僕たちの頭上を鳶が飛び去った。
大きく羽根を広げて飛ぶ姿は実に優雅で、美しさや風格さえも感じる。
栞は遠い目をしながらその光景を見つめている。顔を上げたまま、語りだした。
「わたしはね、鳥になりたいなって思うときがあるんだ」
「鳥、に......」
そうだよって前置きをする。
「ああやって自由に過ごしてみたい。何も考えずに気ままに飛んで、目の前に広がる景色を思う存分楽しむの。ああ、あそこに美味しそうな木の実があるなっていうのからはじまって、安らかに眠れる森があるな、海や池は実は水色じゃなくて緑に見えるんだなって」
ファンタジックで素敵だ。
合いの手を入れなくても、ちょっと頷いてみせた。
「もちろん鳥っていうのはそこにいるだけでも美しいよね。空を飛び回っても、ジャングルの中を歩いていても、だれも見ていなくても美しさには変わりはないんだ」
そんな姿にあこがれてるんだ。彼女はそう口にする。
栞も大変な境遇の中にいるのだろう。
自分も話したからフェアに、という訳ではないけれど、話してくれたら嬉しいなと思った。心が少しでも軽くなったら彼女も気が紛れるだろう。
家族や親友だからこそ話しづらいこともあると思う。だから、自分が聞き手になろう。
親密な関係ではない僕だから。
たった一日だけ会っただけの僕だから。
「バレエも飛ぶっていうよね」
つい口にしてしまった。どうしようもないけれど、たまに選択を間違う時がある。
僕の言葉に、栞は開きかけた口のまま止まって少し笑い出した。
「バレエは跳躍だから、"跳ぶ"って言い方がいいかなあ」
ああ、ごめん。
「日本でバレリーナを目指すっていうのはとても大変なんだよ。ほら、ロシアみたいに国がやってる学校っていうのがないから、小さな教室にみんな入るんだよ」
「そうなんだね」
「そこから狭い門をたくさんくぐり抜けていくの。日本でプロになるのもほんとうに一握りだし、海外とコネを持っているところも少ないんだ」
実際に彼女が練習をしているところは見たことがないけれど、たくさん努力しているんだろうなと思う。誠実さ、なのだろうか。そういうひたむきなものを感じる。
きっとバレエはどの国でも称賛を浴びる。台詞がなくても、音楽で伝わる魅力があるのだろう。
「わたしは、足悪くしちゃったけどさ。また衣装を着たいと思っているし、たとえ観客がいなくても、踊っていたいって思ってる」
だから、せめて歩いていきたい。
彼女の言葉に美しさを感じた。だから、こう思うのは嘘じゃなかった。
四つ葉のクローバーを探しに来れてよかった。
素直に嬉しかった。
栞が喜んでくれたから、たくさんの笑顔を見せてくれたから。
今まで出かけたことは何度もあった。けれども、ただの一人旅はつまらないものでしかなかった。こんな気分が高揚することはあっただろうか。
それはきっと、隣にいる人物のおかげ。
まさかはじめての共同作業が自転車での旅になるなんて、今日の朝は考えられただろうか。
視界の縁に、栞の姿がある。
またしてもポニーテールが揺れる。
彼女の白い服が、白い肌が、どういうわけか結婚式に望む姿のように思えた。ダイヤモンドの輝きを放っているようだった。
不思議だった。
結婚なんて考えたことがないのに。
彼女だって作ったことがないのに。
それなのに、ウエディングドレスとティアラに包まれた彼女を見たいと思ってしまった。
――僕は彼女の美しさを欲しがった。
栞の公演を観にいきたい。
栞の足が悪いのはとても不幸だと思った。
残酷な運命というものを、呪ってもかまわないのではないかと思ってしまった。
飛んでいる鳶がちょうど太陽のところに触れ、わずかの間影を作る。
「足、治らないの......?」
僕の疑問は飲み込むことができずに、どんどん上の方にせり上がってくる。気づいたら、口から漏れ出していた。
「どうかな......」
彼女はこれだけつぶやいて、首を横に振った。
喋り方に湿り気が混じっている。ほんとうは触れたくない話題。彼女の支えになれたらいいなと思って、僕は質問を重ねる。
「医者に診てもらったんでしょう?」
「そうだよ。歩けるけど、それもたくさんは難しいって」
気づいてしまった。
栞はほんとうにここまで歩くつもりだったのだろう。
悲しくなってしまう。震えてしまう。やり場のない苦しみが心にこみ上げて、言葉を失ってしまう。
鳥になりたいと彼女は言った。
足が悪くても歩いていきたいと彼女は言った。
それでもどうしてここまで無理をするのだろう。
この場所まで自転車でもかなりの時間をかけてたどり着いたのに。歩いて行こうなんてよほどの体力が必要なはずだ。それに、あのカフェですら遠かったのかもしれない。
まるで自己犠牲のような感覚。
僕は勝手に思っていた。
この場所に魅力があるからだと。四つ葉のクローバーが珍しいからだと。
ただの散歩のようなものだと信じて疑わなかった。
ここから見える横顔はあまり表情を感じることができない。まっすぐに前だけを見つめている。少し肩が震えている。
太陽に照らされる瞳がきらめいた。つよい輝きは宝石のよう。いや、模造品なのかもしれないくらいに透き通っていて、まるで彼女自身が人形なのかもしれないとさえ思える。
栞を動かすものはなんだ――?
僕の心が少しざわついた。
静かだった心の中に、ひとすじの雫が落ちてくる。水面に当たるところを見逃さなかった。わずかな音を聞き逃すことはしなかった。
出会いに感謝したい。
僕と彼女は今日出会っただけのふたり。それでも、もっと一緒にいたいと思った。これまでも、そして、これからも。
だから、僕は自分の言うことに自信を持てる。
「ねえ、またどこかに行こうよ!」
また自転車に乗って、どこへでも行こう。きみの行きたいところに。
栞がこちらを向いた。
彼女は立ち上がったまま、色んな表情を作り出した。
最初はきょとんとした真顔だったものが、少しずつ口や目が開いていく。
少しずつ頬に朱色が映えていく。
顔全体で喜びの表情を作って、そのまま感謝を伝えるのだろうと思った。
違ったのだ。
瞳からひとすじの涙が出てくる。どうして彼女は泣くのだろう。
「光希くん、ありがとう......」
これは嬉し泣きだよって彼女は言う。良かったと胸をなでおろす自分がいる。
栞はその場で立ち上がった。
こちらに手を向けて、にっこりと笑っている。運転手さんよろしくね、なんて口にする。
身体が震えているような気がしたけれど、不安さえも感じなかった。
「ここから遠いけれど、美味しいスパゲッティのお店があるんだよ」
なるほど、夕食のお誘いという訳だ。
そういえばカフェからなにも食べていない。ちょうどお腹の虫が鳴った。
じゃあ後ろに乗って......。と僕は言った。
「光希くん誕生日だから、お祝い、して......あげる............」
ここから先の会話を紡ぐことができなかった。
彼女が言うことを、上手く聞き取ることができなかった。いや、きちんとしゃべることができなかったのだ。
彼女は、その場に倒れ込んだ。
大きく羽根を広げて飛ぶ姿は実に優雅で、美しさや風格さえも感じる。
栞は遠い目をしながらその光景を見つめている。顔を上げたまま、語りだした。
「わたしはね、鳥になりたいなって思うときがあるんだ」
「鳥、に......」
そうだよって前置きをする。
「ああやって自由に過ごしてみたい。何も考えずに気ままに飛んで、目の前に広がる景色を思う存分楽しむの。ああ、あそこに美味しそうな木の実があるなっていうのからはじまって、安らかに眠れる森があるな、海や池は実は水色じゃなくて緑に見えるんだなって」
ファンタジックで素敵だ。
合いの手を入れなくても、ちょっと頷いてみせた。
「もちろん鳥っていうのはそこにいるだけでも美しいよね。空を飛び回っても、ジャングルの中を歩いていても、だれも見ていなくても美しさには変わりはないんだ」
そんな姿にあこがれてるんだ。彼女はそう口にする。
栞も大変な境遇の中にいるのだろう。
自分も話したからフェアに、という訳ではないけれど、話してくれたら嬉しいなと思った。心が少しでも軽くなったら彼女も気が紛れるだろう。
家族や親友だからこそ話しづらいこともあると思う。だから、自分が聞き手になろう。
親密な関係ではない僕だから。
たった一日だけ会っただけの僕だから。
「バレエも飛ぶっていうよね」
つい口にしてしまった。どうしようもないけれど、たまに選択を間違う時がある。
僕の言葉に、栞は開きかけた口のまま止まって少し笑い出した。
「バレエは跳躍だから、"跳ぶ"って言い方がいいかなあ」
ああ、ごめん。
「日本でバレリーナを目指すっていうのはとても大変なんだよ。ほら、ロシアみたいに国がやってる学校っていうのがないから、小さな教室にみんな入るんだよ」
「そうなんだね」
「そこから狭い門をたくさんくぐり抜けていくの。日本でプロになるのもほんとうに一握りだし、海外とコネを持っているところも少ないんだ」
実際に彼女が練習をしているところは見たことがないけれど、たくさん努力しているんだろうなと思う。誠実さ、なのだろうか。そういうひたむきなものを感じる。
きっとバレエはどの国でも称賛を浴びる。台詞がなくても、音楽で伝わる魅力があるのだろう。
「わたしは、足悪くしちゃったけどさ。また衣装を着たいと思っているし、たとえ観客がいなくても、踊っていたいって思ってる」
だから、せめて歩いていきたい。
彼女の言葉に美しさを感じた。だから、こう思うのは嘘じゃなかった。
四つ葉のクローバーを探しに来れてよかった。
素直に嬉しかった。
栞が喜んでくれたから、たくさんの笑顔を見せてくれたから。
今まで出かけたことは何度もあった。けれども、ただの一人旅はつまらないものでしかなかった。こんな気分が高揚することはあっただろうか。
それはきっと、隣にいる人物のおかげ。
まさかはじめての共同作業が自転車での旅になるなんて、今日の朝は考えられただろうか。
視界の縁に、栞の姿がある。
またしてもポニーテールが揺れる。
彼女の白い服が、白い肌が、どういうわけか結婚式に望む姿のように思えた。ダイヤモンドの輝きを放っているようだった。
不思議だった。
結婚なんて考えたことがないのに。
彼女だって作ったことがないのに。
それなのに、ウエディングドレスとティアラに包まれた彼女を見たいと思ってしまった。
――僕は彼女の美しさを欲しがった。
栞の公演を観にいきたい。
栞の足が悪いのはとても不幸だと思った。
残酷な運命というものを、呪ってもかまわないのではないかと思ってしまった。
飛んでいる鳶がちょうど太陽のところに触れ、わずかの間影を作る。
「足、治らないの......?」
僕の疑問は飲み込むことができずに、どんどん上の方にせり上がってくる。気づいたら、口から漏れ出していた。
「どうかな......」
彼女はこれだけつぶやいて、首を横に振った。
喋り方に湿り気が混じっている。ほんとうは触れたくない話題。彼女の支えになれたらいいなと思って、僕は質問を重ねる。
「医者に診てもらったんでしょう?」
「そうだよ。歩けるけど、それもたくさんは難しいって」
気づいてしまった。
栞はほんとうにここまで歩くつもりだったのだろう。
悲しくなってしまう。震えてしまう。やり場のない苦しみが心にこみ上げて、言葉を失ってしまう。
鳥になりたいと彼女は言った。
足が悪くても歩いていきたいと彼女は言った。
それでもどうしてここまで無理をするのだろう。
この場所まで自転車でもかなりの時間をかけてたどり着いたのに。歩いて行こうなんてよほどの体力が必要なはずだ。それに、あのカフェですら遠かったのかもしれない。
まるで自己犠牲のような感覚。
僕は勝手に思っていた。
この場所に魅力があるからだと。四つ葉のクローバーが珍しいからだと。
ただの散歩のようなものだと信じて疑わなかった。
ここから見える横顔はあまり表情を感じることができない。まっすぐに前だけを見つめている。少し肩が震えている。
太陽に照らされる瞳がきらめいた。つよい輝きは宝石のよう。いや、模造品なのかもしれないくらいに透き通っていて、まるで彼女自身が人形なのかもしれないとさえ思える。
栞を動かすものはなんだ――?
僕の心が少しざわついた。
静かだった心の中に、ひとすじの雫が落ちてくる。水面に当たるところを見逃さなかった。わずかな音を聞き逃すことはしなかった。
出会いに感謝したい。
僕と彼女は今日出会っただけのふたり。それでも、もっと一緒にいたいと思った。これまでも、そして、これからも。
だから、僕は自分の言うことに自信を持てる。
「ねえ、またどこかに行こうよ!」
また自転車に乗って、どこへでも行こう。きみの行きたいところに。
栞がこちらを向いた。
彼女は立ち上がったまま、色んな表情を作り出した。
最初はきょとんとした真顔だったものが、少しずつ口や目が開いていく。
少しずつ頬に朱色が映えていく。
顔全体で喜びの表情を作って、そのまま感謝を伝えるのだろうと思った。
違ったのだ。
瞳からひとすじの涙が出てくる。どうして彼女は泣くのだろう。
「光希くん、ありがとう......」
これは嬉し泣きだよって彼女は言う。良かったと胸をなでおろす自分がいる。
栞はその場で立ち上がった。
こちらに手を向けて、にっこりと笑っている。運転手さんよろしくね、なんて口にする。
身体が震えているような気がしたけれど、不安さえも感じなかった。
「ここから遠いけれど、美味しいスパゲッティのお店があるんだよ」
なるほど、夕食のお誘いという訳だ。
そういえばカフェからなにも食べていない。ちょうどお腹の虫が鳴った。
じゃあ後ろに乗って......。と僕は言った。
「光希くん誕生日だから、お祝い、して......あげる............」
ここから先の会話を紡ぐことができなかった。
彼女が言うことを、上手く聞き取ることができなかった。いや、きちんとしゃべることができなかったのだ。
彼女は、その場に倒れ込んだ。


