翌朝、食事を手早く終えると、玉蘭と白英は連れだって、宝玉宮から出発した。
 記録から拾い上げた青い石の持ち主は、所属も立場もバラバラだった。後宮は広い。午前で回りきれるかは疑問だった。

 朝一番ということで、最初に尋ねたのは薬局だった。薬局は医学的なことを担当し、医官が在駐している。薬局ってこういう意味なんだと前世の記憶との一致が少し面白い。
 急病にも対応しなければいけない医官達は朝夜関係なく働いている。
「具合でも悪いのですか? 馬玉官」
 心配そうに現れた沈医官はじっと玉蘭を見た。良い人だ。たぶん。
「いえ、今日は聞きたいことがありまして。沈医官殿は後宮に勤めて長いと聞いています」
「ええ、もう……20年になりましょうか」
 遠い目をして沈医官は年数を数えた。

「数ヶ月前、宝玉宮で守り石の情報更新をされましたね?」
「守り石……。ああ、ええ、しました。忘れていた。あれ、何か不備がありましたか?」
「あったかどうかを確認しております。守り石を見せてもらってもよろしいでしょうか」
「もちろん」
 医官はすぐに胸元から石を取り出した。
 深く青く光る石。光沢はあるが透明度はまるでない宝玉。
藍銅鉱(アズライト)、ですね」
 文句なしに青い。濃い青色。
 アズライトはマラカイトと構成要素が近く、時には混ざり合って産出されることもある。緑よりのものや、水色よりのものもあるが、沈医官が持っていたのは、ラピスラズリにも似た濃い青色だった。

「お恥ずかしながら、傷をつけてしまいまして」
 沈医官がアズライトを差し出してくれる。
「ああ……本当ですね」
 ルーペに頼るまでもなく、宝石の表面には小さな擦ったような跡があった。アズライトのモース硬度は3.5から4程度。
 そこまで硬くはない。落としたり、壁に擦った程度でも傷はつく。
「こちらの傷を宝玉宮に登録しました。かえって見分けもつきやすいでしょうからね」
 沈医官は落ち着いていた。自分の守り石が傷ついても、心を乱したりはしない。年の功か。あるいは守り石があってもなくてもどうせ病を得るという医官の経験故か。
 帳面を持たせておいた白英に目配せすると、白英はうなずいて口を開いた。
「書かれているとおりです」
 玉蘭は頭を下げた。
「ありがとうございます」

「それだけ……ですか?」
 医官がいぶかしげにしている。
「はい。現在、玉官不在時の記録を洗い直しているのです。不備があってはいざというとき困りますから」
 事実だ。その優先順位がラピスラズリのせいで、少々恣意的になってしまったことを伏せているだけで。
「ああ、なるほど。大変ですね、玉官も」
 沈医官はその説明で納得してくれた。

 じゃあ、立ち去るかと玉蘭が身じろぎしたところ、白英が後ろから声を上げた。
「ところで、最近朱瓔宮で変わったことはありませんでしたか?」
 白英がいきなり切り込んだ。玉蘭は思わず黙り込む。これ、言って良いんだろうか。
「実は訪ねる候補に朱瓔宮の方がいるのですが、我々、朱瓔宮にはまだお邪魔したことがないので、どのような態度で訪ねて良いものか……」
 なるほど、もっともらしい。しかもコイツ、巧妙に嘘を回避している。玉蘭は密かに舌を巻く。
 玉蘭の『記録を洗い流している』と同じようなものだが、同じだとは思われたくはない。
『訪ねる候補』はこの話の流れだと、守り石の登録者だと思われるだろうが、実際には朱瓔宮を訪ねる予定があるだけだ。
 それにしてもこの男、息をするように建前を口にする。なんかちょっと怖い。率直に言って、玉蘭はちょっとドン引きした。
「そこまで怖い方ではありませんよ、楊賢妃さまは。気位は身分相応に高くいらっしゃいますが」
 まあ、そこは四妃なのだから、謙虚な方が怖い。
「右腕の謝女官も、厳しくはあるが公明正大な印象です。最近、よく薬を取りにいらっしゃいますね」
「……謝女官、どこかお悪いのですか?」
 玉蘭はつい心配になってそう言った。
 口にしてから自分の言動はまずかったのではないかと身構えた。謝女官個人を知っている人間ならではの心配が混じってしまっていないか。
「いえ、ねえ。大粛清のあと、眠れぬという女官も宦官も妃嬪も大勢おりますから」
 沈医官は大して気にした様子もなく、静かにそう言った。
「……なるほど」
 それは玉蘭がまだ知らない恐怖だ。
 幸いなことに。

 こうして玉蘭と白英は医官のもとを後にした。
「アズライト……ラピスラズリではないし、嘘をついている感じでもない、と」
 玉蘭は自分が作ったリストに線を引く。
「そもそも沈医官は古株ですからね。彼の守り石がラピスラズリでないことは、俺も知ってました」
「おい」
 玉蘭の言葉遣いが思わず乱れた。
「飛んだ無駄足じゃないの。あんたねえ……」
「まあまあ、おかげで情報が得られたじゃないですか」
「……謝女官の体調不良のこと? でも謝女官もそこそこよいお年でしょう。何もなくとも、体のあちこち悪くなるもんじゃない?」
 50歳は、この国の平均寿命からしたら、そこまで若くない。さらに楊賢妃の筆頭女官ともなれば、重圧も多いだろう。

「沈医官は謝女官個人の症状を明言するのを避けた代わりに、大粛清の後という大きなくくりで話をしました。それが謝女官の『体調不良』が大粛清の後ということになるかと」
「ああ……」
 謝女官の体調について聞いた玉蘭に対し、沈医官は『大勢いる』と返した。話題をこっそりすり替えている。

 医者は患者の症状を、他人に明かしてはいけない。
 前世では当たり前のことだったが、この世界でそういう当たり前を目にすることは少し珍しい。
 だから気付かなかった。

「では、次に行きましょうか」
 白英がそう言って帳面を振る。
「……そうね」
 玉蘭はうなずいた。

 まだ何もわかってはいない。