数日後、やっぱり平日ど真ん中。明日は仕事。
 今日はお互い定時に終われたので、適当なお店で食事をしてから私のマンションへ帰って、そのままベッドになだれ込んだ。



 ベッドの上、すっかり乱れた髪を手ぐしでイジりながら、起き上がる。
 ベッドサイドのテーブルにはブラシと腕時計が隣り合わせに置いてある。

「私、汗流してくる」
「うん」

 ベッドに寝転がたまま、航一が軽く手を上げて私を見送る。

 着替えとタオルを手に取って浴室へ向かった。

 シャワーを浴び、髪を拭きながら部屋に戻ると、航一はまだベッドの上にいた。
「すーすー」と静かな寝息が聞こえる。
 珍しい。
 航一が私の部屋で寝ているなんて、大学ぶりかもしれない。
 裸の上半身にタオルケットを掛けてやりながら、私は床のクッションに座った。

 テレビをつける気にもなれない。航一の寝顔を見る。
 ひそめられた眉。時折口から漏れ出る不明瞭な言葉。
 寝落ちしたせいか、慣れない枕のせいか、快眠とは言えない様子。
 それでもこうして寝続けているなんて疲れてたのだろうか。
 私達はお互いの仕事の話をあまりしない。
 定時に帰れなそうとか、そういうスケジュールの話はするけど、中身の話はしない。

 守秘義務とか社外秘とかそういうのが面倒だってのもあるけど、私としてはふたりの時間にそういうものを持ち込みたくないって気持ちが大きい。
 航一の方がどう考えているのかは、知らない。わからない。

 意外なことに、航一が寝ちゃったことへの不満はさほどなかった。
 じっと寝顔を見ている。見ていられる。
 好きな人の寝顔を見てるだけで楽しいなんて気持ちがまだ私にも残っていたなんて、意外だ。

 時間は刻々と過ぎていったけれど、私は身じろぎもせずに航一を見ていた。

 この数日の間に届いた荷物が入っていた段ボールが目の隅にちらついた。
 畳んでしまおうかとも思ったが、ガムテープを剥がすだけでも大きな音がするだろうと思い、やめる。

 このまま私も寝ちゃおうかな、なんて気持ちがよぎった次の瞬間、ブブと低い音が室内に響いた。
 ベッドサイドの小さなテーブル、航一が外してた腕時計が振動していた。

 アラーム。終電の10分前。

 ブブ、ブブと震える腕時計は、一向に止まる様子はなく、その音はどんどんと私の耳を埋めていく。

「あ……」

 とっさに、その腕時計をテーブルから取り上げた。
 音は収まる。代わりに私の手の中で、腕時計が震え続ける。
 時間を告げ続ける。

「……っ」

 ダメだ。航一を起こさなきゃ。
 航一はあと5分後には私の部屋から出て帰らないといけない。
 その支度のために、もう起こさなきゃ。

 そう思うのに、私は腕時計を手にしたまま固まっている。
 なんとなく、いつものようにテレビの横の砂時計をひっくり返した。ひとまずのルーティン。

 普段はこの時間までお互い起きているから、この時間には準備はほぼ整ってる。でも、今日は寝落ちしてしまったから、服すら着ていない。
 航一が何も知らずにむにゃむにゃと眠っている。

 私の息は、少し荒い。

 どくんどくんと耳元で心臓の音がする。
 アラームは止めないと止まらないらしい。私の手の平の中で腕時計が震えてる。

 青い砂はまだ半分も落ちきっていない。
 落ちてしまえ。早く、落ちきってしまえ。

 そうだ。腕時計をクッションの上にでも置いて、私も寝たふりでもして、気付かなかったねって苦笑いする。
 そうすればこんなことしてるってバレない。バレずに一緒にいられる。

 でも、それをして? 航一は、本当に帰らずにいてくれる?
 慌てて飛び起きて、タクシーを呼んで帰っちゃうかもしれない。
 その時、私は平静でいられるだろうか。
 お行儀の良い私でいられるだろうか。

 砂はそろそろ半分が落ちていた。
 この頃は、いっそさっさと落ちてしまえと感じていた砂なのに。
 今は落ちてしまえと落ちないでが両方同じくらいの重さで、私の心を責め立ててる。

「……航一」

 小さい声、届かない。まだこれじゃ、届かない。わかってる。もっと、本気で呼びかけなきゃ。
 ベッドに近づいて、手を伸ばして、肩を揺すって。
 起こさなきゃ。

「……お、起きて」

 ダメ、届かない。声がか細い。
 砂の残りは、ほんのわずか。
 航一が、帰れなくなってしまう。
 明日も朝から仕事なのに。

「航一……!」

 私は結局、航一の肩を、タオルケット越しに揺らしながら、控えめに声を上げた。

「……うん?」

 気だるそうに彼は目を開けた。

「……あれ。あ、ごめん、茜のベッド占領してた」
 目をまたたいて、状況を確認した航一が真っ先に口にしたのは、そんな謝罪だった。
「そ、そんなことより、じ、時間……っ」

 罪悪感に苛まれながら、腕時計を突きつけた。スマホと連動するスマートウォッチ。私の手の中でまだ震えてる。

「え、あれ、うわっ」

 航一は時間を確認すると、慌てて私から腕時計を受け取って、横のボタンで振動を止め、左手首に巻き付けた。
 起き上がった航一の身体からタオルケットが落ちていく。

 帰るんだ。

 その言葉を呑み込んで、私はベッドの足元に落ちていた航一の服を拾い上げる。

「……茜」

 低い声に、服を渡そうとした手が、ピタリと止まる。

 航一はベッドの上で上半身を起こしたまま、ボーッとした目でこちらを見てた。
 なんだか動きが遅い。

「あの、今からなら、急げば終電、間に合うと思うから……」
「……そう、だよな。そうなんだけど……」

 航一は服を受け取って、じっと見た。

「……帰る前に汗流したいから、シャワー借りて良い?」
「え……? う、うん……。タオル、いつもの棚から取って」

 うなずいてしまったけれど、青い砂は気付けば落ちきっていた5分が経った。
 ここからシャワーを浴びたら、どのくらい時間がかかる?

「うん、ありがと、茜」

 静かな、普通の、やり取り。
 航一が焦らず、静かに歩いて行く。

 青い砂も落ちきった静かな部屋。
 昨夜と同じ一人きりになった部屋。
 けれども、まだ、航一は私の家の中にいた。
 タクシーも呼ばずに、シャワーを浴びに行った。

 終電の時間は、気付けばとっくに過ぎていた。