プロの練習は、みっちり二時間以上を使っておこなわれた。ウォーミングアップだけで、一時間が経っていた。輪になって、道場内を走ったあとに、ステップの練習をする。大雅は相馬のそばについて、見よう見まねで他の門下生たちに食らいついていた。
二人組になり、足上げ腹筋を百五十回おこなう。大雅は圭二と組み、ノルマをこなしていった。
腹筋が終わったあとは、相手の脛を掴んで仰向けになり、ブリッジの体勢から足を上げる運動だ。これは十回を三セットで交代。大雅も圭二も、この頃になると息が上がり始めていた。
筋力トレーニングが終わると、二人組のままでトレーニングを続けていくが、大雅はここでは相馬と組んでトレーニング内容を習った。
「相手の胴をクラッチして、持ち上げたり下ろしたりする。これはリフトという動作だが、最初はゆっくりやってみよう。私を抱えてみろ」
大雅はぐるりと場内を見渡して、圭二たちがやっている動作を確認した。四つん這いになった相馬の胴を両腕でがばりと抱え込み、屈んだ状態からまっすぐ上に持ち上げる。
「そうだ、そのまま三秒キープして、あとはゆっくり私をおろせ」
自分の腹のあたりから、くぐもった相馬の声が聞こえてくる。
「はいっ!」
歯を食いしばって、大雅はゆっくりと再び体を屈ませた。
自分と同じくらいの体重の、大の男を持ち上げておろすのだ。相馬は敢えて脱力している様子もあったし、これは見ている以上にきついトレーニングだった。
リフトを十回三セットおこなうと、大雅の膝はぶるぶると笑っていた。汗をかきすぎて、シャツが体にはりついている。
「はじめてにしては、よくついてこれてるな」
ゼエゼエと息を整えていると、三笠がわしわしと頭を撫でてきた。
「うっ、オレ汗だくで汚いっすよ……」
「それはお互い様だ」
三笠はガハハと豪快に笑うと、ウォーターサーバーから汲んできた水を大雅に渡してくれた。
その後も複数の種目のトレーニングをおこなったあと、大雅は再び相馬とペアを組んだ。
「フリー練習だ。おまえの思った通りに動いて、私を組み伏せてみろ。もちろんこれは実戦形式だから、私も攻撃をするからな」
道場の空間は静まり返り、緊張感が漂っている。仲間たちは大雅を囲むように立ち、大雅がスパーリングを行おうとしているその姿に期待の視線を注いでいた。まさに今、大雅は自身の成長を試される瞬間を迎えようとしているといえる。
「準備はいいか?」
相馬が落ち着いた声で尋ねてくる。その目は鋭く、向かい合ったのが大雅だとしてても容赦はしないと、あえて厳しい思いを示しているかのようだった。
大雅は深呼吸をし、精神を落ち着けた。
「はい、師匠!」
大きな声で返事をするが、内心では期待と不安が入り混じっていた。相馬とのスパーリングは単なる練習ではなく、自身のいまの実力を試す貴重な機会なのだ。はたして彼の技術にどれほど対抗できるのか。ひいては、プロの格闘家を相手に、自分の積み上げてきた力は通用するのか。それを今から確かめるのだと思うと、心が震えた。
大雅は心の中で強く決意する。全力で相馬に挑む、と。
相馬はすっと構える。彼の動きはまるで風のように無駄がなかった。
大雅は呼吸を整え、じっと相手の動きを見つめ続ける。立ちはだかる相馬に対して、師匠とて、倒さねばならないと心を決める。
「何をしている。来い、大雅!」
相馬が声を発した瞬間、大雅は床を蹴って全力で前に出た。心臓が高鳴り、血が身体中を駆け巡る。
最初の一撃を放つべく、右のストレートを狙った。しかし、相馬はそれを軽々とかわし、すぐさま反撃に出た。大雅はその動きを見る間もなく、右のフックを食らい、身体が後ろに倒れ込む。
「ぐっ……!」
眉をしかめ、息を詰まらせる。
「まだまだ甘いぞ、大雅!」
相馬の声が、その冷たさを一層際立たせる。心の底からくる悔しさが広がり、思わず体を身震いさせた。
「大雅! 積極的に行け!」
圭二だ。彼の声援が、大雅の背中を押した。怖がるな、まだまだオレはやれる。それに今はまだ闘いが始まったばかりだと自分に言い聞かせる。
足を踏ん張って再び構えを取る。そのあいだに、相馬は距離を取って静かに見守っていた。冷静に大雅の動きを見守り、彼の出方を見極めようとするような表情だった。
大雅は心の中で不安を払いのけ、気持ちを立て直した。間合いを測り、相馬の動きに合わせていかなければ。
大雅は前方に進み出ながら、相馬の目をしっかりと捉えた。次の一手を狙う間に、相馬が身を低くし、前に踏み出してくる。
再度のストレートを放つ。しかし、相馬はそれをバックステップで瞬時にかわし、左のアッパーを放った。攻撃は大雅の顎に直撃した。
「ぐあっ!」
衝撃で首が跳ね上がった。おそらく相馬は攻撃の威力を緩めている。それでも、大雅の肉体をおそった衝撃は凄まじいものだった。
大雅はふらついて後ろに倒れ込み、マットに背中を打ちつけた。びしょびしょのシャツが背中の表皮にふれる。悔しさと痛みが思考を駆け巡るさなか、再び立ち上がる力を振り絞る。
「まだまだだ、立て! いけるだろ!」
三笠の声が脳に流れ込んでくる。大雅は無意識にその声に導かれるように、勢いよく立ち上がった。
「お前はまだいけるはずだ」
相馬の声。大雅はその言葉に力を得たように、構えをとった。冷静さを取り戻すことができた。相馬の動きを見ながら間合いを測る。
相馬が再度前に進みだす。やっとの思いで、大雅はその隙間を見逃さず、踏み込む。
(いくぞ、師匠!)
大雅は思い切って正面から突っ込んでの攻撃に挑んだ。しかし、相馬はその動きに瞬時に反応し、持ち前の柔軟性で体を軽く捻り、すぐさま大雅の動きに反撃を繰り出した。
(しまった……)
自分の放った前蹴りをかわされ、カウンターのように右のボディストレートが腹に直撃する。
「ぐっ……ああっ……」
思わず口から声が出てしまう。息が詰まる。
強い打撃を受けながらも、怯むわけにはいかなかった。揺らぎかけた体と思考を支え起こす。
相馬に対し、今度こそは攻撃しなければならない。その想いを胸に秘め、間合いを詰めていく。
「まだ諦めていないようだな!」
相馬が笑った。再度攻撃のチャンスを伺い、待っている様子が垣間見える。
大雅は、思うように自分のペースに運んでいけない未熟さを感じながらも、拳を放った。鮮やかに相馬がそのパンチをかわし、前蹴りで突き飛ばされた。
「ぐっ!」
まただ……。背中をマットに叩きつけられる。体力が徐々に奪われ、崩れそうになった。大雅の表情は苦痛でゆがんでいる。
(諦めるわけねえだろっ……)
大雅はすぐに立ち上がり、相馬に向かい合って構えた。相馬は静かに待ち構えていた。
(来たっ!)
刹那、相馬が前に出た。
大雅はそのタイミングを狙い、意を決して前進。一瞬の隙を突こうとするが、またしても相馬の速さに反応できず、「危ない!」と圭二の声を背中に受けた。
相馬が再度のストレートを放つ。大雅は間一髪かわしたが、体が軽く崩れ、はたりと汗がマットに散ったのが横目に見えた。
「いけるぞ、大雅!」
圭二の声が大雅を奮い立たせた。体勢を立て直し、一瞬の隙に額の汗を拭う。
大雅は攻撃のタイミングを測り、次の一手を撃ちこもうと試みた。しかし、当然というべきか、相馬には隙がなかった。
相馬が身構えて、突進してきた。すかさず大雅は身をひねる。ローキックを繰り出して牽制する。体がスムーズに動き、パチンと相馬の足首に蹴り込みを入れることに成功した。
一撃。たった一撃でも、師匠に攻撃が当たったぞ。
大雅は笑った。
「調子に乗るな」
相馬の冷たい言葉が耳に届いたその瞬間、強烈な右ストレートが腹に直撃した。咄嗟に腹筋に力を入れる。体がくの字に折れ曲がり、大雅は膝をついた。
「くそっ、だめだ、まだ……」
大雅は力を振り絞り、すぐに再び立ち上がる。しかし、目の前に立ちはだかる相馬の影がこれ以上反撃をする余地がないと、彼を怖気づかせた。
それでも必死の形相で闘いに喰らいつく。ふらふらしながらも拳を構える。
静寂が破られる瞬間、相馬のローキックが大雅の脛に叩き込まれる。「うっ」と声を漏らし、身体が崩れかけたが、寸でのところで持ちこたえた。
しかし、わずかな隙を突かれ、相馬が軽やかに飛び込んでくる。瞬時に大雅の胴を掴む。
(まただっ…!)
何度目かの衝撃に、大雅の背筋は悲鳴をあげた。冷や汗が背中を流れる。
相馬ががっしりと絡みつきを行い、大雅をマットに押し倒した。
完全に締め上げられる前になんとかしなければ……。
大雅は迫り来る相馬の胴に、自分の足を絡ませた。クローズガードだ。そのまま上体を起こし、相馬の右腕に体を近づけ、その動きを封じようと試みる。尻をすべらせて相馬をこかそうとしたが、彼の体幹はびくともしなかった。
(くそっ……、動く気配がねえっ……)
大雅は相馬の腕力で膝を押し込められ、組み込んでいた体勢をあっさり崩されてしまった。そのまま相馬の力強い抱え込みに押しつぶされてしまう。必死に体を捻るが、もがくほどに、相馬の圧力がますます強くなり、体が参ってしまう。
相馬の全身ががっつりと大雅の体を押さえつけてきた。大雅は必死に脱出を試みる。
(たとえ相手が師匠でも、オレは無様に負けるわけにはいかねえんだ)
その思いを胸に秘め、相馬の拘束を振りほどこうとした。だが、強い思いを抱いていたところで、到底うまく事が運ぶものではない。何度か闇雲に体を動かそうとしたが、上に乗っていた相馬の体勢を崩すことはかなわず、回り込まれて腕ひしぎ十字固めをきめられてしまい、大雅がタップしたことによってスパーリングは終了した。
「凄かったよ、大雅! ナイスファイト!」
胸を激しく上下させながら、大の字に寝転がったままの大雅のもとに、圭二が駆け寄ってくる。
「て、てめ、……け、圭二、嫌味か、よ……」
単語のひとつひとつを口にするのもたどたどしく、声を発するのにも精一杯だ。
「大雅、休んだら、皆と合流しなさい」
相馬はそう言って、圭二を促して三笠たちに合流していった。
(クソッ……、オレだって……)
ごくりと唾を飲み込み、大雅はぐるりと体を回転させて起き上がる。額の汗をシャツの裾で拭き上げると、なんとか足裏でしっかりとマットを踏みしめて、二人のあとを追いかけた。
相馬はあきらかにやせ我慢をして食らいついてくる大雅を一瞥したが、とくになにも言わなかった。
「次はタックルの打ち込みだ」
大雅は、聞き覚えのある言葉に反応する。再び相馬と向き合うかたちとなった。
「プロ練では、百五十回が基本だ」
総合格闘技において、打ち込みとは、反復練習のことを指す。二人一組になって向かい合い、交代で相手にひたすらタックルをし続ける練習だ。受ける側は、突撃してくる相手を、転ばぬようにしっかりと受け止めてやる必要がある。タックル十五回ごとに、相手を持ち上げることによって、筋力の強化にも結びつく内容だ。両足タックル、胴タックル、片足タックルと、三種類のタックルをおこなう。そのすべてが終わる頃には、大雅の足元には水たまりのような汗だまりが出来上がっていた。
ここまでくると、息が上がっているのは、大雅だけではなかった。圭二も、そしてプロの三人も、程度の違いはあれど肩で呼吸をしていた。なにも超人的な人たちばかりが集まっているのではないのだと、大雅は少し安心する。
打ち込みが終わると、再びスパーリング。今度は、寝技のみの組み合いだ。
一ラウンド五分、インターバル一分を八ラウンド分おこなう。ラウンドが進むごとに、ローテーションで相手が変わる。ここでは階級の違いは考慮されない。
寝技があまり得意ではない大雅は、全敗だった。唯一、圭二には勝てそうに思えた局面はあったが、そこは経験の差が顕著にあらわれてしまったようだ。
トレーニングの最後は、補強と呼ばれている、つまるところ筋トレだった。
プロ練には、アマチュアの門下生がおこなうトレーニングの内容もあったが、こなす量が段違いに多かった。週に何度もこの量を当たり前のようにこなすフィジカルの強さがあってこそ、プロの格闘家を名乗れる最低のラインなのだと、大雅は思い知らされた。
トレーニングのあとは全員で輪になって黙想をする。深呼吸をして、こころを整える。道場の中にいる全員の呼吸音や空調の音が、鼓膜を包み込むように聞こえてくる。大雅は唾を飲み込み、頭の中で今日の練習内容を反復していた。なんとしてでも食らいついてやる。オレは、強くなるんだ。こんなところで、へこたれてたまるか。
パッと目を開いたとき、相馬が「今日もありがとうございました」と高らかにいった。
「ありがとうございました!」
全員の声が重なり、練習の時間は幕を閉じた。
「大雅、楽しめたか?」
あまりにも暑かったので、パンツ一丁になって床の掃除をしていた大雅のもとに、相馬がやってきた。
「はい。ありがとうございました。……その、オレにはまだまだ足りないものがたくさんあると思ったし、今日はみんなについていくのに必死でしたけど、ぜってえ、くじけずに頑張ろうと思いました」
大雅はそう言って、三笠たちとじゃれ合いながら道場の片付けをおこなっている圭二を見つめた。アイツはオレよりもずっと先を歩いている。わかっている。でも、オレは絶対にアイツに追いついて、同じ土俵の上に立ってやる。
「ありきたりな話だが、『継続は力なり』という言葉があるように、どんなものでも続ければ、必ずお前の人生の糧となっていく。今日やったトレーニングも、積み重ねていけばお前は強くなれる。まずは練習についていけるだけの……いや、あいつらに通用するだけの体力をつけるんだ。技術を習得することも大事だが、力がなくては、誰にも勝てないからな」
「はいっ!」
一緒に頑張ろうな、と、相馬は大雅の頭を撫でた。ふいに優しい言葉をかけられ、大雅の涙腺が緩む。慌てて目を伏せる。相馬は大雅の感情の揺らぎには気付かなかったふりをした。
揺れ動いた心を鎮めるために、大雅はもう汗を拭ききった床を、いつまでもゴシゴシと擦っていた。
二人組になり、足上げ腹筋を百五十回おこなう。大雅は圭二と組み、ノルマをこなしていった。
腹筋が終わったあとは、相手の脛を掴んで仰向けになり、ブリッジの体勢から足を上げる運動だ。これは十回を三セットで交代。大雅も圭二も、この頃になると息が上がり始めていた。
筋力トレーニングが終わると、二人組のままでトレーニングを続けていくが、大雅はここでは相馬と組んでトレーニング内容を習った。
「相手の胴をクラッチして、持ち上げたり下ろしたりする。これはリフトという動作だが、最初はゆっくりやってみよう。私を抱えてみろ」
大雅はぐるりと場内を見渡して、圭二たちがやっている動作を確認した。四つん這いになった相馬の胴を両腕でがばりと抱え込み、屈んだ状態からまっすぐ上に持ち上げる。
「そうだ、そのまま三秒キープして、あとはゆっくり私をおろせ」
自分の腹のあたりから、くぐもった相馬の声が聞こえてくる。
「はいっ!」
歯を食いしばって、大雅はゆっくりと再び体を屈ませた。
自分と同じくらいの体重の、大の男を持ち上げておろすのだ。相馬は敢えて脱力している様子もあったし、これは見ている以上にきついトレーニングだった。
リフトを十回三セットおこなうと、大雅の膝はぶるぶると笑っていた。汗をかきすぎて、シャツが体にはりついている。
「はじめてにしては、よくついてこれてるな」
ゼエゼエと息を整えていると、三笠がわしわしと頭を撫でてきた。
「うっ、オレ汗だくで汚いっすよ……」
「それはお互い様だ」
三笠はガハハと豪快に笑うと、ウォーターサーバーから汲んできた水を大雅に渡してくれた。
その後も複数の種目のトレーニングをおこなったあと、大雅は再び相馬とペアを組んだ。
「フリー練習だ。おまえの思った通りに動いて、私を組み伏せてみろ。もちろんこれは実戦形式だから、私も攻撃をするからな」
道場の空間は静まり返り、緊張感が漂っている。仲間たちは大雅を囲むように立ち、大雅がスパーリングを行おうとしているその姿に期待の視線を注いでいた。まさに今、大雅は自身の成長を試される瞬間を迎えようとしているといえる。
「準備はいいか?」
相馬が落ち着いた声で尋ねてくる。その目は鋭く、向かい合ったのが大雅だとしてても容赦はしないと、あえて厳しい思いを示しているかのようだった。
大雅は深呼吸をし、精神を落ち着けた。
「はい、師匠!」
大きな声で返事をするが、内心では期待と不安が入り混じっていた。相馬とのスパーリングは単なる練習ではなく、自身のいまの実力を試す貴重な機会なのだ。はたして彼の技術にどれほど対抗できるのか。ひいては、プロの格闘家を相手に、自分の積み上げてきた力は通用するのか。それを今から確かめるのだと思うと、心が震えた。
大雅は心の中で強く決意する。全力で相馬に挑む、と。
相馬はすっと構える。彼の動きはまるで風のように無駄がなかった。
大雅は呼吸を整え、じっと相手の動きを見つめ続ける。立ちはだかる相馬に対して、師匠とて、倒さねばならないと心を決める。
「何をしている。来い、大雅!」
相馬が声を発した瞬間、大雅は床を蹴って全力で前に出た。心臓が高鳴り、血が身体中を駆け巡る。
最初の一撃を放つべく、右のストレートを狙った。しかし、相馬はそれを軽々とかわし、すぐさま反撃に出た。大雅はその動きを見る間もなく、右のフックを食らい、身体が後ろに倒れ込む。
「ぐっ……!」
眉をしかめ、息を詰まらせる。
「まだまだ甘いぞ、大雅!」
相馬の声が、その冷たさを一層際立たせる。心の底からくる悔しさが広がり、思わず体を身震いさせた。
「大雅! 積極的に行け!」
圭二だ。彼の声援が、大雅の背中を押した。怖がるな、まだまだオレはやれる。それに今はまだ闘いが始まったばかりだと自分に言い聞かせる。
足を踏ん張って再び構えを取る。そのあいだに、相馬は距離を取って静かに見守っていた。冷静に大雅の動きを見守り、彼の出方を見極めようとするような表情だった。
大雅は心の中で不安を払いのけ、気持ちを立て直した。間合いを測り、相馬の動きに合わせていかなければ。
大雅は前方に進み出ながら、相馬の目をしっかりと捉えた。次の一手を狙う間に、相馬が身を低くし、前に踏み出してくる。
再度のストレートを放つ。しかし、相馬はそれをバックステップで瞬時にかわし、左のアッパーを放った。攻撃は大雅の顎に直撃した。
「ぐあっ!」
衝撃で首が跳ね上がった。おそらく相馬は攻撃の威力を緩めている。それでも、大雅の肉体をおそった衝撃は凄まじいものだった。
大雅はふらついて後ろに倒れ込み、マットに背中を打ちつけた。びしょびしょのシャツが背中の表皮にふれる。悔しさと痛みが思考を駆け巡るさなか、再び立ち上がる力を振り絞る。
「まだまだだ、立て! いけるだろ!」
三笠の声が脳に流れ込んでくる。大雅は無意識にその声に導かれるように、勢いよく立ち上がった。
「お前はまだいけるはずだ」
相馬の声。大雅はその言葉に力を得たように、構えをとった。冷静さを取り戻すことができた。相馬の動きを見ながら間合いを測る。
相馬が再度前に進みだす。やっとの思いで、大雅はその隙間を見逃さず、踏み込む。
(いくぞ、師匠!)
大雅は思い切って正面から突っ込んでの攻撃に挑んだ。しかし、相馬はその動きに瞬時に反応し、持ち前の柔軟性で体を軽く捻り、すぐさま大雅の動きに反撃を繰り出した。
(しまった……)
自分の放った前蹴りをかわされ、カウンターのように右のボディストレートが腹に直撃する。
「ぐっ……ああっ……」
思わず口から声が出てしまう。息が詰まる。
強い打撃を受けながらも、怯むわけにはいかなかった。揺らぎかけた体と思考を支え起こす。
相馬に対し、今度こそは攻撃しなければならない。その想いを胸に秘め、間合いを詰めていく。
「まだ諦めていないようだな!」
相馬が笑った。再度攻撃のチャンスを伺い、待っている様子が垣間見える。
大雅は、思うように自分のペースに運んでいけない未熟さを感じながらも、拳を放った。鮮やかに相馬がそのパンチをかわし、前蹴りで突き飛ばされた。
「ぐっ!」
まただ……。背中をマットに叩きつけられる。体力が徐々に奪われ、崩れそうになった。大雅の表情は苦痛でゆがんでいる。
(諦めるわけねえだろっ……)
大雅はすぐに立ち上がり、相馬に向かい合って構えた。相馬は静かに待ち構えていた。
(来たっ!)
刹那、相馬が前に出た。
大雅はそのタイミングを狙い、意を決して前進。一瞬の隙を突こうとするが、またしても相馬の速さに反応できず、「危ない!」と圭二の声を背中に受けた。
相馬が再度のストレートを放つ。大雅は間一髪かわしたが、体が軽く崩れ、はたりと汗がマットに散ったのが横目に見えた。
「いけるぞ、大雅!」
圭二の声が大雅を奮い立たせた。体勢を立て直し、一瞬の隙に額の汗を拭う。
大雅は攻撃のタイミングを測り、次の一手を撃ちこもうと試みた。しかし、当然というべきか、相馬には隙がなかった。
相馬が身構えて、突進してきた。すかさず大雅は身をひねる。ローキックを繰り出して牽制する。体がスムーズに動き、パチンと相馬の足首に蹴り込みを入れることに成功した。
一撃。たった一撃でも、師匠に攻撃が当たったぞ。
大雅は笑った。
「調子に乗るな」
相馬の冷たい言葉が耳に届いたその瞬間、強烈な右ストレートが腹に直撃した。咄嗟に腹筋に力を入れる。体がくの字に折れ曲がり、大雅は膝をついた。
「くそっ、だめだ、まだ……」
大雅は力を振り絞り、すぐに再び立ち上がる。しかし、目の前に立ちはだかる相馬の影がこれ以上反撃をする余地がないと、彼を怖気づかせた。
それでも必死の形相で闘いに喰らいつく。ふらふらしながらも拳を構える。
静寂が破られる瞬間、相馬のローキックが大雅の脛に叩き込まれる。「うっ」と声を漏らし、身体が崩れかけたが、寸でのところで持ちこたえた。
しかし、わずかな隙を突かれ、相馬が軽やかに飛び込んでくる。瞬時に大雅の胴を掴む。
(まただっ…!)
何度目かの衝撃に、大雅の背筋は悲鳴をあげた。冷や汗が背中を流れる。
相馬ががっしりと絡みつきを行い、大雅をマットに押し倒した。
完全に締め上げられる前になんとかしなければ……。
大雅は迫り来る相馬の胴に、自分の足を絡ませた。クローズガードだ。そのまま上体を起こし、相馬の右腕に体を近づけ、その動きを封じようと試みる。尻をすべらせて相馬をこかそうとしたが、彼の体幹はびくともしなかった。
(くそっ……、動く気配がねえっ……)
大雅は相馬の腕力で膝を押し込められ、組み込んでいた体勢をあっさり崩されてしまった。そのまま相馬の力強い抱え込みに押しつぶされてしまう。必死に体を捻るが、もがくほどに、相馬の圧力がますます強くなり、体が参ってしまう。
相馬の全身ががっつりと大雅の体を押さえつけてきた。大雅は必死に脱出を試みる。
(たとえ相手が師匠でも、オレは無様に負けるわけにはいかねえんだ)
その思いを胸に秘め、相馬の拘束を振りほどこうとした。だが、強い思いを抱いていたところで、到底うまく事が運ぶものではない。何度か闇雲に体を動かそうとしたが、上に乗っていた相馬の体勢を崩すことはかなわず、回り込まれて腕ひしぎ十字固めをきめられてしまい、大雅がタップしたことによってスパーリングは終了した。
「凄かったよ、大雅! ナイスファイト!」
胸を激しく上下させながら、大の字に寝転がったままの大雅のもとに、圭二が駆け寄ってくる。
「て、てめ、……け、圭二、嫌味か、よ……」
単語のひとつひとつを口にするのもたどたどしく、声を発するのにも精一杯だ。
「大雅、休んだら、皆と合流しなさい」
相馬はそう言って、圭二を促して三笠たちに合流していった。
(クソッ……、オレだって……)
ごくりと唾を飲み込み、大雅はぐるりと体を回転させて起き上がる。額の汗をシャツの裾で拭き上げると、なんとか足裏でしっかりとマットを踏みしめて、二人のあとを追いかけた。
相馬はあきらかにやせ我慢をして食らいついてくる大雅を一瞥したが、とくになにも言わなかった。
「次はタックルの打ち込みだ」
大雅は、聞き覚えのある言葉に反応する。再び相馬と向き合うかたちとなった。
「プロ練では、百五十回が基本だ」
総合格闘技において、打ち込みとは、反復練習のことを指す。二人一組になって向かい合い、交代で相手にひたすらタックルをし続ける練習だ。受ける側は、突撃してくる相手を、転ばぬようにしっかりと受け止めてやる必要がある。タックル十五回ごとに、相手を持ち上げることによって、筋力の強化にも結びつく内容だ。両足タックル、胴タックル、片足タックルと、三種類のタックルをおこなう。そのすべてが終わる頃には、大雅の足元には水たまりのような汗だまりが出来上がっていた。
ここまでくると、息が上がっているのは、大雅だけではなかった。圭二も、そしてプロの三人も、程度の違いはあれど肩で呼吸をしていた。なにも超人的な人たちばかりが集まっているのではないのだと、大雅は少し安心する。
打ち込みが終わると、再びスパーリング。今度は、寝技のみの組み合いだ。
一ラウンド五分、インターバル一分を八ラウンド分おこなう。ラウンドが進むごとに、ローテーションで相手が変わる。ここでは階級の違いは考慮されない。
寝技があまり得意ではない大雅は、全敗だった。唯一、圭二には勝てそうに思えた局面はあったが、そこは経験の差が顕著にあらわれてしまったようだ。
トレーニングの最後は、補強と呼ばれている、つまるところ筋トレだった。
プロ練には、アマチュアの門下生がおこなうトレーニングの内容もあったが、こなす量が段違いに多かった。週に何度もこの量を当たり前のようにこなすフィジカルの強さがあってこそ、プロの格闘家を名乗れる最低のラインなのだと、大雅は思い知らされた。
トレーニングのあとは全員で輪になって黙想をする。深呼吸をして、こころを整える。道場の中にいる全員の呼吸音や空調の音が、鼓膜を包み込むように聞こえてくる。大雅は唾を飲み込み、頭の中で今日の練習内容を反復していた。なんとしてでも食らいついてやる。オレは、強くなるんだ。こんなところで、へこたれてたまるか。
パッと目を開いたとき、相馬が「今日もありがとうございました」と高らかにいった。
「ありがとうございました!」
全員の声が重なり、練習の時間は幕を閉じた。
「大雅、楽しめたか?」
あまりにも暑かったので、パンツ一丁になって床の掃除をしていた大雅のもとに、相馬がやってきた。
「はい。ありがとうございました。……その、オレにはまだまだ足りないものがたくさんあると思ったし、今日はみんなについていくのに必死でしたけど、ぜってえ、くじけずに頑張ろうと思いました」
大雅はそう言って、三笠たちとじゃれ合いながら道場の片付けをおこなっている圭二を見つめた。アイツはオレよりもずっと先を歩いている。わかっている。でも、オレは絶対にアイツに追いついて、同じ土俵の上に立ってやる。
「ありきたりな話だが、『継続は力なり』という言葉があるように、どんなものでも続ければ、必ずお前の人生の糧となっていく。今日やったトレーニングも、積み重ねていけばお前は強くなれる。まずは練習についていけるだけの……いや、あいつらに通用するだけの体力をつけるんだ。技術を習得することも大事だが、力がなくては、誰にも勝てないからな」
「はいっ!」
一緒に頑張ろうな、と、相馬は大雅の頭を撫でた。ふいに優しい言葉をかけられ、大雅の涙腺が緩む。慌てて目を伏せる。相馬は大雅の感情の揺らぎには気付かなかったふりをした。
揺れ動いた心を鎮めるために、大雅はもう汗を拭ききった床を、いつまでもゴシゴシと擦っていた。



