少しだけ月の位置が動いただろうか。
 あれからどれくらいの時間が経ったのかは意識していなかった。もう寝るのなんて諦めていた。
 そう、僕たちはまだまだ話し足りない。
「わたし、きみが引き取られたって言ったとき、勝手に親戚だとか思ってたよ。よく考えたら、<ひだまりのいえ>に居たんだもんね、自分だって」
 実は、ベンチにいたときに話してしまった方が良かったのだ。まったく気づくことはなかった。誤った選択をしたことに、苦笑してしまった。
 自分に親戚がいなかったように、栞も同じものだと思っている。事故なり病気なり、施設に預けられる子ならどこにでもありそうな理由なのだろう。
 栞は自分のことなんてお構いなしに、どんどん質問をくりかえしてくる。きっと、素の彼女はこうなのかもしれない。話を聞くより話す方が好きなのだろう。
「それで、あたらしいおうちってどういうところなの? お医者さんって言ってたけど」
「うん。そんなに大きなさ、ドラマに出て聞くるような病院じゃないけど。街の中じゃそこそこ有名だよ」
 そうなんだね、と栞は合いの手を入れる。
「でも、お医者さんの仕事って大変だよね」
 毎日遅くまで仕事をしている。いつもそういった印象しか持てなかった。
 もちろん休みの日がある訳ではなく、家族での団らんといったものがあまりなかった。
 仕事をしている両親はまるで別人みたいだった。近づいてはいけない、幼いながらにそう理解した。
 夕食は母親が用意してくれることもあったが、姉とふたりで食べるだけ。点けているテレビ番組を楽しむ雰囲気もなく、そそくさと食べてはすぐ食器を片付けた。
 どこかに行きたいと言えば、近くの公園に散歩に連れて行ってくれる程度だった。夏休みになると旅行に行くと言っていたクラスメイトがうらやましかった。
 いつか一回だけ、海に行こうかという話題が出たが、仕事が手放せないのでなくなってしまった。
 せめて自分の楽しみがほしいと、天気の良い日は暗くなるまで遊んでいたことがあった。
 慌てて帰宅した自分が恐る恐るドアを開けたら、姉が腰に手を置いては玄関で待ち構えていた。その場でたくさん叱られた。
 そう、紗希子はいつでも親代わり。
「お姉さんがいたんだね」
 栞は僕の言うことを頷きながら聞いていた。
「そうだよ。いろいろと面倒を見てくれたけど、小言が多かったから大変だったよ」
 苦笑交じりに説明していった。
 ひとつ何かをしようとすると、姉のするどいチェックを受けてきた。
 学校から帰ったらまず手を洗いなさい、と。
 まとめて洗うから洗濯物をバケツに入れなさい、と。
 すぐに宿題を終わらせなさい、と。
 自分が動こうと思っていたタイミングで言われたことも多かった。そうやって文句を言うと、じゃあはやくやりなさいなどと謎のお叱りを受けるので、それはそれで厄介だった。
 世話焼きなのは分かっている。親が面倒を見れない分、度が過ぎるのだ。
 強気でわがままな姉だけど、嫌いになることはなかった。
 公園で彼女のグループに入れてくれたのも、たまに家族で夕食を囲むときに彼女から話題を出してくれたのも、とても感謝している。
 自分がこの家に馴染めるかを心配して、家庭での雰囲気をよく見つめていたのだろう。
 いつか姉が言ったことがあった。部活に入れてくれたからには結果で返しなさい、と。
 あまり学校生活について話題に出さない両親であっても、部活だけは別だった。むしろどこか決めたのかと聞いてくるくらいだった。
 親を継ぐべきだと感じていた自分だから、勉強に集中しないといけないと考えていた。とても意外なことだった。
 せめて熱中できるものを見つけなさい、という両親からのメッセージだと姉は言っていた。だからバレリーナとして花を咲かせたいと事あるごとに口にしていた。
 良くも悪くも、この家は彼女を中心に回っていた。

 ・・・

「やさしいお姉さんなんだね。尊敬するなあ」
「一緒に暮らすとたいへんだよ?」
 さいごのプリンを取り合ってけんかしたし。こう説明すると、彼女は小さく笑った。
「わたしだって、けんかしてみたいなって思うよ」
 やさしさが塊になったような彼女は、すぐに負けそうだ。
「きみの話を聞いていると、ほんとうらやましいなって思うなあ」
 栞は隣の芝生から自分の家庭を見ているようなものだ。だから、僕が話している以上に美しく見えるのかもしれない。
「光希くんがやりたいことを見つけられたっていうのが、もう幸せなんだと思う。そこはご両親というより、やっぱりお姉さんの影響だったのかな」
 いいところに引き取られたんだね、と口にする。
「会ってみたかったなあ、きみのお姉さん」
 栞が何気なく口にした台詞が、心に刺さった。思わず言葉を失った。
 この家に馴染むことができたのも。
 テニスに熱中できたのも。
 おぼろげだった後継ぎが現実味を帯びたのも。
 ......すべて、姉がいたから。
 彼女はバレリーナとして生計を立てて、実家を支えたいとよく言っていた。日本でどれくらいの公演があるかは良く分かっていなかったが、とても夢のある話で尊敬していた。
 自分にもテニスを楽しむ機会を与えてくれた。なかなか大会に進出するのは大変だけど、いざ優勝すればかなりの賞金が手に入る。かなりの親孝行になるだろう。
 ふたりして好きなことに熱中してきた。それに、満足していた。
 
 楽しい日々が崩れ去ったのは、たった一瞬の出来事だった。
 数年前の秋の日。
 横断歩道を歩いていた彼女に、交差点を曲がってきた車が衝突した。病院で息を引き取った。
 運転手はたいそう頭を下げていた。受け止めきれないことに、どんな反応をしていたかまったく覚えていなかった。けんか腰にならなかっただけは覚えている。
 大切な人を奪っていく。
 事故が、赤の他人が。
 残るのはただ虚しい感情だけ。
 それから。
 中心人物を失った家庭はただ空回りを続けていた。
 部活は続けられた。しかしながら、面倒を見てくる役目が両親に代わっていた。身の回りは自分で済ましていたのに、小言を言われるようになった。
 まるで姉が霊となって乗り移ったよう。
 世話焼きが度を越して、監視に近いような感情を覚えた。
 
 運命というものがあるとするならば、呪縛以外の何ものでもなかった。
 
 テニスをするだけでは拭いきれなかった。
 少しでも息苦しい時間から解放されたかった。
 だからバイトをはじめたり旅行に出かけたりもした。
 どれだけ自転車を漕いでもひとりで見る景色に没頭しても、まるで砂漠を旅しているよう。
 ずっと、心の飢えを潤うことができなかった。
 やっと、それは虚無感だと気づいた。
 ――どうして紗希子なの?
 病室で母親が口にした言葉だ。その言葉が心をわしづかみにする。
 両親が愛しているのは彼女だ。
 自分は役目があるから引き取られただけだ。
 
 そう考えた僕は、ただ日々を送っていくだけだった。

 ・・・

「......ごめんなさい」
 話をさせちゃってごめんなさい。栞は小さくつぶやいて謝った。
 それはかまわなかった。大切な人という認識が消えるわけではないから、姉の話をするのは別に苦ではなかった。
「......わたしもお祈りしておくね。お姉さんが安らかに眠れるように」
「......うん、ありがとう」
 栞だって、姉から見たら赤の他人みたいなものだろう。
 それが、こうして知らない人のために祈ってくれる。不幸をあたたかく包み込んでくれる。きっと僕たちだから実感することなんだ。
 命の危機に立たされたから。
 愛情を持って受け入れられたから。
 <ひだまりのいえ>で過ごした日々があるから。
 
 窓から風が入ってきた。夜風は不思議と強く、吹き込んでくる感じすらあった。
 顔を背けている栞の髪を揺らす。
 髪を手で止めることもせず、そのまま語りだした......。
「わたし、安心したよ」
「それはよかったね。でも、何がかな?」
 僕は合いの手を入れる。
「きみが生きていて、こうして成長していて......」
 ......そして、王子様みたいに現れて。
 栞はいつでもロマンティックだ。
 僕は、運命に翻弄されるだけの寂しい人間だと思っていた。学校や友人に恵まれる日々であっても、大切な人を失う孤独は拭うことができない。
 家族や姉の死は冷たかった。けれども、目の前の人物との出会いは、とてもあたたかい。
 これが人生なんだろう。いつだって出会いや別れに彩られている。
 そして、僕たちを結びつける言葉を、やっと見つけることができた。
 ――魔法にかかっているんだと思うんだ。僕たちが、巡り合えたときから。
 これ以上、好きなものを手放さないで。自分に言い聞かせるんだ。
 栞のとなりに居られるなら、いつまでも王子様でいよう。

 ・・・

 栞が、ゆっくりと口を開く。
「......ねえ」
「何かな?」
 僕はまたしても合いの手を入れる。
「ちゃんとご飯を食べてるよね?」
「......え?」
 今日のお昼はたまたま食べなかったけれど、旅館ではしっかり食べた。それに、いつも三食抜かしたことはない。
「テニスの選手になるんだよね? ちゃんと大人になっていくんだよね? 生きていくんだよね?」
 彼女は一気に語りかける。その顔にはなぜだか焦りが生まれていた。
 急にこんなことを言い出すなんて思いもしなかった。
 安心だと言っていたのに、なぜ心配するのだろう。もちろん、まだ高校生だ。死ぬなんてずっと先の話だ。
 そう説明しようと思ったのに、僕はできなかった。
「生きていてほしいんだ。......わたしの分まで」
 今まで色んな栞の表情を見てきた。
 どれも明るい笑顔で、朗らかで。はたまたしんみりした感じでさえも綺麗だと思った。
 それなのに、いつになく真剣な顔つきで僕のことを見つめる。
 彼女を見つめてしまうと、どんな言葉も生まれなかった......。
 栞の瞳が、ゆれていたから。