君の声が溶ける、その前に


 
 診察室を出た瞬間、蛍光灯の明滅が一段暗く感じられた。

 母が気遣うように肩に手を置く。

 「大丈夫?」声は海底の呼び水のように揺れ、意味だけが遅れて届く。

 返事をすると泣いてしまいそうで、柚花は代わりに小さく息を吸い、カメラバッグのストラップを握り直した。

 非常階段に出ると、雨粒を弾いたアスファルトの匂いが吹き込んだ。

 視界の外側がフィルムの光漏れみたいに滲み、階段の蛍光灯が白飛びする。

 ぐらりと揺いだ足下を支えたのは革のカメラケース。

 重さが現実と身体をかろうじて縫いとめてくれる。

 
 百日で音が消える。
 

 けれど今日までは一〇〇%聞こえている。
 
 なら、聞こえているうちに“何か”を撮らなくちゃ。

 スチレンボードの壁にもたれ、ポケットからポラロイド SX-70 を取り出す。

 レンズを開く音が乾いた廊下に跳ね返り、耳鳴りの奥で弾ける。

 ファインダー越しに見える非常口の緑の標識、逃げ道を指し示す矢印はどこか滑稽だった。

 それでもシャッターを切る――カシャン。

 シャッター音はまだ確かに響いた。

 だがその尾を追ってザザッと砂が落ちてくる。