「さあ、好きな席に座って。僕はここの車掌でオーナー? みたいな。銀河といいます。お客様、お名前は?」
動き出した電車の中は、橙色の明かりに満ちていた。
白手袋に包まれた細い指先が、からからとコーヒーミルを動かす。人の手で動かされている音だ。音の中に、確かな体温があって、血が通っていた。人肌のぬくもる生活音だ。それがひどく、安心する。誰かの心で動いているものを、大学以外で、あまり見なかったし、聞いていなかった。コンクリート製の冷たい作動音が、耳を打っていただけだ。
カウンター席と思われる一席に、丸い椅子を引いて腰かける。
「ぎ、銀河さん……ですか? あ、えっと、私は燈火……優心、です」
「燈火さん。よく頑張ったね」
コーヒー豆を挽く手を止めてからりと引き出しを開けながら、銀河と名乗った銀髪の車掌はふわっと微笑んだ。声は星みたいで、笑顔は月みたいだ、と思う。
「……よく、頑張ったね……? ですか? なんで」
「んー?」
銀河は手早く器具を動かしたり、新しく並べたりしながら、鮮やかに煌めく青紫の瞳を僅かに細める。くるりと動いて、優心に一瞬優しい眼差しを流して、そのまま手を休めることなく、慣れた動作でひょいと体をかがめたり、背後の棚を開いたりと動き続ける。
「だって二十三時五十九分だよ。ランプ電車はいつも、その時間にしか走らない。そんな時間まで駅にいたってことは、どんな理由があったにせよ、一日すごく頑張った人でしょう? だからよく頑張ったね、って言うんだよ。それが『よく来たね』の代わり」
一瞬、目を見開いた。ふっと息が止まって、思い出したように少しずつ、吐く。
しゅうう、と湯気を立てて主張するやかんを、銀河が手に取る。長い睫毛を伏せて、コポコポとお湯を注ぐ。ふいにその顔がこちらを向いて、再び綺麗に笑ってみせた。
「さて、燈火さんは甘いものって好き? ココアとか飲める?」
「あっ、はい! 大好きです」
「それはよかった。どうぞ」
銀河が脇に置いていた白いマグカップを、優心の前の木製のテーブルにことりと乗せる。
とろりとしたココアが、ほんのりと揺れている。
優心は「い、いただきます……」と手を伸ばして、そっとカップに口をつけた。
「……美味しい」
「ほんと? 嬉しいな。あ、コーヒーのほうがよければ淹れるけど」
「あ、いえ! あの、甘いもののほうが好きなので」
銀河はそう聞くとほんのりと口角をあげて、挽いたばかりのコーヒーをカップに淹れた。それを一口だけ飲み、優心にふふっと微笑みかける。
「甘いものは心に優しくていいよね。疲れた時には、なるべく優しくて、まあるくて、温かいものが一番」
もう一口コーヒーを飲んでからカップを置き、銀河は電車一面に据え付けられた棚を指し示す。
「ランプがいっぱいあるでしょ? これはね、全部誰かのためのものなんだ。そのなかにきっと、君のものもある。好きに見ていいよ」
その言葉通り棚には、色も形も種類も様々なランプがずらりと並んで、火を灯している。
「ここはランプ電車だから」
銀河の、夜空色の瞳が優しく笑った。優心は、てのひらでマグカップを包んだまま棚を見やる。
「ここにあるのはただのランプじゃなくて、電車と同じ、幻で、架空で、夢。心の中にあって、誰かの気持ちに寄り添うもの。ここではお客様にランプを贈ったり、大切なランプをお預かりしたりするんだよ。気に入ったランプがあれば、見て行って。きっと、燈火さんに見つけてほしいと思っている子がいるはずだから」
「……えーっと、それじゃあ……」
ココアを飲み干すと、優心はそっと立ち上がって、棚に近づいた。ひとつひとつのランプに揺らめく大切な明かりを、順に瞳に映していく。
こころの、らんぷ。
ここにあるのは、みんな。
しゃがみこんで、下の段を視線で辿る。ふと、ひとつのランプが目に留まった。黒い笠を乗せた、ごく普通の、オレンジのランプだ。それでもどうしてか、気づけば吸い込まれるように、ゆっくりと手を伸ばしていた。
ほんのかすかに、指先がふれる。
その瞬間、ぱちっと星が弾ける音がして、ぬくもりとともに記憶が吹いてきた。頬を撫で、髪を踊らせ、そして。
――おつかれさま。
脳裏に浮かぶ、優しい笑顔。
――わあ、こんなにやったの? 頑張ったねえ。
ぎっしりと文字が詰まったノートと、書き込みと付箋でいっぱいのテキストと、散らばったプリントと。
そんな中に、ことりと置かれる、一つのグラス。
――ブルーベリーティー淹れてみたの。
ここにおいとくから、飲みたかったら飲んでね。ここにこれあるから、食べたかったら食べてね。
いつもそう言っていたのに、その夜は紅茶を淹れて、勉強部屋まで持ってきてくれた。
でも本当は知っていたんだ。私が勉強を頑張っていたら、きっとお母さんは、私のために何か持ってきてくれるって。なんとなく、気づいていた。
――こんな遅くまで、頑張ってるねぇ。あんまり無理しないでね。
泣きたくなるほどあたたかい笑顔と、あたたかいてのひらが、くしゃりと頭を撫でてくれる。
やわらかく、優しく。
それからその手が遠ざかる。
「あ、」
巡った記憶とも、浮かんだ幻想とも言えない、確かなぬくもりを残して。
ぱち、とひとつ瞬きをする。また星が弾けた。
「おかあ、さん」
もうひとつ、瞬く。思わず、ぽろっと雫が転がり落ちた。
お母さん。お父さん。私の家、私の部屋。
ぽろぽろ、涙が止まらない。
ぼろぼろ、大粒の涙が頬を伝っていく。
会いたい。話したい。抱きしめたい。抱きしめてほしい。頭を撫でて、頑張ったねって言ってほしい。
ただいま、と言ったら、おかえり、と返してほしい。
頑張ったときは褒めてほしい。うまくいかないときは、辛いときは、悲しいときは、モヤモヤするときは。
「そのランプが、燈火さんを選んだのかな」
ふわりと、隣にしゃがみこむ気配があった。
「じゃあどうぞ、お手に取って、お持ち帰りを。僕らにはここに来るひとたちに何の解決もできないけれど、何もかも嫌になるような毎日に、たったひとつくらい『素敵なこと』を贈りたいから」
こころのあかりを、大切にね。
銀髪が揺れて、青紫の瞳がゆらりと微笑う。
「燈火さん、そのお化粧、きっとすごくたくさん練習して、そうして綺麗にできるんでしょう? 鞄だってあんなに重たそうなのに、周りからはそう見えないくらい、全然よろつかずにまっすぐ歩いているし。他にもたくさん、いろんなことから、燈火さんは努力の人なんだってわかる。すごく綺麗に歩いているけれど、そうやって歩けるようになるまでに、ものすごく時間をかけて重ねてきたんだろうなって。でもそれを、周りで見ている人も、自分でも気づいていない気がする」
優心はゆるゆると顔を上げて、銀河を見て、そして、また泣きそうになった。
言葉と、声が。その、笑顔が。夜空に灯るランプみたいに、あまりにあたたかかったから。
「頑張ることは大事だし、いいことだ。だけど頑張ったら、頑張ったって言っていいんだよ。ほんの小さな頑張りでもいいから、自分はほんとは頑張ったんだよって」
頑張った。そうだ、優心は昔から、それが言えない子どもだった。
見えないところで誰かのために何かをしたり、自分のために努力したりして、そしてそれを、うまく周りに言えなかった。
気づいて褒めてくれることが多かったお母さんとお父さんは、今、ここにはいなくて。
だから、今は。
「がんばれ、ない」
いつの間にか、頑張れなくなっていた。どんどん楽なほうに流されて、周りみたいに頑張れなくて、最近は勉強も身に入らなくて、それがどんどん、心を壊す。
踏ん張る力が弱くなって、ずるずる、後ろに流されていく。弱いほうへ、ダメなほうへ。
「がんばれないときは……どうしたら、いいの?」
頑張る人が褒められる。頑張れるのが偉い。頑張らなくちゃいけない。
それがわかっているから、余計に頑張れない自分が嫌い。
か細い声で聞かれた銀河は、今日一番の笑顔を見せた。宇宙が広がるような。
「自分をぎゅっと抱きしめて、大丈夫だよって言ってあげる」
僕もよくするんだよ。驚いて目を瞠っている優心に、そう言って笑う。
それから、ふわりと立ち上がった。
「燈火さんの家に着いたみたいだ」
「え?」
「ランプ電車は、どこへでも、乗っている誰かの帰りたい場所に連れて行ってくれるんだよ」
銀河がふわりと電車の窓を開ける。涼しい夜風が吹き込んで、窓の外に星空が見えて、目の前は優心が部屋を借りているアパートだった。
「そろそろ帰る時間だね。そのランプは優心さんの心にあげるから、好きなように――でも、そうだな。もしよかったら眠るときに、枕元に置いて灯してみて。どうかあなたに、あたたかい夜が訪れることを願ってるよ」
ランプを抱えて、優心はおそるおそる立ち上がった。
「……あ、あの」
「うん?」
「また、乗れますか」
「それはもちろん」
銀河は電車の扉を開くと、振り返って煌めくように笑った。
「23時59分、この電車はこの世のどこかにあって、どこにでも走っている。燈火さんが必要としているなら、そこにきっと駆けつけるよ。またいつでもおいで」
ふわりと、優心を誘う風が車内に吹きこんでくる。
「あの。……ココア、ありがとうございました」
「どういたしまして」
「えっと、あの、あ……ま、また来ます」
ランプをぎゅっと抱きしめて伝えると、銀河は「待ってるよ」と、ひどくあたたかい声で言った。
優心は息を吸って、足を踏み出す。外に向かって、一歩ずつ。
からん、と電車から道路に降りたその時、
よい夢を。
そう、声が聴こえた。
はっと振り向くとそこには電車も銀河もなく、ただ夜の道が広がって、街頭が白く道を照らしているばかりだ。
「……」
優心は腕の中の、確かにあたたかいランプを見下ろす。
ほんの少しだけ明るくなった心を抱きしめて、自分の帰る場所に向けて歩き出す。
胸の奥でかすかに弾んだ、ほんの小さなきらめきの名前を、まだ知らないまま。
動き出した電車の中は、橙色の明かりに満ちていた。
白手袋に包まれた細い指先が、からからとコーヒーミルを動かす。人の手で動かされている音だ。音の中に、確かな体温があって、血が通っていた。人肌のぬくもる生活音だ。それがひどく、安心する。誰かの心で動いているものを、大学以外で、あまり見なかったし、聞いていなかった。コンクリート製の冷たい作動音が、耳を打っていただけだ。
カウンター席と思われる一席に、丸い椅子を引いて腰かける。
「ぎ、銀河さん……ですか? あ、えっと、私は燈火……優心、です」
「燈火さん。よく頑張ったね」
コーヒー豆を挽く手を止めてからりと引き出しを開けながら、銀河と名乗った銀髪の車掌はふわっと微笑んだ。声は星みたいで、笑顔は月みたいだ、と思う。
「……よく、頑張ったね……? ですか? なんで」
「んー?」
銀河は手早く器具を動かしたり、新しく並べたりしながら、鮮やかに煌めく青紫の瞳を僅かに細める。くるりと動いて、優心に一瞬優しい眼差しを流して、そのまま手を休めることなく、慣れた動作でひょいと体をかがめたり、背後の棚を開いたりと動き続ける。
「だって二十三時五十九分だよ。ランプ電車はいつも、その時間にしか走らない。そんな時間まで駅にいたってことは、どんな理由があったにせよ、一日すごく頑張った人でしょう? だからよく頑張ったね、って言うんだよ。それが『よく来たね』の代わり」
一瞬、目を見開いた。ふっと息が止まって、思い出したように少しずつ、吐く。
しゅうう、と湯気を立てて主張するやかんを、銀河が手に取る。長い睫毛を伏せて、コポコポとお湯を注ぐ。ふいにその顔がこちらを向いて、再び綺麗に笑ってみせた。
「さて、燈火さんは甘いものって好き? ココアとか飲める?」
「あっ、はい! 大好きです」
「それはよかった。どうぞ」
銀河が脇に置いていた白いマグカップを、優心の前の木製のテーブルにことりと乗せる。
とろりとしたココアが、ほんのりと揺れている。
優心は「い、いただきます……」と手を伸ばして、そっとカップに口をつけた。
「……美味しい」
「ほんと? 嬉しいな。あ、コーヒーのほうがよければ淹れるけど」
「あ、いえ! あの、甘いもののほうが好きなので」
銀河はそう聞くとほんのりと口角をあげて、挽いたばかりのコーヒーをカップに淹れた。それを一口だけ飲み、優心にふふっと微笑みかける。
「甘いものは心に優しくていいよね。疲れた時には、なるべく優しくて、まあるくて、温かいものが一番」
もう一口コーヒーを飲んでからカップを置き、銀河は電車一面に据え付けられた棚を指し示す。
「ランプがいっぱいあるでしょ? これはね、全部誰かのためのものなんだ。そのなかにきっと、君のものもある。好きに見ていいよ」
その言葉通り棚には、色も形も種類も様々なランプがずらりと並んで、火を灯している。
「ここはランプ電車だから」
銀河の、夜空色の瞳が優しく笑った。優心は、てのひらでマグカップを包んだまま棚を見やる。
「ここにあるのはただのランプじゃなくて、電車と同じ、幻で、架空で、夢。心の中にあって、誰かの気持ちに寄り添うもの。ここではお客様にランプを贈ったり、大切なランプをお預かりしたりするんだよ。気に入ったランプがあれば、見て行って。きっと、燈火さんに見つけてほしいと思っている子がいるはずだから」
「……えーっと、それじゃあ……」
ココアを飲み干すと、優心はそっと立ち上がって、棚に近づいた。ひとつひとつのランプに揺らめく大切な明かりを、順に瞳に映していく。
こころの、らんぷ。
ここにあるのは、みんな。
しゃがみこんで、下の段を視線で辿る。ふと、ひとつのランプが目に留まった。黒い笠を乗せた、ごく普通の、オレンジのランプだ。それでもどうしてか、気づけば吸い込まれるように、ゆっくりと手を伸ばしていた。
ほんのかすかに、指先がふれる。
その瞬間、ぱちっと星が弾ける音がして、ぬくもりとともに記憶が吹いてきた。頬を撫で、髪を踊らせ、そして。
――おつかれさま。
脳裏に浮かぶ、優しい笑顔。
――わあ、こんなにやったの? 頑張ったねえ。
ぎっしりと文字が詰まったノートと、書き込みと付箋でいっぱいのテキストと、散らばったプリントと。
そんな中に、ことりと置かれる、一つのグラス。
――ブルーベリーティー淹れてみたの。
ここにおいとくから、飲みたかったら飲んでね。ここにこれあるから、食べたかったら食べてね。
いつもそう言っていたのに、その夜は紅茶を淹れて、勉強部屋まで持ってきてくれた。
でも本当は知っていたんだ。私が勉強を頑張っていたら、きっとお母さんは、私のために何か持ってきてくれるって。なんとなく、気づいていた。
――こんな遅くまで、頑張ってるねぇ。あんまり無理しないでね。
泣きたくなるほどあたたかい笑顔と、あたたかいてのひらが、くしゃりと頭を撫でてくれる。
やわらかく、優しく。
それからその手が遠ざかる。
「あ、」
巡った記憶とも、浮かんだ幻想とも言えない、確かなぬくもりを残して。
ぱち、とひとつ瞬きをする。また星が弾けた。
「おかあ、さん」
もうひとつ、瞬く。思わず、ぽろっと雫が転がり落ちた。
お母さん。お父さん。私の家、私の部屋。
ぽろぽろ、涙が止まらない。
ぼろぼろ、大粒の涙が頬を伝っていく。
会いたい。話したい。抱きしめたい。抱きしめてほしい。頭を撫でて、頑張ったねって言ってほしい。
ただいま、と言ったら、おかえり、と返してほしい。
頑張ったときは褒めてほしい。うまくいかないときは、辛いときは、悲しいときは、モヤモヤするときは。
「そのランプが、燈火さんを選んだのかな」
ふわりと、隣にしゃがみこむ気配があった。
「じゃあどうぞ、お手に取って、お持ち帰りを。僕らにはここに来るひとたちに何の解決もできないけれど、何もかも嫌になるような毎日に、たったひとつくらい『素敵なこと』を贈りたいから」
こころのあかりを、大切にね。
銀髪が揺れて、青紫の瞳がゆらりと微笑う。
「燈火さん、そのお化粧、きっとすごくたくさん練習して、そうして綺麗にできるんでしょう? 鞄だってあんなに重たそうなのに、周りからはそう見えないくらい、全然よろつかずにまっすぐ歩いているし。他にもたくさん、いろんなことから、燈火さんは努力の人なんだってわかる。すごく綺麗に歩いているけれど、そうやって歩けるようになるまでに、ものすごく時間をかけて重ねてきたんだろうなって。でもそれを、周りで見ている人も、自分でも気づいていない気がする」
優心はゆるゆると顔を上げて、銀河を見て、そして、また泣きそうになった。
言葉と、声が。その、笑顔が。夜空に灯るランプみたいに、あまりにあたたかかったから。
「頑張ることは大事だし、いいことだ。だけど頑張ったら、頑張ったって言っていいんだよ。ほんの小さな頑張りでもいいから、自分はほんとは頑張ったんだよって」
頑張った。そうだ、優心は昔から、それが言えない子どもだった。
見えないところで誰かのために何かをしたり、自分のために努力したりして、そしてそれを、うまく周りに言えなかった。
気づいて褒めてくれることが多かったお母さんとお父さんは、今、ここにはいなくて。
だから、今は。
「がんばれ、ない」
いつの間にか、頑張れなくなっていた。どんどん楽なほうに流されて、周りみたいに頑張れなくて、最近は勉強も身に入らなくて、それがどんどん、心を壊す。
踏ん張る力が弱くなって、ずるずる、後ろに流されていく。弱いほうへ、ダメなほうへ。
「がんばれないときは……どうしたら、いいの?」
頑張る人が褒められる。頑張れるのが偉い。頑張らなくちゃいけない。
それがわかっているから、余計に頑張れない自分が嫌い。
か細い声で聞かれた銀河は、今日一番の笑顔を見せた。宇宙が広がるような。
「自分をぎゅっと抱きしめて、大丈夫だよって言ってあげる」
僕もよくするんだよ。驚いて目を瞠っている優心に、そう言って笑う。
それから、ふわりと立ち上がった。
「燈火さんの家に着いたみたいだ」
「え?」
「ランプ電車は、どこへでも、乗っている誰かの帰りたい場所に連れて行ってくれるんだよ」
銀河がふわりと電車の窓を開ける。涼しい夜風が吹き込んで、窓の外に星空が見えて、目の前は優心が部屋を借りているアパートだった。
「そろそろ帰る時間だね。そのランプは優心さんの心にあげるから、好きなように――でも、そうだな。もしよかったら眠るときに、枕元に置いて灯してみて。どうかあなたに、あたたかい夜が訪れることを願ってるよ」
ランプを抱えて、優心はおそるおそる立ち上がった。
「……あ、あの」
「うん?」
「また、乗れますか」
「それはもちろん」
銀河は電車の扉を開くと、振り返って煌めくように笑った。
「23時59分、この電車はこの世のどこかにあって、どこにでも走っている。燈火さんが必要としているなら、そこにきっと駆けつけるよ。またいつでもおいで」
ふわりと、優心を誘う風が車内に吹きこんでくる。
「あの。……ココア、ありがとうございました」
「どういたしまして」
「えっと、あの、あ……ま、また来ます」
ランプをぎゅっと抱きしめて伝えると、銀河は「待ってるよ」と、ひどくあたたかい声で言った。
優心は息を吸って、足を踏み出す。外に向かって、一歩ずつ。
からん、と電車から道路に降りたその時、
よい夢を。
そう、声が聴こえた。
はっと振り向くとそこには電車も銀河もなく、ただ夜の道が広がって、街頭が白く道を照らしているばかりだ。
「……」
優心は腕の中の、確かにあたたかいランプを見下ろす。
ほんの少しだけ明るくなった心を抱きしめて、自分の帰る場所に向けて歩き出す。
胸の奥でかすかに弾んだ、ほんの小さなきらめきの名前を、まだ知らないまま。

