学園内で藤本の姿を見るたびに、大雅の全身は強ばってしまう。誰かに対して後ろめたい気持ちがあるとか、苦手な人と対面したときは、自分の所作のひとつひとつにやたら気を遣ってしまい、余計に気が疲れてしまうのだ。
 病気にかかって就業継続が困難になったとか、なんらかの理由でこの世からいなくなるとか、そんな理由ではない限り、施設長である藤本が、しょうりつ学園から消えることはないだろう。
 陽太がいなければ、大雅はもっと窮屈な思いをしながら学園での生活をおくらなければならなかったかもしれない。
「藤堂大雅」
 急いで厨房に向かう途中、突如背後から声をかけられた。ぎくりと身を震わせて、立ち止まる。体が硬くなる。
「あ、正憲先生……」
 大雅は喉から絞り出したような声で、やっとのことで言葉を絞り出した。「すみません、すぐに厨房に行きます」
 咎められるより先に、自分から謝罪をしておこうと思った。ただでさえ嫌われているのだ。出来ることなら極力関わりたくはなかった。
「分かっているのなら、なぜ言われたとおりのことができないんだ?」
「よ……」
 陽太に、と言いかけてやめた。口をつぐむ。なにを言っても言い訳にしか捉えなさそうで、いまは彼を巻き込むわけにはいかないと思ったのだ。
「すみません、時計をみていませんでした」
 言いながら体が動いていた。藤本のもとから逃げるように、小走りで厨房に向かった。

「すみません! 遅くなりました」
 さっきから謝ってばかりだと思いながら厨房に駆け込む。
「陽太と遊んでたのか?」
 多枝が大量の玉ねぎをみじん切りにしている。今日のメニューはハンバーグだと献立には書いてあった。
「はい、アイツに呼ばれたもんで、キャッチボールをしていました」
「あら、たまには遊んできなさいよ。こっちはべつに大丈夫なんだから」
 パックから挽肉を取り出しながら、織田が口を挟んできた。
「そんなわけにはいきません」
「マサノリさんがうるさいから?」
 織田はそう言ってにやりと笑った。どう答えていいのか分からず、途端に大雅は口ごもる。
「んもぉ、大雅くんは意外と真面目なんだからぁ! そんな真剣に考えなくて大丈夫よ。オバハンの冗談だって受け流しなさいな」
 織田からすれば冗談なのかもしれないが、一瞬戸惑ったということは、少なからず自分の中にそんな想いがあるのだ。
 大雅は織田に苦笑することで自分の感情を伝えたあと、手を洗い、寸胴の鍋に水を入れた。味噌汁を作るのだ。具材はすでに切りそろえてくれている。
 さっき織田が言った「こっちはべつに大丈夫なんだから」という言葉に害意はないのは分かっているが、たしかに自分がここにいてもいなくても、どちらでもいいよなと思った。
 厨房の業務は本来、雇用されている職員のみで対応が可能だ。そこに大雅が入り込んでいるのは、職員に対する業務の負担軽減のためではない。大雅がしょうりつ学園で生活を続ける口実を作っているだけだ。
 決められた時間に決められたことをするというのは、広義でいえば社会訓練に繋がるだろうが、大雅が怪我をしないか、あるいは調理に失敗して食事を出せなくなってしまわないか、など、職員は気を張って見守りをする必要がある。織田も多枝も口には出さないが、むしろ大雅が厨房にいるほうが、職員の負担が増えるといっても過言ではない。
 大雅は幼い頃から人の顔色をうかがう癖があったから、他人の言葉には敏感であった。敏感であるだけだったらまだ良かったが、それを悪いほうに捉えてしまう節がある。
 鍋に大根と油揚げを入れながら、大雅は悶々と考えていた。本当は織田も多岐も、自分のことを疎ましく思っているのではないか。
オレがいるから、そのぶん気を遣ってスムーズに事が進まないことだってあるんじゃないのか。
自分の中だけで思いを張り巡らせていても、どうにもならないことも分かっている。かといって、相手に言葉の真意を尋ねられるほどの度胸はない。聞いたほうがすっきりするというのに、自分の想像がもしも現実になってしまったときに、心に深い傷を負ってしまいそうな気がする。多くの場合、自分の中で悶々と考えている物事は、考えるだけ無駄なのだが、大雅がその事実を知るには、まだ若すぎた。
「でもねえ、ほんとにいいのよ。あ、べつに大雅くんが邪魔とか、そういう意味で言ってるんじゃないのよ。あなたが手伝ってくれるようになって、あたしたちもちゃんと助かってるし。でも、子供であるうちは、ちゃんと遊ばないと。大人になるとね、仕事に追われて余裕がなくなって、遊びたいときに遊べないことだってあるのよ。ねえ、多岐くん」
「はあ、まあ、そうですね。織田さんは大雅が来てから、手より口のほうが動いていますけどね」
「まあ! あんたが喋らないから、そのぶん余計に喋ってあげてるんじゃないの!」
「変なところに気を遣っていただかなくて大丈夫ですよ」
「そうだ、大雅くん、あなたも多岐くんみたいにここに就職しなさいな。そしたらお給料ももらえるし、訳も分からないまま、学園の外にほっぽり出されずに済むでしょうに。……あ、でも大雅くんはマサノリさんが苦手そうだから、そういうわけにはいかないか!」
 織田は、大雅が返事をする隙も与えずに、ひとりで喋ってひとりで笑っている。火が通って透明になっていく大根を眺めながら、大雅は苦笑いを浮かべるしかなかった。
 将来のことか、と、大雅は考える。
 相馬が突然、「大雅、お前は格闘技で食っていく気はないのか」と聞いてきたのは
ついこのあいだのことだった。圭二とのスパーリングでリング上でこてんぱんにやられたあと、シャツを脱いで体中の汗を拭いていたときに、ふいに声をかけられたのだ。
「師匠、それは、オレにも見込みがあるということですか?」
 圭二のようにとは、言わなかった。自分がどう足掻いたとしても、彼に対してなにを思っていたとしても、圭二が大雅よりも強く、またプロの世界を目指せるレベルだということは、日々の鍛錬のなかで痛感している。同時に相馬が、根拠のない提案をしてくる人物ではないことも分かっている。大雅のレベルが低く、格闘家として世に出ていくレベルに達していないのだとしたら、相馬はこんな夢物語のようなことは言ってこないはずだ。
「それは大雅、お前次第だ。お前も分かっているとは思うが、私は無碍に、絶対お前がプロの選手として活躍できるだろうとはいわない。私が大雅をいくらお膳立てしようが、実際にリングに上がるのは大雅だからな」
「はい。それでも、こんなオレにチャンスを貰えるのなら、精一杯頑張りたいと思います」
 相馬は目を細めて微笑を浮かべた。相馬にとって大雅は、まだ幼気な少年だ。驚くほどに青い。自分が大雅と同じ歳だったときにも、周りの大人たちからはそう思われていたのだろうか。
 つぐみ道場で大雅の身を一時的に預かる以上、相馬は、彼の事情についてを知っておく必要があった。

あの日——初めて大雅と相馬が会った日、相馬にはよもや大雅が、一人の少年が背負うには、あまりにも凄惨すぎる過去を持っていようとは、微塵たりとも思わなかった。自分に因縁をつけてきた、よくいる不良気取りのクソガキの一人にみえた。
 だが、中学生の少年にしては、当時の大雅はあまりにも表情に生気がなかった。世の中の何もかもを諦めて、生命維持の機能が体内に残っているからただ生きているだけの人間——一目見たときにそう感じたから、大雅と目が合うまで彼から視線を外せなかったのかもしれない。
「なに見てんだよ、テメエ」
 相馬の視線に気付いた大雅の、声変わりのしていない声が届いたとき、相馬ははじめて自分の視線が彼に釘付けになっていたことに気付いた。
「すまない、なんでもないよ」
 相馬は穏便に事を済まそうとした。自分はプロの格闘家として、そしてなによりも健全な武道を極めんとする者として、道端ですれ違っただけの少年の挑発に乗るわけにはいかなかった。
 なおも自分のことを睨め上げる大雅の視線に気付かないふりをして、相馬はスッと彼の横を通り抜けようとした。が、その歩みはすぐに阻まれてしまった。
「おい、シカトこいてんじゃねえぞ!」
 大雅の半袖のシャツから伸びる細い手が、相馬の腕をがっしりと掴んだのだ。その力は、獲物を捕らえた蛇の咬合のように、思いのほか強かった。
「スカしやがって。ずっとオレのことを見ていただろうが!」
 目の前の少年は、自分が他人に見られるということを極端に嫌がってしまう質なのかと、相馬は考えた。直後、考え続ける余裕すら与えられず、大雅が空いている方の手で拳を作り、それを大きく振るって殴りかかってきた。
(こいつ……)
 飄々とやり過ごそうとした相馬の表情が、にわかに険しくなる。振り切った拳が空をきって驚いたのか、大雅は目を見開いている。こんなに至近距離で、自分のパンチが空振るとは思ってもいなかったのだろう。
 だが相馬は何年も過酷な鍛錬に耐え、己を鍛え抜いた格闘家なのだ。素人の、それも子供の振るったパンチなどを見切るには造作もないことだった。
 大雅は、少し狼狽したような色を目に浮かべて、相馬の腕を掴んでいた手を放し、両の拳を顔の前に構えてみせた。彼の表情からは、自分から仕掛け、因縁をつけた相手を前にして引き下がるわけにはいかないと、青臭い執念が垣間見えた。
(なかなか構えがしっかりしている)
 相馬の、人を指導する立場になった格闘家としての血が騒いだ。自分の威厳を保とうと躍起になっている目の前の少年は、さっきのパンチからするに、格闘技など経験したこともない人間だろう。だのに防御にも通用する拳の構えは、素人ながらそれなりに隙がない状態にできあがっていた。
 これは天賦の才か。あるいは別の理由か。
 元々そんなに栄えていない街の路地裏での二人の対面だ。それを咎める第三者は存在せず、故に思う存分、大雅は拳を振るうことができる。それが相手に炸裂するかどうかは、また別の話だが。

「ジロジロ見てきたくせに、逃げてんじゃねえぞ!!」
 言葉少なに、闇雲にパンチを繰り出していた大雅だったが、その顔に浮かぶ狼狽の色は、時間が経つにつれてどんどん濃くなっていった。
 自身の放つ攻撃のすべてをかわされているという現実は、本人の思っている以上に彼の心を蝕んでいった。着ているシャツが汗を吸い、彼の体にはりついてきたころ、ついに彼は地面に崩れ落ちた。
 言葉少なにがむしゃらに立ち向かっていた大雅だったが、相馬に攻撃のすべてをひらりとかわされ、あるいは受け流され、情けないことに力尽きたのだ。
 四つん這いになり、ぜえぜえと激しく呼吸を繰り返す大雅は、悔しそうにアスファルトの地面を殴った。その衝撃で拳骨の皮膚が擦りむけ、じわりと血が滲んだ。
「くそっ……くそっ……、なんで当たらねえんだよっ……」
 感情を押し殺したような大雅の嘆きは、相馬に向けられたものではなく、むしろ己の内に訴えかけるような響きだった。相馬はもう、目の前の少年を見捨てて、この場から立ち去ることも出来ただろうが、足が地面に貼りついたかのように動くことができなかった。
 なぜだろうか。とっくに力尽きて地に伏したというのに、まだ自分を倒すことを諦めていなさそうな大雅を見て、相馬は彼を放っておくわけにはいかないと思った。
「君、そんなに地面を殴っていたら、拳が壊れてしまうからやめなさい。血が出ているじゃないか」
「テメエにはカンケーねえだろ」
 悔しまぎれの虚勢だということは分かった。まるで、行き場のない感情のすべてを吐露するかのように、大雅は蹲ったまま自分の拳を地面に振り下ろし続けていた。
 自傷をも厭わないほど、感情表現が下手なのか、この子は……。
「やめなさいと言っているだろう!」
 気がつけば、相馬は声を張っていた。感情のままに語気を強めたのは久しぶりだった。直後、今度は相馬が狼狽する番だった。
 大雅が震えているのだ。さっきまであんなに勢いづいて相馬に歯向かっていた彼が、いまはぎゅっと目を瞑り、頭を庇うように丸まって震えている。怯えていることは明確だ。
 怒鳴りつけたつもりはない。少し声を張って、彼の自傷行為を止めようとしただけだ。
「君、大丈夫か?」
 相馬はしゃがみ込み、そっと大雅の背中に手を触れた。
「ひっ!」
 怯えた声。全身が強ばっている。どうしたんだ、いきなり。相馬は眉をひそめた。
「心配しなくても、私は君を殴ったりはしないよ」
 報復を恐れているのかもしれないと相馬は考えた。どれだけいきり立ってみたところで、中身は所詮子供なのだ。一度萎れてしまった闘争心を立て直すことは困難で、スイッチが切れてしまえば、途端に臆病な一面が顔を見せてしまうのか。
「大丈夫か?」
 大雅にとってもはや脅威はないというのに、彼はいつまで経っても蹲ったままであった。
「……立ちなさい。傷の手当てをしてあげるから、私についてきてくれ」
 大雅の拳を染める血は、痛々しいほどに流れ出ていた。道路に散らばる砂利も拳に付着している。放っておけば雑菌が繁殖して傷が化膿してしまうかもしれない。
 大雅は抵抗することなく、相馬の言葉に従った。激しく抗ってきたり、あるいはテコでもここから動かないように意地を張るのではないかと思っていたが、急に従順になった大雅をみて、相馬は拍子抜けした。
 つぐみ道場までの道中、大雅は一言も言葉を発さなかった。握りこぶしをぎゅっと体の横に構え、黙って相馬の半歩後ろをついてくる。あまりにも汗をかいているので、相馬が気の毒に思って自動販売機でペットボトルのスポーツドリンクを買い与えたときも、大雅はぺこりと頭を下げて受け取っただけだった。
(この少年は何を背負い、何を感じているのだろうか……)
 映るものすべてを拒むかのような目つき。敵対心を剥き出しにしたと思ったら、一言大きな声を出しただけで、途端に怯え出した様子。『普通』と言わしめる定義は人によって曖昧だが、この子はその辺にいるような普通の少年ではないと、相馬は思っていた。
 
道場に到着し、建物の前に立ったとき、大雅は初めて顔を上げた。口を半開きにし、一心に道場の看板を見つめている。
「ここは私が運営する総合格闘技の道場だよ」
 大雅は、声に反応して相馬を一瞥したが、すぐに視線を看板に戻した。ものを言わぬ彼が何を考えているのかは、相馬には分からなかった。
 相馬は大雅を道場の中に招き入れ、まずはシャワーを浴びるように伝えた。大雅はまたもや従順に、その言葉に従った。シャワーを浴びているあいだに、彼が着ていた服を洗濯機に放り込む。着替えがないが、いまは道場の中に誰もおらず、互いに男同士だということもあって、服が乾くまでは腰にタオルでも巻いて過ごしてもらおうと考えた。
 服を脱いであらわになった大雅の裸体は、筋肉の筋が目立ってみえた。ただそれは、彼が痩せていることにより、贅肉があまり存在しないから浮き出ているだけであって、相馬や道場生のように体を鍛えているからではなさそうだった。
 大雅の攻撃は一度たりとも相馬には当たらなかったが、見た目の年齢の割には俊敏な動きをしているとは思った。なにかスポーツをしているのだろうか。この体格なら、陸上競技か……? と、格闘技以外のスポーツの知識にはとんと乏しい相馬は思いを巡らせる。
 シャワールームから出てきた大雅は、少し恥ずかしそうな面持ちで、それでも仕方ないとばかりにタオルを腰に巻いて、相馬のところに戻ってきた。
 道場に設置されているサンドバッグやリング、各種トレーニングの設備を、大雅は物珍しそうにずっと眺めていた。
「君は、藤堂大雅くんというんだね」
 相馬はそんな大雅に語りかけてみる。大雅はびくりと肩を震わせて、なぜオレの名前を知っているんだと言いたげな視線を相馬に向けてきた。
「君の服の襟の裏に書いてあったんだ」
 大雅から預かった衣類のすべてに、油性マジックで名前が書いてあった。なぜ衣類にフルネームを書いているのだろうと、相馬にはその理由の見当がつかなかった。
 相馬が大雅の名前を知った理由に納得したのか、少年の眼差しはすぐに道場の設備に戻された。
 大雅の傷ついた手の手当てをする。消毒液を塗ったときに、「いてっ」と顔をゆがめたが、それ以降は歯を食いしばって痛みに耐えているようであった。ガーゼをあてがい、その上に包帯を巻いていく。
「君は格闘技に興味があるのか?」
 尋ねてみる。道場の生徒として勧誘するなどという下心からではない。何にも興味を示さなそうな大雅が、食い入るように道場の中を眺めていることが気になったのだ。
 大雅はなにも答えなかった。ただ、自分の拳に巻かれた包帯をじっと見つめて、彼の表情がほんの少しだけほぐれたように感じられた。
 結局その日は、大雅の声をあまり聞くことは出来ず、乾燥の終わった服を着せて送り出したのだが、後日、驚くべきことがおこった。
 大雅との出会いから一週間ほどが経過したとき、藤本と名乗る養護施設の責任者という肩書きの男が、突然道場に訪れたのだ。
「突然のお伺い、申し訳ございません」
 自分の親ほどの年齢の男に頭を下げられて恐縮したのと同時に、突然やってきたこの人は何なのだという疑問が浮かび上がってきた。
「実は、藤堂大雅の件で、お伺いしたのですが」
 普段は道場の入会や軽い打ち合わせに使っている小部屋に通した藤本は、そう切り出してきた。
 曰く、あの日自分に挑んできた痩せぎすの少年は、藤本の運営する養護施設、しょうりつ学園の入所児童なのだそうだ。拳に包帯を巻いて帰宅した彼に、なにがあったのかと問いただしたところ、ぽつりぽつりと、相馬とのことを口にしたという。
「謝っていただく必要はありません。むしろ、私とのあいだで大事なお子様に怪我をさせてしまい、申し訳ございませんでした」
 あるいは大雅の保護者が激怒していて、賠償などを求められたらどうしようなどと
冷や汗が垂れたが、その思いは杞憂に終わった。
「相馬さんにはご迷惑をかけ通しで恐縮なのですが、僭越ながらわたくしどもからお願いがあるのですが」
「何でしょうか」
「大雅を、このつぐみ道場に入門させてやることは可能でしょうか」
「え!?」
 思わぬ申し出に、相馬の声が裏返ってしまった。
「児童のことを部外者に口外するのは、職務倫理に反することなのですが、相馬さん、ここはどうか、ご内密にお願い致します」
 そう言って藤本は、大雅のこれまでの境遇を語り始めた。
「大雅は、両親からひどい虐待を受けていた過去があり、しょうりつ学園に入所しました。両親の愛情をまともに受けられず、決して健全とはいえない環境で育った彼は、どんな大人にも心を開かず、しょっちゅう問題行動を起こしては各所にご迷惑をおかけしている次第でして、大雅が相馬さんに絡んでしまったのも、その一環だったんです。……彼自身、露程もそんなことは思っていないでしょうが、問題行動を起こすことによって大人の気を引き、自分を助けてほしいと、SOSサインを出しているであろうことは明白なのですが、彼の行動については目を瞑るわけにはいきません。しかし注意をすると余計に心を閉ざしてしまう。彼の人生を正しい道に戻すにはなかなか困難を極めている状態なんです」
 藤本はそこで言葉を切って、相馬を見た。
「しかし、相馬さん、大雅があなたと出会ったあの日、初めて彼が自分の望みを口にしたんです。『オレも、つぐみ道場で格闘技をやってみたい』と。この道場の中の様子をみて、あなたが手に巻いてくれた包帯をみて、まるで自分の拳がボクサーのそれに見えたと、彼は言っていました」
 そうだったか。たしかにあのとき、包帯を巻いたのは彼の片方の手だけだったが、相馬自身の癖もあり、拳を固めるバンテージの要領で巻き付けてしまった。大雅はそれを見て、表情を緩めていた。嬉しかったのか。
「両親からの虐待は、大雅の人生に、海溝のように深い傷をつけている。彼の心を癒やすのは、並大抵のことではない。相馬さん、虐待を受けた児童というのは、皆自分の存在意義も分からなくなっているまま、生きているんです。中には命を絶ってしまう子供もいるし、両親からの仕打ちで亡くなってしまう子供もいる。我々は立派な建物を構えていても、彼らに出来ることは限られてしまう。だからこそ、考え得る出来ることを見逃さず、可能性を摘むことなく、少しでも彼らの人生に彩りを添えて、この先長く続いていくであろうその道をいつまでも照らしてあげたいと、わたしはそう思っています」
 大雅の人生に光が差しつつあるのなら。彼がつぐみ道場に通い、相馬のもとで格闘技を習うことによって生きていく希望を見出せるなら。その支援は惜しまないと藤本は言った。

 気がつけば、藤本の申し出を相馬は二つ返事で引き受けていた。断る理由などあるものか。辛い思いをして生きてきた少年が、自分の運営する道場に通うことによって心を解きほぐしていけるかもしれないというのに、協力せずして、なにが健全な武道の精神か。
 少年の怪我の手当てをした。その包帯の巻き方がまるでバンテージのようだった。相馬にとってはそんな些末な行動が、少年の心に希望をもたらしたというのは大袈裟かもしれないが、あのときのことが大雅の人生を変えるきっかけになったかもしれないと思うと、ぞわりと全身に鳥肌が立つような感覚がした。
 
 藤堂大雅の人生は、明けない夜のように暗い闇に覆われた道が続いていた。だが、明けない夜などこの世に存在しないのと同じように、相馬に巻いてもらった包帯をきっかけに、夜明けの光が顔を覗かせ始めたのだろうか。
 相馬は、引き受けた以上は全力で、大雅を一人前の格闘家に育て上げようと、そのときに決意したのだった。