「……えっ?」
 信じられなくて――というよりは信じたくなくて、思わず声が漏れた。
 無言でこの状況を受け止めるなんて無理だ。声にならない声にしたって何の解決法にもならないけれど、それでも予想外の事態に面してしまったら、声を出すなり体を動かすなりしないと現実を受け止めきれない。
「え、あ、あれ? あ、えっ」
 なんとか思考を落ちつけようとしながら辺りを見回す。
 駅のホーム。なんの変哲もない、寂れた田舎の駅のホームだ。
 自分以外に、誰も人がいないこと以外は。
 夢じゃないか、夢であれ、と願って、咄嗟にスマホを取り出し電源を入れた。
 23:57。
 それが、そこに示された数字だった。
「……噓でしょ」
 呆然とその場に立ち尽くす。ではなくて、座り尽くす。
 ホームに据え付けられたベンチで、最寄り駅まで直通で帰れる十五分後の電車を待っていた。待っていた、はずだった。
 疲れと眠気が襲ってきて、十五分くらいならいいか、とバッグを抱えて眠りに落ちたまでは覚えている。それがいつの間にか、熟睡してしまったらしい。
 終電を逃してしまった。この時間ではもうバスもタクシーも走っていないだろうし、そもそも都会ほど本数がない。大学進学と同時に一人暮らしを始めたから、親に車で迎えに来てもらうという選択肢もない。歩いて帰るか。どれくらい時間がかかるんだろう。やっぱり夢であってほしい、なんでこんなことに。
 パニック状態の頭でどれだけ考えても、現実は変わらない。
 涼しい夜風が、さらさらとホームを吹き抜けていく。真っ暗な景色、薄く広がるホームの明かり。
 赤茶色に染めたやわらかなロングヘアが、力なく肩に流れ落ちた。
 ハーフアップの髪型に、薄く綺麗な化粧。大学生になってから買ったばかりの、たくさんのキラキラしたお洒落な服。それに似合う履きなれない靴。高校まで使っていたリュックの代わりにショルダーバッグを買ったら、ずっと肩が痛い。
 入学してからずっとこんなことの繰り返しだった。頑張って背伸びをして、必死に手を伸ばして、振り回されて、結局空回りして、疲れだけがたまっていく。どうしようもない、どこにも行き場のない、自分でも名前のつけようがない感情が、心の隅に積もっていくのだ。脱ぎ散らかした洗濯物みたいに、洗われないまま放っておかれた流しの食器のように。
 どうにかするのも気が乗らなくて、どんどん体が重たくなって、心の中は散らばっていく一方で。
「……はあぁー……」
 ほとんど泣き声のような声をあげた。マイナスなことばかり頭に浮かんできて、気分が沈んでいく。
「もうやだあ……」
 完全に気力をなくして、バッグに乗せた腕にぎゅっと顔を押し付ける。涙が零れそうになった。ずっと我慢していたいろんなことが決壊して、溢れそうになる。

――そのとき。

 遠くから、電車の近づいてくる音がした。いや、電車だ。たぶん電車だと思う。
 でも、電車にしては軽くて、明るくて、優しい。
 ぼんやりと顔を上げ、「えっ」と何度目かわからない声が出た。
 本当に電車だった。電車が近づいてきて、ホームに滑り込んでくる。涼しい風が吹き込み、長い髪を揺らした。
 同時に、眩しいくらいの明かりがあたりに溢れて、瞼の裏に染みる。なのにどうしてか、目を細めることも閉じることも逸らすこともしたくなくて、代わりにゆっくりと目を見開いた。瞳の中に、ゆらりとやわらかな陽だまりの色が映り込む。
 ゆっくりと目の前に止まったのは、普通の電車ではなかった。たったの一両しかないうえに、見た目がかなり変わっている。窓から見える車内には棚が据えられていて、観葉植物のようなものが見える。まるで、どこかのカフェみたいな内装だった。
 呆然としているとゆっくりと電車の扉が開いて、一面の光とともに、誰かがカツンと電車から降りてきた。
「やあ、こんにちは」
 さらさらした星空のような、聞き心地のいい低い声だ。小さな光の粒が煌めいた気がしたから、その響きを聴いた瞬間、星みたいだ、と思った。
 逆光の中で、帽子のつばをあげる青年の姿が見えた。
「23時59分、ちょうどだね」
 軽やかな靴音を立てて、その誰かが近づいてくる。逆光が少し薄れて、車掌服と、雪のような銀髪が見えた。
 ゆっくりと目を瞬かせる。
 誰だろう。
 知らない人に、奇妙な電車。
 だけどどうしてか懐かしい。色が、声が、光が、香りが、音が。
 ああ、来てくれたんだ。そう思った。
 見たことも聞いたこともない、わからないことだらけの電車なのに、ゆっくりと心がほぐれていく。胸にとんっと響いて波紋のように広がる、途方もなくあたたかい安心感。
 たぶんずっと、待っていたんだ。会いたかった。
 この、どうしようもない優しさと、果てしなく明るい光に。
 嬉しさと眩しさが、月が満ちるのと同じに心を満たした。
「おいで、お客様。ランプ電車へようこそ」
 宇宙から落ちてきた雫ような、青紫色の瞳が煌めく。
 くるりと背を向けて車内に戻っていくその後姿を追いかけて、不思議な電車に足を踏み入れる。
 中に入った途端、シューっと音を立ててドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出した。
 ホームが遠ざかっていく。電光掲示板にいつのまにか浮かび上がっていた「ランプ電車」の文字が、ゆっくり溶けるように消えた。