今日、髪を刈った。
 これまでの自分を肉体からそぎ落とす儀式のように感じられた。床屋の店員には、「本当によろしいんですか?」と問われた。いいと思っているから、注文したんだろうと、また心に邪な感情が生まれたが、見ないふりをした。
 藤堂大雅は、鏡に映った自分の姿をみて、苦笑した。別人だ。
 作業を終えた店員が、箒で片付けているのは、つい先ほどまで自分の頭から生えていた髪の毛だ。肉体から強制的に切り離されたそれは、生気を失ったかのようにちりとりの中に吸い込まれていく。これは決別だ。過去の自分に別れを告げるための——やはり大雅にとっては儀式だった。

「まじ、すみませんでした。反省しています」
 土下座をする。軽くなった頭を、床に擦りつける。鋭い視線が自分に降り注いでいるのを、大雅はひしひしと感じていた。
「頭を丸めた程度で、お前のこれまでの過去が清算されるとでも思っているのか?」
「いえっ……そんなこと思ってません。これはオレのケジメで……」
「まじ……ではなく、『本当に』、思ってませんではなく、『思っていません』だ」
「はい!」
 大雅は大慌てで返事をした。視線を合わせるのも怖い。恐怖に心が折れそうだ。相手の姿を見なくとも感じられる威圧感が、大雅の心をさらに萎縮させる。彼がこの世界において、唯一頭の上がらない相手が、目の前にいるのだ。
「いつまでその格好でいるつもりだ。お前の頭頂部など、見たくもない」
「オ、オレ、もう師匠の顔、まともに見れません!」
 相手が鼻で笑った音が聞こえた。
「大雅、ら抜き言葉だ。見られません、な」
「は、はいっ!」
「いつも言っているだろう。話し言葉を乱すなと。武道に通ずる健全な精神は、普段の所作にも現れる。武道家たるもの、言葉遣いにも気をつけろ」
「はい」
 頭を垂れることしかできない。大雅は背中に汗をかいていた。顔を上げればそこに正座しているのは、大雅と十も変わらぬ年端の青年だ。相馬爽平。大雅の通う道場の師範である。
 相馬の背筋は、背中に定規をあてがったかのようにぴんと伸びている。きりりと引き締まった表情に、鋭い眼光。黒い髪は短く刈り上げている。大雅よりも頭ひとつぶん高い上背に、がっしりとした体格。シャツを着ていると幾分着痩せしているようにみえるが、大雅がタックルをした程度ではびくともしない、強靱な体幹の持ち主だった。
 大雅は通っていた高校を退学になった。理由は至極単純、校内で暴力事件を起こしたからだ。

「大雅、この道場以外でのお前の生活に関しては、私の知ったことではないが、今回の件で痛感しただろう。意味のない暴力は、己を破滅させると」
 大雅に関する処分の一報を聞いたとき、相馬はすぐに彼を呼び寄せ、こう説いた。着ていても身分を証明するものではなくなった学生服に身を包んだまま、大雅は黙って相馬の説教を聞いていた。目尻の下が切れて、血のかたまりが目立っている。頬や唇のまわりにも痣ができており、一目見ただけで誰かに殴られたとわかる状態だった。
「意味のない暴力なんかじゃありません!」
「だが、お前の周りの人々はそう捉えた。違うか?」
 珍しく師範に向かって反発をした大雅だったが、相馬は間髪を入れず、静かに口を開いた。「人の行動というものは、自分の意思に関わらず、必ず別の誰かによって評価される。お前がいくら反論を唱えても、自分が正しいと思っていても、お前の周りの人たちがそうじゃないといえば、そのとおりになってしまうことがある。そしてそれは、お前の普段の行いが、大いに関係してくるんだ」
 大雅は黙ったままだ。なにも十七年を生きてきて、相馬の言ったことに初めて気付いたわけではない。この世界は不条理だ。誠実に生きていてもそうでなくとも、報われないことなどごまんと存在する。どうしようもないことだってある。歯を食いしばって耐え忍ばねばならないようなときに、大雅は少し我慢できなかっただけのことだった。
「大雅。お前は不器用すぎる。拳を鍛えるだけでは、どうにもならないこともあるんだ。……私がそういうことを、もっと教えてやるべきだったな」
 相馬の腕が伸びてきて、分厚い掌が大雅の頭をそっと撫でた。そのとき。
「ううっ……あうぅっ……」
 大雅は感情を決壊させた。あとからあとから、ぼろぼろと涙がこぼれてくる。泣いても事態は変わらない。自分がどんどん惨めになっていくだけだ。
 変わらねばならない。自分の周りを変えるのではない。自分自身が変わらねばならないのだ。
 学校を退学になって、自分の人生の舵が大きく変わったそのときに、大雅はようやく気付いた。自分の感情を剥き出しにして、世の中の不条理に立ち向かったとしても、必ずしも事がうまくいくはずがないのだと。
 相馬はずっと忠告してくれていた。お前の生き方は損をすると。その言葉に反発していたのは自分だ。だが、大雅とて譲れぬものがあった。他のどんなことも師匠の言葉通りに正してきたが、自分の周りの大人たちが全員敵に見える……という点だけは、いくら相馬に諭されようとも頑なに考えを変えなかった。そのせいもあり、大雅は周りの目に『素行の悪い生徒』として認識されていた。
 金色に髪を染め、自分の周りに誰も寄せつけないように振る舞った。学校において、他人との馴れ合いなど必要ない。煩わしいだけだ。どうせ誰も信用できる奴なんていないのだから。
 扱いづらい生徒の一人であった大雅は、教師たちからも生徒たちからも疎まれていた。腫れ物のように扱われる日々。髪型も、態度も、平凡な公立校では悪目立ちする存在。校則違反だと、教師がいくら注意しても、大雅はなにも改めることはしなかった。なにが彼をそんなに意固地にさせたのか。それは彼の生い立ちと、育ってきた境遇のせいであろう。
人望など皆無であった大雅が、校内で暴力沙汰を起こしたものだから、大人たちが彼の処分を退学と結論づけるまでは早かった。例えば彼の周りからの評価が、いまとは百八十度違うものであったとしたら、酌量の余地は与えられただろう。公平性を謳っている大人たちも、自分たちにとって邪魔なものを排除するためならば、結託して非情な判断を下すことがあるのだ。
 相馬に拾われていなければ、大雅は人間として堕落していく一方だっただろう。この世界は、一度『普通』からはみ出た人間が、容易く這い上がれる設計にはなっていない。人並みならぬ努力が必要だ。そしてその努力の仕方を教えられなかった者たちは、藁にすがるように、存在しているかもわからない一縷の望みに賭け、だましだまし生きていくしかないのだ。

「あっ、す、すみません。お取り込み中でしたかっ……」
 焦燥混じりの声がした。甲高い声に似つかわしくない体格の少年が、大雅と相馬のいる部屋の入口から、右半身だけを覗かせて様子を伺っている。体の線がはっきりと分かるほどに肌にぴったりと張りついた黒いTシャツを身につけ、グレーの短パンから褐色の足をのぞかせている。裸足だ。少し腕を伸ばせば、鴨居に容易く手のひらが触れられそうなほどの上背は、引き締まった体躯と共に彼がアスリートであることを強調させている。ともすれば、威圧感を与えるのに十分な体格であるはずの彼から、微塵もそんなものを感じさせられないのは、少年の所作から醸し出している雰囲気のせいだろう。
「ちょうどいいところに。圭二、こちらに来なさい」
「あっ、はいっ!」
 相馬に名を呼ばれた少年は、そそくさとこちらに駆け寄ってきて、大雅にぺこりと会釈をしたあと、静かに彼の隣に正座をした。
 少年の名は、塚内圭二といった。歳は大雅と同じである。スポーツ刈りの頭髪の下に、小動物を連想させる丸い目を携えている。鼻梁は整っており、目力もあるように思えるが、いかんせん気弱そうな印象が抜けないのは、下がり眉だからだろうか。
「圭二はもう知っていると思うが、先日、大雅が高校を退学になった」
「あ、はいっ! 大雅が退学……、あっ、すみません、茶化しているわけじゃなくて」
 圭二はいたって真面目だった。すみませんすみませんと、平謝りをしている。
「同じ高校に通う者として、君も事情を知っているだろう」
「はい」
 圭二が頷く。ちらりと大雅の横顔を見て、すぐに相馬へと視線を戻した。「僕は、その、退学のきっかけとなった事件に関しては、大雅は悪くないと、思っています」
 言い方に含みがあった。『退学のきっかけとなった事件に関しては』と、限定しているということは、圭二にも思うところがあるのだろう。
「ご存じかとは思いますが、大雅と僕は、校内ではまったくと言っていいほど関わりがありませんでした。……大雅がそれを望んでいたから、僕は従っただけですが。だから、僕の耳に入ってくるのはどれも人伝に聞いたことだったので、事実かどうかはわかりませんが……」
「ゴチャゴチャ言ってねえで、さっさと結論を言えよ」
 大雅は棘のある口調で、言葉を吐き捨てた。
「あっ、ごめん……」
 腿の上に置いた手をもじもじさせて、圭二はそう言った。大雅はチッと舌打ちをする。
バツが悪そうに顔を伏せた圭二だったが、やがて言葉がまとまったのか、大雅と相馬のちょうど間あたりに視線を向けた。
「大雅は普段からいじめられていた女子生徒を庇っただけで、先に手を出したのは相手の方だったと。だけどその相手が悪かった。女子生徒を苛めていたのは、教育委員会の職員を親にもつ男子生徒を中心としたグループだったんです」
 圭二の言っていることが事実なのだとしたら、ありがちな醜い話だと、相馬は思った。権力者を親にもつ生徒が、その力を振りかざして、立場の弱い者を追い詰める。自分の悪行を棚にあげて、邪魔者を排除する。大雅は格好の餌食となったわけだ。
 材料が悪かった。普段の大雅の素行と周りの評判、事実をねじ曲げ、権力を振りかざす親子。それに屈する大人たち。大雅だけを悪にたらしめるには、充分すぎるピースだ。大雅が庇った女子生徒も、真実を口外しないようにと言われたのだろう。
 だが、いくら権力者とて、学校内にいるすべての人間の口を封じることはできない。騒動を目撃した者たちは、大雅だけが悪いわけではないと知っている。彼らが噂を吹聴することによって、その場にはいなかった圭二にも、やがて事の真相が伝わったのだ。
 相馬は、世の中のすべてに不満があるかのように、ふてぶてしくなにもない宙を睨んでいる大雅を見やった。彼にも、少しばかりの圭二のような謙虚さがあれば、事態はここまで深刻にはなっていなかったのだろうか。
 世の中には様々な種類の人間が存在する。皆、一様に目と鼻と口を持って生きているが、その形や配置が人それぞれ違うように、性格や思考も、誰一人おなじ者はいない。それを個性だと一括りにしてしまえば表現は容易いが、個性は人が集まれば集まるほど淘汰されていく。誰もが何者かによって造られた倫理に従い、それに逆らうことは許されない。逆らった者は、異端者として奇異の眼差しを受けながら生きていくことになる。
「てめえがいくらここでグチグチと真相を語ったところで、オレの処分はもう決まったんだ。どうしようもねえだろ」
「で、でも、そんなんじゃあんまりだよ」
 圭二は顔を伏せた。悔しそうに唇を噛みしめている。
 チッと大雅はまた舌打ちをした。目の前に相馬がいて、自分の態度を嗜められるかもしれないと分かったうえでの行動だった。
「オレがどうなっても、てめえにはカンケーねえだろ」
「大雅」
 相馬に名を呼ばれて、大雅はぐっと押し黙った。これ以上、むやみに圭二を責めるな。名を呼ばれただけなのに、そういう圧を感じた。
「と、とにかく、僕はおかしいと思う。先生たちは、圭二の言い分もちゃんと聞くべきだったんだ」
 オレは言ったぞ。
 なんの理由もなく、拳を振るったわけじゃない。ヒーローを気取ったわけではないが、あまりにもアイツらが、理不尽に女子生徒を苛めていたから。自分が悪くなかったとは言えないがそれでも、こうなったのには理由があるんだ。
 聞き入れてもらえなかった。大雅にとっては、先に暴力を振るってきたのは向こうだったのに、教師たちが信じたのは、相手の都合のいいようにすり替わった話だった。
 だけど今更、事を蒸し返すつもりはない。いいじゃないか。籠の中の鳥のようにがんじがらめになって、窮屈な世界で暮らす必要がなくなったんだから。
 オレには学生生活なんて向いていなかった。——ただそれだけのことだ。