節々が痛む体を引き摺るようにして歩き、気がつけば足はつぐみ道場に向かっていた。
惨めな気分だった。克弥たちにばらまかれた荷物の中身をかき集め、もう一度バッグに入れているあいだも、ショルダー紐を肩にかけ、ずるずると歩き出したときも、服や体にこびりついた血と吐瀉物の匂いが鼻をついて離れなかった。
もう何年も住んだ街だ。道場までの道のりは暗記していたが、足取りは重く、辿り着くまでにはかなりの時間を要した。
道場の営業が終わったのだから当たり前なのだが、明かりは消え、中が無人であることを示している。建物に近づいても、人の気配は感じられなかった。
(そりゃあ、そうだよな……)
一般家庭なら、もう寝静まる準備をしているような頃合いだ。大雅も学園に帰れていたら、今頃は風呂に入って、陽太を起こさぬようにそっと寝床に入り込もうとしていたかもしれない。
心細くなってここにやってきたけれど、相馬のことを邪魔するわけにはいかない。そう思って、道場に背を向けて立ち去ろうとしたときだった。
パッと視界の端が明るくなって、振り向くと道場の明かりが点いた。驚きに目を見開く。磨りガラス越しに相馬の影がこちらに近づいてくるのが見えた。扉が開く。中から顔を覗かせた相馬が、大雅がそこにいるのをみとめた瞬間、少し驚いたように目を見張った。
「どうしたんだ?」
訝しげな表情で尋ねてくる。大雅は、顔を伏せた。顔も体も痣だらけになっている。それにすえた匂いを漂わせている彼を見て、相馬は「とりあえず入りなさい」と、中に促した。
明るい電灯の中に姿を晒されると、大雅の受けた仕打ちの酷さが、より鮮明なものとなった。
着ているシャツは土や吐瀉物などで汚れ、首元などは布地が伸びきっている。目の周りは青く腫れ、血痕が散っている。唇も切れており、そこから垂れた血が首元まで流れ落ちていた。
「師匠……オレ……」
相馬の目つきが険しくなったのを瞬時に察知して、大雅は縮こまって首をすくめた。怒られると思ったのだ。
「そんなに怯えなくていい。なにがあったんだ?」
大雅は、相馬が用意したパイプ椅子に腰を下ろした。師匠の手のひらが背中に触れ、おそらく怪我をしている箇所がじくりと痛んだが、それよりもずっと体に伝わったぬくもりのほうが心地よかった。
大雅は微かに体を震わせている。大人と子供の狭間の、見た目ばかりは精一杯背伸びした少年は、自身が唯一信頼している相手である相馬の姿をみて、心の底から安堵したのだ。それでも、伝えなければならないことがある。喉元にまで出かかって、引っかかっている言葉を、腹に力を入れて押し出そうと試みる。
「師匠……オレ……グローブが……」
感情が急いて、伝えたいことが言葉にならなかった。「ごめんなさいっ、ごめんなさい!」
ううっと嗚咽が漏れる。相馬の前ではどうも、理性よりも感情の波が押し寄せてきてしまうようだ。
相馬は状況を把握しようと、、大雅が床に置いていたバッグの中身を確認する。中には、克弥の手によって破壊されたグローブの残骸が入っていた。
「大雅、これを、誰かにやられたんだな?」
「ごめんなさい……。でもオレ、手は出しませんでした。意味のない暴力は己を滅ぼすって、師匠に習ったから。……もう遅いかもしれねえけど、オレ、ちゃんと真面目に生きていきたいんです。図々しい願いかもしれねえけど、頭を丸めたときに決めたんです。もうオレの無茶で、誰にも迷惑をかけないって。だけど早速師匠に迷惑をかけてしまいました。ごめんなさいっ!」
まだ体が痛むせいか、大雅はぎこちない動作で土下座をした。
「頭を上げなさい。安心しろ。お前はなにも悪くない」
相馬は、無惨な有様となったグローブを握りしめて、大雅に声をかける。相馬は聡い男であったから、大雅の身に何が起きて、それが誰の仕業なのか、大体予想がついていた。
「偉かったな。よく我慢した。凄いぞ、大雅」
大雅は土下座の体勢から、ズルズルと体を丸め、うずくまるような形となる。彼からはくぐもった嘆きが微かに漏れ出てきていて、相馬はその波が鎮まるのをじっと待っていた。
一度無人になった道場は、門下生たちが汗を流している時間帯とは違い、しんと静まりかえっていた。熱気のない空間は、床に敷いてあるマットも、備品も、部屋の隅に鎮座しているリングも、表情が違っていた。
「シャワーを浴びてきなさい。立てるか?」
真っ赤に泣き腫らした目のままに、大雅はこくりと頷いた。薄汚れた腕で顔を拭う仕草は、まるで幼い子供がするそれのように、相馬の目には映った。
「服も洗濯するから、ちゃんと洗濯機に入れておくんだぞ」
「……はい」
大雅は、相馬にならどこまでも従順だった。格闘家としても、人生の先輩としても、大雅が初めて心から敬っている相手だ。だからこそ、相馬に見放されるのは、大雅にとっては他のなによりも、避けねばならないことだった。
親からの寵愛をまともにうけられなかった大雅は、相馬という存在を介して、それを求めていることに、自身は気付いていない。無意識のうちに、相馬からの庇護をたぐり寄せようとしていることに。
泣いてしまった。
シャワーから流れるお湯を頭からかぶりながら、大雅はぎゅっと目を閉じていた。目を開ければ、目の前の鏡に自分の顔が写り込む。そうすると、まともに自分の泣き顔を見ることになる。
人前で涙をみせるのは、弱い自分を曝け出しているのと同義だと思っていた。男として、それはひどく惨めで情けないことだと。
自分の中に、そんな弱い一面があることが許せなかった。何にも負けたくなかった。そのくせ、なにをもって負けと定義するのかは曖昧だ。
シャワールームの排水口に流れていくお湯は、大雅の体に付着していた様々な汚れを流し落としたおかげで、濁っていた。
——オレ、情けねえな……。
克弥たちにいいようにたぶらかされた屈辱は、これ以上の面倒ごとを自ら引き起こさないと決めた意思を守り抜いた成果よりもずっと、大雅の心に重くのしかかっていた。
では、彼らに抗い、力の限りを尽くしてぶちのめせばよかったのか。いまの大雅にとっては造作もないことで、その場しのぎの爽快感がほしければ、その選択肢もあっただろう。だが、それが最善の策ではないことも、大雅は知っていた。
自分の感情を押し殺して納得できるならば、大雅が選んだ末のこの結果で良かったのだ。だが、道理を弁えた大人ならば容易いことも、少年である大雅には苦渋の決断といえる。克弥たちに受けた仕打ちを耐え忍んだ自分を褒めるには、屈辱があまりにも大きすぎた。
擦りむけた皮膚に、お湯が染みこんで痛む。ちりちりと、体の至るところでその痛みがおこる。傷が治るまでは、幾度もふとしたことで患部が痛むのとおなじだ。
洗身を終え、シャワーを止めた大雅は、そそくさとシャワールームを出た。着ていた衣類はすべて洗濯機に放り込んでしまったから、バスタオルを腰に巻いた。
いつかもこんなことがあったなと、大雅は過去を思い返す。そうだ、相馬に出会って、この道場に初めてやって来たときとおなじだ。あのときも相馬は、大雅のことを助けてくれた。
——師匠は、こんなオレと関わりをもつようになって、後悔しているだろうな……。
不意に現れた煩労の念は、大雅の足取りを重くさせた。
相馬は、自重トレーニングをしながら、大雅がシャワーを浴び終わるのを待ってくれていたようだ。
「さっぱりしたか?」
プランクの体勢のまま、顔だけを大雅に向けて、相馬は穏やかにそう言った。
「はい、ありがとうございます」
「学園には私から連絡をしておいた。今日はもう遅いから、私の家に泊まるといい」
「そんなっ、師匠に迷惑ばかりかけられません!」
相馬は手のひらを床につけ、そのまま勢いをつけて立ち上がった。
「私と一緒にいるのが嫌なのか?」
「い、いえっ、むしろありがたいです。でもっ……」
ひたひたと足音を鳴らしながら、相馬が近づいてくる。憐れみのこもったような眼差しを称え、彼はそっと、大雅の頭を撫でた。
「子供は、いちいち小難しいことばかり考えていないで、素直に大人の言うことを聞きなさい。私はそこまでお人好しな人間ではないから、迷惑だと思っていたとしたら、お前などとっくに破門しているさ」
顔を上げると、相馬と目が合った。優しく微笑む彼を見て、大雅はまた涙腺が緩みそうになった。
「よく頑張ったな、大雅」
相馬と出会った頃の大雅なら、今頃警察沙汰になるような事態を引き起こしていたかもしれない。自分がどんな目に遭っても、それ以上の騒ぎを起こさずに耐え忍んだのは、大雅の成長だと捉えることができる。
「ごめんなさい、師匠……グローブ……駄目にしてしまって」
大雅はまたそう言った。自分の体なら、いくら傷ついても仕方ないと割り切ることは出来ても、あのグローブを破壊されたことだけは、悔しくて仕方なかったのだ。それが相馬に貰った、特別に思い入れの強いものであるからこそ、悔恨の情は拭いきれなかった。
「かたちあるものはいつか壊れるものだ。それに、あのグローブはもうぼろぼろになっていたからな。いくらお前が大切に扱っていても、激しい運動に付き合わせていれば、交換しなければいけないときがくるものさ」
大雅は歯噛みした。師匠は簡単にそう言うけれど、オレにとっては、仮に使い物にならなくなったとしても、ずっと持っていたかったものなんだ。誰かに危害を加えられて使い物にならなくなるのではなく、その役目を果たし終えるのを、ちゃんと自分で見届けたかった。
言わなかった。大雅はぐっと気持ちを押しとどめた。自棄糞気味に気持ちを吐露したところで、もうどうしようもない。相馬を困らせるだけだ。
「新しいものが準備できるまで、道場のやつを使わせてください」
そう言った大雅の裸の胸に、またひとつふたつと、雫が滴り落ちていった。
相馬が普段生活しているのは、道場の隣に建っている母屋だ。道場の裏口を出ると、その母屋に続く通路があって、外に出ることなく母屋へ向かうことができる。洗い終わった洗濯物と荷物をもって、大雅は相馬のあとをついて歩いていった。
「腹が減っているだろう。さきに飯にしようか」
「あ、オレは……」
「遠慮はしなくていい」
相馬はぴしゃりと大雅の言葉をはねのけた。
「はい……すみません」
時刻は十一時を過ぎている。格闘家たるもの、肉体のことを考えれば、こんな夜遅くに食事を摂らせることは気が進まないが、大雅は育ち盛りなのだ。空腹のままに過ごさせるわけにはいかなかった。
「あるものですまないが、すぐに用意させるからな」
「……させる?」
「ああ、言ってなかったか? 私には弟がいると」
耳を澄ませると、たしかに炊事の音がする。大雅と相馬以外にも、この家の中に誰かがいるということだ。
「こちらに来なさい」
廊下を歩くと、明かりが漏れている。板の間の床に、ガラスの大きさの分だけ光を落としていた。
そこは相馬の家のリビングだった。中に入ると、キッチンやダイニングと床続きになっていて、そのキッチンに、相馬とよく似た青年が立っていて、大雅と目が合った。
ぺこりと会釈をした大雅をみて、青年はフッと微笑んだ。
「大雅、あれが私の弟の雄也だ」
「初めまして、藤堂大雅です。あっ、こんな格好ですみません」
「君が大雅くんか。兄から君の話はよく聞くよ」
大雅が腰にタオルを巻いているだけの格好であることに雄也はとくに触れなかった。彼は相馬とは違って、細身の青年だった。背は相馬よりも高い。話す口調がおっとりとしていて、兄である相馬が全身から滾らせている武道家としてのオーラは微塵も感じられなかった。
「オ、オレの話です、か?」
「大雅、そこは聞かなくてもいい。雄也も余計なことは言うな」
そのとき、大雅は初めて相馬の焦燥をみたような気がした。
「はいはい、兄ちゃんは照れ屋さんだねえ」
雄也は、はい出来ましたよとキッチンから出てきて、ダイニングテーブルの上に料理を並べ始めた。
「雄也は大学で栄養士になる勉強をしていてな。管理栄養士になることを目指しているのだ」
食卓に並べられていく料理を目を見張って眺めている大雅に、相馬はその料理を作った雄也の近況を話して聞かせた。
料理は大雅が見ても分かるほどにバランスのとれたメニューだった。大盛りの白飯、挽肉の入ったもやしと小松菜のピリ辛炒め、蓮根と人参のきんぴら、白菜のえのきの中華スープ、それに剥かれたリンゴがデザートについている。雄也がグラスに注いだのは、牛乳だった。
「食べなさい。遠慮しなくていいからな」
「師匠と、雄也さんは……?」
「生憎、私たちはさっき済ませてしまってな。気にしないで、ゆっくり食べなさい」
大雅は「っす」と声になったかならないかのような返事をして食卓についた。
「いただきます」
合掌をして、箸をとり、野菜を口に運ぶ。咀嚼するたびに口の中に広がる旨みが、空腹を満たすばかりか、荒みきっていた心をも癒やしてくれるようだった。
もう少しゆっくり食べなさいと、思わず相馬が口出しをしてしまうほどに、大雅は食事にがっついていた。相馬も雄也も、途中で食事を取り上げたりはしないと分かってはいた。それでも、癖というものはなかなか抜けない。
この人は、オレのことを師匠からどれくらい聞いているんだろう。
大雅はキッチンで食器洗いをしている雄也の姿を横目で確認する。相馬に向かって、オレについてのなにを話しているんですかと直に聞いてみたくもあったが、実際に行動に移す勇気はなかった。
食事が終わると、大雅は食器を重ねてキッチンに運んだ。しょうりつ学園では、中学生以上の児童は、自分が使った食器を各自で洗うという習慣があるから、ごく自然に片付けようと運んだのだ。
「あ、大雅くんはお客様なんだから、僕が洗うよ。ありがとうね」
相馬は元々口数の少ない師匠ではあったが、雄也もそこは兄に似たようだ。兄弟二人きりのときは、どんな言葉を掛け合うのだろうかと、大雅は少し興味を持った。
キッチンを出て、ダイニングに戻るとき、リビングの端に置いてある小さな仏壇が目にとまった。若い男兄弟が暮らしている家にはどこか似つかわしくないような、そこだけ異質な空気を放っているような感覚におそわれた。
「私たちの両親のものだ」
大雅の視線に気付いた相馬が、静かにそう言った。
「私が中学のときに事故に巻き込まれてね。そのまま帰らぬ人となったんだ」
相馬は、それ以上は語らなかったし、大雅も聞かなかった。ただ、いまの自分の年齢よりも幼い時分に、両親がこの世からいなくなるのは、きっとオレでは想像もつかないような深い悲しみに襲われたんだろうなと思った。
あれが親と呼べるのかどうかはともかく、大雅にはまだ両親が健在している。だが、中学入学の日に、児童相談所に保護されたときから会っていない。まともに育ててもらった記憶もない。実情はともかく、自分にはもう親はいないと思っている。
いつもよりだいぶ遅い夕食が終わり、大雅は寝室に案内された。相馬に命じられた雄也が、家の前にあるコンビニに行って、大雅の分の下着を買ってきてくれた。相馬が昔着ていたというシャツとジャージを貸してくれたから、ようやく大雅は腰巻きタオルのみという装いから解放された。別にそのままでも良かったのだが、気を利かせて用意してくれたのだ。大雅は素直にお礼を言った。
「男ふたりで暮らしていると、部屋を余らせていてね。今日はここを使うといい」
そこは母屋の一階の一番奥にある部屋だった。玄関から廊下が建物の奥まで続いていて、リビングと水廻りのあいだを通り抜け、廊下を曲がった左手に和室の入口がある。その和室に、相馬が布団を敷いてくれた。
「ありがとうございます」
「ゆっくり休めよ」
相馬はそう言って、襖を閉めて去っていった。
ひとりになって、大雅は畳の上に座り、部屋の中をぐるりと見渡した。八畳の和室は、客間として使うこともあるのだろうか。床の間には教科書で見たことがある、兎と蛙などが描かれた昔の絵の掛け軸がかけられており、よくわからない壺が置かれている。壺の中には、なにも入っていなかった。
相馬と雄也が階段を昇っていく音が聞こえてきたから、ふたりはいつも二階で寝ているのだろう。
こんなことをしてもらってもいいのだろうか。自分が、こんなにいい想いをする資格なんてあるのだろうか。
幸せな気分になっていることに気づくと、それと同じくらいの後ろめたい気持ちを抱いてしまう。
「ゴミ」「生きている価値のないクソガキ」「穀潰し」「さっさと死ねよ」「俺が殺してやろうか」
両親と一緒に暮らしていたときに、日常的に浴びせられていた罵詈雑言は、いまでも脳裏に蘇ってくることがある。彼らが本心からそれを言っていたのか、ただ大雅を傷つけ、いたぶりたいがための思いつきの言葉だったのか、真意はわからない。それでも、誰かの優しさに触れたとき、罪悪感を抱かせるだけの呪詛の声として、大雅の心に深く刻み込まれていた。
誰にも言えない。言ったところで、体のいい言葉で慰められて、余計に惨めな気持ちになるのがみえている。誰にも理解されないから、それならば自分の中で消化していくしかないのだ。
布団に潜り込む。ここには大雅しかいない。
誰かの寝息も、寝ていたら突然襲ってくる怒号も聞こえてこない。静かすぎるから、逆に落ち着かなかった。落ち着かないから、寝返りを何度も打った。
布団は心地良かった。硬い床に身を横たえ、浅い眠りにつくことしかできなかった、あの頃の自分に与えてやりたいほどに心地良かった。
夢を見た。大雅は夢の中で、リングに立っていた。ファイトショーツを身につけ、マウスピースの位置をこっそりと確かめながら、拳を握りしめていた。
相手は目の前にいるのに、その顔が見えない。見上げるほどに高い上背。大雅の二倍ほどもありそうな太い腕。丸太のような足。
——こんなヤツと闘わなくちゃならねえのかよ……。
大雅は無意識に相馬の姿を探していた。だが、舞台のどこにも求めていた光景はなく、自分たちを見つめる数多の観客の顔が、豆粒のように見えるだけだった。
試合開始のゴングが鳴る。大雅は反射的に拳を構え、相手の出方を探った。
「ようやく捕まえたぜ。よくものこのこと逃げやがったなあ」
ふいに降り注いできたのは、あの男の声だった。息を呑み、声のした方を見上げる。目の前に立ちはだかる対戦相手の顔がはっきりと見えたとき、大雅は途端に動けなくなった。
全身が硬直している。男がニヤニヤと嘲笑を浮かべながら、拳を振りかぶる。無防備な大雅の腹にそれが沈み込み、くの字に折れ曲がった大雅の体は吹き飛び、コーナーポストに叩きつけられる。
息が詰まる。夢の中だというのに、感覚は鮮明だった。
「おら、さっさと立てよ」
首根っこを掴まれ、無理矢理立ち上がらされる。体が言うことを聞かない。腕を上げようにも、なにか重いもので引っ張られているかのように、体の横に垂れ下がったままだった。
大雅は滅多打ちにあった。
「クソガキィ、これはテメエと俺の殴り合いだから、手加減はしなくていいよなあ!」
拳の雨が降り注ぐ。アッパーが顎に直撃して、体が跳ね上がる。無防備に曝け出された腹に、男の膝が沈み込む。アッパーと膝蹴りの応酬。男の笑い声が耳に届く。
「ギャハハハッ! 弱えなあ! おら、まともに反撃も出来ねえのかよ。そんなんでよく、格闘家になりたいとほざけるよなあ!」
何度目かの膝蹴りを腹に喰らい、大雅はリング上で嘔吐した。意識が遠のいていく。それなのに、フックで横っ面を吹き飛ばされて、強制的に思考が引き戻される。腹に穴が空いたような感覚。それだけではなく、全身がびりびりと痺れて、鈍痛が神経を駆け巡り、脳を貫いた。
「ぐッ……うげええっ……」
男の攻撃が一息ついてやんだとき、もう力の入らない大雅の肉体は、吐瀉物を撒き散らしながらキャンバスに吸い込まれていった。
「んあっ!!!」
声をあげて飛び起きた。眠っていただけなのに、全身に滝のような汗をかいている。まるで今しがたリングに倒れ伏してからすぐに起き上がったかのような感覚に襲われ、大雅は思わず腹をおさえてごろりと横に倒れ込んだ。
——あれ、オレ……。
シャツ越しに触れた腹が痛くない。先ほどまで囚われていたはずの感覚は、夢だったのだと気付く。それでも、呼吸は荒く、体はひどく疲弊していた。
暗闇のなかで、いつもとは違う布団の感覚を確かめる。そうだ、オレは師匠の家に泊まらせてもらっているんだ……。
夢の中で、なにかと闘っていた気がする。目覚めた直後だというのに、それが何だったのかという記憶はぼんやりとしかなかった。なのに、体が震えている。汗をかいているからではない。これは、恐怖からくる震えだ。
何を怖がっていたのだろう。夢の中の自分は、誰かと闘うことに対して、恐怖を抱いていたのだろうか。記憶が薄れていく。たとえ何か恐ろしいことが夢の中で起こっていたとしても、それは所詮夢だ。いつまでも怖がることはない。
布団に倒れ込むように仰向けになる。まだ自分の呼吸が乱れていることに気付く。夢の内容を忘れてしまったことによって、感情が乱れている原因を突き止められないことがもどかしかった。
惨めな気分だった。克弥たちにばらまかれた荷物の中身をかき集め、もう一度バッグに入れているあいだも、ショルダー紐を肩にかけ、ずるずると歩き出したときも、服や体にこびりついた血と吐瀉物の匂いが鼻をついて離れなかった。
もう何年も住んだ街だ。道場までの道のりは暗記していたが、足取りは重く、辿り着くまでにはかなりの時間を要した。
道場の営業が終わったのだから当たり前なのだが、明かりは消え、中が無人であることを示している。建物に近づいても、人の気配は感じられなかった。
(そりゃあ、そうだよな……)
一般家庭なら、もう寝静まる準備をしているような頃合いだ。大雅も学園に帰れていたら、今頃は風呂に入って、陽太を起こさぬようにそっと寝床に入り込もうとしていたかもしれない。
心細くなってここにやってきたけれど、相馬のことを邪魔するわけにはいかない。そう思って、道場に背を向けて立ち去ろうとしたときだった。
パッと視界の端が明るくなって、振り向くと道場の明かりが点いた。驚きに目を見開く。磨りガラス越しに相馬の影がこちらに近づいてくるのが見えた。扉が開く。中から顔を覗かせた相馬が、大雅がそこにいるのをみとめた瞬間、少し驚いたように目を見張った。
「どうしたんだ?」
訝しげな表情で尋ねてくる。大雅は、顔を伏せた。顔も体も痣だらけになっている。それにすえた匂いを漂わせている彼を見て、相馬は「とりあえず入りなさい」と、中に促した。
明るい電灯の中に姿を晒されると、大雅の受けた仕打ちの酷さが、より鮮明なものとなった。
着ているシャツは土や吐瀉物などで汚れ、首元などは布地が伸びきっている。目の周りは青く腫れ、血痕が散っている。唇も切れており、そこから垂れた血が首元まで流れ落ちていた。
「師匠……オレ……」
相馬の目つきが険しくなったのを瞬時に察知して、大雅は縮こまって首をすくめた。怒られると思ったのだ。
「そんなに怯えなくていい。なにがあったんだ?」
大雅は、相馬が用意したパイプ椅子に腰を下ろした。師匠の手のひらが背中に触れ、おそらく怪我をしている箇所がじくりと痛んだが、それよりもずっと体に伝わったぬくもりのほうが心地よかった。
大雅は微かに体を震わせている。大人と子供の狭間の、見た目ばかりは精一杯背伸びした少年は、自身が唯一信頼している相手である相馬の姿をみて、心の底から安堵したのだ。それでも、伝えなければならないことがある。喉元にまで出かかって、引っかかっている言葉を、腹に力を入れて押し出そうと試みる。
「師匠……オレ……グローブが……」
感情が急いて、伝えたいことが言葉にならなかった。「ごめんなさいっ、ごめんなさい!」
ううっと嗚咽が漏れる。相馬の前ではどうも、理性よりも感情の波が押し寄せてきてしまうようだ。
相馬は状況を把握しようと、、大雅が床に置いていたバッグの中身を確認する。中には、克弥の手によって破壊されたグローブの残骸が入っていた。
「大雅、これを、誰かにやられたんだな?」
「ごめんなさい……。でもオレ、手は出しませんでした。意味のない暴力は己を滅ぼすって、師匠に習ったから。……もう遅いかもしれねえけど、オレ、ちゃんと真面目に生きていきたいんです。図々しい願いかもしれねえけど、頭を丸めたときに決めたんです。もうオレの無茶で、誰にも迷惑をかけないって。だけど早速師匠に迷惑をかけてしまいました。ごめんなさいっ!」
まだ体が痛むせいか、大雅はぎこちない動作で土下座をした。
「頭を上げなさい。安心しろ。お前はなにも悪くない」
相馬は、無惨な有様となったグローブを握りしめて、大雅に声をかける。相馬は聡い男であったから、大雅の身に何が起きて、それが誰の仕業なのか、大体予想がついていた。
「偉かったな。よく我慢した。凄いぞ、大雅」
大雅は土下座の体勢から、ズルズルと体を丸め、うずくまるような形となる。彼からはくぐもった嘆きが微かに漏れ出てきていて、相馬はその波が鎮まるのをじっと待っていた。
一度無人になった道場は、門下生たちが汗を流している時間帯とは違い、しんと静まりかえっていた。熱気のない空間は、床に敷いてあるマットも、備品も、部屋の隅に鎮座しているリングも、表情が違っていた。
「シャワーを浴びてきなさい。立てるか?」
真っ赤に泣き腫らした目のままに、大雅はこくりと頷いた。薄汚れた腕で顔を拭う仕草は、まるで幼い子供がするそれのように、相馬の目には映った。
「服も洗濯するから、ちゃんと洗濯機に入れておくんだぞ」
「……はい」
大雅は、相馬にならどこまでも従順だった。格闘家としても、人生の先輩としても、大雅が初めて心から敬っている相手だ。だからこそ、相馬に見放されるのは、大雅にとっては他のなによりも、避けねばならないことだった。
親からの寵愛をまともにうけられなかった大雅は、相馬という存在を介して、それを求めていることに、自身は気付いていない。無意識のうちに、相馬からの庇護をたぐり寄せようとしていることに。
泣いてしまった。
シャワーから流れるお湯を頭からかぶりながら、大雅はぎゅっと目を閉じていた。目を開ければ、目の前の鏡に自分の顔が写り込む。そうすると、まともに自分の泣き顔を見ることになる。
人前で涙をみせるのは、弱い自分を曝け出しているのと同義だと思っていた。男として、それはひどく惨めで情けないことだと。
自分の中に、そんな弱い一面があることが許せなかった。何にも負けたくなかった。そのくせ、なにをもって負けと定義するのかは曖昧だ。
シャワールームの排水口に流れていくお湯は、大雅の体に付着していた様々な汚れを流し落としたおかげで、濁っていた。
——オレ、情けねえな……。
克弥たちにいいようにたぶらかされた屈辱は、これ以上の面倒ごとを自ら引き起こさないと決めた意思を守り抜いた成果よりもずっと、大雅の心に重くのしかかっていた。
では、彼らに抗い、力の限りを尽くしてぶちのめせばよかったのか。いまの大雅にとっては造作もないことで、その場しのぎの爽快感がほしければ、その選択肢もあっただろう。だが、それが最善の策ではないことも、大雅は知っていた。
自分の感情を押し殺して納得できるならば、大雅が選んだ末のこの結果で良かったのだ。だが、道理を弁えた大人ならば容易いことも、少年である大雅には苦渋の決断といえる。克弥たちに受けた仕打ちを耐え忍んだ自分を褒めるには、屈辱があまりにも大きすぎた。
擦りむけた皮膚に、お湯が染みこんで痛む。ちりちりと、体の至るところでその痛みがおこる。傷が治るまでは、幾度もふとしたことで患部が痛むのとおなじだ。
洗身を終え、シャワーを止めた大雅は、そそくさとシャワールームを出た。着ていた衣類はすべて洗濯機に放り込んでしまったから、バスタオルを腰に巻いた。
いつかもこんなことがあったなと、大雅は過去を思い返す。そうだ、相馬に出会って、この道場に初めてやって来たときとおなじだ。あのときも相馬は、大雅のことを助けてくれた。
——師匠は、こんなオレと関わりをもつようになって、後悔しているだろうな……。
不意に現れた煩労の念は、大雅の足取りを重くさせた。
相馬は、自重トレーニングをしながら、大雅がシャワーを浴び終わるのを待ってくれていたようだ。
「さっぱりしたか?」
プランクの体勢のまま、顔だけを大雅に向けて、相馬は穏やかにそう言った。
「はい、ありがとうございます」
「学園には私から連絡をしておいた。今日はもう遅いから、私の家に泊まるといい」
「そんなっ、師匠に迷惑ばかりかけられません!」
相馬は手のひらを床につけ、そのまま勢いをつけて立ち上がった。
「私と一緒にいるのが嫌なのか?」
「い、いえっ、むしろありがたいです。でもっ……」
ひたひたと足音を鳴らしながら、相馬が近づいてくる。憐れみのこもったような眼差しを称え、彼はそっと、大雅の頭を撫でた。
「子供は、いちいち小難しいことばかり考えていないで、素直に大人の言うことを聞きなさい。私はそこまでお人好しな人間ではないから、迷惑だと思っていたとしたら、お前などとっくに破門しているさ」
顔を上げると、相馬と目が合った。優しく微笑む彼を見て、大雅はまた涙腺が緩みそうになった。
「よく頑張ったな、大雅」
相馬と出会った頃の大雅なら、今頃警察沙汰になるような事態を引き起こしていたかもしれない。自分がどんな目に遭っても、それ以上の騒ぎを起こさずに耐え忍んだのは、大雅の成長だと捉えることができる。
「ごめんなさい、師匠……グローブ……駄目にしてしまって」
大雅はまたそう言った。自分の体なら、いくら傷ついても仕方ないと割り切ることは出来ても、あのグローブを破壊されたことだけは、悔しくて仕方なかったのだ。それが相馬に貰った、特別に思い入れの強いものであるからこそ、悔恨の情は拭いきれなかった。
「かたちあるものはいつか壊れるものだ。それに、あのグローブはもうぼろぼろになっていたからな。いくらお前が大切に扱っていても、激しい運動に付き合わせていれば、交換しなければいけないときがくるものさ」
大雅は歯噛みした。師匠は簡単にそう言うけれど、オレにとっては、仮に使い物にならなくなったとしても、ずっと持っていたかったものなんだ。誰かに危害を加えられて使い物にならなくなるのではなく、その役目を果たし終えるのを、ちゃんと自分で見届けたかった。
言わなかった。大雅はぐっと気持ちを押しとどめた。自棄糞気味に気持ちを吐露したところで、もうどうしようもない。相馬を困らせるだけだ。
「新しいものが準備できるまで、道場のやつを使わせてください」
そう言った大雅の裸の胸に、またひとつふたつと、雫が滴り落ちていった。
相馬が普段生活しているのは、道場の隣に建っている母屋だ。道場の裏口を出ると、その母屋に続く通路があって、外に出ることなく母屋へ向かうことができる。洗い終わった洗濯物と荷物をもって、大雅は相馬のあとをついて歩いていった。
「腹が減っているだろう。さきに飯にしようか」
「あ、オレは……」
「遠慮はしなくていい」
相馬はぴしゃりと大雅の言葉をはねのけた。
「はい……すみません」
時刻は十一時を過ぎている。格闘家たるもの、肉体のことを考えれば、こんな夜遅くに食事を摂らせることは気が進まないが、大雅は育ち盛りなのだ。空腹のままに過ごさせるわけにはいかなかった。
「あるものですまないが、すぐに用意させるからな」
「……させる?」
「ああ、言ってなかったか? 私には弟がいると」
耳を澄ませると、たしかに炊事の音がする。大雅と相馬以外にも、この家の中に誰かがいるということだ。
「こちらに来なさい」
廊下を歩くと、明かりが漏れている。板の間の床に、ガラスの大きさの分だけ光を落としていた。
そこは相馬の家のリビングだった。中に入ると、キッチンやダイニングと床続きになっていて、そのキッチンに、相馬とよく似た青年が立っていて、大雅と目が合った。
ぺこりと会釈をした大雅をみて、青年はフッと微笑んだ。
「大雅、あれが私の弟の雄也だ」
「初めまして、藤堂大雅です。あっ、こんな格好ですみません」
「君が大雅くんか。兄から君の話はよく聞くよ」
大雅が腰にタオルを巻いているだけの格好であることに雄也はとくに触れなかった。彼は相馬とは違って、細身の青年だった。背は相馬よりも高い。話す口調がおっとりとしていて、兄である相馬が全身から滾らせている武道家としてのオーラは微塵も感じられなかった。
「オ、オレの話です、か?」
「大雅、そこは聞かなくてもいい。雄也も余計なことは言うな」
そのとき、大雅は初めて相馬の焦燥をみたような気がした。
「はいはい、兄ちゃんは照れ屋さんだねえ」
雄也は、はい出来ましたよとキッチンから出てきて、ダイニングテーブルの上に料理を並べ始めた。
「雄也は大学で栄養士になる勉強をしていてな。管理栄養士になることを目指しているのだ」
食卓に並べられていく料理を目を見張って眺めている大雅に、相馬はその料理を作った雄也の近況を話して聞かせた。
料理は大雅が見ても分かるほどにバランスのとれたメニューだった。大盛りの白飯、挽肉の入ったもやしと小松菜のピリ辛炒め、蓮根と人参のきんぴら、白菜のえのきの中華スープ、それに剥かれたリンゴがデザートについている。雄也がグラスに注いだのは、牛乳だった。
「食べなさい。遠慮しなくていいからな」
「師匠と、雄也さんは……?」
「生憎、私たちはさっき済ませてしまってな。気にしないで、ゆっくり食べなさい」
大雅は「っす」と声になったかならないかのような返事をして食卓についた。
「いただきます」
合掌をして、箸をとり、野菜を口に運ぶ。咀嚼するたびに口の中に広がる旨みが、空腹を満たすばかりか、荒みきっていた心をも癒やしてくれるようだった。
もう少しゆっくり食べなさいと、思わず相馬が口出しをしてしまうほどに、大雅は食事にがっついていた。相馬も雄也も、途中で食事を取り上げたりはしないと分かってはいた。それでも、癖というものはなかなか抜けない。
この人は、オレのことを師匠からどれくらい聞いているんだろう。
大雅はキッチンで食器洗いをしている雄也の姿を横目で確認する。相馬に向かって、オレについてのなにを話しているんですかと直に聞いてみたくもあったが、実際に行動に移す勇気はなかった。
食事が終わると、大雅は食器を重ねてキッチンに運んだ。しょうりつ学園では、中学生以上の児童は、自分が使った食器を各自で洗うという習慣があるから、ごく自然に片付けようと運んだのだ。
「あ、大雅くんはお客様なんだから、僕が洗うよ。ありがとうね」
相馬は元々口数の少ない師匠ではあったが、雄也もそこは兄に似たようだ。兄弟二人きりのときは、どんな言葉を掛け合うのだろうかと、大雅は少し興味を持った。
キッチンを出て、ダイニングに戻るとき、リビングの端に置いてある小さな仏壇が目にとまった。若い男兄弟が暮らしている家にはどこか似つかわしくないような、そこだけ異質な空気を放っているような感覚におそわれた。
「私たちの両親のものだ」
大雅の視線に気付いた相馬が、静かにそう言った。
「私が中学のときに事故に巻き込まれてね。そのまま帰らぬ人となったんだ」
相馬は、それ以上は語らなかったし、大雅も聞かなかった。ただ、いまの自分の年齢よりも幼い時分に、両親がこの世からいなくなるのは、きっとオレでは想像もつかないような深い悲しみに襲われたんだろうなと思った。
あれが親と呼べるのかどうかはともかく、大雅にはまだ両親が健在している。だが、中学入学の日に、児童相談所に保護されたときから会っていない。まともに育ててもらった記憶もない。実情はともかく、自分にはもう親はいないと思っている。
いつもよりだいぶ遅い夕食が終わり、大雅は寝室に案内された。相馬に命じられた雄也が、家の前にあるコンビニに行って、大雅の分の下着を買ってきてくれた。相馬が昔着ていたというシャツとジャージを貸してくれたから、ようやく大雅は腰巻きタオルのみという装いから解放された。別にそのままでも良かったのだが、気を利かせて用意してくれたのだ。大雅は素直にお礼を言った。
「男ふたりで暮らしていると、部屋を余らせていてね。今日はここを使うといい」
そこは母屋の一階の一番奥にある部屋だった。玄関から廊下が建物の奥まで続いていて、リビングと水廻りのあいだを通り抜け、廊下を曲がった左手に和室の入口がある。その和室に、相馬が布団を敷いてくれた。
「ありがとうございます」
「ゆっくり休めよ」
相馬はそう言って、襖を閉めて去っていった。
ひとりになって、大雅は畳の上に座り、部屋の中をぐるりと見渡した。八畳の和室は、客間として使うこともあるのだろうか。床の間には教科書で見たことがある、兎と蛙などが描かれた昔の絵の掛け軸がかけられており、よくわからない壺が置かれている。壺の中には、なにも入っていなかった。
相馬と雄也が階段を昇っていく音が聞こえてきたから、ふたりはいつも二階で寝ているのだろう。
こんなことをしてもらってもいいのだろうか。自分が、こんなにいい想いをする資格なんてあるのだろうか。
幸せな気分になっていることに気づくと、それと同じくらいの後ろめたい気持ちを抱いてしまう。
「ゴミ」「生きている価値のないクソガキ」「穀潰し」「さっさと死ねよ」「俺が殺してやろうか」
両親と一緒に暮らしていたときに、日常的に浴びせられていた罵詈雑言は、いまでも脳裏に蘇ってくることがある。彼らが本心からそれを言っていたのか、ただ大雅を傷つけ、いたぶりたいがための思いつきの言葉だったのか、真意はわからない。それでも、誰かの優しさに触れたとき、罪悪感を抱かせるだけの呪詛の声として、大雅の心に深く刻み込まれていた。
誰にも言えない。言ったところで、体のいい言葉で慰められて、余計に惨めな気持ちになるのがみえている。誰にも理解されないから、それならば自分の中で消化していくしかないのだ。
布団に潜り込む。ここには大雅しかいない。
誰かの寝息も、寝ていたら突然襲ってくる怒号も聞こえてこない。静かすぎるから、逆に落ち着かなかった。落ち着かないから、寝返りを何度も打った。
布団は心地良かった。硬い床に身を横たえ、浅い眠りにつくことしかできなかった、あの頃の自分に与えてやりたいほどに心地良かった。
夢を見た。大雅は夢の中で、リングに立っていた。ファイトショーツを身につけ、マウスピースの位置をこっそりと確かめながら、拳を握りしめていた。
相手は目の前にいるのに、その顔が見えない。見上げるほどに高い上背。大雅の二倍ほどもありそうな太い腕。丸太のような足。
——こんなヤツと闘わなくちゃならねえのかよ……。
大雅は無意識に相馬の姿を探していた。だが、舞台のどこにも求めていた光景はなく、自分たちを見つめる数多の観客の顔が、豆粒のように見えるだけだった。
試合開始のゴングが鳴る。大雅は反射的に拳を構え、相手の出方を探った。
「ようやく捕まえたぜ。よくものこのこと逃げやがったなあ」
ふいに降り注いできたのは、あの男の声だった。息を呑み、声のした方を見上げる。目の前に立ちはだかる対戦相手の顔がはっきりと見えたとき、大雅は途端に動けなくなった。
全身が硬直している。男がニヤニヤと嘲笑を浮かべながら、拳を振りかぶる。無防備な大雅の腹にそれが沈み込み、くの字に折れ曲がった大雅の体は吹き飛び、コーナーポストに叩きつけられる。
息が詰まる。夢の中だというのに、感覚は鮮明だった。
「おら、さっさと立てよ」
首根っこを掴まれ、無理矢理立ち上がらされる。体が言うことを聞かない。腕を上げようにも、なにか重いもので引っ張られているかのように、体の横に垂れ下がったままだった。
大雅は滅多打ちにあった。
「クソガキィ、これはテメエと俺の殴り合いだから、手加減はしなくていいよなあ!」
拳の雨が降り注ぐ。アッパーが顎に直撃して、体が跳ね上がる。無防備に曝け出された腹に、男の膝が沈み込む。アッパーと膝蹴りの応酬。男の笑い声が耳に届く。
「ギャハハハッ! 弱えなあ! おら、まともに反撃も出来ねえのかよ。そんなんでよく、格闘家になりたいとほざけるよなあ!」
何度目かの膝蹴りを腹に喰らい、大雅はリング上で嘔吐した。意識が遠のいていく。それなのに、フックで横っ面を吹き飛ばされて、強制的に思考が引き戻される。腹に穴が空いたような感覚。それだけではなく、全身がびりびりと痺れて、鈍痛が神経を駆け巡り、脳を貫いた。
「ぐッ……うげええっ……」
男の攻撃が一息ついてやんだとき、もう力の入らない大雅の肉体は、吐瀉物を撒き散らしながらキャンバスに吸い込まれていった。
「んあっ!!!」
声をあげて飛び起きた。眠っていただけなのに、全身に滝のような汗をかいている。まるで今しがたリングに倒れ伏してからすぐに起き上がったかのような感覚に襲われ、大雅は思わず腹をおさえてごろりと横に倒れ込んだ。
——あれ、オレ……。
シャツ越しに触れた腹が痛くない。先ほどまで囚われていたはずの感覚は、夢だったのだと気付く。それでも、呼吸は荒く、体はひどく疲弊していた。
暗闇のなかで、いつもとは違う布団の感覚を確かめる。そうだ、オレは師匠の家に泊まらせてもらっているんだ……。
夢の中で、なにかと闘っていた気がする。目覚めた直後だというのに、それが何だったのかという記憶はぼんやりとしかなかった。なのに、体が震えている。汗をかいているからではない。これは、恐怖からくる震えだ。
何を怖がっていたのだろう。夢の中の自分は、誰かと闘うことに対して、恐怖を抱いていたのだろうか。記憶が薄れていく。たとえ何か恐ろしいことが夢の中で起こっていたとしても、それは所詮夢だ。いつまでも怖がることはない。
布団に倒れ込むように仰向けになる。まだ自分の呼吸が乱れていることに気付く。夢の内容を忘れてしまったことによって、感情が乱れている原因を突き止められないことがもどかしかった。



