「大雅、キャッチボールに付き合ってくれよ」
 唐突に陽太がそう言ったときは、大抵陽太は誰かに悩みを聞いてもらいたいサインなのだということに大雅も気付いていて、その「誰か」の一番の候補になるのが自分であるということが嬉しかった。
 野球部で毎日のように球を投げているだけあって、陽太の球速は彼が軽く投げても大雅の構えるグラブに軽快な音を立てて打ち込まれていく。手のひらが少し痛くなるほどだ。
「だいたい、オマエは考えがジジイみたいなんだよ。キャッチボールに誘えば、オレに悩みを聞いてもらえると思ってるところが」
 表面が土や泥にまみれて、もはや灰色に変色してしまった球を投げ返す。使い古された球は、油断をすればつるんと手から滑り落ちてしまいそうだ。
「そうかなあ」
 大雅の投げた球は、陽太の想定した軌道を大きくずれて返ってきたが、難なくキャッチしてまたすぐに緩やかな放物線を描いた。
「そうだ。また部活でなんかあったのかよ」
「ああ、まあな」
 陽太の言葉のキレが悪い。いつもは明朗に淀みなく思いを紡ぐ彼が、自分が話そうとする文字をひとつひとつ手繰って探しているようにも聞こえた。
「……ここまできて、なにびびってんだよ。もうオレがオマエの話を聞く流れじゃねえか」
「大雅はおれがキャプテンだなんて嫌だよな」
「は? びびってんのか?」
「ああ、そうだよ!」
 言葉が力んだせいなのか、陽太の投球にも力が入って、大雅は球を取りこぼしてしまった。
 陽太はその名の通り、陽気で明るい性格をしている少年ではあるが、時として小心者である一面を垣間見せてくることがある。幼い頃から、いざという時に尻込みをしてしまい、自分に訪れた好機を逃してしまう傾向にあるのだ。
「凄いことじゃねえか。オマエ、ずっと頑張ってたんだろ。それが周りのヤツらに評価されたってことじゃん。オレは断る理由も、ウジウジ悩む必要もないと思うぞ」
「おまえにそんなに素直に褒められると、なんかきもちわりいな」
「ああん? 背中を押してほしかったんだろ? 顔に書いてあるぞ」
 球を返す。陽太は良いヤツだ。関わりにくいであろうオレにもこうして、屈託なく話しかけてきて付き合ってくれる。同じ部屋で生活をしている間柄だというのもあるだろうが、コイツには何度も救われてきた。
 だから。オレでも陽太の力になれることがあるのなら、すすんで役に立ちたいと思っているよ。
 誰かの人生を変えるとか、そんな大それたことが自分にできるとは思わない。だけど、自分と仲の良い友達には、幸せになってほしいと思っているし、そんな存在の誰かが悩んでいるのなら、話を聞いて、時には背中を押してやることもしてやりたいと思う。
 大雅にとって、そんなふうに思える数少ない一人が、陽太だった。想いを球に込める。叱咤激励なんてものを出来るような立場でも、力量があるとも思っていないが、オレはオマエを応援しているぞという想いを込めて、球を投げた。
 少し力を入れすぎたのかもしれない。また暴投になる。それでも陽太はさすが野球少年というだけあって、難なく大雅の投げた球をグラブにおさめた。
 その挙動がまるで大雅の気持ちを陽太がしっかりと受け取ってくれたように感じられて、嬉しくなった。
「あ、大雅! なに笑ってんだよ」
 陽太に言われて、大雅は自分の表情が緩んでいることに気付いた。慌てて表情を取り繕う。
「うっせーよ! オマエには関係ねえだろ!」
「うわー、意地張っちゃってさ。おまえがいくら凄んでも、おれにはおまえがツンデレにしか見えねえからな」
「ううう、うっせえよ! ……うわっ!」
 力強い陽太の速球が飛んできて、大雅は慌ててグラブを構えた。ほんの一秒も経たないうちに球はそこに飛び込んでくる。
「わかったよ大雅!」
「え?」
「サンキューな! おれ、やってみるわ!」
 陽太はそう言って、満面の笑みを大雅に投げかけてきた。もしかすると陽太は、誰かに背中を押してもらいたかったのかもしれない。部活のキャプテンという役割を担うことになるプレッシャーに押し潰されそうになる自分を奮い立たせるために、誰かの力を借りたかったのかもしれない。
「大雅、おまえ、厨房の手伝いに行かなくていいのか?」
「……うわっ、オマエっ、はやく言えよ! 大体オマエが誘ってきたんだろうが!」
 厨房の換気扇から、煮物のような匂いが漂ってきて、大雅はグラブを陽太に押しつけて慌てて学園の中に走り込んでいった。大雅の後ろ姿を見送りながら、陽太は微笑んでいた。

「ありがとな、大雅」
 誰にも届くことのない陽太の言葉は、空にも地面にも到達せずに空気中に消えていく。学園に入所してから、ずっと一緒だった。一緒にいることが日常だった。
 大雅が通っていた高校を退学になったと聞いたとき、その日常が壊れるのではないかといちばん危惧したのは陽太だった。学校に通えなくなった児童は、施設を退所するというのが原則であり、それは即ち陽太と大雅が二度と会えなくなる可能性があったということになる。大雅が学園に残れることになったと知ったときは安堵した。いつかはこの学園を退所して、それぞれ別々の世界に旅立つときがくるとしても、それまでは友達として、最後まで一緒に過ごしたいと思っている。
——大雅、おまえは自分が思っているほど、悪いやつなんかじゃねえぞ。いまは誤解ばかり受けているけど、いつかおまえが優しいやつだってことを分かってくれる誰かが、きっと現れるからな——
 陽太は手に持っていた球を握りしめた。そのまま振りかぶり、壁に向かって投げ込む。
 壁は、確実におれの球を跳ね返してくれるけど、大雅とはちがって、こっちに投げ返してきてはくれないんだよなあ。
 コロコロと地面を転がってくる球を拾い、陽太はふうっと息を吐き、そのまま室内へと戻っていった。