「ふー……」
残された玉蘭は大きなため息をついた。
白英はそんな彼女にお茶を出した。
「いや、お見事。女性だからと突っぱねることなくあなたを玉官に採用してよかった!」
白英はそう言って、勝手に玉蘭の正面に座った。
咎める気にはなれなかったし、そもそも白英は玉蘭が咎められるような相手ではない。
人手不足のせいで玉蘭の、玉官の仕事の補佐をしているだけで、本来の彼は玉蘭より立場が上だ。
白英が玉蘭に見せているのは、専門職への敬意であって、立場による敬意ではないのだ。
「……よく言うわ。前任の玉官、宦官たちを粛清で追いやっておいて……。それさえなければ、知識ある玉官がいれば、あの届けはそもそも受理されてなかったはずよ。マラカイトの守り石を粉末にするならまだしも化粧に使うのは推奨できないってね」
玉蘭は後宮に来て、まだ半月ほどだ。
そして玉蘭が玉官になるまでの半年間、後宮に玉官は不在だった。
3ヶ月前に亡くなった宮女が守り石の届けを出したのは4か月前だった。ちょうど玉官は不在で、ただ事務的に届けは受理された。届けの内容を精査するものはいなかった。
理由はさっき言ったとおり、粛清である。
今の皇帝は病を得ていて、もうあまり長くはない。
幸い跡継ぎである東宮はすでに長じている上に、立派な人物であったから、彼が皇帝を継げば万事問題ない。そう思われていた。
しかし、後宮の中に渦巻く政治と陰謀は根深く、東宮に害をなそうとした一派がいた。
皇帝の名のもとに彼らは粛清され、玉官も引き継ぎなどする間もなく、皆消えた。
「いえ、ですから、何度も申し上げましたが、陛下による粛清で職を追われた玉官は前任7人のうち4人だけですよ。そして残り3人はただ殺されたのです、何者かの手によって」
「…………」
玉蘭は黙り込んだ。
玉官が全員粛清で後宮からいなくなった。
あまりのことに後任に名乗り出る勇気があるものはなかなかいなかった。
そして半年後、とうとう女官が玉官に取り立てられた。
その女官は宝石商の娘で、たぐいまれなる宝石の知識を持っていたため、女としては初の玉官として登用された。
それが世間の知る玉官にまつわる筋書きだ。
玉蘭自身、後宮に来るまではそう聞いていたし、そう思っていた。
しかし、そうではなかった。
玉官の数名は、経緯のわかる粛清ではなく、正体不明の何者かによって暗殺されていた。
その理由も何もかも、今はまだ不明のままである。
「はー……早くやめたい。玉官」
志と野望、そして前世の記憶を持ち、後宮の女達のために玉官になることを決意したはずの玉蘭だったが、今ではすっかりそんなきな臭い職務にすっかり嫌気が差していた。
しかし彼女の義務感と、白英ひいてはその背後にいるらしい偉い人たちの圧がそれを許さない。
「ですから、後任の玉官さえ育ててくれれば、いつでもお帰りいただけます。女官の玉官は前例がございませんから、今現在、規定はゆるゆるです。故にそこらへんは無理やりどうにかなります。します」
「じゃあ、後任あんたがやりなさいよ、学びなさいよ。なんだって教えてあげるから」
これを言うと白英はいつも「自分は武官ですから」と断ってくる。
白英は不審死が相次いだ玉官の護衛として皇帝直々に任命されていて、本職は武官らしい。前職はなんと東宮の護衛だったとか。
つまり玉官3人を殺した下手人を特定し捕まえろというのが白英本来の役割だ。
玉蘭はそのための囮なのだ。まったく迷惑千万な話である。玉蘭の命をなんだと思っているのだ、こいつらは。
「できませんよ、自分には」
今日の白英は珍しくそんな断り方をしてきた。
「あんなふうに呪いを解くなんてこと、できません」
「だから呪いなんてないんだって……」
「呪いでしょう、これは。守り石ではなく、亡くなった宮女の」
「…………」
白英の言葉に、玉蘭は黙り込む。
「生き残った3人の宮女は孔雀石の特性を知らなかった。ええ、そうでしょう。そうでなければああはなりません。しかし、亡くなった宮女は知っていた可能性が高い。違いますか?」
「……お前、やっぱり玉官の後任になりなさいよ。武官と言い張ってても頭の良さが隠しきれてないわ。ついでに育ちの良さもね」
玉蘭は白英の言葉を否定しなかった。できなかった。
「……そうよ、身寄りももうない貧しい宮女。きっと彼女は知っていたわ。自分の出身、南西でよく採れるマラカイトが顔料に使われていること、そしてその顔料はかぶれやすいってこと」
玉蘭は伏せていた帳面の中身にもう一度、目を落とす。そこには亡くなった宮女の出身地まで書かれていて、そこは確かにマラカイトの産地と名高い地域だった。
「それなのに……彼女は止めなかったのよ」
宮女3人は言っていた。守り石をすり潰して使うのを決めたのは、まだ亡くなった宮女が生きていた頃のことだと。
であれば、止められたはずだ。忠告できたはずだ。しかししなかった。
いや、そもそも守り石を擦り潰そうなんて提案自体、恐れ多くて守り石の元の持ち主以外誰が言い出せるだろうか。
3人の宮女は誰が言い出したかは言わなかった。なんなら忘れているのかもしれない。しかし恐らくそれを言い出したのは他ならぬ死んだ宮女だったのではないだろうか。
きっと死んだ宮女はわかっていた。わかっていて、見逃した。むしろ仕向けた。
そしてそれが何を理由にしていたのかは、3人の宮女が言っていたことの中に入っているのだろうか。それとも何か他の理由があったのだろうか。それについては――。
「なんにせよ、死人に口無し、よ。言いたいことがあったのなら、不満があったのなら、こんな嫌がらせをするのなら、生きているうちに言うべきだったのよ、この宮女は」
そう言って、玉蘭は帳面を閉じた。
この話は、ここでおしまいだ。これ以上、呪いを深める必要など何もない。
白英の言葉を借りれば、玉蘭は呪いを解いたのだから。
「……まあ、喋る死人もごくまれにいるけどね」
玉蘭はポツリとつぶやいた。
「おや、何か?」
「……いや、なんでも。お茶のおかわりを」
「はい、ただいま」
白英がお茶のために席を立つ、それを見送り、玉蘭は目を伏せた。
喋る死人。死んだはずの人間。
それが気付けば、こうして生きている。
今まで生きていたのとは、ずいぶんと違う場所で。
馬玉蘭には、前世の記憶がある。
それも今生きている珠国とは文化も歴史も地域もまるで違う世界の記憶だ。
それでもたったひとつ変わらないものがあった。
それが――。
「宝石、か」
胸から下げているネフライトを見下ろす。
この宝石の輝きだけは変わらない。それだけが前世と今の玉蘭を繋いでいた。
残された玉蘭は大きなため息をついた。
白英はそんな彼女にお茶を出した。
「いや、お見事。女性だからと突っぱねることなくあなたを玉官に採用してよかった!」
白英はそう言って、勝手に玉蘭の正面に座った。
咎める気にはなれなかったし、そもそも白英は玉蘭が咎められるような相手ではない。
人手不足のせいで玉蘭の、玉官の仕事の補佐をしているだけで、本来の彼は玉蘭より立場が上だ。
白英が玉蘭に見せているのは、専門職への敬意であって、立場による敬意ではないのだ。
「……よく言うわ。前任の玉官、宦官たちを粛清で追いやっておいて……。それさえなければ、知識ある玉官がいれば、あの届けはそもそも受理されてなかったはずよ。マラカイトの守り石を粉末にするならまだしも化粧に使うのは推奨できないってね」
玉蘭は後宮に来て、まだ半月ほどだ。
そして玉蘭が玉官になるまでの半年間、後宮に玉官は不在だった。
3ヶ月前に亡くなった宮女が守り石の届けを出したのは4か月前だった。ちょうど玉官は不在で、ただ事務的に届けは受理された。届けの内容を精査するものはいなかった。
理由はさっき言ったとおり、粛清である。
今の皇帝は病を得ていて、もうあまり長くはない。
幸い跡継ぎである東宮はすでに長じている上に、立派な人物であったから、彼が皇帝を継げば万事問題ない。そう思われていた。
しかし、後宮の中に渦巻く政治と陰謀は根深く、東宮に害をなそうとした一派がいた。
皇帝の名のもとに彼らは粛清され、玉官も引き継ぎなどする間もなく、皆消えた。
「いえ、ですから、何度も申し上げましたが、陛下による粛清で職を追われた玉官は前任7人のうち4人だけですよ。そして残り3人はただ殺されたのです、何者かの手によって」
「…………」
玉蘭は黙り込んだ。
玉官が全員粛清で後宮からいなくなった。
あまりのことに後任に名乗り出る勇気があるものはなかなかいなかった。
そして半年後、とうとう女官が玉官に取り立てられた。
その女官は宝石商の娘で、たぐいまれなる宝石の知識を持っていたため、女としては初の玉官として登用された。
それが世間の知る玉官にまつわる筋書きだ。
玉蘭自身、後宮に来るまではそう聞いていたし、そう思っていた。
しかし、そうではなかった。
玉官の数名は、経緯のわかる粛清ではなく、正体不明の何者かによって暗殺されていた。
その理由も何もかも、今はまだ不明のままである。
「はー……早くやめたい。玉官」
志と野望、そして前世の記憶を持ち、後宮の女達のために玉官になることを決意したはずの玉蘭だったが、今ではすっかりそんなきな臭い職務にすっかり嫌気が差していた。
しかし彼女の義務感と、白英ひいてはその背後にいるらしい偉い人たちの圧がそれを許さない。
「ですから、後任の玉官さえ育ててくれれば、いつでもお帰りいただけます。女官の玉官は前例がございませんから、今現在、規定はゆるゆるです。故にそこらへんは無理やりどうにかなります。します」
「じゃあ、後任あんたがやりなさいよ、学びなさいよ。なんだって教えてあげるから」
これを言うと白英はいつも「自分は武官ですから」と断ってくる。
白英は不審死が相次いだ玉官の護衛として皇帝直々に任命されていて、本職は武官らしい。前職はなんと東宮の護衛だったとか。
つまり玉官3人を殺した下手人を特定し捕まえろというのが白英本来の役割だ。
玉蘭はそのための囮なのだ。まったく迷惑千万な話である。玉蘭の命をなんだと思っているのだ、こいつらは。
「できませんよ、自分には」
今日の白英は珍しくそんな断り方をしてきた。
「あんなふうに呪いを解くなんてこと、できません」
「だから呪いなんてないんだって……」
「呪いでしょう、これは。守り石ではなく、亡くなった宮女の」
「…………」
白英の言葉に、玉蘭は黙り込む。
「生き残った3人の宮女は孔雀石の特性を知らなかった。ええ、そうでしょう。そうでなければああはなりません。しかし、亡くなった宮女は知っていた可能性が高い。違いますか?」
「……お前、やっぱり玉官の後任になりなさいよ。武官と言い張ってても頭の良さが隠しきれてないわ。ついでに育ちの良さもね」
玉蘭は白英の言葉を否定しなかった。できなかった。
「……そうよ、身寄りももうない貧しい宮女。きっと彼女は知っていたわ。自分の出身、南西でよく採れるマラカイトが顔料に使われていること、そしてその顔料はかぶれやすいってこと」
玉蘭は伏せていた帳面の中身にもう一度、目を落とす。そこには亡くなった宮女の出身地まで書かれていて、そこは確かにマラカイトの産地と名高い地域だった。
「それなのに……彼女は止めなかったのよ」
宮女3人は言っていた。守り石をすり潰して使うのを決めたのは、まだ亡くなった宮女が生きていた頃のことだと。
であれば、止められたはずだ。忠告できたはずだ。しかししなかった。
いや、そもそも守り石を擦り潰そうなんて提案自体、恐れ多くて守り石の元の持ち主以外誰が言い出せるだろうか。
3人の宮女は誰が言い出したかは言わなかった。なんなら忘れているのかもしれない。しかし恐らくそれを言い出したのは他ならぬ死んだ宮女だったのではないだろうか。
きっと死んだ宮女はわかっていた。わかっていて、見逃した。むしろ仕向けた。
そしてそれが何を理由にしていたのかは、3人の宮女が言っていたことの中に入っているのだろうか。それとも何か他の理由があったのだろうか。それについては――。
「なんにせよ、死人に口無し、よ。言いたいことがあったのなら、不満があったのなら、こんな嫌がらせをするのなら、生きているうちに言うべきだったのよ、この宮女は」
そう言って、玉蘭は帳面を閉じた。
この話は、ここでおしまいだ。これ以上、呪いを深める必要など何もない。
白英の言葉を借りれば、玉蘭は呪いを解いたのだから。
「……まあ、喋る死人もごくまれにいるけどね」
玉蘭はポツリとつぶやいた。
「おや、何か?」
「……いや、なんでも。お茶のおかわりを」
「はい、ただいま」
白英がお茶のために席を立つ、それを見送り、玉蘭は目を伏せた。
喋る死人。死んだはずの人間。
それが気付けば、こうして生きている。
今まで生きていたのとは、ずいぶんと違う場所で。
馬玉蘭には、前世の記憶がある。
それも今生きている珠国とは文化も歴史も地域もまるで違う世界の記憶だ。
それでもたったひとつ変わらないものがあった。
それが――。
「宝石、か」
胸から下げているネフライトを見下ろす。
この宝石の輝きだけは変わらない。それだけが前世と今の玉蘭を繋いでいた。



