栞は何を言ったのだろうか。
 最初のときは、まったく理解できなかった。耳はたしかに聞こえていたのに、脳が理解することを拒んでいた。
 わたしの分までと、彼女は言った。
 生きていてほしいと、彼女は言った。
 なんで、そういうことを口にするのだろう。
 
 ずっと、ずっと、思っていた。
 彼女の話を聞いてあげようと。彼女のことを知りたいと。
 すぐ目の前には栞の姿がある。まっすぐに見つめる瞳がある。膝が触れそうな距離だ。
 手を伸ばせば、彼女の体に触れられる。心の扉だって開けられる。
 それなのに......。
 彼女を見つめてしまうと、心が締め付けられる。目を背けたくなる。
 もう逃げるのは嫌だった。
 振り返りたくなるのを我慢した。足を踏ん張って、身体を心をこの場にしばりつけた。
 扉を開く鍵を、僕は握りしめた。
 どうして? そう聞き返すのがいちばんシンプルなやり方だろう。
 考えた、もっと別のことを。
 鏡に問うだけじゃいけない気がした。ただ知りたい答えだけを聞きたくなかった。
 ......人生というものが、綴られていたとしたら。
 一冊の本だったなら、日記だったなら。
 僕はそれを読みたいと思った。
 
 彼女の瞳を見つめ返した。
 ゆれていたものが、わずかに止まった。
 なあに、と問いかけてきたのが分かった。
 はっきりと聞き取れるように、僕はひとつの質問をする。
「きみのことを教えて」
 人生なんて壮大なストーリーでなくてもいいから。
 産んでくれた親でも、引き取ってくれた親でもかまわないから。
 栞が口にした言葉を読み続けていこう。最初のページに書かれている文章から、ひとつひとつ。

 ・・・

「......わたしは」
 栞はそう言ったきり、口を閉ざした。
 彼女の瞳が、肩が震えているのが分かった。緊張しているのが分かった。
 無理はしないでほしい。養護施設に来る子には色んな原因があるのだから、言いづらいこともあると思う。
 ゆっくりでいいから。
 しゃべれることだけでいいから。
 僕はそう告げた。
 遠くから潮騒が聞こえる。まるで電話の保留ボタンが押されたように、永遠と長かった。
 それでかまわなかった。ずっと待っていようと思っているから。
 それからどれくらい経っただろうか。
 
 彼女の手のひらに、手を添えようと思った。それで、安心して話せるなら。
「............」
 彼女が息を吸って、吐いた。
 深呼吸の音すら聞こえそうな静寂がこの部屋を包み込む。
「......わたしは」
 栞が口を開いてくれた。
 続きを話してくれるのを待っていた。どんな理由でもいい、どんな原因があったっていい。僕は、彼女のどんな話だって受け止めるつもりだ。
 けれども、両手で抱えきれないものだとは想像できなかった。
 ふとあたたかいものを感じた。
 栞が僕の手に触れる。手を握ってくる。
 ――どうしたの?
 ――こうでもしないと、しゃべれないから。
 お互いに見つめ合った。テレパシーを通じ合わせた。
 彼女が息を吸い込んだ。
 思わずこちらも息を飲む。
 栞が語りだすようすは、まるでスローモーションのように思えた。
「......いなかった」
 どういうことだろう。思わず聞き返してしまう。
「......産んでくれた人なんていなかった。愛してくれた人なんていなかった」
 赤子は両親からしか生まれない。
 意中の人と出会って結婚して、そして出産をしてこそ世に誕生する存在。何百とも何万ともいう確率の中で、ひとつの命が選ばれる。
 愛の結晶は、愛でられるから尊いんだ。
 ......ほんとうにそうだろうか?
 今でこそ分かる。養護施設に来た子たちにはいろんな原因があることを。
 ずっと聞いてはいけないと思っていた。
 あたたかく迎え入れてあげようと思っていた。
 子どもたちの心の傷に触れてはいけないと、どこかで理解していたから。
 僕ははじめて、禁忌をやぶる。
「産んでくれた両親は事故かなにかだったの?」
 栞は首を横に振った。
「それとも病気だったの?」
 またしても首を横に振った。
「ないと思うけど、手を上げたりされたの?」
 これもまた首を横に振った。
 ......彼女は、言うことすべてにちがうと言った。
 どれだけたくさんのサーブを打っても、的に当たらない。
 すぐ近くにあると思っていた答えが、かすんで消えてしまう。
 これ以上、養護施設に引き取られる原因なんて、思いつきもしなかった。
 怖くなった。
 考えれば考えるほど、感じられなくなっていく。
 彼女が受けられるはずだった親の愛を。
 考えれば考えるほど、目に浮かぶようになっていく。
 慌てて奔放する施設のスタッフを。
 
 思いついたことを言いたかった。でも、どう切り出せばよいか分からない。迷っているうちに、彼女自身が教えてくれた。
「......わたしは、施設に置き去りにされたの」
 彼女はここまで言うと、緊張を出し切るように一息ついた。
 青白い顔から、青い吐息が出ていそうだった。
 栞の告白は、とても重かった。

 ・・・

 いつだって栞の言うことは、僕の心に刺さる。
 しかしながら、この矢は深いところまで刺さってはなかなか抜くことができなかった。恐る恐る、オウム返しに聞くしか考えられなかった。
「......ほんとうに言っているの?」
 栞はなにも言わなかった。けれども、ゆっくり首を縦に降った。
 その反応だけで十分だった。
 これ以上どんな言葉も必要なかった。
 育児放棄。
 今になってさまざまなニュースで報じられるようになってきた。
 たいていは乳児を置いてどこかに外出して放置してしまう場合がほとんどだという。育児できる能力がないと親が判断されてしまえば、子どもは施設に送られる。
 いわば引きはがされるようなものだ。
 それなのに、ここには明らかな故意があった。
 ゆりかごごと置いていくなんて考えもしなかった。こんな出来事はどこにも実在しないと思っていた。ドラマの中でしかありえないものだと思っていた。
 受け止めようとしていたものは重すぎた。慌てて落としそうになるところを、何とか抱えている。ふらつきながら、立っている。
「なにか、メッセージとかなかったの? ほら、置き手紙とか」
「何もないって、スタッフさんが言ってた。あと、わたしのことを探してくれたみたいだけど、どれもだめだった......」
 やるせなかった。
 栞は<ひだまりのいえ>で瞳をひらいたのかもしれない。
 ひな鳥が最初に見たものを育ててくれる存在と認識するように、スタッフの顔を意識する。施設という場所を理解していく。
 朝比奈 栞という名前を与えられた。
 スタッフの背中をどこまでもついていく。
 やがて、ひとりで過ごせるようになる。
 色んな子たちと出会った。その輪の中に僕もいた。
 学校にも行かせてもらえた。そこでは、さらに多くの出会いがあったはずだ。
 こんなに成長したんだ。
 これまでも、そしてこれからも。
「わたし、きみがうらやましかった。きちんと引き取ってもらえて、家庭に入れてもらえて」
 鳥になりたいと彼女は言った。
 大きくなっても、鳥かごの中に居るんじゃ意味がない。扉を開けてもらっても、ようすをうかがうだけじゃ飛び立てない。
 手のひらを添えてくれる存在がいるから、外に出られるんだ。
 
 彼女の瞳は何を映してきたのだろう。
 彼女は何を思っていたのだろう。
 
 伝えようとした言葉を飲み込んだ。
 それでよかったんだと思う。聞き出すのも口にするのも、ここには要らない気がした。
 無言のやさしさが、彼女には大切だから。
 ......いつか、栞の番だって訪れる。