季節はひとつ進み、空は秋の姿になっていた。
そして、吹く風には時折冷たさを感じる。羽織り物をして出てきてよかったなと思う。
またひとつ落ちてきたイチョウをちらりと見て、さっき箒をかけたのにと思う。いつの間にか、あたり一面に黄色の絨毯ができてしまっていた。
この光景を見て、また一年を迎えられたなと実感する。
今日は、紗希子の墓参りに来ていた。
とはいえ実際の命日はもう少し先の話で、週末に合わせて少し掃除をしにひとりでやってきた。
いつもだったら思いつきもしなかった。けれども、わざわざ行くことにしたのは、やはり栞との出来事があったからだった。
いくら日記に書いてあったとはいえ、姉が悪いことをするようには思えなかった。だから、墓の前で手を合わせては、願ってみた。嘘の出来事であってほしいと、ほんとうのことを話してほしいと。
秋の空で、心が変わってしまう前に。
帰宅すると、居間に戻っていた母親がいた。
もう食事をするかと聞いてみた。そしたら食べると言ったので、とりあえずふたり分の準備をしよう。少し多めに作って、あとで父親の分を温めてもだいじょうぶだ。
食材を出していると、少し気づいたことがあって手を止めた。そうしてアイスコーヒーを一杯注いで出した。
「あら、気が利くわね」
「手持ち無沙汰みたいだったから」
たいした理由なんてなかった。ほんとうに言葉の通りだった。
下ごしらえをしていると、背中から声をかけられた。
――あなたは変わったわね、と。
そうだろうか。実際よく分からない。今回たまたま気づいただけだと思う。そう思っていると、余裕が生まれたみたいと教えられた。
だれにも言っていないことだ。
前だったら窮屈で家が狭いなって思っていた。
でも、今となっては気楽なところも感じられるようになっていた。身の回りについては何も言われなくなった。部活や連絡事項はカレンダーやメモに書いて、ちょっとした会話で成り立つようになった。
顔を合わせなくてもわかる。それが、夏川家だ。
ここだけの話なんだけど、と母親が言ってくる。
調理をしながら、適度に相づちを打つ。
「あなた、中学のときからよく一人旅に行っていたじゃない。泊まりがけで」
手を止めて振り返った。
今までも自分でバイトしたお金をやりくりして、いろんな所に行っていた。それは、家に居たくないという一心からだった。
「そのたびに、あの人は心配してたのよ。きちんと帰ってくるのか、怪我しないのか。でもね、あの夏休みのときはなにも言わなかった」
......もう信頼するようになったのね、と重ねて告げる。
父親も、なにか考えていることがあるのだろう。
可愛い子には旅をさせよ、ということわざがある。
僕が行ったのはれっきとした旅行だけど、ほんとうの意味は世の中全般を指すという。ありとあらゆるものを経験させて、つらさを実感すること。そうして成長を促す意味だ。
親にとっても、子どもがかわいいなら甘やかさない方がよいとされる。かといって心配しない親はいない。実際、効果があるんだなと実感する。
今でこそ分かる。"どうして紗希子なの?"という台詞は、自分に役目を押し付けるわけでも、代わりに居なくなればというものではない。両親が代わってあげられたら、と。
料理を再開した。あきらかな照れ隠しだ。
そのまま、ひとつの質問をする。
「墓参りのあと、どこに行くか決めたの?」
姉の命日の日は、決まって家族全員で墓参りに行き夕食を食べる。
家族の形なんて関係ない。我が家ならではの大切な出来事に、やっと気づくことができた。たとえ皆で旅行に行けなくても、もうかまわなかった。
いつか、将来のことを話そうと思う。
どんな感じに折り合いがつくかは分からなくても、きちんと姿勢を正して話せる気がしている。
一人旅に行ってたくさんのことを感じた。
愛する人と会ったとしても、彼女をこの家に迎え入れられなくても。僕を変えてくれる人がいたことは変わりない。
栞と過ごした時間は、なによりも美しい。
・・・
洗い物を済ませて部屋に戻ってきた。
机の引き出しを開けてみた。夏休みのことが話題になったから、少し栞の日記を読みたくなった。寝る前に、少しだけ彼女のことを思い出したかった。
すると、一番下のノートになにかが挟まっているのに気づいた。まだ読んでいない部分があったのだろうか。
出してみた。
ピンク色の封筒に細くなめらかな字で書かれた便せん。自分に宛てた手紙だった。
どういうわけか、出逢った日に着ていた洋服を思い出させて、またひとつなつかしさを感じた。
*───────────────────
夏川 光希さま
この手紙を読んでいるということは、わたしはあたらしい家庭に引き取られていることでしょう。
引き取られる日はとつぜん決まりました。
少し若いご両親はわたしの目を見つめながら、ていねいに話しているのが印象的でした。子どもを作れない身体ということで、養子をもらいたいという決断をしたそうです。
そういう愛情のかたちもあるんだなと、わたしも彼女の助けになればよいなと思ったのです。
「あなたの過去をなにひとつ聞かないよ」
こう言っていただけて、後ろを顧みない感覚は素晴らしいなと思いました。
これまでにも、いろんな方が訪ねてくださいました。
けれども、どこの生まれの子か分からないこともあって、誕生日すらあやふやなこともあって、引き取ってもらうのはどれも難しい話でした。それが、足を悪くしたということが拍車をかけてしまったのです。
朝比奈さん――きみの世話もたくさんしてくれた方です――にわたしはよく聞くようになりました。まだなのかって。あたらしい家庭はまだなのかって。
彼女はそのたびに、ごめんねって言いました。だれが悪いわけでもないのに、頭を下げなければならない彼女はつらかったのでしょう。
彼女のことを責めてはいけないのに、責めたくなってしまいそう。そして、自分のためにどれだけの仕事をしているんだろうと、わたしもずっと罪悪感でいっぱいでした。
お母さんって何だったんだろうと、ずっと考えていました。
もちろん、自分のことを産んでくれた人がいたことくらいは、分かっているつもりです。けれども、ないものねだりを続けてきた。愛情を実感したかった。
もう、あの人と出会える機会があったとして、会いたいとは思いませんが。
きみが気づかせてくれたのです。
わたしにとっての親は、いちばんにありがとうを伝えたいのは、朝比奈さんだって。
ほんとうに感謝しています。
・・・
<ひだまりのいえ>できみと一緒にいた窓際の場所は、もうわたしの特等席みたいになっていました。だれともしゃべらないでうさぎのぬいぐるみを抱えるだけ、そんな日々でした。
高校は施設からさほど遠くなく、バスで行けるところにしました。
でも、脚のようすを見た人々から席をゆずってもらったりするのも、体育の授業を見学しているだけなのも、つまらないというよりはどこか渇いたような日々でした。
だから、足が悪くても出かけて行きたかったのです。
朝比奈さんがドライブで連れ出してくれたところへ。海のようなクローバー畑に、小学校を卒業したお祝いでごちそうになったスパゲッティ屋に。
行くのは引き取られる前の日じゃないとだめだと思いました。そうしないと、ここでの記憶に、きれいに鍵をかけられないから。
......わたしの最後の、思い出づくりがしたかったのです。
そうしたら、きみと出逢った。
さいしょから名前で呼んでほしいとか、自転車で腰に手をまわすなんて、ふつうだったらしないでしょう。
でも、きみだからできたんだと思います。同じ施設の子だとは気づかなかったのは、自分でも申し訳ないと思ってしまうけれど、心のどこかで特別な人だと感じていたから。
光希くんは、わたしのことを美しい天使かなにかだと思ったのではないでしょうか。
けれども、天使には悪い存在というのもいます。堕天使です。神さまに仕える天使から悪魔に落ちて、反逆してしまう存在です。理由はさまざまなものがあげられますが、そのひとつが、嫉妬なのです。
実のところ、わたしは紗希子さんに嫉妬していました。
......いいや、ちがうかな。みんな、そうだったのかもしれません。お互いをみとめつつも、ライバルだと思っていて。
主役の座をつかみたいという一心で、みんな必死だったのです。
紗希子さんはほんとうに美しい人だなって思いました。
切れ長な目に整った顔立ちは、いかにも踊り子の雰囲気をしていました。同い年とは思えないような美貌を感じました。
そして、人一倍努力する姿勢にも、わたしは惚れていたんだと思います。
その美しさを、自分で台無しにしてしまった。
あの日のことはもうわかりません。でも、無我夢中で願ってしまった。地獄に落ちてしまえばいいのに、と。
呪いでこんなことができるなんてないけれど、わたしの願いは通じてしまった。
身勝手だったから。自業自得だったから。わたしが生きる意志なんてないのです。
きみだけがわたしのバレエを見てくれていた。
それが、なによりもうれしかった。それだけでよかったのに、再会してしまったら欲しがってしまったのです。わたしのものになってほしかった。そして、あたらしい家庭に行くのが怖くなってしまった。
紗希子さんとのつながりなんて、ほんとうに知りませんでした。
キスをしたときに、わたしはひとつの幻覚を見ました。
あれは小学生の低学年からもう少し上の姿だったと思います。幼い紗希子さんと光希くんが見えました。なにか相手のグループと言い合いをしていたら、紗希子さんがそのうちの男の子を殴っていました。
おそらく、いじめられていたのを、紗希子さんがかばって手を出したのでしょう。
小さくても正義感にあふれる彼女は、かっこよかった。
それなのに、きみにとっての大切な人を、わたしは奪ってしまったのです。
きみが思っている以上に、わたしはひどい人だから。きみを殺めてしまうかもしれない。
このままだと、だめなわたしたちになってしまうから。
どれだけ謝ってもきっと足りないでしょう。
こんなわたしを愛してくれたこと、忘れないよ。
最後にひとつ、お願いをさせてください。
それでも、きみは紗希子さんとはちがうって信じたいのです。
むりにとは言いません。もし許してくれるのならでかまいません。
......いつか、探しにきてください。
・・・
この先の人生、幸福があったらいいな。
そう思える暮らしがわたしたちのところへ訪れますように。
光希くん、誕生日おめでとう。
────────────────────
ため息が出た。
バレエというのは、主役だけでなくてまわりの演者と一緒に作り上げる芸術だ。
いわゆる王子様やお姫様だけで作られるものではない。脇役でも主人公を引き立てるために存在する。名前がない役回りでも変わった動作をすれば注目されることだってあるだろう。
そして、なにより重要なのがかたき役だ。演劇やドラマだってそう。主人公をいじめるような敵がいるからこそ、その姿が手ごわければ手ごわいこそ、ストーリーが盛り上がる。
たとえ主役がひとりしか選ばれなくたって、お互いに切磋琢磨する間柄だったのだろう。
みんなが主人公で、みんながかたき役で。
これからも役柄の優越にとらわれないでいてほしい。
台詞がないステージは、心で通じ合うところがたくさんあるはずだから。
・・・
木の枝を折ってつくったという道しるべ。
栞という言葉の由来だ。その名前を授かった彼女は、人生という旅の中でたくさんのことを瞳に映してきた。そして、そのひとつの欠片を僕に教えてくれた。
お互いに抱えた罪と罰は、とてつもなく大きかっただろう。そうして十字架を抱えて生きていく。これからも、ずっと続けなければいけない。
だからこそ、必要なんだ。支えてあげられる人が。許してあげられる人が。
その役割は、僕にしかできないことだから。
季節がひとつもふたつも巡っていく。
花はまた咲いてみせる。みどりの葉はまた健気に自らの姿を広げてみせる。
エメラルドは、そういった自然の美しさにあやかった宝石とも言われている。再生のシンボルと呼ばれているのだから。
――ふたりの仲は、きっとよみがえる。
今すぐにでも駆け出していきたかった。
抱きしめたかった。
いつかお互いが乗り越えることができたら、また会おう。
次に行きたいところは、もう決まっていた。
そして、吹く風には時折冷たさを感じる。羽織り物をして出てきてよかったなと思う。
またひとつ落ちてきたイチョウをちらりと見て、さっき箒をかけたのにと思う。いつの間にか、あたり一面に黄色の絨毯ができてしまっていた。
この光景を見て、また一年を迎えられたなと実感する。
今日は、紗希子の墓参りに来ていた。
とはいえ実際の命日はもう少し先の話で、週末に合わせて少し掃除をしにひとりでやってきた。
いつもだったら思いつきもしなかった。けれども、わざわざ行くことにしたのは、やはり栞との出来事があったからだった。
いくら日記に書いてあったとはいえ、姉が悪いことをするようには思えなかった。だから、墓の前で手を合わせては、願ってみた。嘘の出来事であってほしいと、ほんとうのことを話してほしいと。
秋の空で、心が変わってしまう前に。
帰宅すると、居間に戻っていた母親がいた。
もう食事をするかと聞いてみた。そしたら食べると言ったので、とりあえずふたり分の準備をしよう。少し多めに作って、あとで父親の分を温めてもだいじょうぶだ。
食材を出していると、少し気づいたことがあって手を止めた。そうしてアイスコーヒーを一杯注いで出した。
「あら、気が利くわね」
「手持ち無沙汰みたいだったから」
たいした理由なんてなかった。ほんとうに言葉の通りだった。
下ごしらえをしていると、背中から声をかけられた。
――あなたは変わったわね、と。
そうだろうか。実際よく分からない。今回たまたま気づいただけだと思う。そう思っていると、余裕が生まれたみたいと教えられた。
だれにも言っていないことだ。
前だったら窮屈で家が狭いなって思っていた。
でも、今となっては気楽なところも感じられるようになっていた。身の回りについては何も言われなくなった。部活や連絡事項はカレンダーやメモに書いて、ちょっとした会話で成り立つようになった。
顔を合わせなくてもわかる。それが、夏川家だ。
ここだけの話なんだけど、と母親が言ってくる。
調理をしながら、適度に相づちを打つ。
「あなた、中学のときからよく一人旅に行っていたじゃない。泊まりがけで」
手を止めて振り返った。
今までも自分でバイトしたお金をやりくりして、いろんな所に行っていた。それは、家に居たくないという一心からだった。
「そのたびに、あの人は心配してたのよ。きちんと帰ってくるのか、怪我しないのか。でもね、あの夏休みのときはなにも言わなかった」
......もう信頼するようになったのね、と重ねて告げる。
父親も、なにか考えていることがあるのだろう。
可愛い子には旅をさせよ、ということわざがある。
僕が行ったのはれっきとした旅行だけど、ほんとうの意味は世の中全般を指すという。ありとあらゆるものを経験させて、つらさを実感すること。そうして成長を促す意味だ。
親にとっても、子どもがかわいいなら甘やかさない方がよいとされる。かといって心配しない親はいない。実際、効果があるんだなと実感する。
今でこそ分かる。"どうして紗希子なの?"という台詞は、自分に役目を押し付けるわけでも、代わりに居なくなればというものではない。両親が代わってあげられたら、と。
料理を再開した。あきらかな照れ隠しだ。
そのまま、ひとつの質問をする。
「墓参りのあと、どこに行くか決めたの?」
姉の命日の日は、決まって家族全員で墓参りに行き夕食を食べる。
家族の形なんて関係ない。我が家ならではの大切な出来事に、やっと気づくことができた。たとえ皆で旅行に行けなくても、もうかまわなかった。
いつか、将来のことを話そうと思う。
どんな感じに折り合いがつくかは分からなくても、きちんと姿勢を正して話せる気がしている。
一人旅に行ってたくさんのことを感じた。
愛する人と会ったとしても、彼女をこの家に迎え入れられなくても。僕を変えてくれる人がいたことは変わりない。
栞と過ごした時間は、なによりも美しい。
・・・
洗い物を済ませて部屋に戻ってきた。
机の引き出しを開けてみた。夏休みのことが話題になったから、少し栞の日記を読みたくなった。寝る前に、少しだけ彼女のことを思い出したかった。
すると、一番下のノートになにかが挟まっているのに気づいた。まだ読んでいない部分があったのだろうか。
出してみた。
ピンク色の封筒に細くなめらかな字で書かれた便せん。自分に宛てた手紙だった。
どういうわけか、出逢った日に着ていた洋服を思い出させて、またひとつなつかしさを感じた。
*───────────────────
夏川 光希さま
この手紙を読んでいるということは、わたしはあたらしい家庭に引き取られていることでしょう。
引き取られる日はとつぜん決まりました。
少し若いご両親はわたしの目を見つめながら、ていねいに話しているのが印象的でした。子どもを作れない身体ということで、養子をもらいたいという決断をしたそうです。
そういう愛情のかたちもあるんだなと、わたしも彼女の助けになればよいなと思ったのです。
「あなたの過去をなにひとつ聞かないよ」
こう言っていただけて、後ろを顧みない感覚は素晴らしいなと思いました。
これまでにも、いろんな方が訪ねてくださいました。
けれども、どこの生まれの子か分からないこともあって、誕生日すらあやふやなこともあって、引き取ってもらうのはどれも難しい話でした。それが、足を悪くしたということが拍車をかけてしまったのです。
朝比奈さん――きみの世話もたくさんしてくれた方です――にわたしはよく聞くようになりました。まだなのかって。あたらしい家庭はまだなのかって。
彼女はそのたびに、ごめんねって言いました。だれが悪いわけでもないのに、頭を下げなければならない彼女はつらかったのでしょう。
彼女のことを責めてはいけないのに、責めたくなってしまいそう。そして、自分のためにどれだけの仕事をしているんだろうと、わたしもずっと罪悪感でいっぱいでした。
お母さんって何だったんだろうと、ずっと考えていました。
もちろん、自分のことを産んでくれた人がいたことくらいは、分かっているつもりです。けれども、ないものねだりを続けてきた。愛情を実感したかった。
もう、あの人と出会える機会があったとして、会いたいとは思いませんが。
きみが気づかせてくれたのです。
わたしにとっての親は、いちばんにありがとうを伝えたいのは、朝比奈さんだって。
ほんとうに感謝しています。
・・・
<ひだまりのいえ>できみと一緒にいた窓際の場所は、もうわたしの特等席みたいになっていました。だれともしゃべらないでうさぎのぬいぐるみを抱えるだけ、そんな日々でした。
高校は施設からさほど遠くなく、バスで行けるところにしました。
でも、脚のようすを見た人々から席をゆずってもらったりするのも、体育の授業を見学しているだけなのも、つまらないというよりはどこか渇いたような日々でした。
だから、足が悪くても出かけて行きたかったのです。
朝比奈さんがドライブで連れ出してくれたところへ。海のようなクローバー畑に、小学校を卒業したお祝いでごちそうになったスパゲッティ屋に。
行くのは引き取られる前の日じゃないとだめだと思いました。そうしないと、ここでの記憶に、きれいに鍵をかけられないから。
......わたしの最後の、思い出づくりがしたかったのです。
そうしたら、きみと出逢った。
さいしょから名前で呼んでほしいとか、自転車で腰に手をまわすなんて、ふつうだったらしないでしょう。
でも、きみだからできたんだと思います。同じ施設の子だとは気づかなかったのは、自分でも申し訳ないと思ってしまうけれど、心のどこかで特別な人だと感じていたから。
光希くんは、わたしのことを美しい天使かなにかだと思ったのではないでしょうか。
けれども、天使には悪い存在というのもいます。堕天使です。神さまに仕える天使から悪魔に落ちて、反逆してしまう存在です。理由はさまざまなものがあげられますが、そのひとつが、嫉妬なのです。
実のところ、わたしは紗希子さんに嫉妬していました。
......いいや、ちがうかな。みんな、そうだったのかもしれません。お互いをみとめつつも、ライバルだと思っていて。
主役の座をつかみたいという一心で、みんな必死だったのです。
紗希子さんはほんとうに美しい人だなって思いました。
切れ長な目に整った顔立ちは、いかにも踊り子の雰囲気をしていました。同い年とは思えないような美貌を感じました。
そして、人一倍努力する姿勢にも、わたしは惚れていたんだと思います。
その美しさを、自分で台無しにしてしまった。
あの日のことはもうわかりません。でも、無我夢中で願ってしまった。地獄に落ちてしまえばいいのに、と。
呪いでこんなことができるなんてないけれど、わたしの願いは通じてしまった。
身勝手だったから。自業自得だったから。わたしが生きる意志なんてないのです。
きみだけがわたしのバレエを見てくれていた。
それが、なによりもうれしかった。それだけでよかったのに、再会してしまったら欲しがってしまったのです。わたしのものになってほしかった。そして、あたらしい家庭に行くのが怖くなってしまった。
紗希子さんとのつながりなんて、ほんとうに知りませんでした。
キスをしたときに、わたしはひとつの幻覚を見ました。
あれは小学生の低学年からもう少し上の姿だったと思います。幼い紗希子さんと光希くんが見えました。なにか相手のグループと言い合いをしていたら、紗希子さんがそのうちの男の子を殴っていました。
おそらく、いじめられていたのを、紗希子さんがかばって手を出したのでしょう。
小さくても正義感にあふれる彼女は、かっこよかった。
それなのに、きみにとっての大切な人を、わたしは奪ってしまったのです。
きみが思っている以上に、わたしはひどい人だから。きみを殺めてしまうかもしれない。
このままだと、だめなわたしたちになってしまうから。
どれだけ謝ってもきっと足りないでしょう。
こんなわたしを愛してくれたこと、忘れないよ。
最後にひとつ、お願いをさせてください。
それでも、きみは紗希子さんとはちがうって信じたいのです。
むりにとは言いません。もし許してくれるのならでかまいません。
......いつか、探しにきてください。
・・・
この先の人生、幸福があったらいいな。
そう思える暮らしがわたしたちのところへ訪れますように。
光希くん、誕生日おめでとう。
────────────────────
ため息が出た。
バレエというのは、主役だけでなくてまわりの演者と一緒に作り上げる芸術だ。
いわゆる王子様やお姫様だけで作られるものではない。脇役でも主人公を引き立てるために存在する。名前がない役回りでも変わった動作をすれば注目されることだってあるだろう。
そして、なにより重要なのがかたき役だ。演劇やドラマだってそう。主人公をいじめるような敵がいるからこそ、その姿が手ごわければ手ごわいこそ、ストーリーが盛り上がる。
たとえ主役がひとりしか選ばれなくたって、お互いに切磋琢磨する間柄だったのだろう。
みんなが主人公で、みんながかたき役で。
これからも役柄の優越にとらわれないでいてほしい。
台詞がないステージは、心で通じ合うところがたくさんあるはずだから。
・・・
木の枝を折ってつくったという道しるべ。
栞という言葉の由来だ。その名前を授かった彼女は、人生という旅の中でたくさんのことを瞳に映してきた。そして、そのひとつの欠片を僕に教えてくれた。
お互いに抱えた罪と罰は、とてつもなく大きかっただろう。そうして十字架を抱えて生きていく。これからも、ずっと続けなければいけない。
だからこそ、必要なんだ。支えてあげられる人が。許してあげられる人が。
その役割は、僕にしかできないことだから。
季節がひとつもふたつも巡っていく。
花はまた咲いてみせる。みどりの葉はまた健気に自らの姿を広げてみせる。
エメラルドは、そういった自然の美しさにあやかった宝石とも言われている。再生のシンボルと呼ばれているのだから。
――ふたりの仲は、きっとよみがえる。
今すぐにでも駆け出していきたかった。
抱きしめたかった。
いつかお互いが乗り越えることができたら、また会おう。
次に行きたいところは、もう決まっていた。


