朝起きたら、栞がいなくなっていた。
 
 昨日は僕の肩に寄り添うように寝ていたのに、まるで嘘のようだった。
 まさにもぬけの殻という表現がぴったりと合っていた。
 旅館の従業員も目を丸くしていた。
 でもそれは、彼女がいなくなったことではなかった。自分が探しているということだった。
 話を聞くと、どうやら旅館が朝の準備をし出す時間帯に彼女も起きてきて、ていねいに頭を下げたという。そのまま出ていったそうだ。
 女将さんはあの子と一緒じゃなくていいのと聞いた。
 彼女はそれでいいんですと言った。
 とても心配したそうだけど、客の詮索なんてできないから仕方ないだろう。急きょ泊まることになった自分たちだからなおさらなのかもしれない。
 自分も荷物をまとめると、感謝もそこそこにお暇するしかなかった。
 
 どうして出て行ってしまったのだろう。
 どうしてこういうことになってしまったのだろう。
 
 またしても自分を責めたくなる。
 昨日の出来事をひとつひとつ思い出してみる。
 カフェで彼女のことを見たからだろうか。
 クローバーを探したからだろうか。
 旅館で伝えあったからだろうか。
 何かを伝えてしまったからだろうか。もしくは、何かを伝えていなかったのだろうか。
 交わした言葉を掬ってみても、どれも手のひらから流れる砂のようだった。
 さまざまなことを考えるけれど、どれもこれも生まれては消えていく。
 颯爽とした風に吹かれて飛んでいく。
 まるで、彼女の存在がそうであるかのように。
 
 陽炎が揺れる。
 幾千の暑い日差しが心に突き刺さる。
 溶けて消えてしまいそうだった。街並みも、カフェも。あのキスでさえも。
 どこに行けばいいかなんて分からない。
 だれともすれ違わない道を、ただひとり進んでいく。
 行き着く先は、どこにもなかった。
 
 旅館のテーブルでゆれる四つ葉のクローバー。それだけが脳裏に焼き付いていた。

 ・・・

 思わず自転車を止めた。
 走っている車が見えたからだ。ずっと視界の先の方だけど、これで今いる場所が分かった。
 ......あ。
 スマートフォンを使えば現在地が分かるというのに、まったくもって気づかなかった。文明の利器を使いこなしてないことに可笑しくて笑ってしまう。
 朝からほんとうに無我夢中だった。
 そこまで進んでみると、なるほどこの辺りのいちばん大きな公道だった。昨日自転車で走っていたのも、車で送ってもらったのもこの道なのだろう。
 スマートフォンと照らし合わせて、やっと旅館と公道の位置関係が分かった。だいぶ離れたところだと理解する。相変わらずカフェやクローバーのあった場所は分からなかった。
 辺りを見渡してみる。
 相変わらず目立つものがない景色だなと思いつつも、うっすらと記憶を思い出していく。
 安心する。ああ、こっちに行けばいいんだと。
 またしても自転車を走らせた。
 
 それからしばらくして、あるところにたどり着いた。
 ベンチだ。
 倒れた栞を抱えて横にさせていた場所。
 そして、すぐ近くにはクローバーが群がっている。
 昨日と同じだった。
 健気に葉を広げて揺れている姿が。あたり一面に日差しが降り注ぐ景色が。
 けれども、彼女はいなかった。
 ただ絵画か写真を見ているだけ。そんな殺風景なものを感じてしまう。
 夢中になって四つ葉のクローバーを探した。
 笑った顔を見せてくれた。
 また踊りたいと希望を見せてくれた。
 なぜか結婚のことが脳裏に浮かんだ。
 そう、はじめて彼女のことを意識した場所だった。
 ――彼女のことをもっと知りたかった。
 
 ぼうっとしていても仕方がない。
 またしても歩き出す。
 自転車に乗らなかったのはもう分かっていて、ここからは登り坂だからだ。
 この坂の向かいから、栞と二人乗りして下ってきた。
 もちろん車なんて来なかったから、かまわずふたりしてはしゃいだ。
 はじめて彼女が高校生だと知った。
 はじめてバレエのことを教えてくれた。
 はじめてテニスのことを打ち明けた。
 初々しさとこれからはじまる出来事の期待を胸にしていた場所だった。
 いざ坂道を目にすると、現実を突きつけられる。
 かなり急な傾斜がついていて、まるで高い壁のように感じる。
 必死に乗り越えたら、彼女に会えるだろうか。
 登り坂を超えて、下り坂を抜けて。
 見覚えのある建物にたどり着いた。灯台のようなカフェだ。
 店員の視線を痛いほど感じつつ、注文したコーヒーを片手に二階に行く。
 螺旋階段を登った。
 何があるんだろうと期待した。
 舞台の上に立つ天使がいた。
 ――その美しさを追い求めていた。

 ・・・

 すべて、嘘のような出来事だと思ってしまう。
 昨日はたしかに居たのに。
 出会って会話して、色んなところに行ったのに。
 愛を誓いあったはずなのに。
 
 窓の向こうでカモメが飛んで行った。
 ほんとうに鳥になったとでもいうのだろうか。ここから手を伸ばして、捕まえられるんじゃないかと期待をしてしまう。もちろん、窓から飛び出してしまったら問題だ。そんなことも考えられない一瞬があった。
 飛ぶ鳥跡を濁さず、ということわざがある。
 鳥が飛び立ったあとの水面は、決して濁ってしまうわけではなく清く澄んでいる。その美しさが転じて、人間同士であっても奥ゆかしい印象を残すようにしてきた。人が立ち去って別れたあとも、見苦しくないように心がけようと。
 それなのに、僕の心にはくっきりとした跡が残っていた。
 せめて、さよならの言葉すらあるべきではないのだろうか。
 そうだとしても、彼女の意思を感じた。だから、こうやって旅路をさかのぼってきた。思い出を拾い上げてきた。
 こんなの、ドラマの中だけだと思っていた。
 もう何も考えられなかった。ここまで来て思うことはただひとつ。
 ――僕たちが出会ってしまったから、いなくなったんだ。
 
 実のところは家路についてもよかったけれど、どうしてもできなかった。
 心のどこかで探していたんだ。
 彼女の姿を、別れた原因を。そして、泣いた理由を。
 どうして泣いてしまうのだろう。
 どうしてつれない素振りをしてしまうのだろう。
 僕には分からないことばかりだ。
 彼女の悲しみを受け止めたかった。
 施設から引き取られていないことを教えてくれた。帰宅したら彼女のことを話し合おう。
 親に代わる愛を欲しがっていた。僕が照らしてあげられたらと思う。
 もっとたくさん、彼女のことを背負っていけたら......。
 
 ひとつだけ、不思議な体験をした。
 幻覚を見たんだ。
 このカフェではじめて手をつないだときもそうだった。
 白く輝く空間の中で、僕は小さい子どもたちを遠巻きに見ていた。
 ふたりは一面にシロツメクサが咲いている庭で遊んでいた。草花を結んでは王冠を作って、女の子が男の子の頭の上に載せていた。
 そのほかにも色んな会話をしていた。ふたりだけの楽園で、無邪気な表情を見せていた。
 その最中、女の子が口にしていたんだ。――ありがとうね、光希くん。と。
 彼女が栞だった。
 つまり、僕は幼少の頃のふたりを見ていたんだ。
 最初のころはなんとも考えなかった。ただの白昼夢くらいにしか思っていなかった。
 ......これから起こる出来事の予兆につながるなんて、知る由もなかった。
 あの庭は昨日クローバーを探した場所や、<ひだまりのいえ>のことだったのだろう。
 だから、知りたいんだ。知るまで帰れないと思っているんだ。
 栞と、紗希子とのつながりを。
 
 次に幻覚を見たのは、キスのときだった。
 
 ◇◇◇

 また、白い空間の中にいた。
 何の音も聞こえるわけでもなく、何もない空間がここにはあった。おまけにどこを向いても人の姿はなく、僕はこの中にひとりポツンと立っている。
 前と同じ光景だった。
 
 ここから歩いて行こう。
 なにか見られるかもしれない。だれかと出会うかもしれない。
 そんな期待を胸に秘めて、ゆっくりと歩を進めていく。
 
 ......このときは、予兆とは気づいていなかった。
 
 しばらく経ったときだった。白い空間が色づいてきた。
 紙の上にインクを落とすように、一滴ずつ色が増えていく。やがて、さまざまな彩りが添えられて、景色が作られていく。
 シロツメクサの庭よりもとてもカラフルで、くっきりとした光景だった。
 ゆっくりと流れるものがあった。小川だろうか。
 その縁には土手があった。
 土手の上に座る人影があるのが分かった。
 その中に一人、髪の長い姿があった。彼女が栞だ。
 それ以外にふたりの女の子がいた。そのうちのひとりは、こちらに背中を向けているので、顔が分からない。
 会話は聞こえてこないけれど、和気あいあいとした雰囲気を感じる。
 見ているこちらも和んでしまう。
 そのまましばらく、遠くから彼女たちのことを眺めていた。
 
 やがて、栞が立ち上がった。
 隣に座っている子も合わせて立ち上がる。その姿を見て僕はおどろいた。
 ......なんと、姉だったのだ。
 栞の口から姉のことなんてひとつも聞いたことはなかった。けれども、もしかしたら会っていたのかもしれない。
 何が起こっているのだろう。声をかけたいけれど、ここからは見つめることしかできない。どれだけ言葉を口にしても、ミュートの中の世界では、これっぽちも送ることができなかった。
 ......動機が抑えきれない。この先に、どんな出来事が待っているのだろう。
 しばらく彼女たちのことを見つめていた。
 ......すぐに、決定的な瞬間が待ち構えていた。
 栞が、その場に倒れ込んだ。
 足を滑らせたのだろうか。いや、そうじゃない。姉が、腕を伸ばしていた。
 まるで栞のことを突き飛ばしているみたいだった。その出来事に、僕は目を丸くしてしまっていた。
 紗希子のことを睨む栞。彼女のことをただ見下ろすだけの紗希子。
 何が起きているのか、まったく分からなかった。
 ......僕がみんなのところに駆けて行って、話を聞いてあげられたらよかったのに。
 
 ここで、幻覚が消えた。

 ◇◇◇

 うっすらと涙を流していた。
 とても虚しかった。
 栞が足を悪くした何かがあったとしたら。
 姉が何か関わっていたとしたら。
 ......知るのが怖かった。けれども、知らないといけないことなのだろう。
 
 カフェを出た。
 行くべきところは、もう分かっていた。