『馬玉蘭』は富裕な宝石商の娘だが、彼女の前世はもっと普通の娘だった。日本という国で、金持ちでも貧乏でもない普通の家に生まれ育った。
 前世の『彼女』も宝石が好きだった。そして『彼女』もネフライトを所有していた。
 けれども『彼女』も玉蘭も『翡翠』は持っていなかった。

 ネフライト――軟玉を前世の『彼女』は自力で購入した。『馬玉蘭』は生まれたときから守り石として手にしていた。

 翡翠、軟玉(ネフライト)に対し硬玉(ジェダイト)とも呼ばれる宝玉。歴史上、時に混同もされたほどよく似ているが、しかしネフライトよりさらに緑深く輝くあの美しい石を、玉蘭も前世の彼女も所有していない。

 前世は単純にお金がなかった。本当に美しい翡翠はあまりに高価だった。
 一方、宝石商の娘である玉蘭が翡翠を持っていないのは、『まだ発見されていなかった』からだ。
 珠国という国は前世の記憶の中にはない。しかし珠国が位置する大陸は前世の記憶にあり、その記憶によれば歴史上、珠国という国は存在しなかった。
 そして前世の記憶によれば翡翠が大々的に発見されるのは比較的遅い時代なのである。

 前世と今世では同じ宝石が存在している。
 今のところ、前世の『彼女』が知らなかった宝石が『馬玉蘭』の前に現れたことはない。
 であれば、きっとこの世界のどこかに翡翠はあるのだ。

 それに気付いたとき、馬玉蘭の今世での目標は決まった。
 翡翠を見つける。
 もっとも女に生まれた玉蘭がこの世界で翡翠を見つけるために、西の果てに向かう、あるいは海を渡って前世の生国に渡るというのは現実的ではない。

 だから玉蘭は後宮に上がろうと思った。

 馬家は珠国の西方にある。前世ではシルクロードと呼ばれていたあの交易路が通る地域だ。だから前世の歴史通りにシルクロードから翡翠が流れてくれば、馬家のものが見つけることができる可能性が高い。

 一方、後宮。この国で一番偉い皇帝が住まい、多くの高貴な女性が集まる場所。
 万が一、シルクロードから翡翠がもたらされず、馬家がそれを得られなかったとしても、この場所にいれば最終的には宝石の情報が掴める。

 宝石商の娘・馬玉蘭の今世の夢は、翡翠を手に入れること、そして翡翠の販路を握ることだ。

 珠国という国が前世の記憶にない以上、翡翠がいつの時代に見つかるかは不明瞭だった。
 だからこそ、それは夢だった。
 叶わないとしても追いかけたい、玉蘭の前世から続く夢物語。

「……そう、思って、いたけれど……」

 玉蘭はそう呟いて首から提げているネフライトの守り石をそっと撫でると、まどろみの中に沈んだ。

 それは、過去のことだ。
 玉蘭がまだ後宮に来る前、実家の馬家にいた頃ではない。さらにもっと前、人知の及ばぬ『過去』のことでもあった。

◆◇◆

「――ちゃんに宝石をあげようねえ」
 病床のお祖母ちゃんがそう言って私にくれたのは、不透明な石のネックレスだった。ぱっと見、緑色に見えるが、白色の中に緑が入り交じっている。それは濁っているようで、表面にはしっかりガラスめいた光沢がある。
 宝石と言えば食玩についてくるキラキラで透明なプラスチックだった当時5歳の私には、それは宝石には見えなかったけれど、それでも何故か妙に惹かれるものがあった。
「ちょっとお母さん、そんな高価なものを子供に……」
 母が慌ててそう言った。本当に心からの心配の声だった。
「大丈夫よ、――ちゃんは良い子だから、ちゃんと大事にしてくれるわよね?」
「うん!」
 私は後先考えずそう返事をして、そしてその翡翠(ひすい)のネックレスは私の生涯のお守りになった。

◇◆◇

 玉蘭は目を開けた。

 今ではない。珠国でもない。
 名前も違う誰かの夢。
 生きている死人。

「馬玉官、休憩終わりましたら、こちらの書類の確認をお願いします」
 玉蘭の感傷をぶち壊すように白英がどさっと書類を目の前に積み上げた。
「……はい」
 玉蘭は顔をしかめて、書類に手を伸ばした。
「半年分の書類の精査です。今回の孔雀石のようなことがないよう、ご確認を」
「半年、ね……」
 半年、玉官が不在だったのは誰のせいなのか。そう問いただしたくなるのをぐっとこらえ、玉蘭は書類に手を伸ばす。
 たとえ他人の責任だとしても、防げる事故なら防ぎたい。
 宝玉を愛するがゆえの悲しき性だった。

「なんか宝玉より、紙と文字ばっかり見ている気がする……」
「仕事ってそういうものじゃないですか?」
「元武官のくせに……」
 紙と文字から最も遠そうな役職なのに。
 ただ白英の書類処理能力はしっかり高い。それは助かっている。ただの脳筋武官をよこされなくて本当によかった。
「ああ、そうだ。馬玉官、こちら本日届きました。馬玉官の石印です」
 石印。つまるところ石でできたハンコである。
 白英は恭しく木の箱を差し出してきた。シンプルだが香り漂う檜の木箱。
 受け取り、蓋を開ける。
 中には四角柱のハンコが入っていた。石は不透明で光沢があり、白色の中に赤色が混じっている。(ちゅう)、持ち手の部分のデザインは馬の頭である。馬家にあやかってのことだろう。
「石材は鶏血石(けいけつせき)だそうです……。なんて馬玉官には解説するまでもありませんよね」
「そうね。白い葉臘石(パイロフィライト)の中に赤い辰砂(シンナバー)が濃く出てる」
 玉蘭は石印をじっと見つめながらそう言った。
 鶏血石は前世でも石材としてよく知られた石だった。
 名前の通り、白い石の中に血のように赤い模様が混じっている。
「こちら天子様から下賜された馬玉官専用の石印となります。紛失など絶対にしませんように。本日以降の馬玉官が担当された書類にはこちらを使ってもらいます」
「わかったわ」
 さっそくマラカイトに関する記録に判を押した。
『馬玉官之印』という文字が紙に踊った。
「……ふふ。すてきね」
 玉蘭は微笑んだ。
「天子様に是非ともお礼の手紙を差し上げたいわ。失礼かしら?」
「いえ、そのようなことは。まあ、読んでいただけるかはわかりませんが……。ああ、あと媚びを売るような文面は控えた方がよろしいでしょう」
「そうね……。あとで白英に添削してもらいましょう」
 後宮の常識についてはいまだにさっぱりだ。
「ええ、なんなりと」
 元東宮の護衛、この後宮に精通しているのだろう男は自信満々に微笑んだ。
 姫白英。頼りにはなる男だった。