カフェの二階で、女性の姿を見た。
景色よりも彼女の美しさに目を奪われてしまった。彼女もこちらの姿に気づいて、こちらに顔を向けた。
そのままどれくらい見つめ合ってしまっただろうか。
「えっ............」
彼女が小さな声をあげた。少しずつ頬に朱色が差し込んで、顔全体が真っ赤に染まるときには体のバランスを崩しだした。
椅子の手もたれに手を添えていても、一本足で立っているようなものだ。慌ててスカートを押さえるものだから、身体の重心を失ってしまう。彼女の体は大きく揺れだした。その場に倒れてしまいそう。
あぶない。
反射的に駆け出していく。無我夢中だったから、なにも考えられなかった。彼女になにかあってはいけないと、心の中で考えていた。
一瞬だった。
こちらに倒れ込んでくる彼女を寸前のところで受け止める。そのまま抱きしめるようにして床に倒れ込んだ。
背中を打ち付けたときの衝撃が強くて、一瞬目を閉じてしまう。
ゆっくりと瞳を開けると、視界いっぱいに女性の顔があった。困ったも恥ずかしいも混ざった複雑な表情で顔を真っ赤にして、こちらに顔を向けていた。
しばし見つめ合ってしまう。ガラス玉を思わせる瞳がきらめいていた。
......見つめてしまったら、あたりは光に包まれた。
・・・
僕を現実に戻したのは、慌てて二階に駆け込んでくる店員だった。
「......お客様、どうされましたか!?」
その声の方を向いてみた。少し首を動かしてみると、店員が顔を赤くして手で隠している。続けて、声にならない叫びがフロアに響いた。
「こんなところでだめですってぇ......!?」
まったく何が起きているのかわからない。状況を気づかせてくれたのは、真上のすぐ近くから降ってくる小さな声だった。
「あ......、あの......」
「えっ......」
僕はやっと驚いた。見ると、僕のすぐ近くに女性の顔があった。バランスを崩した彼女を抱きしめながら受け止めて、そのまま床に倒れ込んだのだ。
僕の腕は彼女の腰に回してしまっていた。腕から身体から伝わるあたたかさと肌の香りがさらなる緊張を呼び覚ます。
時間的にはだいぶ短いものだったと思うけど、とても長く感じられた。
店員がやってきたのは、アイスコーヒーが階段を転げ落ちてしまったのだろう。
ガラス製のグラスじゃなくてよかった。いや、そうじゃない。この場をどうにかしなければ。
「えっと......、わたしはどうすればいいの?」
「とりあえず、僕の上から降りてもらえますか?」
お互いに緊張しているから、何をしゃべって良いのか分からない。妙な押し問答をくり返して、ひとまず僕の上から降りてもらう提案をする。
彼女が離れるのを待って、僕も立ち上がる。
店員が戻っても、僕たちはまだうつむいていた。相変わらず正解の言葉が見つからない。それでも、たったひとつ脳裏に浮かんだものを口にするしかなかった。
「......すみませんでした」
えっ、と思わず驚きの言葉を口にする。まさか女性の方も同じように謝ってくるとは思わなかった。
「すみません。こんなこと、してしまって」
「えっ、こんなことって......?」
「いや、だから......。あなたのことを抱きしめてしまって......」
勢いよく頭を下げた。偶然とはいえ手を出してしまったので、誠意をもって謝らないといけない。怒られても仕方ないかもしれない。
「こちらこそ、すみません......」
女性は重ねて謝った。なぜ彼女が謝るのだろう。
「だって、わたしのこと受け止めてくれたんですよね。そんなこと......」
......そんなこと、申し訳なくって。彼女が頭を下げた。か細い声が、ほんとうに聞こえないくらいになってしまった。
大事にはならなかったけれど、なんだかいたたまれない感じが残ってしまった。
・・・
店員にお願いして新しいコーヒーを用意してもらって、近くの椅子に腰かけた。
先ほどの件があってから、お互い静かにしている。
フロアはすべての方角に小窓がついていて、あらゆる角度から注ぐ日光が部屋を明るく作り出していた。一番大きな窓の手前に女性が座っている。
時折入ってくる海風が彼女の髪を揺らしていた。
あまり見ていてはいけないので、慌てて自分も近くの窓に向き直したところだった。
「......あの」
静かな空間の中に、小さな声が響いた。
誰の声だろう? ここにはふたりしかいないのだから考える必要もないのだが、なぜがよく分からない問いを自分にしてしまった。
女性の方を向くと、彼女の顔がまっすぐにこちらを向いていた。
全体の印象は華奢なのに、ところどころ見つめてしまうところがあった。
肩より長い髪は、まっすぐでとてもきれいな黒色をしていた。対照的な白い肌と合わさって、かわいさよりも上品な印象を与える。
小さな顔や長い首ひとつとっても美しかった。
「......あなたは旅行かなにか、でしょうか」
ああ。なぜ来たのか、ということだろう。少しばかり逡巡して、その通りだと言うしかなかった。家出同然だとは言わないでおく方が良さそうだ。
「まあ、そんなところです。夏休みだから、海を見たくなって」
後半に付け足したのはとっさのことだ。少しでも現実味があればいいなと思ったから。
「そうなんですね。このカフェに来る人はあまりいないので、秘境みたいなところですから」
なるほど、知る人ぞ知るポイントなのだろう。ともすれば、彼女はこの辺りを良く知っているのだろうか。
「ええ、まあ。わたしは、お散歩に......」
なぜか"お散歩"の前でひと区切り打っていた。よく分からない。
「わたしみたいなのも珍しいんですけど、旅行って言うから、てっきり家出みたいな感じなのかと思ってしまって」
図星を差してくるなんて思いもしなかった。どきりとした。
なんて返そうか考えていると、彼女がゆっくりと頭を下げだした。なぜかよく分からない。
「あ......。急に失礼ですよね。あなたのこと知らないのに、家出なんて言ってしまって」
失礼ですよねを重ねて告げる。またしても声が小さくなっていた。
もう正直に言うしかなかった。
「そうです、そうです。ちょっとしたことがあって、朝飛び出してきました」
「ほんとうにそうだったんですね......」
声はもう聞こえないくらいだ。それに、いい加減顔を上げてほしい。
そしたら、彼女の顔には大きな笑顔が生まれていた。
「この夏に楽しいこと、しませんか?」
景色よりも彼女の美しさに目を奪われてしまった。彼女もこちらの姿に気づいて、こちらに顔を向けた。
そのままどれくらい見つめ合ってしまっただろうか。
「えっ............」
彼女が小さな声をあげた。少しずつ頬に朱色が差し込んで、顔全体が真っ赤に染まるときには体のバランスを崩しだした。
椅子の手もたれに手を添えていても、一本足で立っているようなものだ。慌ててスカートを押さえるものだから、身体の重心を失ってしまう。彼女の体は大きく揺れだした。その場に倒れてしまいそう。
あぶない。
反射的に駆け出していく。無我夢中だったから、なにも考えられなかった。彼女になにかあってはいけないと、心の中で考えていた。
一瞬だった。
こちらに倒れ込んでくる彼女を寸前のところで受け止める。そのまま抱きしめるようにして床に倒れ込んだ。
背中を打ち付けたときの衝撃が強くて、一瞬目を閉じてしまう。
ゆっくりと瞳を開けると、視界いっぱいに女性の顔があった。困ったも恥ずかしいも混ざった複雑な表情で顔を真っ赤にして、こちらに顔を向けていた。
しばし見つめ合ってしまう。ガラス玉を思わせる瞳がきらめいていた。
......見つめてしまったら、あたりは光に包まれた。
・・・
僕を現実に戻したのは、慌てて二階に駆け込んでくる店員だった。
「......お客様、どうされましたか!?」
その声の方を向いてみた。少し首を動かしてみると、店員が顔を赤くして手で隠している。続けて、声にならない叫びがフロアに響いた。
「こんなところでだめですってぇ......!?」
まったく何が起きているのかわからない。状況を気づかせてくれたのは、真上のすぐ近くから降ってくる小さな声だった。
「あ......、あの......」
「えっ......」
僕はやっと驚いた。見ると、僕のすぐ近くに女性の顔があった。バランスを崩した彼女を抱きしめながら受け止めて、そのまま床に倒れ込んだのだ。
僕の腕は彼女の腰に回してしまっていた。腕から身体から伝わるあたたかさと肌の香りがさらなる緊張を呼び覚ます。
時間的にはだいぶ短いものだったと思うけど、とても長く感じられた。
店員がやってきたのは、アイスコーヒーが階段を転げ落ちてしまったのだろう。
ガラス製のグラスじゃなくてよかった。いや、そうじゃない。この場をどうにかしなければ。
「えっと......、わたしはどうすればいいの?」
「とりあえず、僕の上から降りてもらえますか?」
お互いに緊張しているから、何をしゃべって良いのか分からない。妙な押し問答をくり返して、ひとまず僕の上から降りてもらう提案をする。
彼女が離れるのを待って、僕も立ち上がる。
店員が戻っても、僕たちはまだうつむいていた。相変わらず正解の言葉が見つからない。それでも、たったひとつ脳裏に浮かんだものを口にするしかなかった。
「......すみませんでした」
えっ、と思わず驚きの言葉を口にする。まさか女性の方も同じように謝ってくるとは思わなかった。
「すみません。こんなこと、してしまって」
「えっ、こんなことって......?」
「いや、だから......。あなたのことを抱きしめてしまって......」
勢いよく頭を下げた。偶然とはいえ手を出してしまったので、誠意をもって謝らないといけない。怒られても仕方ないかもしれない。
「こちらこそ、すみません......」
女性は重ねて謝った。なぜ彼女が謝るのだろう。
「だって、わたしのこと受け止めてくれたんですよね。そんなこと......」
......そんなこと、申し訳なくって。彼女が頭を下げた。か細い声が、ほんとうに聞こえないくらいになってしまった。
大事にはならなかったけれど、なんだかいたたまれない感じが残ってしまった。
・・・
店員にお願いして新しいコーヒーを用意してもらって、近くの椅子に腰かけた。
先ほどの件があってから、お互い静かにしている。
フロアはすべての方角に小窓がついていて、あらゆる角度から注ぐ日光が部屋を明るく作り出していた。一番大きな窓の手前に女性が座っている。
時折入ってくる海風が彼女の髪を揺らしていた。
あまり見ていてはいけないので、慌てて自分も近くの窓に向き直したところだった。
「......あの」
静かな空間の中に、小さな声が響いた。
誰の声だろう? ここにはふたりしかいないのだから考える必要もないのだが、なぜがよく分からない問いを自分にしてしまった。
女性の方を向くと、彼女の顔がまっすぐにこちらを向いていた。
全体の印象は華奢なのに、ところどころ見つめてしまうところがあった。
肩より長い髪は、まっすぐでとてもきれいな黒色をしていた。対照的な白い肌と合わさって、かわいさよりも上品な印象を与える。
小さな顔や長い首ひとつとっても美しかった。
「......あなたは旅行かなにか、でしょうか」
ああ。なぜ来たのか、ということだろう。少しばかり逡巡して、その通りだと言うしかなかった。家出同然だとは言わないでおく方が良さそうだ。
「まあ、そんなところです。夏休みだから、海を見たくなって」
後半に付け足したのはとっさのことだ。少しでも現実味があればいいなと思ったから。
「そうなんですね。このカフェに来る人はあまりいないので、秘境みたいなところですから」
なるほど、知る人ぞ知るポイントなのだろう。ともすれば、彼女はこの辺りを良く知っているのだろうか。
「ええ、まあ。わたしは、お散歩に......」
なぜか"お散歩"の前でひと区切り打っていた。よく分からない。
「わたしみたいなのも珍しいんですけど、旅行って言うから、てっきり家出みたいな感じなのかと思ってしまって」
図星を差してくるなんて思いもしなかった。どきりとした。
なんて返そうか考えていると、彼女がゆっくりと頭を下げだした。なぜかよく分からない。
「あ......。急に失礼ですよね。あなたのこと知らないのに、家出なんて言ってしまって」
失礼ですよねを重ねて告げる。またしても声が小さくなっていた。
もう正直に言うしかなかった。
「そうです、そうです。ちょっとしたことがあって、朝飛び出してきました」
「ほんとうにそうだったんですね......」
声はもう聞こえないくらいだ。それに、いい加減顔を上げてほしい。
そしたら、彼女の顔には大きな笑顔が生まれていた。
「この夏に楽しいこと、しませんか?」


