玉蘭はしばらく謝女官を見つめていた。
 謝女官は大きく深呼吸をすると、元の静かな彼女へ戻った。

「……守り石ではない可能性、ですか? 馬玉官」
 蚊の鳴くような声で謝女官はそう言った。
「はい」
 謝女官の様子が気になったものの、玉蘭は一旦続けることにした。
「えっと……紛失したとき切れたのか、紐がありません。だから元の形がわかりません。そうなると宝飾品の一部という可能性はありますよね。数珠の一部とか」

 長く豊かな袖の中、腕輪として着けていた数珠が千切れ、石は散らばり、その中のひとつのラピスラズリが廊下の隅へ転がっていく。
 そんなこともあり得る。数珠の持ち主は他の石は見つけられても、このラピスラズリを見逃し、そして数珠の石の数を気にしないような富豪であれば、今でも紛失に気付かないままかもしれない。

 この国で宝玉と言えば、まず守り石を連想するが、別に守り石以外にも宝飾品はある。
 この大きさのラピスラズリなら、数珠にしているかもしれない。耳飾りにするにはいささか大きい。耳が痛くなりそうだ。指輪にしても邪魔ではあるが、箸より重いものを持たない妃嬪ともなれば、つけていてもおかしくはない。
「この穴の空き方はたしかに守り石を連想しますが、守り石の再利用もあり得ます。そして傷は最近ついたもの。守り石なら、傷がついても使い続けますから、傷のついた石はさらに守り石のように見える。でも、もしかしたら紛失時に落としたのかもしれません」

「……お説、ごもっともです」
 謝女官は何かを悔いるように視線を落とした。
「……何か、問題が?」
「いえ……」
 玉蘭の心配に、謝女官は静かに頭を横に振った。

「それで、謝女官」
 白英が口を開いた。穏やかだが話の方向性を変える力を持った声だった。
「馬玉官へのご依頼は、なんですか」
「え、それは……持ち主を探す、ではないの?」
 玉蘭はそう言っていた。
「あなた取り次ぎの時にそう言っていたじゃない」
「はい。ですが、もう一度確認しましょう。……持ち主、見つけて良いのですか?」

「……はい」
 謝女官は静かにうなずいた。
「お願いします。これが守り石かそうでないかはこの際どちらでもよいです。持ち主を見つけてください」
「それで、もし密通が見つかったら?」
「どんな処分もお受けします」
 謝女官が青ざめた顔のままそう言った。
 玉蘭は白英の顔をうかがう。
 白英は厳しい顔をしていた。まるで目の前の謝女官に罪があるとでも言わんばかりの顔だった。
「……だそうです、馬玉官」
「いや、ええっと……」
 玉蘭は困る。
「しょ、処分ってさ、最悪……」
「死刑」
 白英があっさりそう言った。
「……ええ……」
 嫌だ。自分の仕事で誰かが死ぬなんて嫌だ。
「それでは朱瓔宮への訪問の日取りを決めましょうか」
「ちょっと、何勝手に……」
「具体的に宮殿のどこに落ちていたか、確認したいでしょう」
「それは……そうなんだけど」

 白英が明らかに場を支配しようとしている。それに気付いて、玉蘭は少し迷う。
 この後宮のことは白英の方が詳しい。
 玉蘭が考え込むより、白英に任せた方が良い場面は確かにたくさんある。
 けれども、これは宝玉の問題で、玉蘭は宝玉の専門家なのだ。まだ情報が出そろっていない時点で、白英に全部任せて良いものだろうか。

「まず、宝玉宮に守り石の紛失届が出ていないか。それを確認してから、朱瓔宮にはお伺いします。それでよろしいですね、謝女官、馬玉官」
 玉蘭が迷っているうちに、有無を言わせぬ口調で白英がそう言った。
 玉蘭はあまりよくなかったが、謝女官がうなずいてしまったので、それ以上、何も言えなかった。

「……ラピスラズリは、お預けしても良いですか? 専門家の方に持っていてもらえる方が、安心出来ます」
 謝女官が絞り出すようにそう言った。
「わかりました。責任を持ってお預かりします」
 玉蘭はうなずいた。

 そうして謝女官はラピスラズリを置いて、去っていった。



 玉蘭は置いて行かれたラピスラズリをじっと眺めながら、口を開く。
「……ねえ、白英、謝女官のこと、追い出した?」
「きな臭くなってきたので、一旦、我々だけで情報を整理したかったんです」
「まあ、明らかにめちゃくちゃ動揺してたけど……」
 あれは尋常ではない。
 守り石ではないかもしれない。たったそれだけの指摘が何故あそこまで彼女を動揺させたのか?
「そして……彼女たち(・・)にも言い訳を用意させたかったのです」
 白英がきっぱりとそう言った。
「ん?」
「言い訳をでっち上げられるのなら、すべてなかったことにできますから」
「……そう」
 言い訳が立たない結論が出れば、最悪、処刑。
 それを思えば確かに謝女官たちが、回答を持ってきてくれた方が良い。

『我が宮殿の、守り石ではない宝飾品でした。守り石でないことを前提に調べ直したら、正体がわかりました』
 それで終わるなら、それでもいい、ということか。
 けれども、それはそれで「本当に守り石の持ち主」がいた場合に困るのではないか。玉蘭はそう思う。

 白英が裏の書庫に引っ込み、紛失届の帳面を持ってきた。それを二人で確認しながら、会話を続ける。
「……まず、守り石でないとすると、推理の前提が色々崩れちゃうのよね」
「ええ。ですから、どっちにしろ仕切り直し自体は必要かと」
 白英はうなずいた。
「うん……。まず、宝玉宮の書類があてにならないわ」
 宝玉宮の役割は守り石の管理、それだけだ。
 妃嬪たちが個人的に持つ宝飾品をいちいち管理などしない。そんな義務は負わないし、妃嬪たちも気分を害するだろう。

 たとえばそれこそ今回のように落ちている宝玉が見つかり、自分の守り石だと名乗り出るものと、自分の宝飾品だと名乗り出るものがいたとき、守り石の場合においては、たとえ宝飾品と言い張った人間が皇后や皇太后であろうと、守り石の持ち主が優先される。
 この国において守り石とはそれほどに強いひとつの規律なのだ。

「ですが、そもそも、守り石でなければ、これは馬玉官の仕事ではなくなります」
 白英が静かにそう言った。
「……私の仕事」
 それはそうだ。宝玉宮は守り石の専門家。他の宝飾品は、玉蘭個人が見てやることはできるが、玉官がそれを扱うのは仕事の外だ。
「だから、我々は守り石であることを前提に調査し、そうでなければ手を引くというのがよろしいかと」
 提案の形ではあったが、白英の言葉からは『そうしてください』という圧を感じずにはいられなかった。

「……とりあえず、ラピスラズリの紛失届を探しましょうか」
 玉蘭は帳面をじっと眺めてそう返した。



 しかし、そもそも紛失届の数が少なかった。一年に10もない。
 朱瓔宮でラピスラズリが見つかったのが一週間前。
 念のために一年分を遡っても、ラピスラズリの紛失届は見つかりはしなかった。

「ううん……」
「……登録されてる守り石、確認します?」
「ぐええ……」
 玉蘭は潰れた蛙のような声を出して、頭を抱えた。
「どうせ、玉官不在時の半年間の記録は確認しなければいけなかったわけですし……、それだけでも」
「そうね……。ああ、そうだ、次はラピスラズリだけ探すんじゃなくて、青い石って書いてあるもの全部見ていきましょう」
「青い石、全部、ですか」
 さすがに白英も嫌そうな声を出した。
「だって、玉官不在時の受付でしょ? ラピスラズリだって気付かなかったかもしれない。持ち主本人も石の名前知らないことたまにあるし」
 この品質のラピスラズリを持てる人間がわからない可能性は低い。しかし思いついてしまった以上、可能性は潰しておかなくては。
「そうですね……、でも、ラピスラズリって青いだけじゃなくないですか?」
「ないわね」
 品質の良いラピスラズリは濃い青だ。しかし白だったり、水色に近かったりするものもラピスラズリには存在する。
「でも、このラピスラズリは素人が見ても青でしょ」
 謝女官の置いていったラピスラズリを取り上げる。真っ青な綺麗なラピスラズリ。
「ですね」
 白英が同意する。

 こうして地道で退屈な作業に二人は戻ることになった。