「馬玉官がいたいけな少年宦官をいじめた……」
「……白英、うるさい」

 手巾(ハンカチ)を取りだし、徳秀に差し出しながら、玉蘭は気まずい気持ちでそう言った。
 泣かせるつもりなど、もちろんなかった。
 思いついたことをつい口にしてしまっただけだ。
 それがあまり褒められたことでなかったことも、さすがにわかっている。

 差し出した手巾を、徳秀は受け取ってくれなかった。
 差し出した手が所在なく揺れる。
 徳秀の目を見た。じっと手巾を見ている。

「こ、このような美しいもの……俺には」

 確かに玉蘭が差し出した手巾は繊細な刺繍が施された美しいものだ。

「いいのよ」

 四の五の言わせる暇を与えず、玉蘭はまず徳秀の目尻の涙を拭った。
 そのまま額についたばかりの土を拭い、さらに頬の泥も拭いた。

「あ、あ、ああ……」

 徳秀がオロオロしている隙に、玉蘭は彼の顔を拭き終えた。

「よし」

 顔はまだ汚れるだろう。徳秀には今後も仕事があるのだから。
 だからこれは自己満足だ。
 それでも徳秀が深々と頭を下げた。今度はさすがに土に顔はつけない。

「ありがとうございます……。玉官の方ってみんな親切ですね」
「いえ、そんなことは……」

 玉蘭は謙遜しようとして、ふと引っかかった。

「……玉官が、みんな親切……。亡くなった玉官たちのこと?」
「え、ああ、はい。一年ほど前に後宮に入って、俺なんかにも丁寧な口調で最初の申請を受け付けてくれました」
「そう、だったの」

 思えば玉蘭は前任の玉官たちのことをよく知らない。粛清があり、殺害されたものもいる。そのくらいだ。それぞれの名前すら知らない。

「名前はわかる?」
「俺を担当してくれたのは、楊玉官です」
「……楊?」

 楊賢妃と同じ姓。偶然か? そこまで珍しい姓ではない。

「楊玉官は、楊賢妃と同郷同族です」

 さらりと白英が付け足した。

「そう……。あれ、ええと……」

 朱瓔宮で粛清されたのは外様の官だと白英は言っていた。
 では、この楊玉官はどちらだ?
 粛清か? 殺害か?
 朱瓔宮の所属ではないのだから、粛清でもおかしくはない。
 しかし楊賢妃の同族に粛清者がいたのなら、朱瓔宮でも、もう少し粛清されたものがいてもおかしくない。

「馬玉官、我々はそろそろ戻りませんと。お昼過ぎには朱瓔宮から迎えがいらっしゃいます」

 玉蘭の思考を切り裂くように白英が進言した。

「……う、うん。ちょっと待ってね」
 玉蘭は一瞬だけ悩み、そして決めた。
「……徳秀、宝玉宮にいらっしゃい」

 徳秀が目を丸くした。

「馬玉官!?」

 白英も驚きの声を上げた。声がデカくて、うるさい。

「な、何を考えているのです、藪から棒に」
「もう少し話が聞きたいわ。昼食をとりながら、聞きましょう」
「馬玉官!」
「白英、宝玉宮にも留守番くらい必要だわ」

 玉官は未だ増えない。
 それでも、こうして玉蘭と白英が留守にしている間の留守番役くらいは必要だ。
 一応、書き置きは残してきたが、文字が読めないものだって後宮にはいるし、そういう人間こそ宝玉宮を必要としている。

「この子を宝玉宮付きにしましょう。そう願いを出しといて」

 玉蘭はきっぱりとそう言った。



 そうして徳秀を連れて宝玉宮に戻った。
 一旦、あの場は白英が現場の担当宦官に頼んでくれた。
 そこまで渋られなかった。人手は欲しいだろうが、白英に逆らってまで確保しておきたい人材というわけでもなかったのだろう。

 徳秀は落ち着かない様子で宝玉宮に棒立ちになっている。

「……一旦、連れてきただけで、まだ宝玉宮の人間として認めたわけではありませんから、お忘れ無く」
「はいはい」
 白英が釘を刺してくるのを聞き流す。
「……とりあえず、身体中の泥を拭ってこい、あっちが水場だ」
 白英が徳秀に指示を出す。徳秀は困ったように頭を下げ、そちらへ向かった。

「白英、徳秀に厳しすぎない? いや、身体は洗うべきだと思うけどさ」
「……俺は望んで宦官になりましたが、あの年頃の、身分もそうない少年がわざわざ宦官になりたがると思いますか?」
「え?」
 その続きを聞く前に徳秀が戻ってきた。頭から滴る水を拭いながらやってくる。
 白英の態度に引っかかりを覚えながらも、玉蘭はひとまず徳秀に向き直る。

「どうぞ座って」
 そこにあった背もたれのある椅子を勧めると徳秀が助けを求めるように、白英を見た。
「……これを使いなさい」
 白英が部屋の隅に折りたたまれて置いてあった胡床(こしょう)をひょいと持ってきた。前世でいうならキャンプに使うような折りたたみ椅子だ。
「いや、せめて(とう)に……」
 玉蘭は胡床の隣にあった椅子を指さす。こちらは前世の学校にあったような背もたれのない丸椅子だ。
「いえ、あの、胡床で! 胡床でお願いします……!」
「そう……?」
 可哀想に、徳秀はすっかりビクビクしながら椅子に掛けている。

「……白英、ご飯」
「はいはい。饅頭でいいですか?」
「うん、食べながら話せるしね」
 白英が奥から肉の入った饅頭を持ってきてくれた。
 朝、大厨房から運ばれてきた食事だ。他の宮殿同様、宝玉宮にも厨房はあるのだが、在駐してくれる料理人がいないため、尚宮局などに食事を分配している大厨房から食事をもらっている。
「徳秀、ほら、お食べ」
「い、いただきます……」
 小さい一口。あれじゃ中の餡まで届いていないだろう。
「おいしいです……」
 しかしその言葉に嘘はない。きっと生地だけですら彼にとっては十分においしかったのだろう。
 朝から置いていたものだから、少し硬くなっていたけれど、おいしいはおいしい。

「楊玉官の話、聞かせてくれる? 食べながらでいいから」
「は、はい。といっても、そんなにたいそうな話は……。ええと、宝玉宮にお邪魔したのは、今回を含めて三度目です」

 徳秀は語りはじめた。

「一度目は一年前です。後宮に連れられてきてすぐ。……その頃は母も息災でしたから、守り石を故郷に送っていただけるよう、登録しました。その時の担当が楊玉官です。親切な方でした。ええと、年の頃はそれこそ俺の母ほどでしょうか、首から濃い青色の守り石を提げていて……」
「濃い青色の守り石」
「はい。その、緊張して震えていた俺に、同じ青色だねと、話しかけてくださいました」
「…………」

 青色というのは、場を和ませるための方便だったというわけだ。

「……もしかして記録係が他にいた?」
「あ、はい。右筆の方が」
「なるほど……」
 最初の記録でアメジストと同時に青い石と書かれていたら、次の尚宮局が取ったときも『玉官健在の時に青と書かれていたのだから、青なのだろう』と記録がそのままになっていたのも無理はない。
 楊玉官め、余計なことを言ってくれたものである。
 とはいえ、気持ちはわかる。
 今目の前にいる徳秀もまだビクビクと震えている。これを見て、つい場を和ませたくなった。その気持ちはわかる。往事の楊玉官の人柄が偲ばれた。

「楊玉官の守り石は濃い青色で、不透明で……同じとは俺も思わなかったのですが、ええと、近くで石も見せてくれて……」
「うん」
「砂金のようなキラキラしたものがついておりました」
「……金」

 ラピスラズリの特徴。

「……それは、この石だった?」

 玉蘭は懐から、朱瓔宮のラピスラズリを取り出した。

「……は、はい!」

 徳秀が身を乗り出して、うなずいた。

「よく似ています。俺は石には詳しくありませんが……似ていると思います。でも……、ええと、このような傷はついていなかったと思います」

 徳秀がじっとラピスラズリを見つめ、そう言った。

「……ありがとう。これはたぶん重大な情報だわ」

 半年前に亡くなった玉官の守り石に、一年前には傷はついていなかった。
 一週間前に見つかったときにはついていた。

 これは一体、何を示しているのだろうか。