わたしの瞳はゆれていた。
 街道を歩いているのに、まっすぐに歩く方向を向いているのに。
 街並みを見つめる瞳はどこにもピントを合わせることができずに、どの風景も無意識のうちに流れていく。
 わたしは、夢中で歩いていく。
 昨日からの疲れが押し寄せるのを感じる。
 遠いところまで歩いていかないといけない。がんばって自分の身体を支えていかないといけない。
 今日も、これからの人生も。
 
 こんな時間帯に歩く人なんて、ひとりもいなかった。
 わたしだけがこの空間の中にぽつんといる。景色の中に混じっては、溶け込んで消えてしまいそうだった。
 だれも見ていないなら、わたしの存在意義なんて意味がないんだ。
 夜はいつの間にか更けて、少しずつ空の色が変わってくる。
 夜空を黒というなら、朝は朱色なんだ。朝日が登るまぶしい様子を日本古来の粋な考えで例えたものだという。
 まだ日の出は迎えていないみたい。
 それでも、黒一色ではなくて、たくさんの色が散りばめられているのが分かる。少し足を止めて空を見上げてみた。
 あれは黒だ、いや青かもしれない。あそこには赤がある。
 空の様子を見ているのは、まったく飽きることはなかった。
 
 遠い先のところにある民家の灯りがついたようだ。
 何をしている一家だろうか。まったく知らない家庭だけど少し気になった。
 そこにどんな人が暮らしているのでしょうか。
 そこにどんな夢が育まれているのでしょうか。
 想像してしまうときがある。期待してしまうときがある。何気ない生活というものを。
 わたしには、なにもなかったから。
 自分のことを授かった女性(ひと)がいたことくらいは、分かっているつもりなのに。
 理解することを拒んできた。
 ないものねだりだと自覚していたのに、嘆いてばかりの日々を送ってきた。
 
 そんな日々を過ごしていたら、光希くんが現れた。
 
 家族になろうよと、きみは言った。
 足を治したいと、きみは言った。
 とても嬉しかった。頑なに閉ざしていた心の扉を、開いてくれた。
 きみの手を握ったら、やっと伝えることができた。はじめて境遇を口にすることができた。
 ......愛する人の前だから、できたんだ。
 ひだまりのあたたかさは失うけれど、きみとずっと一緒にいることができる。きみの家庭ならとても楽しいんだと感じられる。
 永遠と、いつまでも。

 ・・・

 むらさきに染まる雲あり。
 紫陽花という漢字は、明け方に染まる空から生まれたらしい。国語の授業にあったという雑談を、人伝いで教えてもらったことがあった。
 栞の髪のようすだね、と言っていた人がいた。
 そんなこともあったなあ。でも、なつかしさのひとつも感じたくなかった。
 遠い昔の思い出をよみがえらせては、すぐに追い払う。必死に忘れようとしていた記憶たちは無情というものでしかなかった。その中には、あこがれも裏切りもあった。
 昨晩あんなに願った想いが、こんなにも壊れてしまうなんて......。
 ――思い出したのは、紗希子のおもかげ。
 
 暮らし合っている人々は、どんどん姿を変えていく。
 海風で彩られたこの街は消えない。けれども、生活のひとつがこれから消える。
 
 わたしは、また歩き出す。
 頭の頂点に手をかけてリボンに触れてみる。
 ......ゆっくりと、ポニーテールをほどいた。