トンネルを抜けると、世界がちがって見えた。
 僕の目の前に広がるのは、青い空と白い雲だった。遠くには、海が輝いている。
 自転車を止めて、顔を上げてみる。あたり一面に広がる空は、どの方向を向いても同じ景色なのにまったく飽きることはない。
 思わず感嘆のため息を漏らす。こんなにきれいな光景があるなんて。
 長いトンネルの前後で、まるで別世界のようだとは思わなかった。これまでうるさく流れていた蝉の声は聞こえないし、走っている車も見かけない。
 ここには静寂だけが存在していて、沈んでいる心をやさしく包み込んでくれそうだった。
 朝いちばんに家を出た。
 市街地を抜けるいちばん大きな街道を、ただただ真っ直ぐに走ってきた。
 とくに土地勘がある訳でもなく、海を見たくなったという訳でもなく、単純な思いつきだった。この道はどこに続くのだろう、その興味だけだった。
 目的地なんてとくに考えていなかった。
 だから、いつの間にか隣の県に来ていたことも今が何時でいつ帰ろうかということも、関係なかった。
 だれもいないところに行きたいという思いが、僕を走らせていた。
 
 きっかけはどこにあるのだろう。
 医者の家だというと、みんな揃って口にする。跡継ぎになるんだよね、と。
 小さい頃は胸を張って、そうだよって答えていた。ほんとうに? 幼い頃というのは単純だから、なにも考えていなかった。
 けれども、成長していくと次々と見えてくる。家庭の事情、自分が興味あるもの。さまざまな輪郭を実感するようになる。
 まだ将来のことを話したことはないけれど、両親の考えは薄々と感づいていた。
 ――(みつ)()も医者になるべきだ。
 その裏付けなのかもしれない。次第に宿題や勉強についての会話が家庭で増えてきた。
 小学生の頃は宿題をやっていれば何も言われなかった。それが、いつの頃からか宿題を終わらせたのか聞かれるようになり、学習をサポートするための教材が揃うようになっていた。
 それらが、まるでノルマのようにのしかかってくる。
 たいてい宿題をはやめに終わらせていたのに、よく言われるようになってしまう。
 ――もう終わらせてるよ。
 ――それで足りるのか。言われたことだけじゃなくて、もっと興味を持ちなさい。
 毎日こんな押し問答を繰り広げていた。
 おかげで成績は学年で上位になるようなレベルになり、当初は予定していなかった高校に入れるようになった。クラスメイトからは尊敬の目で見られたけど、その視線が痛かった。自分だけの力ではなくて、背中に背負っている重圧がほんとうに重かった。
 迷惑。
 こんな言葉で片付けてしまっても良かったのかもしれない。けれども、それができないのは自分の真面目な性格と、言ってしまったら喧嘩になるのが嫌だったから。
 いずれ自分も働くのだろう。いや、どこかで継がないといけないと考えるようになった。
 親がそう望むなら、敷いたレールの上を歩く方が良いのかもしれない。
 それで良いの? 自分で何が正しいかどうかなんて考えは持っていなかった。
 それでも、夏休みくらいは自由にさせてほしい。
 これまでも自転車に乗って旅をしたこともあった。素泊まりもした経験もあった。
 だから、ちょっと泊まりで出かけてくるとだけ言って飛び出してきた。親は「そう」と素っ気なく返事をしていた。
 つまるところ、直接的な原因はなかったのかもしれない。
 せめてもの反抗とでもいうべきなのだろう。
 
 ペットボトルの水を飲んでいると、脇をオープンカーが通り過ぎた。
 車が生み出す風と一緒に、カーステレオから聞こえる音楽がこちらに流れてきた。湿気の多い蒸し暑い空気と陽気なリズムという組み合わせがなんだか滑稽で、今という季節を存分に思い起こさせる。
 車に乗っていたカップルみたいにはしゃいでいられたら楽しいだろうな。
 車道のずっと先に、少し背の高い建物があるのに気づいた。この辺りには建物がひとつも無いので、ここからでも良く目立っていた。よく分からないけれど、きっと小さな灯台みたいなものだろう。
 あのところまで行ってみよう。

 ・・・

 いざ灯台に行くのはなかなか大変だった。
 一本道だったものの、緩やかな傾斜が続いていた。辺り一面に広がる草花とも相まって、自然の中をそのまま切り開いたような造りだ。素朴でありながらも美しい景色が広がっている。
 車道の脇に立ち入り禁止と書かれた看板が建てられていた。
 なるほど、この中に入って写真撮影をする人がいるからなのだろう。でも、看板がなんだか美しさの邪魔をしているじゃないかと思ってしまいたくなる。徒然草みたいな感覚だった。
 さらに自転車を走らせると、これまで感じてこなかった香りが鼻をくすぐる。
 夏の熱気を感じる空気じゃないもの。湿り気のあるもの。海風だ。
 トンネルを抜けてから、どんどん海へと近づいている。先ほどは遠くでしか見えていなかった景色が、少しずつ見えるようになってきた。
 どれくらい走ったのだろう。これまでうるさく流れていた蝉の声は聞こえないし、走っている車も見かけない。
 ここもまた、静寂が包み込んでいた。
 沈んでいる気持ちが、少しずつ上がってくるのを感じる。はやく海を見たい。自分の心を照らし出してほしい。
 不思議と気分が高揚していた。これから訪れる出会いがあるなんて気づく由もなく、ただあの場所に楽しみが待っているんじゃないかと思っていた。
 きらめく水面が視界いっぱいを埋め尽くすとき、灯台に到着した。
 
 実は灯台だと思っていたのは、カフェだった。
 海沿いの丘の上に建っていて、裏手にはもう崖になっていた。こんなところで流行るのだろうかという決して口にできない感想を思いながら、建物を見上げてみた。
 淡い水色の二階建ての建物。玄関周りには花壇があり、円柱をした棟の頂点には風見鶏がくるくると回転している。
 海とも空とも調和しそうなデザインともいうのだろうか。素朴ながらもなんだか可愛らしさを感じる。
 
 ......少しだけ現実に連れ戻された。
 腹にいる虫が今の時間を教えてくれる。ちょうど12時だ。朝食を軽く食べたきり、なにも食べていなかった。
 トンネルを抜けてからずっと現実ではないような空間にずっと夢中になっていた。
 この店でしっかりした食事ができないかもしれない。また失礼な感想を思いながらも、あまり迷いはしなかった。
 軽食か、はたまたコーヒーを飲むだけでも良いだろう。
 僕は、ドアを開けた。

 ・・・

 カフェの階段を登っていく。
 ぐるりぐるりと、螺旋階段を登っていく。
 この先、どんな景色があるのだろうと期待してしまう。とても見晴らしが良いだろう。一階はカウンター席が主だったから、二階が良いと勧められたかたちだった。
 少しずつ視界が明るくなっていくのを感じる。
 ここもまたトンネルのよう。この先に待ち受けるものは何だろう。
 きっと、空はもっと近くなって、その下にはきらめく海が待ち構えている。
 しかしながら、僕の瞳を奪ったのは、自然が作り出すものではなかった。
 
 ――ひとりの、女性がいた。
 
 彼女は椅子の背もたれに手を添えながら、片足を大きく上げている。詳しい名称までは知らないけれど、たしかバレエの動作のひとつだ。
 その姿をあらゆる小窓から降り注ぐ日差しと天井のランプが照らしていた。
 曲線を描く身体の所作。流れるような長い髪。スカートから伸びる足。
 人間が作り出すものがこんなにも美しくて、つい息を飲む。ここいるのは、まるで天使。
 やがて彼女もこちらに気づく。
 
 これが、僕たちの出会い。