「この度は我が宮殿のことで、ご迷惑をおかけしています」

 楊賢妃は物静かそうな女性だった。
 今まで出会った妃嬪たちは、どこか野心や余裕のなさを感じさせるものも多かったが、楊賢妃はゆったりと背もたれと肘置き付きの椅子に腰掛けて、玉蘭たちを迎え入れた。
 年の頃は玉蘭より上、謝女官よりは下といったところか。男女どちらかは聞きそびれたが、皇帝との間に子供もいると聞いている。

 胸元には茶色に白い縞の入ったサードオニキスが光沢を放っている。
 サードオニキスはオレンジに近いものもあるが、楊賢妃の守り石はピンク寄りの茶色だ。

 楊賢妃の椅子の横に、謝女官が恭しく侍っている。

 本来、賢妃ほどの人であればもっと多くの女官や宦官を侍らせていてもおかしくない。
 けれども、楊賢妃の部屋にいるのは、たった4人。
 玉蘭、白英、楊賢妃、謝女官だけだった。

 人払いをしている。それは楊賢妃と謝女官、どちらの意向か。あるいはふたりで申し合わせたのか。

「はじめまして、宝玉宮の玉官、馬玉蘭と申します」
「はじめまして。ご挨拶遅れたこと、申し訳なく思っております」
「いえ、今後とも何かご用があれば、気軽にお声がけいただければ」
「今後は……何もなければいいのですが……」

 楊賢妃はそう言うとため息をついた。
 そうだ。彼女は今、謎のラピスラズリのせいで困っている。
 少し軽率だっただろうか?
 しかし楊賢妃は気分を害した様子はない。

「それで、何かわかりましたか?」
 楊賢妃の言葉に、玉蘭は振り返って、白英を見る。
 白英は少し悩ましげに眉をひそめてから、こくりと深くうなずいた。
 どうやら玉蘭にすべてを任せてくれる気になったらしい。

「……記録はまだ調べていないのですが、半年前の大粛清で亡くなった玉官の中に、ラピスラズリを守り石としていたものがいるかもしれません」

 玉蘭はそう切り込んで、じっと楊賢妃の顔を見た。
 楊賢妃の切れ長の瞳が、玉蘭をじっと見つめ返す。

「でも、それは半年前に亡くなった方々ですよね?」

 楊賢妃は動じずに、冷静に、そう言った。

「そうです。半年前の玉官の死。一週間前のラピスラズリの発見。であれば、約半年間、この石はどこにあったのか」
「そう難しく考えずとも……、それならば死んでしまった玉官は関係ないと考えるべきでは?」
「ああ、なるほど」

 玉蘭は深くうなずき、楊賢妃から目をそらして、謝女官を見つめた。
 視界の端で楊賢妃がピクリと小さく動くのが見える。
 そうだ。四妃ほどの人と話している間に、彼女から目をそらして女官に目をやるなんて無礼だろう。
 しかし玉蘭は見なければいけない。
 謝女官を。

 謝女官の顔は、やはり青かった。小さく震えている。

「……謝女官、楊賢妃さまには、まだラピスラズリを見せてはいないのですね?」
「……っ。はい」
 謝女官は観念したようにうなずいた。
「それが、何か? 馬玉官」
 口を挟んだ楊賢妃の声はトゲトゲしかった。
「わたくしはラピスラズリが好きではないのです。『だから見せなくてよい。お前が持ち主を探して突き返せ』そう謝に命じたのはわたくしです」
「だとしても、見るべきでした。あなたはあのラピスラズリを」

 玉蘭は謝女官から目をそらさないまま、そう告げた。
 謝女官は、今にも倒れそうな程、顔が真っ青だった。

「しっかりなさい」
 楊賢妃は謝女官に目をやると、ぴしゃりとそう言った。
「馬玉官……ラピスラズリはあなたに預けていると聞いています。そこまで言うのなら、見せていただけますか」
「……はい。よろしいですね、謝女官」
「……それが、楊賢妃さまのご命令であれば」

 謝女官の息が上がっている。動悸でもしているのだろうか、身体の震えが止まらない。

「では」

 玉蘭は懐から布に包んでいたラピスラズリを取りだし、その布を開き、楊賢妃に差し出した。

「……これは、楊玉官の……」

 どこか気の抜けた声で、楊賢妃はそう言った。
 今までのトゲトゲしさはかき消え、どこか呆然とした顔をしている。

「……どういうこと? 何故、黙っていたの……」

 楊賢妃はもはや玉蘭を向いていない。謝女官の方へ視線をやっている。
 当の謝女官はふらりと身体が揺れはじめた。

 姫白英が動いた。
 玉蘭の背後から風のように走ると、謝女官の身体を支えた。

「失礼」

 白英はそう謝罪すると、謝女官の身体を抱え上げた。

「誰か! 謝女官がお倒れになった!」

 白英が部屋の外に向かって大声で叫んだ。

 バタバタと外から音がして、身なりのいい女官と宦官が連れ立って現れた。
 宦官が謝女官を白英から受け取り、部屋を出て行く。個室へ連れて行くのかもしれない。
 駆けつけた女官が楊賢妃のそばに屈んで、何やら囁いた。

「……いえ、いいわ。一人……、徴玲を残して、あとは下がりなさい」

 徴玲と指定されたのは楊賢妃より若い女官だった。
 利発そうな顔立ちで、謝女官が立っていた場所に入れ替わるように立った。

「馬玉官、こちらの徴玲は楊家の遠縁のものです。最近……、大粛清の後に後宮にやって参りました。これは信頼できます。……話してください。あなたが知っていることを、全部」

 楊賢妃の目には深い悲しみと覚悟がにじんでいた。

「……謝女官にお尋ねになった方がよろしいのでは?」

 それは最後の確認。

「その必要はありません」

 楊賢妃は悲しげに目を伏せた。

「わたくしは生まれたときから謝の世話になっていました。だからわかります。あれがどのような嘘や偽りをしていたとしても、それはわたくしのためです。つまりはわたくしの責任です」

 楊賢妃が目を上げ、玉蘭をじっと見た。

「……『見るべきだった』とは、そういうことなのでしょう? 主人として、あれに甘えるのではなく、わたくしは……嫌な予感に向き合うべきだった」

「……では、こちらが把握している範囲を」

 玉蘭はうなずくと、白英に視線をやった。
 楊玉官については、玉蘭よりも白英の方が詳しいはずなのだから。

「……まず、私から謝罪を。楊玉官は大粛清の粛清対象ではありませんでした。彼は暗殺されたのです」
「は……?」

 白英の言葉に楊賢妃が動揺する。

「……我々(・・)は混乱を最小限にするために、日々多くの偽装を行っています」

 我々。皇帝か、東宮か、どちらにせよ玉蘭には及びもつかない人々が関わっているのだろう。
 楊賢妃も即座にそれを理解したのだろう。ふうと深く息を吐くと、うなずいた。

「まあ、そのようなことは後宮で生きていれば日常茶飯事なのはおわかりいただけるかと。……それを言い訳にする気もありませんが、追求があなたのためにならないことは、おわかりかと?」
「脅しですか?」
「念押しです。……私は今の体制でこれ以上、無用な粛清を起こさせたくないのです。正直、ほとんどの人命などどうでもいいですが……東宮殿下への反発は、避けたい」
「……ああ、あなたは元東宮の護衛……。皇后陛下の生家、姫家の人間でしたね……」

 楊賢妃は納得したらしい。
 玉蘭は少し動揺しながら、それを聞いていた。
 ただならぬ出自だとは思っていたが、東宮の母方の親族だったのか。
 逆に何故わざわざ宦官をやっているんだ? この男。
 いや、今はそれどころではない。

「……では、一番の誤認を訂正したところで、まずは時系列を整理していきたいと思います」

 玉蘭はなんとかそう言った。