丈夫です。師匠はこんな朝早くからトレーニングをしているんですか」
「ああ。昼間や夜間は道場の生徒たちの指導を行っているからな。自主トレができる時間は今しかないんだ」
苦笑混じりに相馬は言った。
「あ、あの、オレ、見ていてもいいですか?」
もしかすると早く学園に帰ったほうがいいのかもしれない。だとしても、まだ朝陽が昇ったばかりであるこの時間に帰るのは、なんとなく憚られた。
「お前も物好きだな」
相馬の苦笑が、さらに深くなった。
自重トレを念入りに行った相馬はその後、シャドーとサンドバッグ打ちをこなし、いずれも大雅を圧倒させた。ファイトショーツから伸びる強靱な足から放たれる蹴りは、ほんとうにサンドバッグが落ちてしまうのではないかとヒヤヒヤするほどに強烈な音を立てていた。あんなもん、まともに喰らったらぶっ倒れるだけじゃすまねえぞと、大雅はごくりと唾を飲み込んだ。
激しい動きを繰り返す相馬の肉体から、汗が迸っている。朝陽に照らされて、まるでダイヤモンドダストのような飛沫が舞う。
大雅はそのとき、相馬の所作が、彼の肉体が見せつけてくるすべてが、まるでひとつの芸術作品のようだと感じていた。まさか、ひとりの男のトレーニングを目の当たりにして、呆けるように見入ってしまうなどということがあるとは。
息をすることも忘れていた。気付いたときに、慌てて周りの酸素を一気に吸い込む。相馬の放った打撃が、自分の体に撃ち込まれたような感覚が駆け巡り、肌が粟立っていることに気付いたとき、大雅は衝動的に立ち上がって、自分も体を動かそうと思った。
「師匠、オレもやります!」
大雅の言葉に反応して、相馬は彼を一瞥した。
「そうか、では、共に行おう」
相馬の声は、静寂な道場内に凜と響いた。普通に話しているだけなのに、どうしてこうも芯の通った勇ましい声が出せるのだろうかと、大雅は思う。
相馬のことを、心から尊敬しているが故の感覚なのだろうか。相馬に対して何の感情も抱いていない者が聞いたら、それは普通の喋り声なのだろうか。
寝起き間もなく体を動かすのは、気持ちが良かった。いまから新しい一日が始まるのだという高揚感も湧いてくる。昨日までのことなどすべて忘れて、一心不乱に拳を動かす。体の芯が温まり、思考が冴えていく感覚は、まるで自分が生まれ変わっていく過程を辿っているようにも感じられた。
軽めの運動だと、相馬は嘯いていたが、それからおおよそ一時間近く体を動かした。終わった頃には、大雅は息が上がっていて、相馬に笑われた。
シャワーを浴び、汗を流したあと、「朝飯にしようか」と相馬に言われて、また大雅は面食らった。
「そんな、いただけません」と気持ちまで後ずさりしたが、相馬は朝飯をしっかりと食べることが重要だと、いかに一日の中で朝食が大事なのかを説いてみせた。
申し訳ないという気持ちは拭えなかったが、大雅も再び相馬家の食卓についた。昨夜と違って、今度は三人で一緒に食事を摂ることとなった。
大雅たちが汗を流しているあいだに、雄也が朝食の準備をしてくれていたようだ。すでに大雅の分もあるということは、あらかじめ兄弟ふたりで示し合わせていたのだろう。
「今日は大雅くんがいるから、ちょっと張り切っちゃった」という雄也が食卓に並べたのは、和食だった。また山盛りの白飯に、大根と油揚げの味噌汁、納豆、鮭の切り身を焼いて、付け合わせには卵焼きときんぴらごぼうが器にのっている。おまけにほうれん草のおひたしとバナナまで置いてあったから、その量の多さに驚いた。
「兄ちゃんを相手に食事を準備していると、感覚がバグっちゃうからね」
大雅の様子を見て、雄也は苦笑した。
食事が中盤に差し掛かった頃だった。
「大雅、食べながらでいいから、聞いてくれ」
茶を啜っていた相馬が、おもむろに話を切り出してきた。
「大雅は再来年の三月には、しょうりつ学園を出なければならないそうだな」
「はい」
朝の鍛錬で払拭したはずの重い気持ちが、心の中に再び湧いてくるのを感じた。過去の自分に降りかかったことや、未来の不確定なことを考えると、途端に感情にざわめきが起こってしまう。咀嚼していた米を喉に押し込んで、大雅は相馬の次の言葉を待った。
「雄也とは以前から話していたのだが、お前に行くあてがないのなら、この家に住まないか?」
大雅は目を丸くして、固まってしまった。
「兄ちゃん、大雅くんがびっくりしてるじゃないか。あまりにも単刀直入すぎるよ」
雄也が呆れたように言う。大雅は取り落としそうになった茶碗を、慌ててテーブルの上に置いた。
「……すまない。回りくどいのは性に合わなくてな。しかし大雅、これはお前にとっては悪くない提案だとは思うのだが。お前が私を師匠だと呼んで慕ってくれていると、私は思っているが、私と一緒に暮らすのは、嫌かな」
大雅はぶんぶんと首を横に振った。
「す、すみません、ちょっとびびってしまって。……あ、いや、師匠と一緒に暮らすことにじゃないです! その、なんというか、オレ、師匠に迷惑ばかりかけてきたから、まさかそんなことを言われるとは思ってもいなかったから……」
「そらみたことか! 兄ちゃん、こういうことはちゃんと説明をしてから、本題に入らないといけないんだからさあ。大雅くん、ごめんね、僕が兄ちゃんの代わりに説明するね」
曰く、大雅がつぐみ道場の門下生として相馬のもとへ通うようになり、彼の過去や、いま養護施設で暮らしている事情を知ったときから、密かに考えていたことのようだった。自身も少年時代に親を亡くして、弟と二人で暮らしていかざるを得ない苦境を乗り越えたこともあって、かねてより家庭環境にハンディキャップのある子供たちの支援をしていきたいと、漠然と思っていたらしい。
だが、格闘技一筋で生きてきた相馬は、そのすべを知らなかった。たとえばどこに申し出て、どういう手続きを踏めばいいのかなどを調べる方法も分からなかった。故に、心の中でぼんやりと考えていた願望を実現することもなく、かといって生きていくうえでは必須ではないことから、後回しになってしまっていた。そんな折、大雅と出会ったのだ。
相馬は、これはチャンスだと考えた。近隣の養護施設とのパイプを作れば、心に秘めていた野望を成し遂げるための絶好の機会に恵まれるのではないかと思ったのだ。
自己満足のために大雅の存在を利用しようとしていると非難されるかもしれない。それでも相馬は、互いにメリットがあるのなら、それでいいじゃないかと考えている。
弟である雄也には、大雅がつぐみ道場に通うようになってから、こういう少年がいるんだと、ぽつぽつと説明をしていた。大雅がプロの格闘家になりたいという意向をみせたときには、相馬は相当喜んでいたらしい。
「兄ちゃん、普段はあんまりお酒を飲んだりはしないんだけどね、その日ばかりは向かいのコンビニでたくさん買い込んで、僕まで付き合わされちゃったよ」
笑って言う雄也に、相馬は顔を赤くして肩を小突いていた。
「これは私が踏み込む話ではないのかもしれないが、大雅、お前がしょうりつ学園を出たあとは、御両親の元には帰らないつもりだろう」
大雅は曖昧に頷いた。学園にいるあいだは、法の下に守られているから、アイツらもオレに手出しをしてこないのかもしれない。でも、十八歳になって、学園を出たら、オレは野放しになる。そのときにアイツらが、たとえば「俺たちに恥をかかせた報復だ」といって、オレに近づいてくるかもしれない。オレにその気がなかったとしても、あっちから関わりをもってくる可能性だってあるのだ。
「帰る家がないのなら、お前はどこか住む場所を探さなくてはならない。ただ、アパートを借りるとすると、家賃が発生するだろうし、御両親には頼れないお前に部屋を貸してくれるような不動産屋があるかどうかもわからない。人が人らしく生きるためには、衣食住の三つをしっかり整えておかねばならないが、まずは住む場所に困ってしまうかもしれないぞ」
相馬は決して大雅を脅しているわけではない。今後、大雅が学園を退所したあとに起こりうるかもしれない現実を、懇々と説いているのだ。
「私のもとに来れば、少なくとも衣食住は保証する。道場の手伝いをしてくれるというなら、少ないが給料を渡すこともできる。勿論、外に出て働いてもいいが、住み込みでつぐみ道場に勤めることになったと考えれば、私の提案もイメージしやすいのではないだろうか」
「オレ、こんな良い思いをしても、いいんでしょうか……」
ぽつりと言葉を零す。「オレみたいな出来損ないは、一生、社会の底辺で這いずり回っていなくちゃいけないって思ってて。……正直、学園を出たあとのことを考えると、不安で不安で、考えるのを避けていました。いつかは絶対そのときが来るし、学校を退学になったから、オレはいつ学園を追い出されるか分からないのに、でもどうしたらいいかわからなくて……」
相馬は、自分に同情をしてくれているのだと分かっている。藤堂大雅という一人の人間の生い立ちを憐れみ、手を差し伸べてくれているのだと。
誰かから寵愛を受けることに慣れていない大雅は、いざそのような場面に出くわすと、途端に自分を卑下してしまう癖がある。それはかつて両親に浴びせられた罵詈雑言のなかに、大雅の人としての尊厳を否定するような言葉が含まれていて、彼の中に『オレは生きている価値のない人間だ』という親からの教えが根付いているからだ。
それに、何度も裏切られてきた。長い間、誰も助けてくれなかった。
ある時、小学生だった大雅は、学校の帰り道に、どうしても空腹が我慢出来なくて、通学路の途中にあるスーパーで、おにぎりを万引きしたことがある。すぐに店員に見つかって、店の事務所に引っ張られていった。
連絡を受けて駆けつけた小学校の教師にも、自分を捕まえた店員にも、なぜこんなことをしたのかと詰問されたが、大雅は口を固く閉ざし、本当のことは言えなかった。
親からろくに食事も与えられず、学校の給食でしか空腹を凌ぐ方法はなかった。腹が減ってどうしようもなくて、店の前を通りがかった瞬間、ものを盗むことを思いついた、と。
あるいはあのとき、おにぎりをポケットに入れずに、売り場で封を開けて口に詰め込んでいたなら、少しだけでも腹を満たすことが出来ただろうか。
事務所の机の上に置かれた一個のおにぎりを睨み付けながら、大雅はそう思っていた。
学校から連絡を受けた大雅の両親は、すぐにスーパーにやってきた。今まで彼が見たこともないような低姿勢で店員や教師に頭を下げる彼らをみて、大雅はこのあと、自分にふりかかるであろう暴力を想像すると、いますぐにそこから逃げ出したくなった。もしも自分の事情を、感情のままにぶちまけていたら、事態は大雅の良いように変わっていたのだろうか。行動を起こさなかった大雅に、その結果は知る由もなかった。
大雅は裏口から、両親や教師とともにスーパーを後にした。大雅のことをよく知らない教師は、彼が出来心で万引きをしたのだと思い込み、「もう二度とこんなことはするなよ」と、笑いながら背中を叩いてきた。励ましのつもりだったのだろう。
両親がもう一度教師に「ほんとうにご迷惑をおかけしました」と頭を下げ、その場は解散となった。
家に帰った大雅が、半殺しの目に遭ったことは言うまでもない。
「俺に恥をかかせやがって! この盗人野郎!!」と、男は玄関に入った途端、大雅を前方に突き飛ばし、その勢いのままに激しく脇腹に蹴りを入れ、さらには全身を滅多打ちに殴打した。泣き喚けばさらに暴力はエスカレートすると分かっていた大雅は、必死で痛みをこらえながら暴力がやむのを待った。
スーパーの事務所では、男の隣で項垂れていたしおりは、大雅のことを無視してさっさと居間に引き上げていった。
骨が折れるかと思うほどに腕をねじり上げられ、慌てて立ち上がった大雅は、息をつく間もなく再び地面に叩きつけられた。ほとんど地面と平行に落下したまま仰向けに倒れ、後頭部を強打して、ぐわりと意識が大きく揺れた。
「そんなに飯が食いたいなら、食わせてやるよ」
血走った目で大雅を睨みつけたあと、男は台所から炊飯器の釜を抱えて持ってきた。困惑する大雅の口に、中で保温していた米をむちゃくちゃに押し込む。
突然気道を塞がれた大雅は、涙目のままに手足をばたつかせた。しかし、男に腹を踏みつけられて、余計に息ができなくなり、むせ込み、もがき苦しんだ。
「ほら、お前の餌だ。折角与えてやったんだから、さっさと食えよ」
男は釜を逆さまにして、中に入っていた米の塊を、大雅の顔面に落下させた。顔の皮膚に余熱が伝わり、あまりの熱さに悶絶する。米にまみれた大雅に、男は「一粒でも無駄にしてみろ。二度と餌なんかやらねえからな」と吐き捨てて立ち去っていった。
ひとり廊下に取り残された大雅は、暴行を受けて痛む体を必死で動かし、与えられた米をもそもそと口にしていた。自分が窃盗という罪を起こしたという罪悪感や、床にぶちまけられた米を拾って食べる屈辱感よりも、空腹のほうが勝っていたのだ。何日も食べられないよりはましだ。殴られて、蹴り上げられて、それだけで済んだうえに食べ物を与えられるなら、これは普段よりましな仕打ちではないだろうかと、大雅はそのとき思っていた。
もしもあのとき、周りの誰かを少しでも信じて助けを求めていたら、なにかが変わっていただろうか。しかしそうなれば、いまの自分はなかっただろう。保護はされたかもしれないが、いまとは違う境遇の中を生きている。だとすれば、相馬と出会うことも、なかったかもしれない。
何の代償もなく、自分が『良い思い』をすることに、大雅は慣れていなかった。飯を与えられれば、またべつの時に殴られる。学校でどれだけクラスの中心人物を装っていても、家に帰れば親の支配のもとで惨めな思いをする。両親から離れて暮らすようになっても、いつ自分はもとの生活に戻されるか分からない恐怖に怯えながら暮らしていくこととなる。
箸を置き、項垂れる大雅は、握りこぶしを膝の上で震わせていた。
師匠と一緒に暮らすなんてことが実現してしまったら、オレはどんなにか幸せになれるだろう。兄なんてものはいないし、そもそも相馬は血の繋がった家族ではないのだから、こんな気持ちを抱くのは烏滸がましいが、ときに、「師匠のような兄ちゃんがいたら、ガキの頃のオレも、少しはましな環境で暮らせていたのだろうか」と思うことが度々ある。妄想の中で、あの男はいつも相馬にぼこぼこにされている。大雅と男のあいだに相馬は立ちはだかり、「もう大丈夫だぞ」と笑いかけてくれる……。
そんなお伽噺など、存在するわけがない。でも、相馬が差し伸べてくれている手を、素直に掴めたらどんなに楽だろうか。
「大雅。お前はもっと幸せになるべきだ。きっとお前は、私などでははかりしることの出来ない苦しみを、まだ私よりも短い人生の中で味わってきたのだろう。だったら、お前は、これから、もっともっと、幸せにならなくてはいけないんだ。私がこう言っても、お前には机上の空論に過ぎないと一笑されるかもしれないが、お前が幸せになれる手助けを、私にさせてくれないか」
相馬の言葉には熱がこもっていた。その熱に、大雅の心の中にあるなにかが溶かされていくような感覚は、確かにあった。
沈黙が流れる。顔を上げれば、相馬とまともに目が合うだろう。そのとき自分が平静でいられる自信は、全くなかった。
鼻をすする。泣きそうになると、どうして総鼻道まで緩んでしまうのだろう。これでは内に潜めようとした感情が丸わかりじゃないか。
ぐっと喉が膨らみ、声が出そうになったので、大雅は咳をして誤魔化した。箸をとり、白飯をかきこむ。
咀嚼しているあいだに、自分が言うべき言葉を考えた。
期待してもいいのだろうか。だけど、今回ばかりは、うまくいかなかったときの落胆は、今までの比ではないだろう。ならば最初から、他人に期待しなければいい。
大雅の瞳に陰が落ちる。その目には、希望などという誰かに飾られたような慈しみが映ることはない。
また喉が鳴った。口の中のものを飲み込んだからではない。そして言葉は、喉元にすら上がってきていない。
諦めきれなかったのだ。
大雅は縋ってしまった。相馬が差し伸べた手に、感情の指先が触れようとしていた。何もない虚空を掴むように、その指先は迷っている。いち早く現状を打破したいのに、そうすることが怖かった。今ある限りの、一縷の忘種を摘んで手に持っていればそれでいいと、無理に自分に言い聞かせていた。大雅にとってそれは、過去に味わった恐怖に怯えることなく、のびのびと自分の好きなことを出来る、つぐみ道場でのひとときだった。
失いたくない。だけど、叶うならば、相馬の手をとりたい。怖い。このままでいい。よくない。——オレは師匠の言うとおり、ほんとうに幸せになってもいいのだろうか。だけど……。
「……考えさせてください」
それは、結論を先延ばしにする常套句だと、大雅とて知っていた。逃げたのだ。たった一言、お願いしますといえばいいだけなのに。
「そうだよな。急に変なことを言ってすまなかったな」
大雅は顔を上げた。ハッと息を呑む。自分の中で、なにかとても大切なものを見失ったような感覚が全身を駆け抜けていった。
雄也が「ほら、大雅くんも困っているじゃないか。兄ちゃん、結論を急ぎすぎだって言っただろ。こればかりは即答できるものじゃないって」と呆れたように言って席を立つ。
「師匠」
相馬を呼ぶ。その広い背中にとびついて、子どものように甘えてみたい衝動にかられる。そんなことは出来るはずはないと、冷静な自分も隣に立っている。
「次に道場に来たときまでに、考えておきます」
大雅はそう言って、残っている自分の分の食事をかきこんだ。結論は保留にしたけれど、近いうちに答えを出そう。そして、相馬との縁を自分から切ってしまわないよう、このことが理由で道場から足を遠のかせないようにしようと、それだけは心に誓ったのだった。



