守り石の失せ物。
 それはなかなか発生しない。
 人は滅多に守り石をなくさない。なくしたとしても、必死に探す。
 何しろ生まれたときから持っているものだ。
 持っていないと手足や目鼻を失ったような違和感に襲われるものも多い。
 この世界の人達にとって守り石は、玉蘭の前世にならって科学的に言うなら、『特別な力はないが大切なもの』なのだ。
 そこにあるだけで価値がある。
 ましてや持ち主不明の守り石というものは、この後宮では本来ならあり得ない。
 下っ端宮女が持っていたマラカイトですら処遇が決められていたように、誰かの守り石がどこにあるかはこの国では重要事なのだ。

 宝玉宮を訪れたのは年配の女官であった。50代前半といったところだろうか。
「突然の訪問、驚かせたこと誠に申し訳なく思います、馬玉官」
 上品な女官は、そう言った。
「いえ、それが私の仕事ですので」
 玉蘭は女官の守り石、苔瑪瑙(モスアゲート)をじぃっと見ながら、そう答えた。
 苔瑪瑙。その名の通り、白い石の中に苔のような濃い緑色のまだら模様がある。白色部分は半透明で、しっとりとした光沢を持っている。瑪瑙とはいうが特徴的な縞模様は見られず、どちらかというと玉髄(カルセドニー)に近い。一粒のビーズの形に加工され、紐で首から吊している。
「わたくしは楊賢妃付きの女官のまとめ役をやっています、(しゃ)と申します」
 玉蘭の凝視におののく様子も、不快に思った様子もなく、謝女官はそう言った。
 まとめ役。つまり筆頭女官、楊賢妃の腹心といったところか。
「楊賢妃さま……、まだお目通りが叶っていませんね」
 玉蘭はついそう言った。

 玉蘭が玉官になって最初にやったのは、妃嬪たちへのあいさつ回りである。

 この後宮には皇后と四妃がいて、さらにその下に多くの妃嬪がいる。
 皇后は現東宮の母でもある。皇太后亡き今、この後宮で一番偉い女は皇后になる。

 楊賢妃は皇后に次いで偉い四妃のひとりだ。
 ぜひ会ってみたいと思っていたが、残念ながら門前払いを喰らった。
 有象無象の妃嬪と違い、楊賢妃は玉官を必要としていなかった。お抱えの玉の職人が都にいて、玉に問題があれば、外にいる彼らをすぐに呼びつけ、用事を頼めた。
 身分と財力があるものにとって、玉官は不要になることもある。
 朱瓔宮に勤めている下位の女官や宦官であれば、たまに宝玉宮に来ることもある。しかし楊賢妃に目をかけられているのだろう高位の女官や宦官は宝玉宮に来たことがない。それほど楊賢妃の財力と統制は強い。
 だからこそ、この事態はあらゆる意味で不思議なのだ。一度は不要とした玉官に何の用事があるのか。

「……その節はとんだご無礼を」
 謝女官がすっと頭を下げる。表情は淡々としていて、涼しげだ。
 その行動は礼儀というより、処世術という感じがした。とはいえ、それを不快に思うほど高いプライドも玉蘭にはない。
 玉蘭は四妃相手に礼を尽くせと言えるような人間ではない。こっちはたかだか商人の娘である。
「いえ、信頼の置ける職人がいらっしゃるのでしたら、そちらに頼む方がよいでしょう。守り石の管理は第一に心の平穏のためにございます。それに……恥ずかしながら、こちらの人手も足りていませんし……」
 玉官の追加人員はまだいない。
 一応、募集をかけたりはしているらしいが、成果はない。
 玉蘭が一から教えるから『未経験者・女官でも可』としてもらったのだが、やはり来ない。
 いっそ後宮を駆け回って、玉蘭自ら勧誘でもしようかと言ったら白英に強烈に止められた。
「良いから書類を片付けてください」とのことである。返す言葉もない。

「それで、ええと、失せ物、というのは?」
「はい……。一週間ほど前、朱瓔宮(しゅえいきゅう)でこちらの石が見つかったのですが、今日に至るまで誰も自分が持ち主であると名乗り出なかったのです」

 朱瓔宮は楊賢妃の住まう宮殿だ。
 謝女官は懐から布を取り出した。
 布を取り出す手は震えていた。緊張だろうか?
 布が開かれ、その上に置かれた石が、目の前に現れる。

「……これ、は」
 玉蘭は思わず息を呑んだ。

 深い、深い青。
 群青色の中に金の粒が混じった不透明の石。
 瑠璃(ラピスラズリ)だった。
 加工はビーズ型。穴も空いていて、首から提げる守り石によくある形だ。
 小さな傷がついている。

「……なるほど」
 高揚を隠すことができないまま玉蘭はそう言った。
「この傷は目立ちますが……それでも、かなり品質が良いですね」
 まずそう言った。これを扱うのはさぞかし緊張することだろう。
「まずこの均一な青……。白い大理石が混じるような低品質のものとはまるで違う。この石の持ち主は身分が高いか、金持ちか、宝石商の命でも救ったかなんかです」
 玉蘭はそう言い切った。
 謝女官は特に驚いた様子もなくうなずいた。そこまでは彼女も想定内なのだろう。
「傷は後からついたものかしら……」
 玉蘭は傷をじっと眺めながら、ブツブツつぶやいた。
 何かに擦れたような傷。失せ物、つまり落とし物ということなら、元の持ち主が、文字通り落としたときについたものだろうか?
 ラピスラズリのモース硬度は5から6。宝石全体でちょうど中くらいで、ナイフやヤスリで傷がつくくらいの硬さだ。
「これの持ち主が、不明ということでよろしいですか?」
「はい。少なくとも朱瓔宮の中では誰も名乗り出ませんでした」
「つまり部外者の持ち物である可能性をお考えですか?」
「……ええ」
 謝女官は憂い顔でうなずいた。

「えっと……」
 玉蘭は腕を組んで、白英を見た。
「それって問題なの?」
 謝女官に直接聞くより、白英に聞いた方が丸い気がした。
「いえ。それぞれの宮殿によそから誰かが訪れること自体はよくあります。けれども、そもそも外部の人間でも守り石を落とした『だけ』なら、探すはずです」
「ああ、そうよね」

 自分の足取りを確認し、立ち寄った宮殿に声くらいかけるだろう。
 このラピスラズリを守り石にできるのなら、下っ端宮女ではないだろう。それなりの地位についている女官か宦官、もしくは妃嬪だ。
 よその宮殿に気後れするような低い身分ではない。
 それが一週間経っても現れない。

「つまり」
 白英が勝手に話を続ける。玉蘭が余計なことを言う前に、何かを言っておきたいようだ。
「持ち主は朱瓔宮を訪ねたことを明かしたくない人物かもしれません」
「なる、ほど」
 秘密の訪問。
 謝女官に視線を戻すと、謝女官もその視線の意味を承知したのかうなずいた。
「……女官と宦官の密会……そして密通を我々は疑っています」

「えーっと……」
 玉蘭は考え込む。建前上、後宮の女性は皆、皇帝の妻になりうるとされている。玉官として採用された玉蘭も例外ではない。
 そんな女性と宦官が密通。
 もう一回、白英を見た。

「俺じゃないです」
「そこじゃない」

 解説をしてほしかったのだ。そしてその冗談に『それはわかってる』と返せるほど、この宦官のことを、玉蘭は知らない。
「……あるの、そういうこと?」
「わりと、まあ、よく」
「あるんだ……」
 玉蘭は未知の世界にため息を付いた。

「……つまり」
 状況を整理する。
「つまり宮殿に勤めている女官、宦官のもとに、よその女官か宦官が忍んで来て、その誰かがラピスラズリを落としていった、ということ?」
「はい。まあ密会とは限りません。ただの侵入者の可能性もあります」
「あ、そっか」
 つい後宮なんて場所にいると色事に頭がいってしまうが、シンプルに泥棒なんかの可能性もある。
「……しかしおそらくですが、謝女官たちが疑っているのは、密会で、朱瓔宮の女官たちではないかと」
 白英がそう補足した。玉蘭はちらりと謝女官をうかがった。彼女は静かだった。肯定も否定もしない。

「そうなの? 宦官は除く?」
「はい。まず、ラピスラズリの持ち主が、宮殿の人間であれば、基本、自分がうっかり落としましたで済むはずです」
「それはそうね。宮殿の人間が落としたのなら、よっぽど変なところでない限り、仕事中に入り込みました、転がりました、で終わりね」
 楊賢妃の寝室なんかに落ちていたとでもなれば、話はだいぶ変わるが、それならそうと謝女官も言うはずだ。
 つまり発見されたのはごくごく普通の場所。しかし、宮殿の人間は名乗り出なかった。
「はい。そして密会に来ていたのが女性で、訪ねられたのが宦官の場合、女性の守り石の紛失はすぐ周囲から気づかれます」
「ああ……」
 女性はだいたい首から守り石を下げる。
「ということは訪れたのは宦官、それも普段はあなたみたいに、表に守り石を出していない宦官。そして訪ねた先は女官ということね」

「……まあ、宦官同士という可能性も排除はしきれませんが……」
 白英がちょっと困ったように言う。実例でも知っているのだろうか。
「でも、宦官同士なら、その関係って外聞は悪いかもしれないけれど、罰せられるほどではないものね?」
「はい、そのとおりです」
 宦官同士の密通であれば、皇帝の所有物である女に手を出すような反逆罪とは訳が違う。
 この国の人達にとって、守り石を無くした苦痛より優先される秘密はほとんどない。
 死に直結するようなものでもない限り。

「……となると、あんまり位が高くない女性かしら。だって、密会相手の守り石なら、それは自分のものですって言って回収するんじゃない? でも、身分が低い女性がこのラピスラズリの持ち主だと名乗りを上げたら、怪しいわ」
「あとは密会相手の守り石を知らなかったという可能性もありますね」
 白英が補足してくれる。
「ああ、そっか」
 普段見せずに過ごしている宦官の守り石なら、親密な関係であっても、相手の守り石が何か知らなくても不思議ではない。

「ああ、いや、そもそも……」
 玉蘭はそれに気付いた。
「これ、本当に守り石なの?」

「え?」

 その間の抜けた声を漏らしたのは謝女官だった。
 あまりにも仰天した声だったので、玉蘭は最初、この冷静な女官の言葉だと気づかなかった。

 玉蘭は謝女官を見た。
 謝女官の手はまたしても緊張したように震え、その顔はラピスラズリのように青かった。