クローバー畑から車道に出て、ベンチに腰かけた。
 ここからは密集しているクローバーがあたり一面に見える。夕方が近くなった時間帯に生まれた風に、健気に葉を揺らしている。
 あらためて、見晴らしのよい光景だと思う。そう考えていると、栞に声をかけられた。
「ねえ、光希くん。ずっと聞きたかったんだけど......」
 彼女の方を向く。視界の縁でポニーテールが揺れていた。
 不思議だった。
 四つ葉のクローバーを見つけたのだから、もう用事は終わったはずなのに。
 暗くなるから、帰らないといけないのに。
 出会ったばかりだというのに、もうよそよそしい感じはまったくなくなっていた。親近感が生まれている。
 まだここに居たいと思っている自分がいた。
 そして、いちばん大事なことを忘れているなんて気づきもしなかった。
 だから、栞が質問してくれてとても嬉しかった。聞きたいことも、そんなふたりを思わせる内容だった。
「いや、なんとなく、可愛い名前だなって思ったの」
「可愛い......?」
「うん、なんだか女の子みたい」
 ねえねえ、どういう漢字を書くの? こう質問されて、いつもやっている答え方で説明する。
「とくべつ難しい字は使わないよ。"光"に"希望の希"だから」
「なるほど! なんだか美しいんだね」
「美しい......?」
「そうだよ。だって誰かを希望の光で照らすことができるんだよ。すごいじゃない」
 少しばかり照れる。
 名前を褒められたことなんてないし、ましてや直球のストレートを投げ込んでくるような言い方で、まるで称えるような雰囲気で伝えてくるなんて思いもしなかった。
 ここで打ち返してやればかっこいいのに、あまりにもはやいサーブを打つものだからラケットを振れなかった。
 ふと思ったことがあったからだ。
「ねえねえ、名前の由来とか聞いたことあるの?」
 栞も同じことを思ったようだ。
 よく小学校で、自分の名前の由来を親に聞いてくるみたいな授業があっただろう。そのたびに僕は困っていた。自分自身で回答を持ち合わせていなかったし、質問する相手もいなかった。先生もとくべつに優遇してくれた気がする。
 だって、自分の存在は......。
 気づくと、僕の顔の前で手をひらひらと振っている栞の姿があった。
「考えこんじゃって、だいじょうぶ?」
 だいじょうぶだと前置きをしてから説明する。
「実は由来を聞いたことがなくてさ。産んでくれた親が亡くなって聞けずじまいだった」
「そうだったんだね」
 彼女はごめんと謝ってくる。質問してはいけないことを口にしてしまったと反省していた。自分自身はあまり気にしていないのだけど。
「じゃあ、今は育ててくれる親御さんのところにいるんだ」
「そうだよ」
 彼女は親戚か何かを想像しているのかもしれないけれど、ほんとうは養護施設を経てから引き取ってくれた家庭だ。
 そこまで説明しようとする必要はないと勝手に思っていた。
「じゃあ、今のおうちでは......、あまり上手くいってないの?」
 あ......。
 彼女がなにを言いたいのか分かってしまった。
 口調がゆっくりになって、恐る恐る聞いてくる。かわいそうって声が響く。
 思わず言葉を失いかけた。カフェでの話を蒸し返しされてしまった。
 何て答えようかと思ったのはたった一瞬で、もう正直に答えるしかなかった。
「今の親が医者なんだよ。実際は話したことはないけど、なんとなくそうなのかなって」
「なんとなく、そうなんだね」
「なんとなくっていうより、もうそうなるんじゃないかと思ってる」
 自分も医者を継ぐべき。栞もそう理解しただろう。
 彼女は少し口を閉ざしたようだ。そして、首を傾げた。
「きみは医者にあこがれとかあるの?」
 今度は僕が口を閉ざした。図星を指されてしまった。
「......やっぱり。あんまりおもしろくないって顔してる」
 ほんとうにやりたいの? 栞の言葉が心に刺さる。
 彼女の直球の言い回しでは会話のラケットを振り切れない。実際に言われてしまうと、首をどの方向に振ればよいのか分からなくなってしまう。
 それでも、なぜか彼女の目の前では本音を吐き出すことができる。
「ほんとうはもっと強いテニスの高校に行きたかったんだ」
「反対されたの?」
「強くは言われなかったけど、あんまりいい顔をしなかった」
「なんで?」
「学力の問題。今行っている高校の方がレベルの高い進学校でさ」
 今の高校に決まるまで、色んな押し問答をくり返してきた。
 さまざまな学校に見学に行っては、まず希望したのがスポーツ系の部活がたくさんあるところだった。
 滅多にないハンドボール部が有名で......という話を聞いたが、もちろん興味を持ったのはテニス部だった。有名なプロの選手を輩出したと言っていて、その後を追っていきたかった。
 しかしながら、学力が平均的だった。
 僕はそれでもよかったのに、周りは難色を示してしまう。
 親はもっとレベルの高いところにしなさいと言ってくる。
 自慢の息子だと鼻を高くしたいという考えがありありと見えていた。別に自分を引き取っただけなのに、何を考えているのだろうと思ってしまうときがあった。
 担任の先生も消極的だからもったいないと言ってくる。
 進学したあとの雰囲気を心配しているのだろうか。ひとりだけ勉強ができて周りと合わない、という話を聞いたことがあったりするけれど。高校に入ってみたいと分からないだろうと思う。
 皆揃って水を差す。
 たくさんの言葉をシャワーのように浴びせられた。身体が冷え切るころにはもう進路を決めなければならなくて、しぶしぶと今の高校に行くことにしてしまった。
 お医者さんって大変なんだね。栞が小さくため息をついた。
「もちろん、家業を継ぐというのは大事なこと。明治から続く伝統のお菓子が今でも食べられるっていうのは素晴らしい出来事だよね。でも、ほんとうにそれでいいのかなって思ったりすることはないかな」
 たしかに実感できることだ。けれども、まだ答えを出すのは難しかった。
「前の家庭が幸せだったとか、今のは良くないとか。わたしには分からない。でも、今のおうちだっていいところはあるかもしれないしね。けっきょく、つまるところはひとつだと思うんだ」
 ――生きるのは自分のためでしょう。
 栞は遠い目をしながら見つめていた。どこか凛とした表情が、とても大人びて見えた。
 
 僕たちは将来のことを考えて生きている。
 高校生になったばかりだから、実際の進路を考えるのはもう少し先のことだろう。それでも、自分の家庭にはすぐ目の前に天秤があるようなものだ。
 まだそれはどちらにも傾いていない。
 僕の手のひらには金貨が一枚置かれている。
 どちらに載せるかを皆が見つめている。
 そして、金貨を載せなかった人物がひとりいたことを僕は知っている。
 
 栞がこちらを向いて告げる。
「夢があるのっていいじゃない」