——オレは、希望を持ってはいけないのだろうか。
いや、希望なんて大それたものではない。ただ人並みに生きていきたいだけだというのに、それすらも許されないのだろうか。
晴れやかな気分でつぐみ道場を出た大雅だったが、ものの数分もしないうちに暗雲が立ちこめた。
おそらく、待ち構えていたわけではなく、ただの偶然に過ぎないのだろうが、大雅が高校を退学になる原因をつくった張本人たちが、道を歩いていたのだ。
大雅はすぐに彼らに気付いた。退学になって学校には極力寄りつかないようにしていたが、いまも自分は学区の中に住んでいるのだ。彼らと生活圏が同じでも、何らおかしいことはない。
道路を隔てた反対側を歩いていたから、あわよくば彼らに気付かれないことを願っていたが、その願いが叶うことはなかった。大雅は、金髪ということもあってか、彼が思っている以上に目立つのだ。
距離があっても、彼らが「あれ? 見ろよ、藤堂じゃねえ?」とはやし立てるのが聞こえてきた。
自分にはもう関係のない人たちだと一様に無視をすればいいと思っていたが、相手がそうさせてはくれなかった。ガードレールもない歩道から、車道に駆け出し、彼らはどたどたと大雅のもとに走り寄ってきたのだ。
大雅は視線を合わせないように、足早にその場から立ち去ろうとしたが、「よう、藤堂、ひさしぶりだな」と、肩から提げていたショルダーバッグを引っ張られてしまった。
彼らは男女五人組。校内でも校外でも、いつも一緒につるんでいるのは、あんな事件があったあともなにひとつ変わっていないんだなと思った。
そうだ、コイツらは突然オレに殴られた被害者として認知されているんだったな。
「なんだよ、挨拶もなしかよ。礼儀がなってねえなあ」
「てか、髪切ったんだ。やっぱり、あのコトが原因で、坊主にさせられちゃったの? 施設の先生に怒られちゃったのかな〜?」
キャハハと下卑た笑い声が響く。大雅が助けた女子生徒をいじめていた主犯格の少女だった。派手なメイクに、自分のルックスに絶対的な自信をもっていそうな堂々とした立ち振る舞い。制服姿の彼女は、たしかにその中身を知らなければモテそうな雰囲気だ。どの学校にも存在するスクールカーストの頂点に君臨していそうな彼らの中でも、リーダー格の男と付き合っている女だと周知され、恐れられていた。
大雅は答えず、そっぽを向いた。シカトこいてんじゃねえよと、隣の男子生徒がぼやく。バスケ部のエースとしてその名を轟かせ、親は教育委員会の重役にいるという、山本克弥というこの少年こそが、大雅が殴った相手であり、被害者面をして大雅を退学に追いやった張本人だった。
克弥の顔には、まだ痣が残っている。当初は患部をガーゼかなにかで保護していたようだが、いまはなにもあてがっていなかった。
「よう藤堂、まだこの街にいたんだな」
「オレがどこにいようと、オマエにはもう関係ねえだろ」
大雅はぶっきらぼうにそう言った。敵意をあからさまに出してくる相手に、平静でいられるほど、彼はまだ大人ではなかった。
「そうだなあ。ヘンな言いがかりをつけて、この俺を殴った野郎が、のうのうと俺の視界に入ってくるのは、ちょーっと目障りなんだよなあ」
ヘラヘラと笑う克弥。取り巻きたちも、おなじようににやついている。彼らを無視してさっさと帰路につきたかったが、バッグを奪われているから、まずはそれを取り返さないといけない。
「分かったよ。もうオマエらの前には現れねえようにするからさ、それ、返してくれねえかな」
あくまでも穏便に話をすすめようと努めた。薄々勘づいてはいたが、そう言ってすんなりとバッグを返してくれるような奴らなら、そもそも暴力事件自体が起こっていないだろう。
「おまえが俺らにものを頼める立場だと思ってるわけ?」
「どういう意味だよ。大体、もうオレはオマエたちとは何の関係もねえだろ。絡んでくるなよ」
「そのスカした態度が気にくわねえんだよっ!」
克弥が突然殴りかかってきた。手の早いヤツだと、大雅は心の中で舌打ちをする。しかし、一度ならず二度までも暴力事件を起こすわけにはいかないと、大雅はやり返すことなく、軌道の読めた拳をかわしてみせた。
「どうだ、空気を殴った感触は」
大雅の言葉に、克弥はかあっと頭に血が昇ったように、怒りの形相をあらわにする。だが、人目のつきやすい道路で自分たちが騒ぎを起こすのはどうかと思ったらしく、「コレを返してほしければ、俺らについてこいよ」と言って、仲間たちに合図を送り、大雅の帰り道とはまったく違う方向へと歩きはじめた。
一瞬、バッグは諦めて立ち去ろうかと思ったが、他のものを犠牲にしたとしても、ひとつだけ、どうしても取り返したいものがあったから、大雅はおとなしく克弥たちに従うことにした。
だんだんと表通りから離れていく。人気のないところに連れ出されるのは想定内だったから、むしろその通りになったことが滑稽にも思えてきた。
「ねえ、克弥、何をしようってのよ」
「俺を敵に回したらどうなるかってことを、あいつにも教えてやんだよ。瑠麗もちゃんと見てろよ」
そうだ、あの女は、ルリという名前だった。そして大雅が庇った女子生徒もまた、白浜流里という名を冠していた。
名前が同じなのに、白浜は瑠麗とは正反対の性格をしていた。引っ込み思案で、いつも教室の隅で本を読んだり、絵を描いたりしていたから、瑠麗にはそれが気に食わなかったのだろう。放っておけばいいのに、段々と嫌がらせはエスカレートしていった。
大雅は、暴力事件を起こす日まではそんな彼女たちを静観していた。自分とは関わりのない世界で起こっている物事だと決め込んでいたのだ。素行と見た目のせいで、大雅はクラスでは浮いた存在だった。それでいいと思っていたし、校内では友人など必要ないと決め込んでいたから、カーストにおいては自分が底辺に属していたとしても、一人で過ごすのは苦痛ではなかった。
だが、あの日の昼休みは違った。白浜のもとに、いつものように瑠麗たちがやってきて、やめておけばいいのに、白浜が食べようとしていた弁当をサッと机の上から払い落としたのだ。
大雅はちょうど、斜め後ろの席からそれを見ていた。散乱する弁当の中身と、派手な音をたてて床に落ちたプラスチックの弁当箱が目に入った瞬間、彼は勢いよく立ち上がっていた。
「おい、やり過ぎなんじゃねえのか。食いものを粗末にするな」
瑠麗とその取り巻きたちは、予想外の大雅の登場に目を見張って固まっていた。白浜からも視線を感じたが、彼女も同様に驚いた様子で大雅のことを見上げていた。
大雅は白浜が受けていた仕打ちよりも、むしろ瑠麗たちが食べ物を粗末に扱ったことに対して憤りを感じていた。食べ物が目の前にあるのに、食べることを許されなかった過去の自分のことを思い出していた。食事にありつけるというありがたみが、オマエらには分からないのかと。その食べ物を、気兼ねもなしに粗末にした行為を見て、衝動的に立ち上がっていたのだ。
奇しくもそれは大雅が白浜を庇ったようなかたちとなり、思わぬ事態の展開に、教室中が静まりかえったのが分かった。クラスメイト全員の視線が、自分たちに突き刺さってきていた。
「な、なによ。あんたには関係ないでしょ!」
大雅の登場に驚いた自分を誤魔化すために、瑠麗は金切り声をあげた。同時に視線を彷徨わせ、教室の別の場所にいた克弥に助けを求める。克弥も、大雅があいだに入ってきたことには驚いていた様子だったが、瑠麗の手前、引くわけにはいかないようで、すぐにこちらに駆け寄ってきた。
「瑠麗、どうしたんだ?」
克弥に問われて、瑠麗は大雅を指差し、「コイツが急に絡んできた」と言った。付き合っている女の動向など、同じ教室にいたら、たとえ離れた場所にいたとしても分かるものだろうと思ったが、これは大雅をここから排除するために、わざとらしく言っているのだろうとすぐに察することができた。
白浜は、申し訳なさそうな表情を浮かべて、じっと俯いている。
「おいテメエ、いきなり何なんだよ」
瑠麗に頼られた手前、克弥も大雅に威嚇をせざるを得なくなったようだ。顔を近づけてきて、上から見下ろすように睨み付けてくる。克弥のほうが身長は高かったが、つぐみ道場で鍛錬を重ねている大雅のほうが、体格は良かった。克弥は少し怯んでいるようにもみえる。
「あんたたち、こんなくだらないことばかりして、情けないと思わないのか?」
「ああん? テメエ、ヒーロー気取りかよ」
「オレのことをヒーロー気取りだって思うなら、自分たちが悪いことをしているって自覚があるんだな」
「テメエっ!!」
克弥は怒鳴り声をあげると、大雅の胸ぐらを掴んだ。その程度では大雅の体幹はびくともしない。大雅が怯まないのを見て、余計に感情を乱したのだろうか、拳を振りかぶって殴りかかってきた。そう、先に手を出してきたのは、克弥だったのだ。
克弥のパンチは、大雅の頬に直撃した。口の中が切れて、血の味がした。きゃあっと悲鳴があがる。
「先に手を出したのはおまえだからな!」
大雅はそう言って、自分の胸ぐらを掴んでいる克弥の腕をひねり上げ、そのまま前蹴りで彼を突き飛ばした。克弥の体が吹っ飛び、周りの机に派手にぶつかる。机や椅子が散乱する派手な音と、克弥と、そして彼の友人たちの怒号が教室に響き渡る。三対一の乱闘が起こった。大雅は、自分が施設育ちであることを隠していなかったから、それに関する口汚い罵倒も受けた。故に感情が昂り、心の内からこみ上げてくる破壊衝動のままに、拳をふるった。
大雅の拳は、面白いほどに克弥の顔面にクリーンヒットした。一瞬のうちに鼻がひしゃげ、ブッと鼻血が噴射した様子がみえた。
大雅はほんの刹那、「やってしまった」と心の中に冷静さを取り戻したが、気付いたところでもう遅いということもわかっていた。
「テメエっ! 何しやがるっ!!」
克弥の友人たちは血相を変えて、大雅に飛びかかり、彼を抑えつけようと躍起になった。教室という、生徒と机や椅子がひしめき合い、部屋の広さの割に行動範囲が制限される空間で、男子生徒複数人に飛びかかられれば、大雅も為す術がなかった。ただ、単にやられるだけではなく、せめて一発ずつはパンチを見舞ってやろうと思い、彼らに拳を奮ったことは事実だ。
そこからは、誰かが助けを呼びに行き、複数の教師が止めに入るまでは、大乱闘が繰り広げられていた。ステゴロでは大雅には敵わないと踏んだのか、机や椅子を使って大雅を殴りつけたり、筆箱に入っていたカッターナイフを持って切りつけようとしてきたりする始末だった。
どちらが加害者、被害者なのかを白黒つけなければならないのなら、むしろ被害を被ったのは大雅であり、彼がおこなった暴力行為に関しては正当防衛が認められていたかもしれなかった。
真相を権力によって握りつぶされ、大雅も白浜も、口を開くことは許されなかった。大雅は、自分の主張を受け入れてもらえないなら、もうどうでもいいと思っていたが、白浜はどう思っていたのだろう。目の前で、始終を見ていたはずだ。彼女の真意を聞き出すことは、もう叶わないことなのだ。
大雅が連れてこられたのは、人通りの殆どない、街灯もない公園だった。街路樹がちょうど目隠しになり、道路から公園内の様子は、目を凝らさないと分からない構造になっている。
公園の敷地内に入ると、大雅は地面に叩きつけられるように思いっきり投げ出された。
「ぐっ……」
砂利の地面に受け身を取る。衝撃で手のひらの表皮が擦りむけたが、そんなことをいちいち気にしている場合ではなさそうだ。
「ほら、おまえの大事にしている荷物だ」
公園の灯りに照らされて、克弥の顔は、余計に邪悪にみえた。バッグのジッパーを開けて、中身をぼとぼとと地面に落とす。道場で着ていた衣類やタオル、バンテージ、グラップリンググローブなどの用品が無様に地面に転がった。
「なんだあこれ?」
克弥たちはその時、大雅がなにか格闘技をかじっているらしいことを初めて知った。地面に落ちた大雅の持ち物を見て、彼らの表情が若干強ばったが、大雅には暗くて見えていなかった。
「なかなか、いいもん持ってんじゃねえか」
克弥がグラップリンググローブをつまみ、自分の顔の高さに持ち上げて眺める。そのとき、大雅は「やめろ! 触るなっ!!」と、それまでの態度から一転して、血相を変えて叫んだ。
その狼狽えように、克弥たちは、そのグローブが大雅にとって、よく分からないが、なにか大切なものなのだと勘づくことができた。
「頼むっ、それは触らないでくれ!」
大雅は体を起こして、克弥からグローブを取り返そうとした。だが、克弥の周りにいた彼の友人が、大雅の体を拘束してきたため、必死で伸ばした腕は空を切った。
「なんだ、さっきまでふてくされたみてえにブスッとしてたくせによ。これがそんなに大事なものなのかよ」
克弥はそう言って、グローブをぽーんと垂直に放り投げた。そしてすぐにキャッチする。思わぬ大雅の弱点を見つけられたような気がして、彼の中の嗜虐心がむくむくと湧き起こってきた。
それは、つぐみ道場に入門したときに、相馬から大雅に贈られたグローブであった。黒いレザー製の、手の甲の部分に金色の文字で『TAIGA』と書いてある特注品だ。
克弥はその金色の文字を目ざとく見つけて、「大雅くんの、名前が書いてありまちゅねえ!」と、嘲るように笑いながら声高に叫んだ。
「やめろっ、返してくれっ!」
四肢を複数人に拘束されているせいで、満足に身動きのとれない大雅は、芋虫のように体をくねらせながら、なんとかグローブを取り返そうと懇願した。
「なあ、大雅くぅん、人にものを頼むときは、そんな言葉遣いでいいのかなぁ?」
克弥の靴裏が、大雅の後頭部に触れた瞬間、そのまま額から押し込まれ、地面に叩きつけられた。
屈辱。だが、まだこんなのものは序の口だと察する。砂利が食い込む額の痛みをこらえながら、大雅は「返して……ください」と震える声でそう言った。
「聞こえねえなあ!」
そのまま横っ面を跳ねとばされる。大雅の頭が跳ね上がったが、身動きがとれないせいで、首の筋が切れるかとおもうほどの衝撃が襲ってきただけだった。口の中が切れ、溜まっていた唾と共に血液が地面に滴り落ちる。
「瑠麗がよお、大雅くん、おまえのせいで、悪者にされて、深くふかーく傷ついちゃ単だよねえ。……どうオトシマエ、つけてくれんの?」
次は背中に凄まじい衝撃が落ちてきた。かかと落としを脊柱に食らったのだ。
「がごっ!」と、背骨が啼いた衝撃で大雅の口から変な声が漏れる。間髪を入れず、無防備な脇腹を蹴られて、息が詰まるほどの激痛に苛まれた。
「この汚ねえくっせえモンを返してほしけりゃ、ちゃーんと、おとなしくしていることだな」
ギャハハハと笑いながら、克弥たち三人は、地面に転がる大雅に殴る蹴るの暴行を加え、いたぶり尽くした。それは、遠巻きに見ていた瑠麗と、彼女の友人である紗菜をもってしても、思わず顔を伏せてしまうような凄惨な暴行で、大雅の顔はみるみるうちに腫れ上がっていき、また意識も朦朧としていった。
十数分の暴行が続いたあと、流石に殴るほうも疲れたらしく、克弥たちは手を止めて大雅の様子を見た。
「うへえ、コイツ、ゲロ吐いてやんの!」
友人のひとりが言う。執拗に鳩尾に蹴りを食らい、苦しみあぐねた大雅は、胃の中のものを嘔吐してしまったのだ。息も絶え絶えの彼は、暴行がやんでも、まだ苦しそうに時折えづいている。体を丸め、必死で痛みに耐えているようだった。
「ほーら、大雅くん、頑張って耐えていい子でちゅねー。ご褒美に、この大事そうなモンを、刻んであげるからねー」
克弥はそう言って、ズボンのポケットから折りたたみナイフを取り出した。それは、彼が普段から「護身用」と称して持ち歩いている凶器であった。
「や……やめ……ろ……」
大雅は思いっきり叫んだつもりだった。だが、腹に力が入らず、喉から絞り出したようなかすれ声しか発することができなかった。
そして克弥は、大雅の頼みを受け入れてくれるわけもなく、大雅が四年以上、ずっと宝物のように大事に使ってきたグローブは、彼の目の前で刃を入れられ、引き裂かれてしまったのだった。
「あ……」
大雅は絶句した。ぼとりと、自分が吐き散らかした胃液だまりの中に、無惨なかたちとなったグローブが落とされる。大雅はただ、その一部始終を、呆けたような表情で見ていることしかできなかった。
「じゃあなー、大雅くん。また遊んでくれよなー」
克弥たちは、何もかもを諦めたかのように弱々しく地面に崩れ落ちている大雅を蹴り飛ばして仰向けに転がしたあと、「もう行こうぜー」と、まるで夢中になって楽しんだ遊びが終わったかのような無邪気な口調で笑い合いながら、この場から立ち去っていった。そこには、自分たちが「ヤバいことをした」などという思いは感じられず、なにかをやりきったという達成感のようなものすら、漂っているようでもあった。
(うそ……だろ……)
大雅は震える手で、目の前に落ちているグローブの残骸を引き寄せ、変わり果てた宝物を見つめた。何度凝視しても、瞬きを繰り返しても、ズタズタに引き裂かれたそれが元のかたちに戻るはずはなく、革を突き破るように中のウレタンが溢れだしていた。
(ごめんなさい……師匠……ごめんなさい……)
大雅はグローブを、抱き寄せるように自分の胸に押しつけた。そうでもしないと、慟哭が全身から迸ってしまいそうだった。
「……うっ……ぐっ……」
体の痛みなど、最早どうでも良かった。このグローブは、流石に一生とまではいかずとも、自分が使い潰してボロボロにするまでは、ずっと使おうと思っていたものだった。
涙が落ちる。泣いているのだ。これは決して体が痛いから泣いているのではない。それよりももっと、痛いのだ。
「大雅、お前がこれから格闘技を楽しく学べるように、私からのプレゼントだ」
相馬はそう言って、このグローブを寄越してくれた。まだ体も出来上がっていなかった当時の大雅には、少し大きく見え、またたどたどしい動作も相まって、馴染んでいるとはいえなかった。
だが、人一倍の愛着はあった。誰かにものを贈られるという経験が皆無に等しかった大雅が、生まれて初めて人から貰った贈り物だったからだ。
(ごめんなさい……折角、オレにくれたのに……師匠……ごめんなさい)
これも、自分のこれまでの行いが招いた結果なのだ。真っ当に生きていたら、白浜を庇ったとき、大雅は自分の言い分を聞き入れて貰えていたかもしれない。そうだったとしたら、学校を退学になることもなかっただろうし、いま、このような仕打ちを受けることもなかっただろう。
自分の無力さを知る。不甲斐なさを痛感する。身も心も屈辱にまみれたその瞬間に、大雅はこの世の不条理を招くのは自分自身が因果なのだと、こみ上げる感情を抑え込みながら感じていたのだった。
いや、希望なんて大それたものではない。ただ人並みに生きていきたいだけだというのに、それすらも許されないのだろうか。
晴れやかな気分でつぐみ道場を出た大雅だったが、ものの数分もしないうちに暗雲が立ちこめた。
おそらく、待ち構えていたわけではなく、ただの偶然に過ぎないのだろうが、大雅が高校を退学になる原因をつくった張本人たちが、道を歩いていたのだ。
大雅はすぐに彼らに気付いた。退学になって学校には極力寄りつかないようにしていたが、いまも自分は学区の中に住んでいるのだ。彼らと生活圏が同じでも、何らおかしいことはない。
道路を隔てた反対側を歩いていたから、あわよくば彼らに気付かれないことを願っていたが、その願いが叶うことはなかった。大雅は、金髪ということもあってか、彼が思っている以上に目立つのだ。
距離があっても、彼らが「あれ? 見ろよ、藤堂じゃねえ?」とはやし立てるのが聞こえてきた。
自分にはもう関係のない人たちだと一様に無視をすればいいと思っていたが、相手がそうさせてはくれなかった。ガードレールもない歩道から、車道に駆け出し、彼らはどたどたと大雅のもとに走り寄ってきたのだ。
大雅は視線を合わせないように、足早にその場から立ち去ろうとしたが、「よう、藤堂、ひさしぶりだな」と、肩から提げていたショルダーバッグを引っ張られてしまった。
彼らは男女五人組。校内でも校外でも、いつも一緒につるんでいるのは、あんな事件があったあともなにひとつ変わっていないんだなと思った。
そうだ、コイツらは突然オレに殴られた被害者として認知されているんだったな。
「なんだよ、挨拶もなしかよ。礼儀がなってねえなあ」
「てか、髪切ったんだ。やっぱり、あのコトが原因で、坊主にさせられちゃったの? 施設の先生に怒られちゃったのかな〜?」
キャハハと下卑た笑い声が響く。大雅が助けた女子生徒をいじめていた主犯格の少女だった。派手なメイクに、自分のルックスに絶対的な自信をもっていそうな堂々とした立ち振る舞い。制服姿の彼女は、たしかにその中身を知らなければモテそうな雰囲気だ。どの学校にも存在するスクールカーストの頂点に君臨していそうな彼らの中でも、リーダー格の男と付き合っている女だと周知され、恐れられていた。
大雅は答えず、そっぽを向いた。シカトこいてんじゃねえよと、隣の男子生徒がぼやく。バスケ部のエースとしてその名を轟かせ、親は教育委員会の重役にいるという、山本克弥というこの少年こそが、大雅が殴った相手であり、被害者面をして大雅を退学に追いやった張本人だった。
克弥の顔には、まだ痣が残っている。当初は患部をガーゼかなにかで保護していたようだが、いまはなにもあてがっていなかった。
「よう藤堂、まだこの街にいたんだな」
「オレがどこにいようと、オマエにはもう関係ねえだろ」
大雅はぶっきらぼうにそう言った。敵意をあからさまに出してくる相手に、平静でいられるほど、彼はまだ大人ではなかった。
「そうだなあ。ヘンな言いがかりをつけて、この俺を殴った野郎が、のうのうと俺の視界に入ってくるのは、ちょーっと目障りなんだよなあ」
ヘラヘラと笑う克弥。取り巻きたちも、おなじようににやついている。彼らを無視してさっさと帰路につきたかったが、バッグを奪われているから、まずはそれを取り返さないといけない。
「分かったよ。もうオマエらの前には現れねえようにするからさ、それ、返してくれねえかな」
あくまでも穏便に話をすすめようと努めた。薄々勘づいてはいたが、そう言ってすんなりとバッグを返してくれるような奴らなら、そもそも暴力事件自体が起こっていないだろう。
「おまえが俺らにものを頼める立場だと思ってるわけ?」
「どういう意味だよ。大体、もうオレはオマエたちとは何の関係もねえだろ。絡んでくるなよ」
「そのスカした態度が気にくわねえんだよっ!」
克弥が突然殴りかかってきた。手の早いヤツだと、大雅は心の中で舌打ちをする。しかし、一度ならず二度までも暴力事件を起こすわけにはいかないと、大雅はやり返すことなく、軌道の読めた拳をかわしてみせた。
「どうだ、空気を殴った感触は」
大雅の言葉に、克弥はかあっと頭に血が昇ったように、怒りの形相をあらわにする。だが、人目のつきやすい道路で自分たちが騒ぎを起こすのはどうかと思ったらしく、「コレを返してほしければ、俺らについてこいよ」と言って、仲間たちに合図を送り、大雅の帰り道とはまったく違う方向へと歩きはじめた。
一瞬、バッグは諦めて立ち去ろうかと思ったが、他のものを犠牲にしたとしても、ひとつだけ、どうしても取り返したいものがあったから、大雅はおとなしく克弥たちに従うことにした。
だんだんと表通りから離れていく。人気のないところに連れ出されるのは想定内だったから、むしろその通りになったことが滑稽にも思えてきた。
「ねえ、克弥、何をしようってのよ」
「俺を敵に回したらどうなるかってことを、あいつにも教えてやんだよ。瑠麗もちゃんと見てろよ」
そうだ、あの女は、ルリという名前だった。そして大雅が庇った女子生徒もまた、白浜流里という名を冠していた。
名前が同じなのに、白浜は瑠麗とは正反対の性格をしていた。引っ込み思案で、いつも教室の隅で本を読んだり、絵を描いたりしていたから、瑠麗にはそれが気に食わなかったのだろう。放っておけばいいのに、段々と嫌がらせはエスカレートしていった。
大雅は、暴力事件を起こす日まではそんな彼女たちを静観していた。自分とは関わりのない世界で起こっている物事だと決め込んでいたのだ。素行と見た目のせいで、大雅はクラスでは浮いた存在だった。それでいいと思っていたし、校内では友人など必要ないと決め込んでいたから、カーストにおいては自分が底辺に属していたとしても、一人で過ごすのは苦痛ではなかった。
だが、あの日の昼休みは違った。白浜のもとに、いつものように瑠麗たちがやってきて、やめておけばいいのに、白浜が食べようとしていた弁当をサッと机の上から払い落としたのだ。
大雅はちょうど、斜め後ろの席からそれを見ていた。散乱する弁当の中身と、派手な音をたてて床に落ちたプラスチックの弁当箱が目に入った瞬間、彼は勢いよく立ち上がっていた。
「おい、やり過ぎなんじゃねえのか。食いものを粗末にするな」
瑠麗とその取り巻きたちは、予想外の大雅の登場に目を見張って固まっていた。白浜からも視線を感じたが、彼女も同様に驚いた様子で大雅のことを見上げていた。
大雅は白浜が受けていた仕打ちよりも、むしろ瑠麗たちが食べ物を粗末に扱ったことに対して憤りを感じていた。食べ物が目の前にあるのに、食べることを許されなかった過去の自分のことを思い出していた。食事にありつけるというありがたみが、オマエらには分からないのかと。その食べ物を、気兼ねもなしに粗末にした行為を見て、衝動的に立ち上がっていたのだ。
奇しくもそれは大雅が白浜を庇ったようなかたちとなり、思わぬ事態の展開に、教室中が静まりかえったのが分かった。クラスメイト全員の視線が、自分たちに突き刺さってきていた。
「な、なによ。あんたには関係ないでしょ!」
大雅の登場に驚いた自分を誤魔化すために、瑠麗は金切り声をあげた。同時に視線を彷徨わせ、教室の別の場所にいた克弥に助けを求める。克弥も、大雅があいだに入ってきたことには驚いていた様子だったが、瑠麗の手前、引くわけにはいかないようで、すぐにこちらに駆け寄ってきた。
「瑠麗、どうしたんだ?」
克弥に問われて、瑠麗は大雅を指差し、「コイツが急に絡んできた」と言った。付き合っている女の動向など、同じ教室にいたら、たとえ離れた場所にいたとしても分かるものだろうと思ったが、これは大雅をここから排除するために、わざとらしく言っているのだろうとすぐに察することができた。
白浜は、申し訳なさそうな表情を浮かべて、じっと俯いている。
「おいテメエ、いきなり何なんだよ」
瑠麗に頼られた手前、克弥も大雅に威嚇をせざるを得なくなったようだ。顔を近づけてきて、上から見下ろすように睨み付けてくる。克弥のほうが身長は高かったが、つぐみ道場で鍛錬を重ねている大雅のほうが、体格は良かった。克弥は少し怯んでいるようにもみえる。
「あんたたち、こんなくだらないことばかりして、情けないと思わないのか?」
「ああん? テメエ、ヒーロー気取りかよ」
「オレのことをヒーロー気取りだって思うなら、自分たちが悪いことをしているって自覚があるんだな」
「テメエっ!!」
克弥は怒鳴り声をあげると、大雅の胸ぐらを掴んだ。その程度では大雅の体幹はびくともしない。大雅が怯まないのを見て、余計に感情を乱したのだろうか、拳を振りかぶって殴りかかってきた。そう、先に手を出してきたのは、克弥だったのだ。
克弥のパンチは、大雅の頬に直撃した。口の中が切れて、血の味がした。きゃあっと悲鳴があがる。
「先に手を出したのはおまえだからな!」
大雅はそう言って、自分の胸ぐらを掴んでいる克弥の腕をひねり上げ、そのまま前蹴りで彼を突き飛ばした。克弥の体が吹っ飛び、周りの机に派手にぶつかる。机や椅子が散乱する派手な音と、克弥と、そして彼の友人たちの怒号が教室に響き渡る。三対一の乱闘が起こった。大雅は、自分が施設育ちであることを隠していなかったから、それに関する口汚い罵倒も受けた。故に感情が昂り、心の内からこみ上げてくる破壊衝動のままに、拳をふるった。
大雅の拳は、面白いほどに克弥の顔面にクリーンヒットした。一瞬のうちに鼻がひしゃげ、ブッと鼻血が噴射した様子がみえた。
大雅はほんの刹那、「やってしまった」と心の中に冷静さを取り戻したが、気付いたところでもう遅いということもわかっていた。
「テメエっ! 何しやがるっ!!」
克弥の友人たちは血相を変えて、大雅に飛びかかり、彼を抑えつけようと躍起になった。教室という、生徒と机や椅子がひしめき合い、部屋の広さの割に行動範囲が制限される空間で、男子生徒複数人に飛びかかられれば、大雅も為す術がなかった。ただ、単にやられるだけではなく、せめて一発ずつはパンチを見舞ってやろうと思い、彼らに拳を奮ったことは事実だ。
そこからは、誰かが助けを呼びに行き、複数の教師が止めに入るまでは、大乱闘が繰り広げられていた。ステゴロでは大雅には敵わないと踏んだのか、机や椅子を使って大雅を殴りつけたり、筆箱に入っていたカッターナイフを持って切りつけようとしてきたりする始末だった。
どちらが加害者、被害者なのかを白黒つけなければならないのなら、むしろ被害を被ったのは大雅であり、彼がおこなった暴力行為に関しては正当防衛が認められていたかもしれなかった。
真相を権力によって握りつぶされ、大雅も白浜も、口を開くことは許されなかった。大雅は、自分の主張を受け入れてもらえないなら、もうどうでもいいと思っていたが、白浜はどう思っていたのだろう。目の前で、始終を見ていたはずだ。彼女の真意を聞き出すことは、もう叶わないことなのだ。
大雅が連れてこられたのは、人通りの殆どない、街灯もない公園だった。街路樹がちょうど目隠しになり、道路から公園内の様子は、目を凝らさないと分からない構造になっている。
公園の敷地内に入ると、大雅は地面に叩きつけられるように思いっきり投げ出された。
「ぐっ……」
砂利の地面に受け身を取る。衝撃で手のひらの表皮が擦りむけたが、そんなことをいちいち気にしている場合ではなさそうだ。
「ほら、おまえの大事にしている荷物だ」
公園の灯りに照らされて、克弥の顔は、余計に邪悪にみえた。バッグのジッパーを開けて、中身をぼとぼとと地面に落とす。道場で着ていた衣類やタオル、バンテージ、グラップリンググローブなどの用品が無様に地面に転がった。
「なんだあこれ?」
克弥たちはその時、大雅がなにか格闘技をかじっているらしいことを初めて知った。地面に落ちた大雅の持ち物を見て、彼らの表情が若干強ばったが、大雅には暗くて見えていなかった。
「なかなか、いいもん持ってんじゃねえか」
克弥がグラップリンググローブをつまみ、自分の顔の高さに持ち上げて眺める。そのとき、大雅は「やめろ! 触るなっ!!」と、それまでの態度から一転して、血相を変えて叫んだ。
その狼狽えように、克弥たちは、そのグローブが大雅にとって、よく分からないが、なにか大切なものなのだと勘づくことができた。
「頼むっ、それは触らないでくれ!」
大雅は体を起こして、克弥からグローブを取り返そうとした。だが、克弥の周りにいた彼の友人が、大雅の体を拘束してきたため、必死で伸ばした腕は空を切った。
「なんだ、さっきまでふてくされたみてえにブスッとしてたくせによ。これがそんなに大事なものなのかよ」
克弥はそう言って、グローブをぽーんと垂直に放り投げた。そしてすぐにキャッチする。思わぬ大雅の弱点を見つけられたような気がして、彼の中の嗜虐心がむくむくと湧き起こってきた。
それは、つぐみ道場に入門したときに、相馬から大雅に贈られたグローブであった。黒いレザー製の、手の甲の部分に金色の文字で『TAIGA』と書いてある特注品だ。
克弥はその金色の文字を目ざとく見つけて、「大雅くんの、名前が書いてありまちゅねえ!」と、嘲るように笑いながら声高に叫んだ。
「やめろっ、返してくれっ!」
四肢を複数人に拘束されているせいで、満足に身動きのとれない大雅は、芋虫のように体をくねらせながら、なんとかグローブを取り返そうと懇願した。
「なあ、大雅くぅん、人にものを頼むときは、そんな言葉遣いでいいのかなぁ?」
克弥の靴裏が、大雅の後頭部に触れた瞬間、そのまま額から押し込まれ、地面に叩きつけられた。
屈辱。だが、まだこんなのものは序の口だと察する。砂利が食い込む額の痛みをこらえながら、大雅は「返して……ください」と震える声でそう言った。
「聞こえねえなあ!」
そのまま横っ面を跳ねとばされる。大雅の頭が跳ね上がったが、身動きがとれないせいで、首の筋が切れるかとおもうほどの衝撃が襲ってきただけだった。口の中が切れ、溜まっていた唾と共に血液が地面に滴り落ちる。
「瑠麗がよお、大雅くん、おまえのせいで、悪者にされて、深くふかーく傷ついちゃ単だよねえ。……どうオトシマエ、つけてくれんの?」
次は背中に凄まじい衝撃が落ちてきた。かかと落としを脊柱に食らったのだ。
「がごっ!」と、背骨が啼いた衝撃で大雅の口から変な声が漏れる。間髪を入れず、無防備な脇腹を蹴られて、息が詰まるほどの激痛に苛まれた。
「この汚ねえくっせえモンを返してほしけりゃ、ちゃーんと、おとなしくしていることだな」
ギャハハハと笑いながら、克弥たち三人は、地面に転がる大雅に殴る蹴るの暴行を加え、いたぶり尽くした。それは、遠巻きに見ていた瑠麗と、彼女の友人である紗菜をもってしても、思わず顔を伏せてしまうような凄惨な暴行で、大雅の顔はみるみるうちに腫れ上がっていき、また意識も朦朧としていった。
十数分の暴行が続いたあと、流石に殴るほうも疲れたらしく、克弥たちは手を止めて大雅の様子を見た。
「うへえ、コイツ、ゲロ吐いてやんの!」
友人のひとりが言う。執拗に鳩尾に蹴りを食らい、苦しみあぐねた大雅は、胃の中のものを嘔吐してしまったのだ。息も絶え絶えの彼は、暴行がやんでも、まだ苦しそうに時折えづいている。体を丸め、必死で痛みに耐えているようだった。
「ほーら、大雅くん、頑張って耐えていい子でちゅねー。ご褒美に、この大事そうなモンを、刻んであげるからねー」
克弥はそう言って、ズボンのポケットから折りたたみナイフを取り出した。それは、彼が普段から「護身用」と称して持ち歩いている凶器であった。
「や……やめ……ろ……」
大雅は思いっきり叫んだつもりだった。だが、腹に力が入らず、喉から絞り出したようなかすれ声しか発することができなかった。
そして克弥は、大雅の頼みを受け入れてくれるわけもなく、大雅が四年以上、ずっと宝物のように大事に使ってきたグローブは、彼の目の前で刃を入れられ、引き裂かれてしまったのだった。
「あ……」
大雅は絶句した。ぼとりと、自分が吐き散らかした胃液だまりの中に、無惨なかたちとなったグローブが落とされる。大雅はただ、その一部始終を、呆けたような表情で見ていることしかできなかった。
「じゃあなー、大雅くん。また遊んでくれよなー」
克弥たちは、何もかもを諦めたかのように弱々しく地面に崩れ落ちている大雅を蹴り飛ばして仰向けに転がしたあと、「もう行こうぜー」と、まるで夢中になって楽しんだ遊びが終わったかのような無邪気な口調で笑い合いながら、この場から立ち去っていった。そこには、自分たちが「ヤバいことをした」などという思いは感じられず、なにかをやりきったという達成感のようなものすら、漂っているようでもあった。
(うそ……だろ……)
大雅は震える手で、目の前に落ちているグローブの残骸を引き寄せ、変わり果てた宝物を見つめた。何度凝視しても、瞬きを繰り返しても、ズタズタに引き裂かれたそれが元のかたちに戻るはずはなく、革を突き破るように中のウレタンが溢れだしていた。
(ごめんなさい……師匠……ごめんなさい……)
大雅はグローブを、抱き寄せるように自分の胸に押しつけた。そうでもしないと、慟哭が全身から迸ってしまいそうだった。
「……うっ……ぐっ……」
体の痛みなど、最早どうでも良かった。このグローブは、流石に一生とまではいかずとも、自分が使い潰してボロボロにするまでは、ずっと使おうと思っていたものだった。
涙が落ちる。泣いているのだ。これは決して体が痛いから泣いているのではない。それよりももっと、痛いのだ。
「大雅、お前がこれから格闘技を楽しく学べるように、私からのプレゼントだ」
相馬はそう言って、このグローブを寄越してくれた。まだ体も出来上がっていなかった当時の大雅には、少し大きく見え、またたどたどしい動作も相まって、馴染んでいるとはいえなかった。
だが、人一倍の愛着はあった。誰かにものを贈られるという経験が皆無に等しかった大雅が、生まれて初めて人から貰った贈り物だったからだ。
(ごめんなさい……折角、オレにくれたのに……師匠……ごめんなさい)
これも、自分のこれまでの行いが招いた結果なのだ。真っ当に生きていたら、白浜を庇ったとき、大雅は自分の言い分を聞き入れて貰えていたかもしれない。そうだったとしたら、学校を退学になることもなかっただろうし、いま、このような仕打ちを受けることもなかっただろう。
自分の無力さを知る。不甲斐なさを痛感する。身も心も屈辱にまみれたその瞬間に、大雅はこの世の不条理を招くのは自分自身が因果なのだと、こみ上げる感情を抑え込みながら感じていたのだった。



