最初は何が起きたか分からなかった。
自転車のところに行こうとして、背中を向けて歩き出した。一瞬だけ何気なく振り返ってみたら、栞がその場に倒れ込んでいた。
大きく肩を上下させて、呼吸が激しくなっている。瞳をぎゅっと閉じて、苦しい表情のままベンチの脇に伏せている。
慌てて呼びかけてみるも、ひとつも返事をしない。その手を取っても、肩を揺さぶっても、暖簾に腕を押しているようだった。
誰が考えてもわかるだろう、返事をする余裕もないのだと。
慌てながらも、彼女の様子をよく観察した。
手足は真っ赤に染まっているのに、顔だけがやけに青白い。おまけに額にはたくさんの汗をかいていた。
彼女の手をそっと持ち上げる。
彼女の頬に手を添えてみる。
とても熱かった。
熱中症だ。
うかつだった。ひとりだけ水分を摂っていたにもかかわらず、彼女に声をかけなかった。一生懸命にクローバーを探す姿をずっと見ていたのに、夏日の炎天下だというのに、どうしてできなかったんだろう。
リスクがあるなんて、考えなくても分かることなのに。
次から次へと自分を責めたくなってしまう。
けれどもそんなことをしている余裕はない。急いで自転車のところに行き、ペットボトルを持ってくる。残り少ないドリンクだけど、すべて飲ませよう。
栞、水を飲んで。
そう声をかけながら上半身を持ち上げる。持ち上げられた身体に対し、腕だけがだらりと落ちた。表情はまったく生気を感じない。
まるで操り人形だ。
首に手足に紐が結びついて、持ち手から糸を操作することで生き生きとした動作を与える。しかしながら、使われなくなってしまったものは、その場に放置されて、役目を終えてしまう。だれからも見向きもされなくなってしまう。
踊りたいと彼女は言った。
歩いていきたいと彼女は言った。
......そう、栞はただの人形なんかじゃない。僕は彼女を生かさなければいけない。
彼女の口元にペットボトルを当てて、少しずつ流していく。
最初は喉が動いていなかったから、軽く戻してしまった。けれども、次第に飲み込めるようになっていく。
時間がかかったものの、最後まで飲み切る頃には少しずつ瞳が開いてくるようになった。
ごめんと断って、喉の辺りに手を当ててみる。
まだ熱かった。手のひらや頬はいくぶんおさまったものの、ここだけはまだ熱を帯びていた。
「......いい」
栞の口が少し動いた。
人差し指を彼女の前に出して、もう一回と念を送る。
「......きみの手が冷たくて、気持ちいい」
細々とした声で答えてくれた。ここまで意識が戻ってくれたなら良かった。けれども、まだ呼吸が荒い。
緊急を要するものじゃないだけ一安心だけど、どうにかしないといけない。
辺りを見渡してみる。
ここには木のひとつも立っておらず、日陰というものが存在しなかった。どこまで見渡しても日照りに包まれていた。
こんなところに僕たちはいたのだと思うとぞっとする。
栞、立てる?
こう声をかけて反応を待つ。彼女が頷いてくれたので、身体をもう少し持ち上げた。ゆっくり腰を上げてくれたが、まだ足腰がおぼつかない。
どうしようかと考えてみて、彼女の腰に手を回した。
ごめんと小さく謝って、ベンチで横になろうと説明する。
仕方なかった。
驚かれたり身体を離そうとするのではないかと思ったが、そんなことはなかった。彼女も少しは理解してくれたようで、自分の手を取ってくれた。
自分の姿がわずかな影を作って、ベンチに横になる彼女の顔にかかる。少しだけ血色が戻ったような気がする。
時折流れる汗をハンカチで拭っていく。
自分の手を仰いでわずかな風を送る。
これしかできないけれど、少しでも和らいだらいいなと思う。
栞が小さくつぶやいた。
「......行かないで」
申し訳ないと思いつつも、彼女の言葉に耳を傾ける。
「......置いていかないで」
――わたしのこと、置いていかないで。
なんだろう? 何を言っているんだろう?
僕がここから離れてしまうことを心配しているのだろうか。だいじょうぶ、僕はここにいるし、もう少し落ち着いたらカフェに戻ろうと思っている。
そう落ち着いて考えていたら、少し心がざわついた。
......いや、違う。
今現在の話でなない、遠い過去にあった出来事だとしたら......。
その言葉を、どこかで聞いたことがあった。
・・・
あとはなにができるだろう。
毎年熱中症のニュースになるなと思う。畑仕事をしたり海に行ったりなど、さまざまな場所でさまざまな理由で倒れてしまう。
たとえエアコンの効いた部屋であっても、だ。
それは水分補給をしていないことが原因だ。作業に熱中するあまり水分を摂ることを忘れてしまうから。思い出したように喉が乾くというのは、もうその時点で水分が足りなくなっているという。だから意識的に飲むという感覚を身に着けないといけない。
案外難しいなとは思う。
それに、自分では水分を摂っているつもりでも、足りない分が蓄積されて遅れて脱水症状になることもあるという。
栞の様子はあまり変わっていなかった。
飲み物はさっき飲ませたのが最後だし、ここがどこかも分からないから買いにも行けないし病院にだって連れていけない。
部活の日じゃないから塩分の効いたキャンディーは持ってきていなかった。
もちろん冷やす道具なんて持っているわけではない。
このままここにいるしかないのだろうか。
少しずつ沈んでくる太陽が、陰ってくる日差しが、不安を募らせる。風はまったく吹いていなかった。むしろ湿り気をまだまだ感じる。
またしても自分を責めたくなる。
夕方になれば涼しくなるだろうという安直な考えをしたことを。
どうにかなるだろうと高を括っていたことを。
......その時だった。
遠くから車の音がする。顔を上げて車道の方を向く。すると、ワゴン車だろうか、まだ小さくしか見えてないけれど、明らかに車のシルエットだと分かった。
助かるかもしれない。
もうその期待しか心に浮かんでいなかった。
栞の邪魔にならないように立ち上がると、急いで車道に出る。そして、両腕を肩から大きく振って、止まってくださいと声を上げた。
「どうしたの?」
運転席の窓から顔を出したのは、初老ぐらいの男性だった。黒縁の眼鏡をかけていて、落ち着いた雰囲気を感じる。
手短に状況を説明すると、すぐに理解してくれたようだ。
「後ろに乗って、送っていくから」
送るってどこに? 疑問に思うこともせず、自分も何をすべきか判断する。栞を起こして連れてくる間に、後部座席にはふたり分のスペースが作られていた。
もちろん自転車も積み込んだ。そこそこ大きなワゴン車で助かった。
助手席に座っているのは奥様なのだろう。僕が乗り込んだタイミングでクーラーボックスからペットボトルを渡してくる。
「小さいのしかなくてごめんなさいね。1本はあなたが飲みなさい、残りはその子を冷やしてあげて」
頷いて受け取る。
まず栞の首や脇にペットボトルを当てた。それから自分の分を開けた。そういえば自分もまったく飲んでいなかったなと、やっと気づく。
大きな息が口からあふれだした。
だいぶ緊張していたのだろう、安堵したのが自分でも分かった。
「......この度は、忙しいところ、ありがとうございます」
背筋を伸ばして感謝を伝えた。頭を下げたら手で制された。
「いいのよ、いいのよ。困ったらお互いさまなのよ」
それに、今日のお客増えたわねえ。などと夫婦で話している。そうだねと男性もなんだか乗り気だ。
何のことだろう? そういえば送っていくからと言っていたっけ。
恐る恐る問いかける。
「あのう、これからどこに......?」
「ああ、俺たちは旅館をやってるんだ。空き部屋あるから、休んでいってかまわないよ」
なるほど、ご厚意ということか。
もう日が暮れる。いくら夏の日が長くても、もう朱色と言わんばかりの空が広がっている。だいぶたくさんの出来事があった日だった。なんだか苦笑してしまう。
......あ。
ここで、やっと今日泊まるところを考えていなかったと思い出した。
渡りに船、というのはこういうことだと実感する。もう提案に甘えない方がおかしいだろう。
「......宿着いたらで構わないから、家に電話しておくんだよ」
主人に言われて、たしかにと思う。
でも、飛び出してきたとはいえ旅行という建前なのだから、あまりその必要も感じなかった。でも、この子はどうなんだろう。
「栞、ちょっと宿で休ませてもらうことになったからね」
頷いて返事をする。
「それで、着いたら家に電話しておいてね」
首を横に振って返事をした。
......どういうことなんだろう。拒否の反応だ。
わずかに戻ってきた口調はまだか細い。耳を近づけないと聞こえないボリュームで、そっと彼女は告げる。
「わたし、親がいないから......」
ずっと、現実から逃げてもいいだろうと思っていた。家を飛び出すときもクローバーを探しているときも、今日一日もずっと。
しかしながら、これから向き合わないといけない。夜がもたらす運命に......。
自転車のところに行こうとして、背中を向けて歩き出した。一瞬だけ何気なく振り返ってみたら、栞がその場に倒れ込んでいた。
大きく肩を上下させて、呼吸が激しくなっている。瞳をぎゅっと閉じて、苦しい表情のままベンチの脇に伏せている。
慌てて呼びかけてみるも、ひとつも返事をしない。その手を取っても、肩を揺さぶっても、暖簾に腕を押しているようだった。
誰が考えてもわかるだろう、返事をする余裕もないのだと。
慌てながらも、彼女の様子をよく観察した。
手足は真っ赤に染まっているのに、顔だけがやけに青白い。おまけに額にはたくさんの汗をかいていた。
彼女の手をそっと持ち上げる。
彼女の頬に手を添えてみる。
とても熱かった。
熱中症だ。
うかつだった。ひとりだけ水分を摂っていたにもかかわらず、彼女に声をかけなかった。一生懸命にクローバーを探す姿をずっと見ていたのに、夏日の炎天下だというのに、どうしてできなかったんだろう。
リスクがあるなんて、考えなくても分かることなのに。
次から次へと自分を責めたくなってしまう。
けれどもそんなことをしている余裕はない。急いで自転車のところに行き、ペットボトルを持ってくる。残り少ないドリンクだけど、すべて飲ませよう。
栞、水を飲んで。
そう声をかけながら上半身を持ち上げる。持ち上げられた身体に対し、腕だけがだらりと落ちた。表情はまったく生気を感じない。
まるで操り人形だ。
首に手足に紐が結びついて、持ち手から糸を操作することで生き生きとした動作を与える。しかしながら、使われなくなってしまったものは、その場に放置されて、役目を終えてしまう。だれからも見向きもされなくなってしまう。
踊りたいと彼女は言った。
歩いていきたいと彼女は言った。
......そう、栞はただの人形なんかじゃない。僕は彼女を生かさなければいけない。
彼女の口元にペットボトルを当てて、少しずつ流していく。
最初は喉が動いていなかったから、軽く戻してしまった。けれども、次第に飲み込めるようになっていく。
時間がかかったものの、最後まで飲み切る頃には少しずつ瞳が開いてくるようになった。
ごめんと断って、喉の辺りに手を当ててみる。
まだ熱かった。手のひらや頬はいくぶんおさまったものの、ここだけはまだ熱を帯びていた。
「......いい」
栞の口が少し動いた。
人差し指を彼女の前に出して、もう一回と念を送る。
「......きみの手が冷たくて、気持ちいい」
細々とした声で答えてくれた。ここまで意識が戻ってくれたなら良かった。けれども、まだ呼吸が荒い。
緊急を要するものじゃないだけ一安心だけど、どうにかしないといけない。
辺りを見渡してみる。
ここには木のひとつも立っておらず、日陰というものが存在しなかった。どこまで見渡しても日照りに包まれていた。
こんなところに僕たちはいたのだと思うとぞっとする。
栞、立てる?
こう声をかけて反応を待つ。彼女が頷いてくれたので、身体をもう少し持ち上げた。ゆっくり腰を上げてくれたが、まだ足腰がおぼつかない。
どうしようかと考えてみて、彼女の腰に手を回した。
ごめんと小さく謝って、ベンチで横になろうと説明する。
仕方なかった。
驚かれたり身体を離そうとするのではないかと思ったが、そんなことはなかった。彼女も少しは理解してくれたようで、自分の手を取ってくれた。
自分の姿がわずかな影を作って、ベンチに横になる彼女の顔にかかる。少しだけ血色が戻ったような気がする。
時折流れる汗をハンカチで拭っていく。
自分の手を仰いでわずかな風を送る。
これしかできないけれど、少しでも和らいだらいいなと思う。
栞が小さくつぶやいた。
「......行かないで」
申し訳ないと思いつつも、彼女の言葉に耳を傾ける。
「......置いていかないで」
――わたしのこと、置いていかないで。
なんだろう? 何を言っているんだろう?
僕がここから離れてしまうことを心配しているのだろうか。だいじょうぶ、僕はここにいるし、もう少し落ち着いたらカフェに戻ろうと思っている。
そう落ち着いて考えていたら、少し心がざわついた。
......いや、違う。
今現在の話でなない、遠い過去にあった出来事だとしたら......。
その言葉を、どこかで聞いたことがあった。
・・・
あとはなにができるだろう。
毎年熱中症のニュースになるなと思う。畑仕事をしたり海に行ったりなど、さまざまな場所でさまざまな理由で倒れてしまう。
たとえエアコンの効いた部屋であっても、だ。
それは水分補給をしていないことが原因だ。作業に熱中するあまり水分を摂ることを忘れてしまうから。思い出したように喉が乾くというのは、もうその時点で水分が足りなくなっているという。だから意識的に飲むという感覚を身に着けないといけない。
案外難しいなとは思う。
それに、自分では水分を摂っているつもりでも、足りない分が蓄積されて遅れて脱水症状になることもあるという。
栞の様子はあまり変わっていなかった。
飲み物はさっき飲ませたのが最後だし、ここがどこかも分からないから買いにも行けないし病院にだって連れていけない。
部活の日じゃないから塩分の効いたキャンディーは持ってきていなかった。
もちろん冷やす道具なんて持っているわけではない。
このままここにいるしかないのだろうか。
少しずつ沈んでくる太陽が、陰ってくる日差しが、不安を募らせる。風はまったく吹いていなかった。むしろ湿り気をまだまだ感じる。
またしても自分を責めたくなる。
夕方になれば涼しくなるだろうという安直な考えをしたことを。
どうにかなるだろうと高を括っていたことを。
......その時だった。
遠くから車の音がする。顔を上げて車道の方を向く。すると、ワゴン車だろうか、まだ小さくしか見えてないけれど、明らかに車のシルエットだと分かった。
助かるかもしれない。
もうその期待しか心に浮かんでいなかった。
栞の邪魔にならないように立ち上がると、急いで車道に出る。そして、両腕を肩から大きく振って、止まってくださいと声を上げた。
「どうしたの?」
運転席の窓から顔を出したのは、初老ぐらいの男性だった。黒縁の眼鏡をかけていて、落ち着いた雰囲気を感じる。
手短に状況を説明すると、すぐに理解してくれたようだ。
「後ろに乗って、送っていくから」
送るってどこに? 疑問に思うこともせず、自分も何をすべきか判断する。栞を起こして連れてくる間に、後部座席にはふたり分のスペースが作られていた。
もちろん自転車も積み込んだ。そこそこ大きなワゴン車で助かった。
助手席に座っているのは奥様なのだろう。僕が乗り込んだタイミングでクーラーボックスからペットボトルを渡してくる。
「小さいのしかなくてごめんなさいね。1本はあなたが飲みなさい、残りはその子を冷やしてあげて」
頷いて受け取る。
まず栞の首や脇にペットボトルを当てた。それから自分の分を開けた。そういえば自分もまったく飲んでいなかったなと、やっと気づく。
大きな息が口からあふれだした。
だいぶ緊張していたのだろう、安堵したのが自分でも分かった。
「......この度は、忙しいところ、ありがとうございます」
背筋を伸ばして感謝を伝えた。頭を下げたら手で制された。
「いいのよ、いいのよ。困ったらお互いさまなのよ」
それに、今日のお客増えたわねえ。などと夫婦で話している。そうだねと男性もなんだか乗り気だ。
何のことだろう? そういえば送っていくからと言っていたっけ。
恐る恐る問いかける。
「あのう、これからどこに......?」
「ああ、俺たちは旅館をやってるんだ。空き部屋あるから、休んでいってかまわないよ」
なるほど、ご厚意ということか。
もう日が暮れる。いくら夏の日が長くても、もう朱色と言わんばかりの空が広がっている。だいぶたくさんの出来事があった日だった。なんだか苦笑してしまう。
......あ。
ここで、やっと今日泊まるところを考えていなかったと思い出した。
渡りに船、というのはこういうことだと実感する。もう提案に甘えない方がおかしいだろう。
「......宿着いたらで構わないから、家に電話しておくんだよ」
主人に言われて、たしかにと思う。
でも、飛び出してきたとはいえ旅行という建前なのだから、あまりその必要も感じなかった。でも、この子はどうなんだろう。
「栞、ちょっと宿で休ませてもらうことになったからね」
頷いて返事をする。
「それで、着いたら家に電話しておいてね」
首を横に振って返事をした。
......どういうことなんだろう。拒否の反応だ。
わずかに戻ってきた口調はまだか細い。耳を近づけないと聞こえないボリュームで、そっと彼女は告げる。
「わたし、親がいないから......」
ずっと、現実から逃げてもいいだろうと思っていた。家を飛び出すときもクローバーを探しているときも、今日一日もずっと。
しかしながら、これから向き合わないといけない。夜がもたらす運命に......。


