君の声が溶ける、その前に

 放課後の写真部暗室は、火星の表面みたいな赤い照明ですべてが染まっている。

 現像液の甘い鉄の香りが、どこか懐かしい血の匂いに似ていた。
 
 柚花はロッカーに荷物を置き、エプロンを着ける。

 鈍く光るステンレスの流しに薬品トレイを並べ、さっき撮ったばかりのフィルムを液に沈めた。

 水面に細かな波紋——そのゆらぎさえ耳鳴りに飲まれていく。
 
 カーテンの向こう、薄暗い部室スペースでは後輩たちがコンテスト用のプリントを議論している声が低く反響していた。

 だが柚花の耳には、言葉の輪郭がまるで水中で聴く会話のようにぼやけて届く。
 
 もう始まってる。百日なんて、あっという間だ。
 
 プリント用紙をピンセットで揺らしながら、自嘲気味に笑う。

 いつか耳鳴りがすべてを覆い尽くす。

 それならいっそ、音の息づかいが写る写真を残さなければ——そう思うのに、心臓は怖じ気づいてシャッターを切るタイミングを遅

 らせる。

 像が浮かぶのを待つあいだ、ポケットのスマホが震えた。

 《放送部▶︎臨時打合せ 15:40》とだけ通知が出るグループDM。送り主は高森夕紀。

 同学年、放送部長、図書室横の「放送準備室」を根城にする有名人だ。
 
 写真部と放送部は文化祭コラボの常連だが、今年はとくに“音と光のインスタレーション”をやるらしく、午前の授業で夕紀が突然柚

 花の机をノックしてきた。
 
 「写真に“音”が写ってるんだってね。手伝ってほしいんだ」
 
 そのときの声はよく通るテノールで、イヤな耳鳴りを一瞬だけねじ伏せた。
 
 とはいえ、直接的な面識はほとんどない。

 彼は常にヘッドホンを首に回し、誰かにマイクを向け続けるタイプの人間だ。

 柚花はその対極、自分の視線の中だけで世界を切り取ることに安堵を感じるカメラ越しの住人。

 交差点があるとしたら、それは“音と写真が接続するとき”だけ。