彼女がポニーテールを作っただけ。その姿に僕は痺れた。
 栞は目の前で長い髪を持ち上げては慣れた手つきで髪を結いはじめる。細い指のあいだからすべり落ちていく髪、口でくわえた白いリボン。それらのひとつひとつに、僕は見とれていた。
 みどり髪。
 日光に照らされた髪はつやがあって美しかった。まるで新緑のようだと感じる。
 ついまじまじと見つめてしまう。
 彼女の瞳がこちらを向く。
「あ、いや......。なんでもない」
 なんでもない素振りをしつつも、慌ててそっぽを向いた。
 栞がずっと一面を見つめているので、僕も彼女にのっとってそちらを向いた。
 クローバーが一面に咲いている。
 どこまでも広がる白い花と緑の葉たち。だれも手入れしていないのに、とても美しい景色はまるで庭園のよう。
「さあはじめようか」
 しばし見つめたところで、栞が声をかける。
 僕たちは庭園の中に足を踏み入れた。
 
 この中で、四つ葉のクローバーは見つかるのだろうか。

 ・・・

 ここまで来るのはとても大変だった。
 岬はカフェのずっと先にあるというので、そちらに向けて自転車を走らせていく。つまり、僕が通っていた公道をそのまま道なりに行く形だ。
 実はゆっくりと自転車を押していこうと思っていたが、栞が後ろに乗せてほしいとねだってきた。
 人通りが少ないから自転車を二人乗りしても誰にも注意されないだろう。
 彼女は自転車に横向きに座る。そのまま車体のどこかしらを掴むものだと思っていたら、僕の腰に触れてきた。
 小さくごめんねという言葉が聞こえる。
 抱きしめてしまったときのことを思い出して、思わずどきりとした。肩に手を乗せてくれても良かったのに、なぜかやめてほしいとも言えなかった。
 おそるおそる自転車を走らせた。
 
 自転車を走らせて、少しばかり経ったところだ。ちょっとした違和感を感じた。
 二人乗りということは、つまり栞が後ろに乗っている。それなのに、自転車が不思議と重くなった感じを実感しなかった。彼女の足の方に少しだけ重心を感じるくらいだ。
 先ほど彼女が覆いかぶさったときも、重さを感じなかった。
 つまりはどういうことかと考えていると、背中に声をかけられた。
「ねえ、ちょっとふらついているよ。だいじょうぶ?」
 だいじょうぶだと返すも、しっかりと前だけを見つめる。もし何かあって彼女の足に怪我をさせてはいけないから、慎重さを忘れてはいけない。
「......もしかしてなんだけど。わたしのこと重いとか思ってない?」
 心を読まれたような気がして、思わず切り返してしまうところだった。ちゃんと前を向いてと軽く叱られる。
「お、重いとか思われてたらちょっと恥ずかしいんだけど......。だいじょうだよね」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
 重ねて言葉を告げる。
「それなら良かったけどね......。ほら、わたし体重管理しっかりとしてるし」
 ちょっと棘のある口調になったような気がする。やはり女性に体重の話は厳禁なのだ。
 それはちゃんとしてるね。とりあえず合いの手を入れておこう。
「そう、わたしだけじゃないんだよ。バレエの教室に通っている子はみんな体重管理をさせられるから」
 なるほど。バレリーナ志望なんだ。
 彼女の初見で感じた手足の細さや長さを実感して、少し興味を持つ。
「ねえねえ、光希くんは何かやってるの?」
「テニス部だよ」
「すごいじゃん! このままプロになったりするの?」
 少し言葉に詰まった。この年齢で感じてしまっているのもおかしいけれど、正直言って難しい。そこまで強豪校という訳でないし、何より家の都合だってあるのだから。
 けれども、意気揚々と訊いてくる栞に悪い気を持ってもらっては良くないから、仕方なく答える。
「なれたらいいな、って思ってるよ」
「ええーっ、いいなあ。そしたら試合を観に行くね。あ、その前に夏休みの大会とかもあるのかなあ」
 後ろに楽しそうにひとり会話を広げている。その雰囲気を感じて、僕も楽しくなっていた。今の栞はカフェで感じていた恥ずかしさや人見知りなのだろうかというところを感じさせない。もしかしたらこういう一面も持ち合わせているのかもしれない。
「あ、そうだ。きみはいくつ?」
「えっ、なんだってー?」
「年はいくつなのーー?」
 ワゴン車が車道を通り抜けた。彼女の質問を聞き逃してしまったので、慌てて聞き直す。
「15だよ。来月誕生日!」
「えーっ。わたしのいっこ下じゃん! そして誕生日おめでとうー!!」
 もう誕生日を祝ってもらって、ちょっとむずがゆい。
 それに、栞は高校二年生だという驚きがちょっとあった。あまり女性の外見というのを考えたことがなかったけど、もっと大学生に近いのだと思っていた。
 先ほどから彼女は明るくはきはきとした喋り方をしている。近しい間柄なら見せる仕草をちょっと気になりながらも、少しばかり嬉しかった。
 
 ここからは登り坂が続いていた。
 いくら栞が乗っているからといっても、彼女の体重があまりにも軽くても。坂に入った途端に力を入れないといけなかった。
 これでは登りきるには時間がかかってしまうだろう。
 走るペースが遅くなったことを心配したのか、栞がその場から降りた。そして自転車の後部を押し出した。
「わたしが支えるから、がんばって......」
 手短に感謝を伝えると、前方だけに意識を集中させる。
 トンネルの向こう側ではセミの鳴き声が、カフェでは静寂が、それぞれ包んでいた。そしては今は海鳥の甲高い鳴き声が聞こえる。
 この景色の向こうになにがあるのだろう。
 それからしばし経ったところで、交代してもらった。
「今度はきみが運転して」
「ありがとう。ペダル届くかな」
 そこは心配しなくてもだいじょうぶだと思うけど言わないでおこう。もうひとつ心に留めておいたのは、サンダルではこの坂道は辛いだろうということだ。
 これが自然を切り開いただけの道路。
「ねえ、この先はきっと楽しいと思うよー!」
 前を向きながら、栞が告げる。
 それにしても、あとどれくらい続くのだろう。
 少し不安になったところで、今度は下り坂に出くわした。
 
 自転車を止めて、栞の方を向く。
 僕の視線を感じ取った彼女は、瞳を輝かせて大きく頷いた。
 改めて僕が自転車に座る。彼女はまた横向きに座り、僕の腰に腕を回す。最初と違ってしっかりと回すものだから、またしてもどきりとする。でも、そうしてくれるのがちょっとばかり嬉しかったりした。
 あっという間に自転車は加速していく。僕たちを風が包んでいく。
「うわあ! 気持ちいい!!」
 背中越しにとても上機嫌の声が聞こえる。
 ちらりと後ろの方を向くと、彼女が足を上げていた。
 歩きじゃなくてよかった。だって、彼女がこんなに喜んでくれるから。
「ほら、あそこだよー!!」
 栞が指さしたところに、一面緑色をしている空間が見えた。
 あれがクローバーが咲いているところだ。
 またしても自転車は加速していく。
 そろそろブレーキをかけないといけないと思ったけれど、思った以上に速度が出ている。
 力任せにしながら、急いでブレーキをかけた。
 自転車が少し前のめりになって止まる。身体が前方に倒れそうになりながらも、足で踏ん張ってバランスを取った。
「だいじょうぶ?」
 後ろの人物に向かって振り返りながら呼びかけた。
 栞はいつの間にか腰に力強く抱きついていて、身体が小刻みに揺れていた。
 なにも返事が返ってこない。
 あまりのことに声を失ったのかもしれない。もしかしてこの暑さで体調を崩したのかもしれない。色んなことをあれこれと考えたところで、彼女が返事をする。
「......怖かったあ」
 彼女は顔を上げずに声を出していた。
 そして、やがて割れんばかりの喜んだ表情をして顔を上げた。
「......でも、楽しかったよ!」
 こうして僕たちは四つ葉のクローバーを探しにやってきた。