「うん、楽しいこと」
女性はまっすぐにこちらを向いて、口角を上げている。今まで感じていた控えめな印象はもうなくなっていた。
けれども、ちょっとした不安もあるのは事実だった。見ず知らずの今日会っただけの人。そんな僕たちが、一緒に何かを遊ぼうとしている。
異性からこういう誘いを受けるのは気分が上がってくるけれども、大人の遊び的なことを想像してしまって、あまり聞こえの良いものではない。
今日は適当な宿に泊まるだけだから時間があるとはいえ、なかなか首を縦に振ることができなかった。
それに、なんで自分なんだろう。
「だって、きみはやさしそうだし」
「やさしそうって......。あまり言われて否定する人もいないと思いますけどね」
「ううん、わたし分かりますよ。やさしいだけじゃなくて、誠実なのを感じます」
決して社交辞令として言っているわけではないけれど、なんだか買いかぶりすぎなのではないだろうか。
まったく、話の結び目がどこにつながるか分からない。
ほんとうにこの人を信用して良いのだろうか。僕は首を傾げながら聞いている。
「わたしを、この先の岬まで連れて行ってください」
ここで、女性が頭を下げた。頭頂部から長い髪が流れていた。
なるほど、話の着地点が見えてきた。けれども、ほんとうに自分で良いのかが分からない。
「それに、僕でなくてもよいのではっていう感じがするのですが」
「なんで?」
「だって、自分が夏休みなんだから、あなたもじゃないですか? そしたらお友達と一緒に行けばいいと思いますよ」
女性は一瞬だけ真顔になって、口の前に手を置いて笑い出した。
「わたしはね、あなたと行ってみたいんです」
そうまっすぐに見つめられると困る。
「となりの県から来ただけなんですけどね。そういう人の方がいいんですか?」
「そうなんです。だって、ここまでは歩きじゃ来れないから。自転車かなにかで来た、そうでしょ?」
彼女が自転車を引き合いに出すのは分からないけれど、その通りだから素直に頷くしかなかった。
そうだと伝えると、彼女はにっこりだ。
「ここから遠いんですか?」
「遠いよ」
大事なことを聞き忘れていたので尋ねたところ、あっさりと返答が帰ってきた。
だから自転車がいるのだろう。でも彼女がサンダルを履いているからだろうか。何かが足りないような気がした。
ふと思ったことをどう聞き出そうか。しばし考えていると、女性の方から教えてくれた。
「......わたし、足が悪いんです」
遠いところまで歩けなくて......。彼女はそう伏し目がちに伝える。僕も合わせて視線を下ろす。
彼女がわずかに足を動かした。少しスカートの中が見えてしまいそうになったから慌てて瞳をそらす。
白い肌そのままの足というものは、ほんとうに作り物に見えて、ここにヒビでも入ってしまったときのことを考えた。そんな無情なこと、起きてほしくはないなと思う。
そんな彼女に同情しない人はいないだろう。
気づけば、僕は立ち上がっていた。
「さあ、行きましょう」
まだ椅子に座っている彼女は上目遣いの瞳を揺らして、大きく感謝を伝えてきた。
「ほんとうにいいんですか! ありがとうございます!!」
とびきりの笑顔を作った女性の表情は、まるで同年代の少女のよう。
......あ。
いちばん大切なことを忘れていた気がする。
「僕の名前は夏川 光希っていいます。あなたは?」
「わたしは朝比奈 栞」
なるほど、美しい名前だなって思った。他意はなかった。純粋にそう思った。
「朝比奈さん」
あまり悩むこともせずに、いちばんオーソドックスな呼び方で呼びかけた。けれども、彼女は首を傾げてしまった。
「......なんだかしっくりこなくて。ためしに名前で呼んでほしいなあ」
「......栞さん」
仕方なく付き合う。
「やっぱり呼び捨てがいいかも」
追加の注文をオーダーされる。
「......じゃあ、栞」
「はい!」
ここで、僕は栞の前に手を差しだした。
ほんとうは階段が危ないからという意味だったのだが、おもしろい解釈をされるとは思わなかった。
「え、執事のつもりなの? きみは面白いことをするんだねえ」
こんな展開になるなんて思いもしなかったから恥ずかしい。顔を真っ赤にして再度手を差し出した。階段が危ないからと噛みながら告げると、彼女は冗談交じりに笑った。
「じゃあ、行きましょう。光希くん」
僕たちは手を取り合った。
その瞬間、あたりは光に包まれた。
◇◇◇
ここはどこだろう。
あたりにはただの白が広がっていた。そう、白だった。
普段の家や学校にいるわけではなく、何の音も聞こえるわけでもなく、何もない空間がここにはあった。おまけにどこを向いても人の姿はなく、僕はこの中にひとりポツンと立っている。
抱きしめてしまったときはほんの一瞬だったけど、こんどはまるで異世界に召喚されたようにはっきりとものが見える。けれども、穴に落ちたアリスのほうがまだ説明できる。
いろいろ歩いてみよう。誰かと会ってみたくて、この世界を知ってみたくて。
歩を進めていくと、足元が少し光っているのが分かる。地面を踏んだときだけゆっくり光って、足を離すと消えてしまう。
光る仕草はまるで寝室に置いてあるランプのようで、眠りをやさしく誘導するような安心感に似ている。そんなことを考えていたら、緊張感が和らいでくる。
ここにいて良いかどうかは分からないけれど、心が落ち着いてきそうな空間だなって思った。
どれだけ歩いただろうか。
遠くの方からはしゃぎ声が聞こえてきた。甲高くて抑揚のある声がこちらまでよく届く。
あちらまで行ってみよう。
声の方に向かってみると、小さな子どもがふたりいた。幼稚園から小学生だろうか、男の子と女の子が手をつないで駆け足で走っている。
ここからは後ろ姿しか見えないけれど、とても楽しく遊んでいるようだ。
子どもたちの足元も僕と同じように光っている。次第にそれは光を強め、スパークルを生み出し、やがて姿を形作った。
小さな花の、その花言葉は、約束。
――シロツメクサだった。
いわばクローバーのことだ。草花で遊ぶなんて、実に子どもらしい遊びだった。なんて微笑ましい光景だろう。
遠く離れたところから見ていることにした。
ふたりは無邪気に何かを話している。
やがて少しずつこちらにも聞こえるようになっていた。
そして、あの女の子が言った言葉が、僕を掴んで離さなかった。
――ありがとうね、光希くん。
思わず息を飲みこんだ。
なぜ僕の名前が出るんだろう。あの男の子は自分なのだろうか、あの女の子は誰なのだろうか。
不思議な幻想に、僕は迷い込んでいた......。
◇◇◇
気づいたらカフェの外に出ていた。
栞のためにだいぶ時間をかけて階段を下りたはずなのに、不思議とその感覚はなかった。
きっと、白昼夢でも見ているのだろう。
これから始まるのは、不思議な夏休み。
まさかこんなに近しい名前で呼び合うなんて思いもしなかった。それも、今日この日。この出会いが、これから僕の人生を彩っていく。
彼女の姿を見たときに感じた、大きな衝撃。
初対面だというのに、どこか感じる懐かしさ。
はじめて交わした会話でも、盛り上がる不思議。
心の中で、どこか感じていた。
――これが、初恋。
女性はまっすぐにこちらを向いて、口角を上げている。今まで感じていた控えめな印象はもうなくなっていた。
けれども、ちょっとした不安もあるのは事実だった。見ず知らずの今日会っただけの人。そんな僕たちが、一緒に何かを遊ぼうとしている。
異性からこういう誘いを受けるのは気分が上がってくるけれども、大人の遊び的なことを想像してしまって、あまり聞こえの良いものではない。
今日は適当な宿に泊まるだけだから時間があるとはいえ、なかなか首を縦に振ることができなかった。
それに、なんで自分なんだろう。
「だって、きみはやさしそうだし」
「やさしそうって......。あまり言われて否定する人もいないと思いますけどね」
「ううん、わたし分かりますよ。やさしいだけじゃなくて、誠実なのを感じます」
決して社交辞令として言っているわけではないけれど、なんだか買いかぶりすぎなのではないだろうか。
まったく、話の結び目がどこにつながるか分からない。
ほんとうにこの人を信用して良いのだろうか。僕は首を傾げながら聞いている。
「わたしを、この先の岬まで連れて行ってください」
ここで、女性が頭を下げた。頭頂部から長い髪が流れていた。
なるほど、話の着地点が見えてきた。けれども、ほんとうに自分で良いのかが分からない。
「それに、僕でなくてもよいのではっていう感じがするのですが」
「なんで?」
「だって、自分が夏休みなんだから、あなたもじゃないですか? そしたらお友達と一緒に行けばいいと思いますよ」
女性は一瞬だけ真顔になって、口の前に手を置いて笑い出した。
「わたしはね、あなたと行ってみたいんです」
そうまっすぐに見つめられると困る。
「となりの県から来ただけなんですけどね。そういう人の方がいいんですか?」
「そうなんです。だって、ここまでは歩きじゃ来れないから。自転車かなにかで来た、そうでしょ?」
彼女が自転車を引き合いに出すのは分からないけれど、その通りだから素直に頷くしかなかった。
そうだと伝えると、彼女はにっこりだ。
「ここから遠いんですか?」
「遠いよ」
大事なことを聞き忘れていたので尋ねたところ、あっさりと返答が帰ってきた。
だから自転車がいるのだろう。でも彼女がサンダルを履いているからだろうか。何かが足りないような気がした。
ふと思ったことをどう聞き出そうか。しばし考えていると、女性の方から教えてくれた。
「......わたし、足が悪いんです」
遠いところまで歩けなくて......。彼女はそう伏し目がちに伝える。僕も合わせて視線を下ろす。
彼女がわずかに足を動かした。少しスカートの中が見えてしまいそうになったから慌てて瞳をそらす。
白い肌そのままの足というものは、ほんとうに作り物に見えて、ここにヒビでも入ってしまったときのことを考えた。そんな無情なこと、起きてほしくはないなと思う。
そんな彼女に同情しない人はいないだろう。
気づけば、僕は立ち上がっていた。
「さあ、行きましょう」
まだ椅子に座っている彼女は上目遣いの瞳を揺らして、大きく感謝を伝えてきた。
「ほんとうにいいんですか! ありがとうございます!!」
とびきりの笑顔を作った女性の表情は、まるで同年代の少女のよう。
......あ。
いちばん大切なことを忘れていた気がする。
「僕の名前は夏川 光希っていいます。あなたは?」
「わたしは朝比奈 栞」
なるほど、美しい名前だなって思った。他意はなかった。純粋にそう思った。
「朝比奈さん」
あまり悩むこともせずに、いちばんオーソドックスな呼び方で呼びかけた。けれども、彼女は首を傾げてしまった。
「......なんだかしっくりこなくて。ためしに名前で呼んでほしいなあ」
「......栞さん」
仕方なく付き合う。
「やっぱり呼び捨てがいいかも」
追加の注文をオーダーされる。
「......じゃあ、栞」
「はい!」
ここで、僕は栞の前に手を差しだした。
ほんとうは階段が危ないからという意味だったのだが、おもしろい解釈をされるとは思わなかった。
「え、執事のつもりなの? きみは面白いことをするんだねえ」
こんな展開になるなんて思いもしなかったから恥ずかしい。顔を真っ赤にして再度手を差し出した。階段が危ないからと噛みながら告げると、彼女は冗談交じりに笑った。
「じゃあ、行きましょう。光希くん」
僕たちは手を取り合った。
その瞬間、あたりは光に包まれた。
◇◇◇
ここはどこだろう。
あたりにはただの白が広がっていた。そう、白だった。
普段の家や学校にいるわけではなく、何の音も聞こえるわけでもなく、何もない空間がここにはあった。おまけにどこを向いても人の姿はなく、僕はこの中にひとりポツンと立っている。
抱きしめてしまったときはほんの一瞬だったけど、こんどはまるで異世界に召喚されたようにはっきりとものが見える。けれども、穴に落ちたアリスのほうがまだ説明できる。
いろいろ歩いてみよう。誰かと会ってみたくて、この世界を知ってみたくて。
歩を進めていくと、足元が少し光っているのが分かる。地面を踏んだときだけゆっくり光って、足を離すと消えてしまう。
光る仕草はまるで寝室に置いてあるランプのようで、眠りをやさしく誘導するような安心感に似ている。そんなことを考えていたら、緊張感が和らいでくる。
ここにいて良いかどうかは分からないけれど、心が落ち着いてきそうな空間だなって思った。
どれだけ歩いただろうか。
遠くの方からはしゃぎ声が聞こえてきた。甲高くて抑揚のある声がこちらまでよく届く。
あちらまで行ってみよう。
声の方に向かってみると、小さな子どもがふたりいた。幼稚園から小学生だろうか、男の子と女の子が手をつないで駆け足で走っている。
ここからは後ろ姿しか見えないけれど、とても楽しく遊んでいるようだ。
子どもたちの足元も僕と同じように光っている。次第にそれは光を強め、スパークルを生み出し、やがて姿を形作った。
小さな花の、その花言葉は、約束。
――シロツメクサだった。
いわばクローバーのことだ。草花で遊ぶなんて、実に子どもらしい遊びだった。なんて微笑ましい光景だろう。
遠く離れたところから見ていることにした。
ふたりは無邪気に何かを話している。
やがて少しずつこちらにも聞こえるようになっていた。
そして、あの女の子が言った言葉が、僕を掴んで離さなかった。
――ありがとうね、光希くん。
思わず息を飲みこんだ。
なぜ僕の名前が出るんだろう。あの男の子は自分なのだろうか、あの女の子は誰なのだろうか。
不思議な幻想に、僕は迷い込んでいた......。
◇◇◇
気づいたらカフェの外に出ていた。
栞のためにだいぶ時間をかけて階段を下りたはずなのに、不思議とその感覚はなかった。
きっと、白昼夢でも見ているのだろう。
これから始まるのは、不思議な夏休み。
まさかこんなに近しい名前で呼び合うなんて思いもしなかった。それも、今日この日。この出会いが、これから僕の人生を彩っていく。
彼女の姿を見たときに感じた、大きな衝撃。
初対面だというのに、どこか感じる懐かしさ。
はじめて交わした会話でも、盛り上がる不思議。
心の中で、どこか感じていた。
――これが、初恋。


