「それで、わざわざ私に会いに来てくれたのかしら?」
目の前の人物はこちらに背を向けながら言う。背中越しでもその声は明るいのが分かる。
彼女にやっと会えた。もちろん僕も嬉しい。
幼少の頃から感じていた安心感に、自分も安堵する。
その人物こそ、陽だまりを具現化しているような印象の人物だ。接する人に対する愛情や包容力は、やはり素敵だなと思う。まさしく、母親に近いもの。
けれども、彼女は僕をからかっている。話題の本筋とはちがうことを話している。冗談交じりに言うものだから、僕もそれに乗じておく。そうなんですよね、と。
彼女は小さな微笑みを作ると、お茶を差し出してくれた。
短く切り揃えたショートカットに丸い眼鏡。
仕事ができるビジネスウーマンを思わせる印象だ。けれども、身に着けているエプロンがその雰囲気を丸くしていた。決して幼いわけではない。
彼女はスタッフの朝比奈さん。そう、栞の名付け親だ。
ここは、僕たちが育った場所。――<ひだまりのいえ>。
・・・
カフェを出てから数時間かけて、スマートフォンを頼りにここまでやってきた。
いざ門の前にやってくると、どう声をかけて良いか分からない。
そしたら自分の姿に気づいた彼女が声をかけてくれた。光希くんよね、と。
こうして応接室に通された。もしかしたら、はじめて施設に引き取られたときに来た部屋もここだったかもしれない。栞と出会ったところも。
「......そう、栞と会ったのね」
昨日の出来事を手短に伝えた。
小さな旅行をしていること、出会った人物が栞だったこと。そして、ここに来たら再会できるんじゃないかと思っていたこと。
しかしながら、その願いは水の泡になって消えた。もう彼女の手を握ることはできなかった。
――栞は、引き取られた。今日の午前中のことだったという。
安堵だったり寂しさだったり、いろんな感情が自分の中で混ざってしまった。
いざ帰るわけにもいかなくなってしまい、こうしてお茶をご馳走になっている。
「あの子はとても手のかかる子だったわ」
昨日感じた栞の印象からはまったく想像できなかった。思わず目の前の人物を見つめてしまう。
「抱っこするときも、よちよち歩きをするときもそう。ずっと私のそばから離れなかった。それで、誰かの籍に入れないといけなくなるから、自分以外考えられなかったわね」
なんだか納得してしまう。
栞はほんとうに彼女のことを母親代わりだと思っていたのだろう。
「お母さんと呼んでくれたこともあったけど、すぐに何も言わなくなったの。あの子はよく周りを見ているから。何も言われなくても、身の回りのことは自分で済ませる子で、とても聞き分けの良い子で」
施設ということがどこかで分かっていたのだろう。なんとも栞らしかった。
「口数はとても少なかった。周りの子たちともまったく遊ばなかった。心配したけれど、これがあの子なんだなって理解したわ。たまに私たちが考えていないことをやってのけるの。よく驚かされたわ」
僕も何度か見たことがあった。
栞が何かをするたびに、自分も目を丸くしていた。
とはいえ、引き取られる前日に出かけるなんて、誰もが想像していなかっただろう。
「......そうねえ。でも、私は信じてたわ。戻ってくるのを」
彼女の口ぶりもまんざらでもない感じだった。信頼している、そう伝わってくる。
そして、大切な一言を添えてくれる。
「......それに、愛情を理解してくれた」
養護施設のスタッフだって愛がある。子どもへの愛情がある。しかしながら、ある程度は仕事として割り切っていかなければならないところはあるだろう。
それでも、ほんとうの親子に近しい関係になれたのなら。こんなに嬉しいことはないはずだ。
だから、栞と一緒にいた自分のことも合わせて覚えてくれていたのだろう。
「光希くんはどう思うかしら? ここで育った子として」
朝比奈さんの瞳がゆれた。それは決して悲しんでいるわけではなかった。興味があるんだ、そう感じるものだった。
......少し言葉に詰まった。
外で遊んでいる子どもたちの声が聞こえる。
暑い中、元気いっぱいに走り回っているようだ。そのうちのひとりが転んだ。決して泣くことはなかった。周りの子が集まってはまた遊びだしていた。
その様子を、ふたりして眺めていた。
「施設って、箱庭みたいなものだと思っています。色んな事情を持った子たちが集まって、一緒に育っていく。窮屈に感じるかもしれない。はやく外に出たいかもしれない。栞だって何か思っていたことがあるのかもしれない」
目の前の人物は頷きもせず、自分の言うことを待っている。
「ほんとうは、こういう施設は無い方が良いと思っています。親の愛情をないがしろにされてしまう子はかわいそうだから。でも、一緒に過ごすみんながいる。育ててくれる人がいる。あたらしく迎えてくれる家庭がある。......ここは子どもが成長する舞台なんだと思います」
養護施設は養成所みたいなものだ。
家庭で生まれた子を主役とするならば、決して交わることのない役を演じるのかもしれない。役名だってもらえないかもしれない。
けれども、育てられるという意味では大差がない。
名前だって授かる。学校にだって行ける。そしたら分け隔てなく遊んで学んでいけばいい。
きっと瞬きだって忘れて夢中になっている。
役者はいつだって練習をしている。舞台に立つために、いつか主役になるために。
人生に光と影があったって、生きていくうえでの瞬間たちは、どれも宝物だ。
栞だって、立派に成長したのだから。
<ひだまりのいえ>があったこそ、僕は生きてきた。誰だって巡り合う。あたたかい家庭と、愛する人と。
この先も、ずっと生きていける。
「私ね、ずっと考えていることってあるの。......みんな、わがままなのよ」
わがまま。
意外な単語が出てきて、少し驚いた。
「もちろん人様に迷惑をかけるのはいけないこと。別れた夫なんてもう論外だけどね」
朝比奈さんは少し苦笑いをした。彼女のいきさつなんて聞いたことがなかったから少し気になった。けれども、なんだかこの場にそぐわないような気がして、聞くのは止めにした。
真意だけを知りたかった。
「みんな生まれてきたってだけでその資格があるのよ。子どもたちはどんどん育っていく。色んな言葉を覚えて、色んな遊びを知っていく。そして、最後にはやりたいことを見つけるの」
彼女の言葉を聞いて、とても実感した。
バレエにテニスに、そして医者になるのもそう。生きていくうえで、将来を見つけるのは幸せなことだ。きっと、生きていくことが、わがままなんだから。
「自分の力で生きていく、自分の愛する人と出会う。きみたちには親御さんから離れてしまったけれど、その分素晴らしい出会いがあったじゃない。私だってそう、夫なんてただの通過点だっただけ。あの子のことを忘れることは、きっとないわ」
きっと、彼女にとっても素晴らしい出会いだったのだろう。
・・・
朝比奈さんは、いったん席を外して戻ってきた。
その手にはノートの束があった。見覚えのあるもの、栞が書いていた日記だった。
「朝ね、彼女が戻って来たときに、これを渡してほしいって頼んできたわ。"光希くんがいつか来ますから"って言われて、さすがに私も驚いたけれど」
ほんとうに栞は周りを驚かせる。
「そしたら今日のうちに貴方が来た。偶然かもしれないけれど、あの子が手招きしてくれてたのね」
自分もそうだと思っている。決して再会できなかったけれど、栞が手を鳴らしてくれたんじゃないかという実感があった。
微笑んだ朝比奈さんの表情は、どこか栞と近いものを感じた。最後にひとつだけ言葉を添えてくれた。
――あなたたちはもう通じ合っているのね。大事な人だって。
<ひだまりのいえ>を後にした。
施設は何ひとつ変わっていなかった。陽射しの降り注ぐ庭も、片付けのままならない遊び道具も。そして、背比べをしようとして柱に付けた傷も。けっきょく、今でも栞の身長の方がわずかに高かった。
大切な箱庭はいつまでも存在してほしい。
また自転車を走らせる。今度は家の方へ。
目の前の人物はこちらに背を向けながら言う。背中越しでもその声は明るいのが分かる。
彼女にやっと会えた。もちろん僕も嬉しい。
幼少の頃から感じていた安心感に、自分も安堵する。
その人物こそ、陽だまりを具現化しているような印象の人物だ。接する人に対する愛情や包容力は、やはり素敵だなと思う。まさしく、母親に近いもの。
けれども、彼女は僕をからかっている。話題の本筋とはちがうことを話している。冗談交じりに言うものだから、僕もそれに乗じておく。そうなんですよね、と。
彼女は小さな微笑みを作ると、お茶を差し出してくれた。
短く切り揃えたショートカットに丸い眼鏡。
仕事ができるビジネスウーマンを思わせる印象だ。けれども、身に着けているエプロンがその雰囲気を丸くしていた。決して幼いわけではない。
彼女はスタッフの朝比奈さん。そう、栞の名付け親だ。
ここは、僕たちが育った場所。――<ひだまりのいえ>。
・・・
カフェを出てから数時間かけて、スマートフォンを頼りにここまでやってきた。
いざ門の前にやってくると、どう声をかけて良いか分からない。
そしたら自分の姿に気づいた彼女が声をかけてくれた。光希くんよね、と。
こうして応接室に通された。もしかしたら、はじめて施設に引き取られたときに来た部屋もここだったかもしれない。栞と出会ったところも。
「......そう、栞と会ったのね」
昨日の出来事を手短に伝えた。
小さな旅行をしていること、出会った人物が栞だったこと。そして、ここに来たら再会できるんじゃないかと思っていたこと。
しかしながら、その願いは水の泡になって消えた。もう彼女の手を握ることはできなかった。
――栞は、引き取られた。今日の午前中のことだったという。
安堵だったり寂しさだったり、いろんな感情が自分の中で混ざってしまった。
いざ帰るわけにもいかなくなってしまい、こうしてお茶をご馳走になっている。
「あの子はとても手のかかる子だったわ」
昨日感じた栞の印象からはまったく想像できなかった。思わず目の前の人物を見つめてしまう。
「抱っこするときも、よちよち歩きをするときもそう。ずっと私のそばから離れなかった。それで、誰かの籍に入れないといけなくなるから、自分以外考えられなかったわね」
なんだか納得してしまう。
栞はほんとうに彼女のことを母親代わりだと思っていたのだろう。
「お母さんと呼んでくれたこともあったけど、すぐに何も言わなくなったの。あの子はよく周りを見ているから。何も言われなくても、身の回りのことは自分で済ませる子で、とても聞き分けの良い子で」
施設ということがどこかで分かっていたのだろう。なんとも栞らしかった。
「口数はとても少なかった。周りの子たちともまったく遊ばなかった。心配したけれど、これがあの子なんだなって理解したわ。たまに私たちが考えていないことをやってのけるの。よく驚かされたわ」
僕も何度か見たことがあった。
栞が何かをするたびに、自分も目を丸くしていた。
とはいえ、引き取られる前日に出かけるなんて、誰もが想像していなかっただろう。
「......そうねえ。でも、私は信じてたわ。戻ってくるのを」
彼女の口ぶりもまんざらでもない感じだった。信頼している、そう伝わってくる。
そして、大切な一言を添えてくれる。
「......それに、愛情を理解してくれた」
養護施設のスタッフだって愛がある。子どもへの愛情がある。しかしながら、ある程度は仕事として割り切っていかなければならないところはあるだろう。
それでも、ほんとうの親子に近しい関係になれたのなら。こんなに嬉しいことはないはずだ。
だから、栞と一緒にいた自分のことも合わせて覚えてくれていたのだろう。
「光希くんはどう思うかしら? ここで育った子として」
朝比奈さんの瞳がゆれた。それは決して悲しんでいるわけではなかった。興味があるんだ、そう感じるものだった。
......少し言葉に詰まった。
外で遊んでいる子どもたちの声が聞こえる。
暑い中、元気いっぱいに走り回っているようだ。そのうちのひとりが転んだ。決して泣くことはなかった。周りの子が集まってはまた遊びだしていた。
その様子を、ふたりして眺めていた。
「施設って、箱庭みたいなものだと思っています。色んな事情を持った子たちが集まって、一緒に育っていく。窮屈に感じるかもしれない。はやく外に出たいかもしれない。栞だって何か思っていたことがあるのかもしれない」
目の前の人物は頷きもせず、自分の言うことを待っている。
「ほんとうは、こういう施設は無い方が良いと思っています。親の愛情をないがしろにされてしまう子はかわいそうだから。でも、一緒に過ごすみんながいる。育ててくれる人がいる。あたらしく迎えてくれる家庭がある。......ここは子どもが成長する舞台なんだと思います」
養護施設は養成所みたいなものだ。
家庭で生まれた子を主役とするならば、決して交わることのない役を演じるのかもしれない。役名だってもらえないかもしれない。
けれども、育てられるという意味では大差がない。
名前だって授かる。学校にだって行ける。そしたら分け隔てなく遊んで学んでいけばいい。
きっと瞬きだって忘れて夢中になっている。
役者はいつだって練習をしている。舞台に立つために、いつか主役になるために。
人生に光と影があったって、生きていくうえでの瞬間たちは、どれも宝物だ。
栞だって、立派に成長したのだから。
<ひだまりのいえ>があったこそ、僕は生きてきた。誰だって巡り合う。あたたかい家庭と、愛する人と。
この先も、ずっと生きていける。
「私ね、ずっと考えていることってあるの。......みんな、わがままなのよ」
わがまま。
意外な単語が出てきて、少し驚いた。
「もちろん人様に迷惑をかけるのはいけないこと。別れた夫なんてもう論外だけどね」
朝比奈さんは少し苦笑いをした。彼女のいきさつなんて聞いたことがなかったから少し気になった。けれども、なんだかこの場にそぐわないような気がして、聞くのは止めにした。
真意だけを知りたかった。
「みんな生まれてきたってだけでその資格があるのよ。子どもたちはどんどん育っていく。色んな言葉を覚えて、色んな遊びを知っていく。そして、最後にはやりたいことを見つけるの」
彼女の言葉を聞いて、とても実感した。
バレエにテニスに、そして医者になるのもそう。生きていくうえで、将来を見つけるのは幸せなことだ。きっと、生きていくことが、わがままなんだから。
「自分の力で生きていく、自分の愛する人と出会う。きみたちには親御さんから離れてしまったけれど、その分素晴らしい出会いがあったじゃない。私だってそう、夫なんてただの通過点だっただけ。あの子のことを忘れることは、きっとないわ」
きっと、彼女にとっても素晴らしい出会いだったのだろう。
・・・
朝比奈さんは、いったん席を外して戻ってきた。
その手にはノートの束があった。見覚えのあるもの、栞が書いていた日記だった。
「朝ね、彼女が戻って来たときに、これを渡してほしいって頼んできたわ。"光希くんがいつか来ますから"って言われて、さすがに私も驚いたけれど」
ほんとうに栞は周りを驚かせる。
「そしたら今日のうちに貴方が来た。偶然かもしれないけれど、あの子が手招きしてくれてたのね」
自分もそうだと思っている。決して再会できなかったけれど、栞が手を鳴らしてくれたんじゃないかという実感があった。
微笑んだ朝比奈さんの表情は、どこか栞と近いものを感じた。最後にひとつだけ言葉を添えてくれた。
――あなたたちはもう通じ合っているのね。大事な人だって。
<ひだまりのいえ>を後にした。
施設は何ひとつ変わっていなかった。陽射しの降り注ぐ庭も、片付けのままならない遊び道具も。そして、背比べをしようとして柱に付けた傷も。けっきょく、今でも栞の身長の方がわずかに高かった。
大切な箱庭はいつまでも存在してほしい。
また自転車を走らせる。今度は家の方へ。


