愛情にはさまざまな形があるのだろう。
 毎日学校に行くことができるのも。部活に熱中できるのも。
 一日のしめくくりに食卓を囲むのも。
 過ぎ去っていく日々の中で、決して見ることのできないもの。口にすることはなくても、その中に眠っているもの。
 施設の子どもたちと一緒に過ごした。
 施設のスタッフが仕事を超えて世話をしてくれた。
 僕たちはちょっと変わったことを体験してしまったけれど、行き着くところは同じはずだ。
 受けた環境なんてちがいはないと思っていたのに。
 期待していれば良かったのに。
 これから栞があたらしい家庭に引き取られるなら、それで......。
 
 握る手に力が込められたのが分かった。
「............光希くん」
 絆された。右手から伝わる熱に、彼女の想いに。
 思わず緊張してしまう。震え出しそうになるのを必死に耐えた。熱は身体中を巡って、心に触れる。彼女の意思が伝わる。
 気づいてしまった。気づきたくなかった。
 彼女には欠如しているものがあった。
 ほんとうは受け入れられるべきだったのに、差し伸べた手からはどんな熱も感じられなかった。
 自分もいつの間にか失っていた。
 姉がすべてを、連れ去ってしまった。残されたものは、こんなにも寂しかった。
 僕たちが持っているもの。心のいちばん奥深くに眠っているもの。
 根底にあるはずだったものは、いつの間にかヒビが入りところどころ欠けてしまっていた。
 いち早く、心の傷を埋めたかった。
 
 ――愛を受けられない子どもは、こんなにもかわいそうだった。
 
 ほんとうは気づいていたんだ。
 感じていたのに、見ないようにしていた。顔を背けていた。
 健気な表情を作って、日々を送るだけの人生だった。
 目の前の人物が、気づかせてくれた。
 見つめ合うことができたから、僕は自分の気持ちに正直になることができた。
「......栞、会えて嬉しいよ」
「......わたしもだよ」
 僕たちは、欲しがった。
 突然の雨に降られたあとに包んでくれるタオルのよう。あのぬくもりを、あたたかさを。――そして、心が安らぐ気持ちを。
 僕たちは、悲しみを分け合った。
 僕たちは、神様に祈りをささげた。
 願い事はきっと同じ。ふたりして思うことはお揃いだ。
「......このまま、こうしていたいね」
 ぜったいに無理だと分かっているのに。
 贅沢なわがままだと知っているのに。
 出会ってしまったら、同じことばかりを願ってしまう。一生今日が続けばいいなと思ってしまう。
 ――お互いが、引き取られなければいいのに。
 <ひだまりのいえ>で顔を合わせていれたらよかった。鳥かごの中に、ずっと入っていればよかった。
 永遠と一緒に暮らすことができるから。
 それが何事にも代えることのできないもの。僕たちだけの愛情。
「色んな絵本を読んだよね」
「そうだね」
「たくさんお絵かきしたよね」
「そうだね」
 ふたりの出来事の軌跡を追っていく。そのひとつひとつがどれも愛おしい。
「一緒に学校に行けたら、楽しかったかな?」
「そうだね」
 手をつないでは一緒に登校して、道端に咲いている花や空に目を輝かせて。
 毎日の出来事を話し合って。
 きっと、その日々は宝物になっただろう。
 
 栞は少し思いついたように告げる。
「そっか。小学校に行けてたら、放課後にテニスをする光希くんを見れたんだなあ」
 毎日見ていたいなんて言うものだから、ちょっと恥ずかしい。けれども、期待してしまう自分もいた。
「それを言ったら、バレエの練習をする栞も見てみたいな」
「......練習しない人は教室に入れないよ? 校庭の隅に座るのとちがうんだから」
 彼女はほんとうに放課後の間しゃがんで見ていそうだった。思わず苦笑いをするけれど、その不思議さが心地よかった。
「......じゃあ、バレエで持ち上げるのやってみたい」
「リフトするの? わたしを?」
「うん、だめかな?」
 バレエの公演の中で、男性のバレエダンサーがヒロインを持ち上げるシーンがある。
 演者は大変な苦労が必要だという。男性には十分な腕力が必要とされ、対して女性には徹底して痩せた体型を維持しつづけなければならない。
 とはいえ、とても映える場面であることは間違いないだろう。
 自分にその資格があるかどうかなんて分からない。
 だけども、やってみたかった。自分がリフトしないと意味が無いと思った。彼女の足が悪くても、ふたたびバレリーナの衣装に身を包んでくれるなら。
 そうすれば、栞はまた輝きを見せるのだから。
 一緒に生まれ変わりたい。
 昨日までを忘れて、あたらしい僕たちを歩いていきたい。
 だから、愛することをためらわなかった。
 
 嬉しいなあと語る彼女に、僕は告げる。
「......一緒に暮らせたらいいなって思ってた」
「......わたしもだよ」
 でも、そんなことできるの? 彼女は瞳をぱちぱちと閉じては開いている。
「家に帰って、きみのことを話したいんだ。せめて一緒に暮らせないか、親に伝えてみたい」
 養護施設から子どもを引き取るにはたくさんの条件がいる。
 定期的で十分な収入があること、そして子どもへの愛情があること。その他もろもろ、自分の知らないこともたくさんある。
 夏川家にどれくらいのものがあるかは知らないけれど、きっとできるんじゃないかと思っている。
 ほんとうはできるかなんて分からない。
 実現できるかなんて分からない。
 けれども、僕は期待を寄せてしまう。
 彼女の願いを、僕の手で叶えてあげたい。いつしかそう願っていた。そのことに自分は今、気づくことができた。
 自分の頭で今の発言を理解できていなくても、絵空事を話していても。
 未来に向けた物事を口にするのは自由なんだから。
「......家に来れば、足だって治せるよ」
「そっか、そうだねえ」
 栞は少し顔を背けた。その表情にはわずかな寂しさを感じられた。
 何があったんだろう。僕の方も、わずかな不安を感じる。
「いやだなって思ったの」
 彼女の顔を伺ってみる。
 しばし経ってからあたらしい表情を見せてくれたのが、とても嬉しかった。しっかりと見つめてくれたから。悲しみの中に、希望を感じられたから。
「わたしね、いやだよ......。足を治してくれるのは、誰でもいいんじゃなくて、きみがいい」
「......そう、ありがとう」
 生まれてはじめて、自分が医者になることを夢見ることができた。
「また歩いて行こうよ。だから、わたしの分まで生きてとか言わないで」
「......そうだね」
 ずっと、ウェディングドレスを着た彼女のことを見たいと思っていた。
 タキシードを着るのは自分がいいと思ったこともあった。
 けれども、どれもがちがっていた。
 一緒に暮らしたいことには変わりはない。ただ、普通の家庭の中で過ごしたいんだ。
「光希くんのおうちに行ったら、わたしはきみのお姉ちゃんになるのかな?」
「そりゃ年上だからね」
「でも、あとから来るんだから妹になるんじゃないの?」
 つい笑ってしまった。それは実におかしい。年上の妹なんて、どう説明すればいいか分からなかった。
「......そっか、わたしってつい」
 栞は思いついたことを口にしちゃったと、軽く頭を下げてくる。
 ......思わずはっとする。
 もう鼻が付きそうな距離だった。そんな距離のまま、ふたりずっと話していた。
 見つめる。
 お互いの視線が交わって、互いにリフレインする。
 瞳の光彩まで輝いているのが分かる。まるでほんものの宝石のようだった。
 頬に朱色が添えられていく。
 
 不思議と波音は聞こえなくなった。――吐息だけが、この部屋を包み込む。
 
 握っていた手をほどいた。
 けれども、また触れる。指の先端を触れ合って、くくりつけた。恋人つなぎをした。
 あの日に分け合ったリボンをまた持ち寄って、再び結うみたいに。
 伏し目がちのまま、栞は告げる。
「......じゃあ、このペンダントをくれたときのことも覚えてるの?」
「もちろん」
 それは、決して忘れることのできない思い出。

 ・・・

 ......どちらともなく、お互いの名前を呼んだ。
 意思を確かめ合った。願い事だって一緒だから、こんなことに意味なんてないけれど。
 キスをした。
 これまでに味わったことのない美しさを感じた。
 得も言われぬあたたかさが全身を包み込んでくれた。
 他の誰かじゃだめだと思った。こんなことをしたくないと思った。
 ――栞だから、こんな気持ちにさせてくれるんだ。
 
 愛って不思議だなと思う。
 宇宙の中に地球が誕生して、その中に人類が誕生した。
 星が瞬く間に、どれだけの人生が輝いたのだろう。
 巡り合う運命なんて、どれだけ小さくて希少なんだろう。
 そんな世界の中を僕たちは生きてきた。人類はずっとお互いを愛してきた。
 古くから続く歴史の中で、人を愛する姿はずっと変わらずに受け継がれている。まるで地中に眠る鉱物のよう。
 鉱物を磨くと宝石になる。
 宝石は人々を美しく引き立てる。
 人の愛は、だれにも等しく美しいものだと思っていた......。

 ・・・

 月がまた一段と下がっていく。
 少しずつ雲が月を隠していった。これからも夜が進んでいき、次第に朝を迎える。
 明日があるとしても、ひとつだけ恐れていることがあった。
 ......あるべきところへ帰らないといけない。
 僕は家庭に、彼女は施設に。
 好きだった。巡り会えたときからずっと。
 伝えたいのに、どれだけ伝えても足りなかった。どこかで別れを考えてしまうから、口にできなかった。
 
 栞が、ああそうだとつぶやいた。
「せめてさ、お姉さんのことを教えてよ。名前くらいはさ」
 ――なんで。
 ――いいじゃない。
 ()希子(きこ)の名前を出した。ただ、自然としたふるまいで。
 栞は真顔になったかと思いきや、その場で固まってしまった。目はうつろで、どこを向いているのすら僕には分からなかった。
 狐につままれた顔というのは、こういうことを言うのだろう。
 次第に、涙が流れだしていた。
「わたし、どうしたの? ......泣いているの?」
 思いもよらないことが起きていて、彼女自身も何も分からないのだろう。あわてて彼女の肩を掴んで揺らすけれど、自分の行いなんて意味がなかった。
「おかしいなあ。なんで、わたし......」
 ......なんで、なんで止まらないの。両手で顔を押さえた栞は、その場に泣き崩れた。
 どうして泣いてしまうのだろう。
 どうしてつれない素振りをしてしまうのだろう。
 僕には分からないことばかりだ。
 でも、できることがひとつだけあった。彼女を抱きしめてあげよう。あたたかさが、今、必要だから。
 
 どれくらいそうしていただろう。
 栞はゆっくりと顔を上げた。涙は止まったのに、涙の跡がくっきりと残っていた。
 ――よかった、だいじょうぶ?
 こう声をかけたにもかかわらず、彼女はかぶりを振った。
 瞳を閉じて、くちびるを震わせた。
「きみは今、しあわせ?」
 もちろん。当たり前じゃないか、カフェで出会って、一緒にクローバーを探して。もっと、やりたいことだってあるのだから。
「今日一日、楽しかったよ......」
 栞はこうつぶやいて、眠りについた。

 安堵した僕も、次第に瞳を閉じてくる。
 お互いに、明日がきますように。

 ペンダントが揺れた。
 彼女が首に下げている宝石は、もちろんイミテーションだけど、その美しさはほんものと大差なかった。
 僕たちは、エメラルドの秘密に囲まれて生きている。
 希少価値の高い宝石は、僕たちの数奇的な出会いのよう。
 緑色に輝く光は、僕たちが感じる深い愛のよう。
 しかしながら、知らなかった。すぐに亀裂が入ってしまう宝石だということを......。

 ・・・

 朝を迎えた。
 そよ風がカーテンを揺らし、気持ちの良い目覚めだなと感じる。
 しかし、どこか冷たさを感じた。心を撫でては現実を突きつけてくる。
 ......あたりを見渡して、小さい声を漏らす。
 僕にはそれしかできなかった。
 
 栞がいなくなっていた。