サンドバッグを打つ音が好きだ。自分の体躯よりも太く、頑丈なはずのその物体を殴り、あるいは蹴り込むと、面白いほどにギシギシと揺れ、いまにも地面に落ちてきそうな音をたてる。
自分の打撃の威力に負けて、袋が破け、中身が漏れ出てきたらどうしようという妄想をする。
つぐみ道場の開設当初から、毎日のように幾人もの人間が繰り出す攻撃を受け続けてもなおびくともしないのだ。老朽化をしているならともかく、通常の使用では大雅の打撃ごときで破壊されることなどない。
大雅は、先ほどから隣のサンドバッグにミドルキックを蹴り込んでいる圭二の様子を横目で見ていた。試合が近づいていることもあり、彼は最近殺気立っていることが多くなった。
彼の邪魔をしないように、大雅は隣から離れた。圭二が凄まじい打撃音を炸裂させると、あたかも軽い振り子のように大きく揺れる無抵抗なサンドバッグは、実に哀れな過去の自分を見ているような気分になった。
「ぐげえっ!!!」
自分でも、どこからそんな声が出るのかと思うほどに喉が鳴った。蛙が潰れたときに発するような声だった。
涙目になりながらえづく。こみ上げてきたものを、必死で飲み下す。
大雅は、自分の腹を抱えるように両手で抑え、床にうずくまった。蹴り上げられた鳩尾がじんじんと痛む。息が吸えない。苦しい。
涙がぽろぽろと床に落ちていく。酸の味がする唾が口から溢れ出てきて、着ているシャツを汚した。
蹴られた衝撃で体が浮いた。そのままどしゃりと地面に崩れ落ちるまで、大雅は自分の身になにが起こったのかを理解できなかった。
「汚えなあ。さっさと立てよ」
髪の毛を掴まれる。必死で抵抗を試みるも、大人の男の腕力に、小学生である大雅が敵うはずもない。
「アッ……」
苦痛に歪んだ表情で、なんとか視界を確保しようとするも、横っ面を跳ねとばされて、壁に顔面をぶつけてしまう。
「おいおい、なに吹っ飛んでんだよ。きたねえもんを壁につけるな」
大雅の涙と鼻水が、筋となって白い壁紙を汚し、床に向かって垂れ落ちていく様子がみえる。
「ごめんなさいっ! ごめんなさい!」
男の機嫌を損ねれば、自分がどんな目に遭わされるかわからない。大雅はまるで懇願するかのように叫んだ。
「うるせえなあ、クソガキ。反省もしてねえくせに、逃げようと思ってんじゃねえぞ」
しかし、逆効果だった。大雅はまた髪の毛を引っ張られて、鼻血が出るまで殴られた。
「チッ、また逃げやがって」
大雅が体のどこかしらから流血をすると、男の暴力は止むことが多い。いくら泣き喚こうが、抵抗しようが、それを理由にいたぶることをやめようとはしないのに、と思うと不思議だった。
男は、大雅への暴力をやめると、決まってそのあとに手を洗いにいく。曰く「きたねえもんが手についたからだ」そうだ。
居間と床続きの、大雅が過ごすために与えられた部屋は、一般的に子供部屋という括りに分類されるのだろうが、大雅にとっては、いつも両親から監視され、窮屈な思いをしながらびくびくと過ごさねばならない空間であった。
大雅は床にへたりこんだまま、まだ痛みと恐怖に体を震わせていた。鼻血が床に落ちてしまわないように、必死で鼻を啜り、手の甲でごしごしと顔をこする。嗚咽を漏らせば、うるさいと再び男が激昂するかもしれないから、喉を塞ぐように声をこらえた。
それがいけなかったのかもしれない。何発も蹴りを入れられて、いまだじんじんと痛む腹に力が入ってしまい、おさまったはずの吐き気がぶり返してきた。
こらえようとすれば、それは逆効果になることを大雅は知った。
「うぐっ……」
喉がごくりと鳴る。口を抑え、目を見開いたまま起き上がる。束の間して、大雅は部屋の片隅に転がっていた洗面器の中に、胃の中の内容物を吐き出してしまった。
涙が止まらない。泣いても泣いても、自分の惨めさが露呈してくる。むしろ涙を流すことで、心の中が洗い流されて、嫌な感情まで剥き出しになってしまったかのようだった。
(せっかくごはんにありつけたのに……つぎにいつ食べさせてもらえるかなんてわからないのに……)
臭気を放つ洗面器の中身を見ながら、大雅は考えた。がっくりとうなだれる。
「おまえっ! 何やってんだよ!!」
男の怒号がとんできて、大雅はぎゅっと身を硬くした。また殴られるっ……。がたがたと全身の震えが止まらない。頭が真っ白になって、それ以上はなにも考えられなかった。
男の足音が自分のもとに近づいてきたとき、大雅はもう逃げられないと思って覚悟を決めた。
「なに目を逸らしてんだよ」
「ひっ!」
また髪の毛を掴まれて、顔を無理矢理上げさせられた。男と目が合う。血走った目。男は心の中でなにを思っているのだろう。もはや大雅に対する躾のためと思って『愛の鉄槌』を振りかざしているのではなく、自分の機嫌の向くままに、大雅に恐怖を植え付けているのは明らかだ。
「食えよ」
男が言った。聞き間違いかと思って、大雅は男の顔を見る。
「ああん? きもちわりい顔で、なに見てんだよ。聞こえなかったか? せっかく食わせてやった餌が勿体ねえだろ」
「ぎゃっ!」
洗面器の中に顔を突っ込まれる。臭気が鼻をついてくる。顔に、どろどろの生暖かい液体がまとわりつく。
「おら、なにやってんだよ。またぶん殴られてえのか?」
「あ……あぐっ……」
臭気のせいでおさまっていた吐き気がぶり返してきた。呼吸ができない。思わず口を開いた瞬間、洗面器の中身が口の中に入り込んできた。
「うっ!!! ……あがっ……あう……ぅ」
酸に灼かれてごわごわしていた口腔内を、先ほどまで自分の体内に入っていたものが溢れ込んでくる。一度空気に触れたそれをもう一度飲み込むことを、大雅の体は全身で拒んだ。それでも……。それでもこれをすべて体の中に戻せば、今日はもう殴られなくてすむのだ。ちゃんと言うことを聞く。それだけでいいのだ。
大雅は必死で抵抗してくる自分の本能に逆らって、洗面器の中身を腹に戻していった。舌を丸め、液体の味を少しでもわからないようにする。
「うわっ、こいつ、本当に飲みやがった。きたねえなあ」
男の嘲るような声が降り注いでくる。全身の力が抜け、大雅は再び崩れ落ちる。殴られることはなかったが、大雅はそのとき、心にぽっかりと穴が空いたような感覚が抜けなかった。
——あのときのオレは、アイツのサンドバッグそのものだったな。
「大雅、また怖い顔をして、どうしたんだい?」
ひとしきりサンドバッグを撃ち終えて、息の上がった圭二が大雅の横に腰を下ろした。手にもっていたペットボトルの水を、喉を鳴らしながら飲んでいる。
「うるせえ。テメエには関係ねえ」
「えっ……ごめん」
オマエがサンドバッグを揺らすのをみていて、昔のことを思い出したんだ。とは勿論言えなかった。
圭二の持っている満タンだったペットボトルは、すでに中身が半分以下にまで減っている。外装の周りに付着している結露が、圭二の手や腕を濡らし、道場のマットに滴り落ちていた。
「なあ」
大雅は言葉を放り投げるように、圭二に声をかけた。
「なんだい」
「オマエはなんで、格闘技を始めようと思ったんだ」
それは、大雅が以前から抱いていた疑問だった。体を鍛えれば筋肉はつき、格闘家として活躍するには申し分ない肉体を手に入れることが出来る。だが、他のスポーツと比べて、相手を殴り、あるいは自分が殴られ、勝敗を競い合うこの競技をおこなうには、逃れることは出来ない恐怖心に打ち勝つことからはじめなければならない。
圭二は、当初大雅が抱いていた格闘家としてのイメージとは正反対の性格をしている。いつも申し訳なさそうに眉を下げ、おどおどした様子で話しかけてくる。そのくせ、競技のこととなれば、まるで別人のように、この道場にいる誰よりもひたむきに、そしてストイックに挑んでいる。拳を解いた普段の圭二の言動が元々の彼の性格を表しているのなら、リングに上がったときのような彼の内面を呼び覚ましたのは、いったいなにものなのだろうか。
「あ、僕は、そうだな……、やっぱり、ありきたりな理由になっちゃうけど、消極的な自分を変えたかったからなんだ」
圭二はペットボトルをマットの上に置き、バンテージを巻いたままの指先で鼻の頭をこすった。見ると、少し照れくさそうに微笑を浮かべながらこちらに視線を向けている彼と直に目が合った。
「小学生のとき、いつもクラスの中心でみんなをまとめていた子がいたんだ。親の仕事の都合で、僕は途中で転校しちゃったし、教室のすみっこでひとりで過ごしているようなタイプだったから、今となってはその子の名前も覚えていないけど、彼が家庭になにか問題を抱えていそうだっていう噂はあったよ。でも、その子はそんな噂を跳ねとばすようにいつも元気いっぱいで、僕にはそれがとても羨ましくみえたんだ。当時、僕はよく分からない嫌がらせを受けていた。私物を隠すとか、読んでいた本を図書室に返されるとか、あからさまに相手の分かるようなものじゃなかったから、どうしようもなかったんだけど……。僕はいつも教室の陰からその子の姿をみていて、あんなふうになりたいなって思ってた。だってさ、その子が本当に家庭にいろんな事情を抱えていたとしても、学校では頑張ってそれをみせないようにしていた。それが、僕には凄いことのようにみえてね。強い子だな、いいな、強いのはって思ってた。結局その子とは一度も話す勇気もないままに別れることになっちゃったけど、転校して新しい環境で、僕はもっと強くなろうって思った。……それでこの道場の門を叩いたんだ」
オレだ。
心の中で、長年抱いていた疑念が確信に変わった瞬間だった。小さい頃に聴いて、ずっと心に引っかかっていた題名の知らない曲が、ある日どこかのコンビニのBGMとしてかかっているのを耳にして、思わぬ再会を果たしたかのような感覚。日常の中でおこった些末な出来事のなかに、自分の心を揺るがすような大きなきっかけが潜んでいた。なにか特別なことをしたわけではないのに、大雅は自分と圭二のえにしを、たしかに感じ取っていた。
「フン、ありきたりな理由だな」
強がることしかできなかった。あのとき、オマエを苛めていたのも、オマエが密かに憧れてくれていたのも、どちらもオレというひとりの人物なんだとは、とても言えなかった。
大雅は、自身もこの道場に通うきっかけとなった出来事を思い返していた。あの日、全力で相馬に挑んだのに、自分の拳は一発も彼には当たらなかった。今になって思えば、随分と無謀な真似をしたものだ。しかし、通りすがりに、明らかに自分を見ていた相手が、まさかプロの格闘家だったと、誰が予想できただろうか。
過去の行いは、自分に返ってくるという。因果応報だとか、自業自得だとかいう言葉であらわされるそれは、概ね悪いことのように例えられがちだが、大雅はなにも悪いことばかりが起こるわけではないと思っている。
あのとき、相馬が自分のことをじっと見ていたような気がして、見窄らしい自分を馬鹿にされているような気がした。それは結局大雅の勘違いでしかなかったのだが、相馬と自分がすれ違ったこと、彼の視線に気付いて怒りをおぼえたこと、そして無謀にも相馬に殴りかかったこと。そのひとつでも欠けていれば、いまの自分は存在していなかったかもしれない。相馬に軽くあしらわれ、畜生と歯噛みした自分がいたから、相馬の道場に通うきっかけを導いたといえる。
そして、つぐみ道場に圭二が入門していた。一度は離れたふたりの関係が、再び巡り会って交錯した。圭二はいつか、あのときのクラスメイトが大雅だったと気付くかもしれない。名前も覚えられていなかったのは、幸いだったといえるのだろうか。
休憩をし終えた圭二は、再びグローブをはめてサンドバッグに向かい合った。広い背中のシャツの皺が、より一層深くなる。拳を構えると、剥き出しの腕がきゅっと引き締まる。足を踏み込む。振り上げられた右足がサンドバッグにぶつかったとき、聴覚を打ち破るような打撃音が道場に鳴り響く。
「大雅クン、お疲れ!」
あぐらをかいたまま呆けたように圭二の練習の様子を見ていると、隣に羽生が現れた。
「お疲れ様です、羽生さん、今来られたんですか?」
「フフッ、そうなんだヨ。ボクは冴えない社畜だからねえ、残業を強いられていたのさ」
時計を見ると、時刻は夜の八時すぎをさしていた。羽生が勤める会社は、つぐみ道場の近くにあるというから、八時まで仕事をしていたのだろう。
「明日は仕事も休みだし、最近また太ってきちゃったから、運動しないといけないと思ってネ」
軍手をはめながら、羽生は言った。「大雅クンと練習をするためにも、オジサンももっと強くなって、痩せないとネ」
「はあ」
大雅と羽生は、そもそも道場に来ている目的が違う。大雅はこれからいろんな大会に出ることを想定しているが、羽生は主にフィットネス感覚で日々の練習をおこなっているのだ。
「あ、あの、師匠が許可をくれれば、オレとスパーリングやりますか?」
それでも羽生は、この道場に通い出して、もう二年が経過している。最初はぎこちなかった動きも、だんだんとさまになってきたように思える。
「い、いいのかい?」
本来ならば、無差別級でもない限り、階級の違う相手と闘うことはないのだが、この提案は練習の一環だ。
「オレ、師匠に聞いてきます」
立ち上がる。道場の真ん中で小学生相手にミットを持っていた相馬を呼んだ。
「師匠、オレと羽生さん、リングでスパーリングをやってもいいですか?」
「うおっ、おれも藤堂サンとやりてえ!」
「三樹也、流石におまえにはまだ早い」
大雅の言葉に反応して興奮気味の三樹也に釘をさしたあと、相馬は少し思案して、「寝技は禁止。ヘッドギアと足にレガースをつけること。スパーリングは一ラウンドのみとする。互いに無理のないように」
「うすっ!」
大雅はぺこりと礼をして、用具棚から二人分の防具を引っつかみ、羽生と共にリングに上がった。
「じゃあ、キミの胸を借りるつもりで、ヨロシクね」
「はい、お願いします!」
ブザーが鳴る。スパーリングの開始だ。羽生はゆっくりと構えをとった。
大雅はその動きをしっかりと見つめ、相手の反応を探った。スパーリングという名の真剣勝負に、圭二もサンドバッグを撃つ腕を止めて、こちらを見ている。
最初に大雅が仕掛けた。軽快に前へ出ながら、左のジャブを放つ。羽生は迅速にその攻撃をかわし、カウンターを狙った。大雅に比べて、彼はずんぐりとした体型であるが、思いのほか、動きは俊敏だった。羽生は大雅の足元に目をつけた。ミドルキックで大雅の左脚を狙い、きっちりと決める。大雅はレガース越しに衝撃が足に響くのを感じつつも、直ぐに体勢を整え、前に出ようとする。
その視線は強く、羽生に果敢に向かっていく。羽生はそのとき、自分の年齢の半分ほどしか生きていない大雅を相手にして闘うのは、思っていた以上に甘くなかったと感じていた。
「まだまだだ!」
大雅の声が響くと同時に、彼は素早く距離を取り、回り込みながら羽生を再び狙う。羽生はごくりと唾を飲み込み、ガードを高く上げた。
大雅はスイッチし、さらにショートフックを放つ。羽生はそれを受け流しつつ、左のローキックを返す。大雅はそれをしっかりと受け止め、しぶとく反撃する。二人の間には激しい応酬が繰り広げられ、パンチやキックの音が道場内に響き渡った。
リングの間近に立って二人を見ている圭二の目が輝いている様子が、大雅の横目に見えた。
「いいぞ、もっと打ち込め!」
圭二が叫んだのと同時に、大雅は体を小刻みに動かしながら羽生のジャブから逃れた。スウェーで一歩引いたあと、足を踏み込んでからの強烈なミドルキックを放つ。しかし、羽生は大雅の動きを読んでいて、素早く下がりながら再度反撃のタイミングを図る。
「こいよ」
大雅は挑発するように手を挙げた。羽生はニイッと微笑む。大雅の言葉に応えるかたちで間合いを詰めてきた。
大雅の闘志は、まるでより大きな火に焚きつけられるように激しさを増していく。
連続でワンツーを放つ。相手に仕掛けてくる様子が見受けられなかったため、大雅は羽生の突進に合わせ、自分も彼に急接近した。羽生はその動きを見極め、再度踏み込むが、大雅がダッキングしながら回避した。直後、そのままアッパーカットを放った。
「ぐっ……」
思わず苦悶の声を漏らす羽生。一瞬、その攻撃を食らいそうになるも、反射的に右側にあえてバランスを崩し、辛うじて避け切った。
「なかなかやりますね」
大雅は、羽生のその反応力に驚いた。一呼吸置いて、羽生が前に出る。今度は自分のターンだとばかりに彼は連続して前蹴りを放ち、大雅を詰めた。大雅は防御を固めていたので、羽生の攻撃が当たることはなかった。
時間が経過するにつれ、羽生の表情には疲れがあらわれはじめた。チャンスだ。
「大雅! 左フックだ!」
圭二だ。てめえに言われなくても分かってんだよ。
大雅は心の中で毒づき、左フックから右フックを繋げようと決めた。ゆっくりと足を進めながら、視線を羽生に固定する。
大雅の左フックが羽生の脇腹の近くに迫る。羽生は、圭二の声を聞いていたこともあってその攻撃を読んで回避した。しかし、大雅の動きは止まらない。右フックをつなげると、羽生はそれを避けられなかった。パンチが直撃し、彼は苦悶の表情を浮かべてよろめいた。
(有効打か)
大雅は内心の歓喜を噛み締めるが、羽生はすぐに立て直した。
「さすがだネ、大雅クン! なかなか効いたヨ」
(そんなに効いてねえじゃねえか)
大雅は次の攻撃に備えた。
羽生が再び前に出る。大雅はそれに合わせて、ミドルキックを繰り出した。羽生はその鋭さを感じ取り、際どいギリギリのところで受け流す。
「羽生さんナイスです!」
圭二の声援が響き渡る。てめえはどっちの味方なんだと苦笑し、大雅は体勢を整えた。
羽生はすぐに大雅に寄り添うように、ジャブからのミドルキックを放った。その瞬間、大雅は左腕でガードを固めるが、羽生のキックは見事に大雅の体を捉えた。打撃音が響き渡り、一瞬表情を明るくしたが、すぐに表情を引き締める。大雅が拳を構え直し、反撃に転じてきたのだ。
「構え直してください、羽生さん!」
圭二の声に、羽生は瞬時に姿勢を戻す。深呼吸をしながら間合いをとった。
タイマーは残り三十秒を切っていた。
大雅は、一気に畳みかける攻撃を開始した。羽生はフック、アッパーカット、そしてジャブと続け、大雅を打ち倒さんと果敢に向かってきた。だが、大雅はその動きを読んでいた。背中の動きをしっかりと固め、動きを感じながら回避する。
二人の間に打撃の応酬が交わされ、リング上の雰囲気はまるで炎が踊るような熱量を帯びていた。圭二以外の門下生たちもリングに近づいてきて、闘いを見守っていた。
その瞬間、大雅は思い切って一歩前に出た。遮二無二、猛然と突入し、羽生を捉えるべくコンビネーションを開始する。ジャブとフックを織り交ぜ、身を低く構え、再び強烈なミドルキックを放った。その勢いは凄まじく、羽生をぐらつかせる。
「いいぞ! 大雅!」
圭二の声援の矛先が再び大雅に戻ってくる。
大雅はさらに踏み込み、羽生の反応を見極めながら連打する。
心臓の高鳴りが全身に響く。「オレはもっと、強くなる」と決意しながら、拳を放つ。一連の攻撃の合間、力を振り絞り、羽生を追い詰める。
羽生のガードが甘い。このままストレートを打ち込めば、顔面を撃ち抜くことができる。
大雅が腰を引いた瞬間、ラウンドの終わりを告げるブザーが鳴った。
(あっ……)
振り抜きかけた拳を、直前で止める。いつの間にかコーナーに追い詰められていた羽生は、その場で糸が切れたようにへなへなとキャンバスの上にへたり込んでしまった。
「さ、さ、さすがだネ……。オジサン、なんにも、できな、かった、ヨ。ありがとうね、大雅クン」
四つん這いになり、羽生はゼエゼエと呼吸を荒げながら、大雅を称えた。対して大雅は、汗はかいているものの、それほど困憊した様子は見受けられない。リング外から圭二が腕を伸ばして渡してきたタオルを受け取り、そのまま羽生に差し出した。
「手合わせ、ありがとうございました。途中、生意気いってすみません」
「生意気?」
「挑発してしまったので」
「ああ、アレか。フフッ、大雅クンは普段、口数が少ない少年だからちょっと驚いたけど、ああ、やっぱりキミは闘う男の子なんだなって思ったくらいだヨ」
ちょっと休憩させてもらうヨと言って、羽生はずるずるとリングを下りていく。二人の実力の差を鑑みれば、大雅が打ち負けるという可能性は限りなく低いスパーリングではあったが、勝負に絶対の結果など存在しない。格下の相手とはいえ、相手を仕留める寸前まで持ち込めたことは、やはり嬉しくもあり、時間内に有効打を決められなかったことは悔しくもあった。これが試合だったなら、好機をひとつ、目の前で逃したということなのだから。
ここまで
「言われなくても分かってんだよ」
大雅は、目が合うなり口を開きかけた圭二の先をついて、言葉を吐き捨てた。練習とはいえ、羽生を仕留められなかったのは、痛恨だったからだ。
「えっ?」
しかし圭二は、どうやらそのことを突いてくるつもりはなかったようだ。「じゃあ、やろうか」
「はあ?」
「僕の誘いを受けてくれたんじゃないの?」
目を丸くする圭二。彼は、次に自分とスパーリングをするよう、大雅にはたらきかけようとしたのだ。思わず苦笑がこぼれる。コイツ、マジかよ。
このあと、八時半を回ればプロの格闘家たちが道場に顔を出しに来る。三人。どの男たちも、相馬が手塩にかけて育て上げ、過酷な世界で活躍する選手たちだ。
圭二はそんな彼らに混じって練習をおこなうことになっている。アマチュアが集まるこれまでの時間帯の練習とは違い、量も内容も、より厳しいものになっているだろう。なのに圭二は、休憩もろくにとらずにリングに上がろうとしている。圭二の底知れぬ体力は、いったいどこから湧き出てくるのだろうか。
「差」を見せつけられたような気がして、大雅はぐっと拳を握りしめた。その感情のまま、再び相馬の元へ歩いていく。
「師匠」
「どうした?」
相馬は三樹也にミドルキックの構えについて指導をおこなっていたが、ちらりと時計を見て、そろそろ切り上げようと考えていたようだった。
「このあとのプロ練、オレも参加させてください!」
「……そうだな。お前もこの先、プロになるつもりでいるなら良い機会だ。ただし、念のため練習が始まるまでは休憩をしていなさい。圭二とスパーリングをしようとしていたが、それはあとででも出来るからな。あとは学園に、遅くなる旨をきちんと連絡しておくように。道場の電話を使いなさい」
「はい」
頭を下げ、受付に置いてある固定電話の子機を借りる。大雅は携帯電話を持っていない。同年代の学生たちは当たり前のように持っていて、SNSやゲームなどに興を添えていたが、最初から持っていなければ、そういうものだと割り切って、とかく不便だと思ったことはない。
学園で夜勤をしている、氏原という名の職員に繋がった。彼女の声を聞くと、長いまつげと圭二のような丸い目が特徴的な顔が脳裏に浮かんだ。
大雅が帰宅が遅くなることを伝えると、「じゃあ、柴田先生には私から伝えておくから、気をつけてね」と承知してくれた。
本来ならば年齢の満たない学園の児童が夜遅くまで外出していることは施設運営の倫理に抵触するのかもしれない。だが、氏原が大雅の申し出を承認したのは、藤本の采配のおかげである。今後、もしかすると大雅の帰宅が遅くなることがあるかもしれないから、本人、あるいはつぐみ道場の相馬という男から連絡があれば、彼らの好きなようにさせてあげるようにと、学園の職員に周知があったのだ。
「藤堂くんにそこまで甘いのなら、正憲先生自身も彼に優しくしてあげればいいのにね」とは、職員間で密かに囁かれている言葉だった。氏原自身もその話にのって、「正憲先生ってツンデレなんじゃないの」とふざけて言ったら、近くに本人がいて、聞かれていないかヒヤヒヤしたことがある。
羽生たちが帰宅したあと、すれ違うように三人の男が道場に入ってきた。圭二はすでに見知った間柄であるらしく、彼らのもとに近寄って挨拶をしていたが、大雅はたまに顔を見る程度であったため、気後れして、圭二の後ろにくっついて無言のまま頭を下げるのみであった。
「大雅、こういうのは最初が肝心なんだからさ、ちゃんと自分から挨拶しなきゃ」
尻込みしているのを、目ざとく圭二に見つかってしまった。うっと息を漏らしたあと、背中を押されて三人の前に立たされる。誰とも話したことはないが、悪い人たちではなさそうなのは、一目見たときから感じていた。
「藤堂……大雅です」
この人たちは、オレの過去も、いま置かれている境遇も知らないはずだ。だから、まっさらな状態で関係を築いていける。いつもみたいに最初から躓いていては駄目だ。もう苦い思いをするのは嫌だ。
心の中ではそう思っていても、口をついて出たのは自分の名前だけだった。声が出ただけでもマシかと考える。
「おお、オマエが圭二の同級生の」
三人の中で、一番大柄な男が表情を明るくした。仕事帰りなのだろうか、ワイシャツを着ているが、その布ごしからでも彼の体格の良さがわかる。胸板は厚く、腕も太い。背負っている箱形のリュックは、大雅の背中ほどの大きさだが、彼が背負うと幾許か小さくみえた。
「おれは三笠祐二。ミドル級だ。出身は空手。よろしくな」
手が差し出される。大雅はほんの一瞬ビクッと身構えたが、三笠が握手を求めているのだと気付き、自分も手を出した。
「ぼくは梶田琢磨。一応、ローマ字でTAKUMAってリング名を名乗っている。こう見えても一応OPKDのフライ級のチャンピオンだよ」
三笠の隣の、茶髪の青年が言った。表情も口調も柔らかいが、力強い眼力でしっかりと大雅を見据えていた。フライ級ということは自分よりも体重が軽いのかと、大雅は分析をする。しかし、梶田は小柄でありながらも、三笠とおなじくらいの気迫が感じられた。
「松橋哉汰。自分はフェザー級っすね。キミが圭二とタメなら、自分はキミらの二個上ってことになるっすね。よろしくっす」
「押忍」と拳を腰の横に引きつけて、松橋は大雅に礼をした。大雅もつられて「よろしくお願いします」とぼそぼそと言った。
全員の自己紹介が終わったところを見計らったかのように、相馬がこちらに寄ってくる。三人の選手は道場の片隅に荷物を置き、素早く練習着に着替えはじめた。
「大雅は今日が、プロ練初参加だ。ちゃんとついてこいよ」
ニッと相馬が笑う。一般の門下生には「無理をしないように」と口癖のように言っていたが、いまは「ちゃんとついてこい」と言う。大雅はそれだけでも、これまで自分が触れていた世界とはひと味もふた味も違う場所に足を踏み入れたんだと思い、全身で身震いした。
「はいっ! お願いします!!」
金髪の坊主頭の頭皮から、どっと汗が噴き出してくる感覚がして、それを誤魔化すかのように大雅は声を張った。
「お、ちゃんと声でるじゃん」と、三笠に茶化されて、大雅はバツが悪そうに圭二の陰に隠れたのだった。
自分の打撃の威力に負けて、袋が破け、中身が漏れ出てきたらどうしようという妄想をする。
つぐみ道場の開設当初から、毎日のように幾人もの人間が繰り出す攻撃を受け続けてもなおびくともしないのだ。老朽化をしているならともかく、通常の使用では大雅の打撃ごときで破壊されることなどない。
大雅は、先ほどから隣のサンドバッグにミドルキックを蹴り込んでいる圭二の様子を横目で見ていた。試合が近づいていることもあり、彼は最近殺気立っていることが多くなった。
彼の邪魔をしないように、大雅は隣から離れた。圭二が凄まじい打撃音を炸裂させると、あたかも軽い振り子のように大きく揺れる無抵抗なサンドバッグは、実に哀れな過去の自分を見ているような気分になった。
「ぐげえっ!!!」
自分でも、どこからそんな声が出るのかと思うほどに喉が鳴った。蛙が潰れたときに発するような声だった。
涙目になりながらえづく。こみ上げてきたものを、必死で飲み下す。
大雅は、自分の腹を抱えるように両手で抑え、床にうずくまった。蹴り上げられた鳩尾がじんじんと痛む。息が吸えない。苦しい。
涙がぽろぽろと床に落ちていく。酸の味がする唾が口から溢れ出てきて、着ているシャツを汚した。
蹴られた衝撃で体が浮いた。そのままどしゃりと地面に崩れ落ちるまで、大雅は自分の身になにが起こったのかを理解できなかった。
「汚えなあ。さっさと立てよ」
髪の毛を掴まれる。必死で抵抗を試みるも、大人の男の腕力に、小学生である大雅が敵うはずもない。
「アッ……」
苦痛に歪んだ表情で、なんとか視界を確保しようとするも、横っ面を跳ねとばされて、壁に顔面をぶつけてしまう。
「おいおい、なに吹っ飛んでんだよ。きたねえもんを壁につけるな」
大雅の涙と鼻水が、筋となって白い壁紙を汚し、床に向かって垂れ落ちていく様子がみえる。
「ごめんなさいっ! ごめんなさい!」
男の機嫌を損ねれば、自分がどんな目に遭わされるかわからない。大雅はまるで懇願するかのように叫んだ。
「うるせえなあ、クソガキ。反省もしてねえくせに、逃げようと思ってんじゃねえぞ」
しかし、逆効果だった。大雅はまた髪の毛を引っ張られて、鼻血が出るまで殴られた。
「チッ、また逃げやがって」
大雅が体のどこかしらから流血をすると、男の暴力は止むことが多い。いくら泣き喚こうが、抵抗しようが、それを理由にいたぶることをやめようとはしないのに、と思うと不思議だった。
男は、大雅への暴力をやめると、決まってそのあとに手を洗いにいく。曰く「きたねえもんが手についたからだ」そうだ。
居間と床続きの、大雅が過ごすために与えられた部屋は、一般的に子供部屋という括りに分類されるのだろうが、大雅にとっては、いつも両親から監視され、窮屈な思いをしながらびくびくと過ごさねばならない空間であった。
大雅は床にへたりこんだまま、まだ痛みと恐怖に体を震わせていた。鼻血が床に落ちてしまわないように、必死で鼻を啜り、手の甲でごしごしと顔をこする。嗚咽を漏らせば、うるさいと再び男が激昂するかもしれないから、喉を塞ぐように声をこらえた。
それがいけなかったのかもしれない。何発も蹴りを入れられて、いまだじんじんと痛む腹に力が入ってしまい、おさまったはずの吐き気がぶり返してきた。
こらえようとすれば、それは逆効果になることを大雅は知った。
「うぐっ……」
喉がごくりと鳴る。口を抑え、目を見開いたまま起き上がる。束の間して、大雅は部屋の片隅に転がっていた洗面器の中に、胃の中の内容物を吐き出してしまった。
涙が止まらない。泣いても泣いても、自分の惨めさが露呈してくる。むしろ涙を流すことで、心の中が洗い流されて、嫌な感情まで剥き出しになってしまったかのようだった。
(せっかくごはんにありつけたのに……つぎにいつ食べさせてもらえるかなんてわからないのに……)
臭気を放つ洗面器の中身を見ながら、大雅は考えた。がっくりとうなだれる。
「おまえっ! 何やってんだよ!!」
男の怒号がとんできて、大雅はぎゅっと身を硬くした。また殴られるっ……。がたがたと全身の震えが止まらない。頭が真っ白になって、それ以上はなにも考えられなかった。
男の足音が自分のもとに近づいてきたとき、大雅はもう逃げられないと思って覚悟を決めた。
「なに目を逸らしてんだよ」
「ひっ!」
また髪の毛を掴まれて、顔を無理矢理上げさせられた。男と目が合う。血走った目。男は心の中でなにを思っているのだろう。もはや大雅に対する躾のためと思って『愛の鉄槌』を振りかざしているのではなく、自分の機嫌の向くままに、大雅に恐怖を植え付けているのは明らかだ。
「食えよ」
男が言った。聞き間違いかと思って、大雅は男の顔を見る。
「ああん? きもちわりい顔で、なに見てんだよ。聞こえなかったか? せっかく食わせてやった餌が勿体ねえだろ」
「ぎゃっ!」
洗面器の中に顔を突っ込まれる。臭気が鼻をついてくる。顔に、どろどろの生暖かい液体がまとわりつく。
「おら、なにやってんだよ。またぶん殴られてえのか?」
「あ……あぐっ……」
臭気のせいでおさまっていた吐き気がぶり返してきた。呼吸ができない。思わず口を開いた瞬間、洗面器の中身が口の中に入り込んできた。
「うっ!!! ……あがっ……あう……ぅ」
酸に灼かれてごわごわしていた口腔内を、先ほどまで自分の体内に入っていたものが溢れ込んでくる。一度空気に触れたそれをもう一度飲み込むことを、大雅の体は全身で拒んだ。それでも……。それでもこれをすべて体の中に戻せば、今日はもう殴られなくてすむのだ。ちゃんと言うことを聞く。それだけでいいのだ。
大雅は必死で抵抗してくる自分の本能に逆らって、洗面器の中身を腹に戻していった。舌を丸め、液体の味を少しでもわからないようにする。
「うわっ、こいつ、本当に飲みやがった。きたねえなあ」
男の嘲るような声が降り注いでくる。全身の力が抜け、大雅は再び崩れ落ちる。殴られることはなかったが、大雅はそのとき、心にぽっかりと穴が空いたような感覚が抜けなかった。
——あのときのオレは、アイツのサンドバッグそのものだったな。
「大雅、また怖い顔をして、どうしたんだい?」
ひとしきりサンドバッグを撃ち終えて、息の上がった圭二が大雅の横に腰を下ろした。手にもっていたペットボトルの水を、喉を鳴らしながら飲んでいる。
「うるせえ。テメエには関係ねえ」
「えっ……ごめん」
オマエがサンドバッグを揺らすのをみていて、昔のことを思い出したんだ。とは勿論言えなかった。
圭二の持っている満タンだったペットボトルは、すでに中身が半分以下にまで減っている。外装の周りに付着している結露が、圭二の手や腕を濡らし、道場のマットに滴り落ちていた。
「なあ」
大雅は言葉を放り投げるように、圭二に声をかけた。
「なんだい」
「オマエはなんで、格闘技を始めようと思ったんだ」
それは、大雅が以前から抱いていた疑問だった。体を鍛えれば筋肉はつき、格闘家として活躍するには申し分ない肉体を手に入れることが出来る。だが、他のスポーツと比べて、相手を殴り、あるいは自分が殴られ、勝敗を競い合うこの競技をおこなうには、逃れることは出来ない恐怖心に打ち勝つことからはじめなければならない。
圭二は、当初大雅が抱いていた格闘家としてのイメージとは正反対の性格をしている。いつも申し訳なさそうに眉を下げ、おどおどした様子で話しかけてくる。そのくせ、競技のこととなれば、まるで別人のように、この道場にいる誰よりもひたむきに、そしてストイックに挑んでいる。拳を解いた普段の圭二の言動が元々の彼の性格を表しているのなら、リングに上がったときのような彼の内面を呼び覚ましたのは、いったいなにものなのだろうか。
「あ、僕は、そうだな……、やっぱり、ありきたりな理由になっちゃうけど、消極的な自分を変えたかったからなんだ」
圭二はペットボトルをマットの上に置き、バンテージを巻いたままの指先で鼻の頭をこすった。見ると、少し照れくさそうに微笑を浮かべながらこちらに視線を向けている彼と直に目が合った。
「小学生のとき、いつもクラスの中心でみんなをまとめていた子がいたんだ。親の仕事の都合で、僕は途中で転校しちゃったし、教室のすみっこでひとりで過ごしているようなタイプだったから、今となってはその子の名前も覚えていないけど、彼が家庭になにか問題を抱えていそうだっていう噂はあったよ。でも、その子はそんな噂を跳ねとばすようにいつも元気いっぱいで、僕にはそれがとても羨ましくみえたんだ。当時、僕はよく分からない嫌がらせを受けていた。私物を隠すとか、読んでいた本を図書室に返されるとか、あからさまに相手の分かるようなものじゃなかったから、どうしようもなかったんだけど……。僕はいつも教室の陰からその子の姿をみていて、あんなふうになりたいなって思ってた。だってさ、その子が本当に家庭にいろんな事情を抱えていたとしても、学校では頑張ってそれをみせないようにしていた。それが、僕には凄いことのようにみえてね。強い子だな、いいな、強いのはって思ってた。結局その子とは一度も話す勇気もないままに別れることになっちゃったけど、転校して新しい環境で、僕はもっと強くなろうって思った。……それでこの道場の門を叩いたんだ」
オレだ。
心の中で、長年抱いていた疑念が確信に変わった瞬間だった。小さい頃に聴いて、ずっと心に引っかかっていた題名の知らない曲が、ある日どこかのコンビニのBGMとしてかかっているのを耳にして、思わぬ再会を果たしたかのような感覚。日常の中でおこった些末な出来事のなかに、自分の心を揺るがすような大きなきっかけが潜んでいた。なにか特別なことをしたわけではないのに、大雅は自分と圭二のえにしを、たしかに感じ取っていた。
「フン、ありきたりな理由だな」
強がることしかできなかった。あのとき、オマエを苛めていたのも、オマエが密かに憧れてくれていたのも、どちらもオレというひとりの人物なんだとは、とても言えなかった。
大雅は、自身もこの道場に通うきっかけとなった出来事を思い返していた。あの日、全力で相馬に挑んだのに、自分の拳は一発も彼には当たらなかった。今になって思えば、随分と無謀な真似をしたものだ。しかし、通りすがりに、明らかに自分を見ていた相手が、まさかプロの格闘家だったと、誰が予想できただろうか。
過去の行いは、自分に返ってくるという。因果応報だとか、自業自得だとかいう言葉であらわされるそれは、概ね悪いことのように例えられがちだが、大雅はなにも悪いことばかりが起こるわけではないと思っている。
あのとき、相馬が自分のことをじっと見ていたような気がして、見窄らしい自分を馬鹿にされているような気がした。それは結局大雅の勘違いでしかなかったのだが、相馬と自分がすれ違ったこと、彼の視線に気付いて怒りをおぼえたこと、そして無謀にも相馬に殴りかかったこと。そのひとつでも欠けていれば、いまの自分は存在していなかったかもしれない。相馬に軽くあしらわれ、畜生と歯噛みした自分がいたから、相馬の道場に通うきっかけを導いたといえる。
そして、つぐみ道場に圭二が入門していた。一度は離れたふたりの関係が、再び巡り会って交錯した。圭二はいつか、あのときのクラスメイトが大雅だったと気付くかもしれない。名前も覚えられていなかったのは、幸いだったといえるのだろうか。
休憩をし終えた圭二は、再びグローブをはめてサンドバッグに向かい合った。広い背中のシャツの皺が、より一層深くなる。拳を構えると、剥き出しの腕がきゅっと引き締まる。足を踏み込む。振り上げられた右足がサンドバッグにぶつかったとき、聴覚を打ち破るような打撃音が道場に鳴り響く。
「大雅クン、お疲れ!」
あぐらをかいたまま呆けたように圭二の練習の様子を見ていると、隣に羽生が現れた。
「お疲れ様です、羽生さん、今来られたんですか?」
「フフッ、そうなんだヨ。ボクは冴えない社畜だからねえ、残業を強いられていたのさ」
時計を見ると、時刻は夜の八時すぎをさしていた。羽生が勤める会社は、つぐみ道場の近くにあるというから、八時まで仕事をしていたのだろう。
「明日は仕事も休みだし、最近また太ってきちゃったから、運動しないといけないと思ってネ」
軍手をはめながら、羽生は言った。「大雅クンと練習をするためにも、オジサンももっと強くなって、痩せないとネ」
「はあ」
大雅と羽生は、そもそも道場に来ている目的が違う。大雅はこれからいろんな大会に出ることを想定しているが、羽生は主にフィットネス感覚で日々の練習をおこなっているのだ。
「あ、あの、師匠が許可をくれれば、オレとスパーリングやりますか?」
それでも羽生は、この道場に通い出して、もう二年が経過している。最初はぎこちなかった動きも、だんだんとさまになってきたように思える。
「い、いいのかい?」
本来ならば、無差別級でもない限り、階級の違う相手と闘うことはないのだが、この提案は練習の一環だ。
「オレ、師匠に聞いてきます」
立ち上がる。道場の真ん中で小学生相手にミットを持っていた相馬を呼んだ。
「師匠、オレと羽生さん、リングでスパーリングをやってもいいですか?」
「うおっ、おれも藤堂サンとやりてえ!」
「三樹也、流石におまえにはまだ早い」
大雅の言葉に反応して興奮気味の三樹也に釘をさしたあと、相馬は少し思案して、「寝技は禁止。ヘッドギアと足にレガースをつけること。スパーリングは一ラウンドのみとする。互いに無理のないように」
「うすっ!」
大雅はぺこりと礼をして、用具棚から二人分の防具を引っつかみ、羽生と共にリングに上がった。
「じゃあ、キミの胸を借りるつもりで、ヨロシクね」
「はい、お願いします!」
ブザーが鳴る。スパーリングの開始だ。羽生はゆっくりと構えをとった。
大雅はその動きをしっかりと見つめ、相手の反応を探った。スパーリングという名の真剣勝負に、圭二もサンドバッグを撃つ腕を止めて、こちらを見ている。
最初に大雅が仕掛けた。軽快に前へ出ながら、左のジャブを放つ。羽生は迅速にその攻撃をかわし、カウンターを狙った。大雅に比べて、彼はずんぐりとした体型であるが、思いのほか、動きは俊敏だった。羽生は大雅の足元に目をつけた。ミドルキックで大雅の左脚を狙い、きっちりと決める。大雅はレガース越しに衝撃が足に響くのを感じつつも、直ぐに体勢を整え、前に出ようとする。
その視線は強く、羽生に果敢に向かっていく。羽生はそのとき、自分の年齢の半分ほどしか生きていない大雅を相手にして闘うのは、思っていた以上に甘くなかったと感じていた。
「まだまだだ!」
大雅の声が響くと同時に、彼は素早く距離を取り、回り込みながら羽生を再び狙う。羽生はごくりと唾を飲み込み、ガードを高く上げた。
大雅はスイッチし、さらにショートフックを放つ。羽生はそれを受け流しつつ、左のローキックを返す。大雅はそれをしっかりと受け止め、しぶとく反撃する。二人の間には激しい応酬が繰り広げられ、パンチやキックの音が道場内に響き渡った。
リングの間近に立って二人を見ている圭二の目が輝いている様子が、大雅の横目に見えた。
「いいぞ、もっと打ち込め!」
圭二が叫んだのと同時に、大雅は体を小刻みに動かしながら羽生のジャブから逃れた。スウェーで一歩引いたあと、足を踏み込んでからの強烈なミドルキックを放つ。しかし、羽生は大雅の動きを読んでいて、素早く下がりながら再度反撃のタイミングを図る。
「こいよ」
大雅は挑発するように手を挙げた。羽生はニイッと微笑む。大雅の言葉に応えるかたちで間合いを詰めてきた。
大雅の闘志は、まるでより大きな火に焚きつけられるように激しさを増していく。
連続でワンツーを放つ。相手に仕掛けてくる様子が見受けられなかったため、大雅は羽生の突進に合わせ、自分も彼に急接近した。羽生はその動きを見極め、再度踏み込むが、大雅がダッキングしながら回避した。直後、そのままアッパーカットを放った。
「ぐっ……」
思わず苦悶の声を漏らす羽生。一瞬、その攻撃を食らいそうになるも、反射的に右側にあえてバランスを崩し、辛うじて避け切った。
「なかなかやりますね」
大雅は、羽生のその反応力に驚いた。一呼吸置いて、羽生が前に出る。今度は自分のターンだとばかりに彼は連続して前蹴りを放ち、大雅を詰めた。大雅は防御を固めていたので、羽生の攻撃が当たることはなかった。
時間が経過するにつれ、羽生の表情には疲れがあらわれはじめた。チャンスだ。
「大雅! 左フックだ!」
圭二だ。てめえに言われなくても分かってんだよ。
大雅は心の中で毒づき、左フックから右フックを繋げようと決めた。ゆっくりと足を進めながら、視線を羽生に固定する。
大雅の左フックが羽生の脇腹の近くに迫る。羽生は、圭二の声を聞いていたこともあってその攻撃を読んで回避した。しかし、大雅の動きは止まらない。右フックをつなげると、羽生はそれを避けられなかった。パンチが直撃し、彼は苦悶の表情を浮かべてよろめいた。
(有効打か)
大雅は内心の歓喜を噛み締めるが、羽生はすぐに立て直した。
「さすがだネ、大雅クン! なかなか効いたヨ」
(そんなに効いてねえじゃねえか)
大雅は次の攻撃に備えた。
羽生が再び前に出る。大雅はそれに合わせて、ミドルキックを繰り出した。羽生はその鋭さを感じ取り、際どいギリギリのところで受け流す。
「羽生さんナイスです!」
圭二の声援が響き渡る。てめえはどっちの味方なんだと苦笑し、大雅は体勢を整えた。
羽生はすぐに大雅に寄り添うように、ジャブからのミドルキックを放った。その瞬間、大雅は左腕でガードを固めるが、羽生のキックは見事に大雅の体を捉えた。打撃音が響き渡り、一瞬表情を明るくしたが、すぐに表情を引き締める。大雅が拳を構え直し、反撃に転じてきたのだ。
「構え直してください、羽生さん!」
圭二の声に、羽生は瞬時に姿勢を戻す。深呼吸をしながら間合いをとった。
タイマーは残り三十秒を切っていた。
大雅は、一気に畳みかける攻撃を開始した。羽生はフック、アッパーカット、そしてジャブと続け、大雅を打ち倒さんと果敢に向かってきた。だが、大雅はその動きを読んでいた。背中の動きをしっかりと固め、動きを感じながら回避する。
二人の間に打撃の応酬が交わされ、リング上の雰囲気はまるで炎が踊るような熱量を帯びていた。圭二以外の門下生たちもリングに近づいてきて、闘いを見守っていた。
その瞬間、大雅は思い切って一歩前に出た。遮二無二、猛然と突入し、羽生を捉えるべくコンビネーションを開始する。ジャブとフックを織り交ぜ、身を低く構え、再び強烈なミドルキックを放った。その勢いは凄まじく、羽生をぐらつかせる。
「いいぞ! 大雅!」
圭二の声援の矛先が再び大雅に戻ってくる。
大雅はさらに踏み込み、羽生の反応を見極めながら連打する。
心臓の高鳴りが全身に響く。「オレはもっと、強くなる」と決意しながら、拳を放つ。一連の攻撃の合間、力を振り絞り、羽生を追い詰める。
羽生のガードが甘い。このままストレートを打ち込めば、顔面を撃ち抜くことができる。
大雅が腰を引いた瞬間、ラウンドの終わりを告げるブザーが鳴った。
(あっ……)
振り抜きかけた拳を、直前で止める。いつの間にかコーナーに追い詰められていた羽生は、その場で糸が切れたようにへなへなとキャンバスの上にへたり込んでしまった。
「さ、さ、さすがだネ……。オジサン、なんにも、できな、かった、ヨ。ありがとうね、大雅クン」
四つん這いになり、羽生はゼエゼエと呼吸を荒げながら、大雅を称えた。対して大雅は、汗はかいているものの、それほど困憊した様子は見受けられない。リング外から圭二が腕を伸ばして渡してきたタオルを受け取り、そのまま羽生に差し出した。
「手合わせ、ありがとうございました。途中、生意気いってすみません」
「生意気?」
「挑発してしまったので」
「ああ、アレか。フフッ、大雅クンは普段、口数が少ない少年だからちょっと驚いたけど、ああ、やっぱりキミは闘う男の子なんだなって思ったくらいだヨ」
ちょっと休憩させてもらうヨと言って、羽生はずるずるとリングを下りていく。二人の実力の差を鑑みれば、大雅が打ち負けるという可能性は限りなく低いスパーリングではあったが、勝負に絶対の結果など存在しない。格下の相手とはいえ、相手を仕留める寸前まで持ち込めたことは、やはり嬉しくもあり、時間内に有効打を決められなかったことは悔しくもあった。これが試合だったなら、好機をひとつ、目の前で逃したということなのだから。
ここまで
「言われなくても分かってんだよ」
大雅は、目が合うなり口を開きかけた圭二の先をついて、言葉を吐き捨てた。練習とはいえ、羽生を仕留められなかったのは、痛恨だったからだ。
「えっ?」
しかし圭二は、どうやらそのことを突いてくるつもりはなかったようだ。「じゃあ、やろうか」
「はあ?」
「僕の誘いを受けてくれたんじゃないの?」
目を丸くする圭二。彼は、次に自分とスパーリングをするよう、大雅にはたらきかけようとしたのだ。思わず苦笑がこぼれる。コイツ、マジかよ。
このあと、八時半を回ればプロの格闘家たちが道場に顔を出しに来る。三人。どの男たちも、相馬が手塩にかけて育て上げ、過酷な世界で活躍する選手たちだ。
圭二はそんな彼らに混じって練習をおこなうことになっている。アマチュアが集まるこれまでの時間帯の練習とは違い、量も内容も、より厳しいものになっているだろう。なのに圭二は、休憩もろくにとらずにリングに上がろうとしている。圭二の底知れぬ体力は、いったいどこから湧き出てくるのだろうか。
「差」を見せつけられたような気がして、大雅はぐっと拳を握りしめた。その感情のまま、再び相馬の元へ歩いていく。
「師匠」
「どうした?」
相馬は三樹也にミドルキックの構えについて指導をおこなっていたが、ちらりと時計を見て、そろそろ切り上げようと考えていたようだった。
「このあとのプロ練、オレも参加させてください!」
「……そうだな。お前もこの先、プロになるつもりでいるなら良い機会だ。ただし、念のため練習が始まるまでは休憩をしていなさい。圭二とスパーリングをしようとしていたが、それはあとででも出来るからな。あとは学園に、遅くなる旨をきちんと連絡しておくように。道場の電話を使いなさい」
「はい」
頭を下げ、受付に置いてある固定電話の子機を借りる。大雅は携帯電話を持っていない。同年代の学生たちは当たり前のように持っていて、SNSやゲームなどに興を添えていたが、最初から持っていなければ、そういうものだと割り切って、とかく不便だと思ったことはない。
学園で夜勤をしている、氏原という名の職員に繋がった。彼女の声を聞くと、長いまつげと圭二のような丸い目が特徴的な顔が脳裏に浮かんだ。
大雅が帰宅が遅くなることを伝えると、「じゃあ、柴田先生には私から伝えておくから、気をつけてね」と承知してくれた。
本来ならば年齢の満たない学園の児童が夜遅くまで外出していることは施設運営の倫理に抵触するのかもしれない。だが、氏原が大雅の申し出を承認したのは、藤本の采配のおかげである。今後、もしかすると大雅の帰宅が遅くなることがあるかもしれないから、本人、あるいはつぐみ道場の相馬という男から連絡があれば、彼らの好きなようにさせてあげるようにと、学園の職員に周知があったのだ。
「藤堂くんにそこまで甘いのなら、正憲先生自身も彼に優しくしてあげればいいのにね」とは、職員間で密かに囁かれている言葉だった。氏原自身もその話にのって、「正憲先生ってツンデレなんじゃないの」とふざけて言ったら、近くに本人がいて、聞かれていないかヒヤヒヤしたことがある。
羽生たちが帰宅したあと、すれ違うように三人の男が道場に入ってきた。圭二はすでに見知った間柄であるらしく、彼らのもとに近寄って挨拶をしていたが、大雅はたまに顔を見る程度であったため、気後れして、圭二の後ろにくっついて無言のまま頭を下げるのみであった。
「大雅、こういうのは最初が肝心なんだからさ、ちゃんと自分から挨拶しなきゃ」
尻込みしているのを、目ざとく圭二に見つかってしまった。うっと息を漏らしたあと、背中を押されて三人の前に立たされる。誰とも話したことはないが、悪い人たちではなさそうなのは、一目見たときから感じていた。
「藤堂……大雅です」
この人たちは、オレの過去も、いま置かれている境遇も知らないはずだ。だから、まっさらな状態で関係を築いていける。いつもみたいに最初から躓いていては駄目だ。もう苦い思いをするのは嫌だ。
心の中ではそう思っていても、口をついて出たのは自分の名前だけだった。声が出ただけでもマシかと考える。
「おお、オマエが圭二の同級生の」
三人の中で、一番大柄な男が表情を明るくした。仕事帰りなのだろうか、ワイシャツを着ているが、その布ごしからでも彼の体格の良さがわかる。胸板は厚く、腕も太い。背負っている箱形のリュックは、大雅の背中ほどの大きさだが、彼が背負うと幾許か小さくみえた。
「おれは三笠祐二。ミドル級だ。出身は空手。よろしくな」
手が差し出される。大雅はほんの一瞬ビクッと身構えたが、三笠が握手を求めているのだと気付き、自分も手を出した。
「ぼくは梶田琢磨。一応、ローマ字でTAKUMAってリング名を名乗っている。こう見えても一応OPKDのフライ級のチャンピオンだよ」
三笠の隣の、茶髪の青年が言った。表情も口調も柔らかいが、力強い眼力でしっかりと大雅を見据えていた。フライ級ということは自分よりも体重が軽いのかと、大雅は分析をする。しかし、梶田は小柄でありながらも、三笠とおなじくらいの気迫が感じられた。
「松橋哉汰。自分はフェザー級っすね。キミが圭二とタメなら、自分はキミらの二個上ってことになるっすね。よろしくっす」
「押忍」と拳を腰の横に引きつけて、松橋は大雅に礼をした。大雅もつられて「よろしくお願いします」とぼそぼそと言った。
全員の自己紹介が終わったところを見計らったかのように、相馬がこちらに寄ってくる。三人の選手は道場の片隅に荷物を置き、素早く練習着に着替えはじめた。
「大雅は今日が、プロ練初参加だ。ちゃんとついてこいよ」
ニッと相馬が笑う。一般の門下生には「無理をしないように」と口癖のように言っていたが、いまは「ちゃんとついてこい」と言う。大雅はそれだけでも、これまで自分が触れていた世界とはひと味もふた味も違う場所に足を踏み入れたんだと思い、全身で身震いした。
「はいっ! お願いします!!」
金髪の坊主頭の頭皮から、どっと汗が噴き出してくる感覚がして、それを誤魔化すかのように大雅は声を張った。
「お、ちゃんと声でるじゃん」と、三笠に茶化されて、大雅はバツが悪そうに圭二の陰に隠れたのだった。



