最初に養護施設に来たときのことだ。
 僕は小さな部屋の中でぽつんと座っていた。周りの大人たち――まだ子どもとか成人の感覚はないけれど――つまり施設の職員たちはバタバタと走り回っていた。
 ちょっと待っててねと女性の職員に言われたきり、たくさんの時間が経過していた。
 大きな窓からは日差しが差し込んでいた。
 窓の向こうは子どもたちがはしゃいでいた。
 その様子を眺めながら、ずっとその場にいた。誰かが来るのを、ずっと待っていた。
 扉が開く音がする。
 入ってきたのは、女性ではなかった。小さな女の子だった。
 肩にかかるくらいの髪の長さをした子で、桜色のワンピースを着てうさぎのぬいぐるみを抱えていた。
 彼女はひとりだけ外で遊ばないでいた。半開きになった扉の中が気になったのだろう。
 ..................。
 しばしお互いに見つめ合った。
 女の子の丸く黒い目が印象的だった。黒いはずなのに、不思議と青く見えた。深い海のような、はたまたビー玉のような。
 つい惹きこまれてしまった。
「......ねえ、なんていうの?」
 女の子が口にした。
 何のことだろう、つい質問を返してしまう。そしたら、お名前だよって答えてくれた。
「......光希だよ」
「......栞だよ、しおり」
 彼女はにっこりと笑った。
 これが、僕が覚えているいちばんはじめての記憶。

 ・・・

 それから何年も経って、今日という日を迎えた。
 不満のある家を飛び出して。
 海沿いのカフェに入って。
 四つ葉のクローバーを探して。
 たまたま出会った人と一日中一緒に行動した。そして、これからも出かけたいと思っている。
 彼女が、養護施設で出会った子なんて。
 栞が、目の前にいるなんて。
 こんなにも嬉しいことはない。
 成長した彼女は、また一段と綺麗になっていた。
 伸ばした髪はこれとなく美しい流線型を描いて。
 輪郭の変わった頬は年齢以上に大人びた印象を与えて。
 手足は指先までも細長くて踊り子という雰囲気にマッチしていて。
 それに対して、輝く瞳は昔のままだった。
「......そんなに見つめられると、照れるよ」
 栞は顔を反らした。でも、不思議とどこか嬉しさを思わせる照れくささを感じた。
「ねえ、ほんとうに光希くんなの......? ほんとうに<ひだまりのいえ>に居たの?」
「うん、そうだよ」
 <ひだまりのいえ>は養護施設の名前だ。
 色んな子が集まっては一緒に勉強して遊んで、順番に引き取られていった場所。
 とても広い庭があって、名前の通りいつも陽だまりに包まれていた。たくさんの子どもたちが走り回る中、僕たちはあまりその輪に入ることはしなかった。
 ゆっくり歩いていた。木陰や建物の中で絵本を読むだけでも楽しかった。
 ふたり、ずっと一緒にいた。
 
 栞はペンダントトップを持ち上げては、僕に見せてくれる。
「このペンダント、ずっと机の中に閉まってたの。今日たまたま着けていったんだよ。これを見て思い出してくれたの?」
 ずっと聞きたかったんだ。
 ほんとうのところは聞くのが怖かったんだ。
 年季の入ったものは、もう金属が色あせていて、それでいて緑色の宝石のところだけ妙に輝きが残っていた。
 秘密のありそうな彼女を彩っているみたい。
 触れてはいけないもの、聞いてはいけないものだとどこかで思っていて、今まで心の中にしまい込んでいた。
 実のところ、昔の出来事が結びつくなんて思いもしなかった。
 彼女が倒れたことからうっすらと思い出すようになっていく。それで、ペンダントを見て確信を持つようになった。
 昔、自分がプレゼントしたものというのはとうに忘れてしまったけれど、今となっては彼女がこれを身に着けてくれたことに感謝している。
「そうだよ」
 偶然。
 今日はこの言葉に揺さぶられてきた一日だった。
 家を飛び出したのも、カフェで会ったのも。そして再会したのも。ところが、これは運命と呼んでいいかもしれない。
「わたし、ずっときみに会いたかった。まさかこんなところで......」
「僕もだよ」
 もちろん考えることは一緒だ。再会の喜びを伝えあおう。
 こんな時間だから静かにしないといけないけれど、心の中では最大限に声を出そう。パーティーみたいに大げさにお祝いしよう。
「よかった、ほんとうによかった......」
 栞は足を横に流しながら座っている。細長い腕や足が月の光に照らされていた。
 腕を伸ばす。指が僕の頬に触れる。
 ああ、なつかしいなあ。そう口にしてこちらを見つめる。少し伏し目がちにしているのが、また一段と美しかった。
 もう悲愴な雰囲気は感じなかった。
 しばらくそのまま、ふたりして出会いの喜びを抱きしめあっていた......。
 
 やがて、栞はきちんと正座の格好になった。
 彼女に合わせるように、僕も姿勢を正す。
「会えると思っていなかったから、ちゃんと謝りたい」
 ここで、頭を下げるとは思っていなかった。まるで、旅館の女将が挨拶するように、手をそろえていた。
「あの時は、ほんとうにごめんなさい」
「あの時?」
「きみが引き取られる時だよ。施設の入り口で里親そろって最後の挨拶をしているときに、わたしは慌てて飛んで行って、無理やりしがみついて」
 ああ、それかと僕は小さく笑った。
「さすがに困っちゃったよ」
「ほんと、わがままだったね」
 お互いにくすくす笑い合う。
 どうやって慰めたなんて、もううろ覚えだった。
 結果的に、スタッフに無理矢理はがされていた。もう順番だからね、となだめられていた。
 泣きじゃくる栞の表情だけが染みついて残っていた。
 とても心配していた。
 僕は新しい家で、視線をあちこち動かしてまだ馴染めずにいた。やがて、姉が公園に連れ出してくれて、姉の友達や家族との会話が増えていく。
 次第に自分の友達を作れるようになっていく。
 いつの間にか、忘れてしまった。
 栞という名前だけ、忘れてしまった。
 あの子もいつかは引き取られていくと思って、安心してしまったのだろうか。
 それでも、結果的にそれで良かったんだ。今ここで再会を喜んでいるのだから。彼女の笑顔を見ているのだから。
「わたし、きみが居なくなった日から泣いてばかりだった。施設の人も子どもたちもたくさん慰めてくれたのに、我慢できなかったな。もちろんそういう施設だって分かってたのに、色んな子たちが順番に引き取られていったのに、きみだけは駄目だった」
 どうしてなんだろうね? こう問われても回答に困るけれど、きっと何かがあるんだと思う。ふたりだけの、名前をつけることのできない何かが。

 ・・・

 栞の瞳はまだこちらを向いたままだ。
「ねえ、聞いてもいいかなあ......」
「......うん、何かな?」
 それは、子どもたちの由来。
 みんなに聞いたことはなかった。聞いたらいけないと思っていた。
 尋ねたらいけないと職員に言われたことはなかったけれど、みんな分かっていたんだ。
 ないがしろにされた子の集まりだと。
 両親の手の中で愛されることができなかったのだと。
 だから、ただ無言で迎え入れてあげようと。
「きみは、......どうして施設に来たの?」
 無理に答えなくてもいいんだけど、と彼女は付け足してくれる。それでも僕はかまわなかった。いつも一緒に居たから、誠実でありたいと思った。
「車が事故に遭ってね、一緒に乗ってた両親が亡くなって」
 いわゆる逆走車との接触事故だった。レコーダーの影響で最近ではかなり逆走する車が報じられているが、当時はまだ珍しくてたいへん話題になった。
 病院ではあまりニュースを流さなかった。看護師たちはただ一人無事だった自分のために気をつかってくれた。
 それでも、自分には十分だった。
 両親に会えない時点で、もう理解してしまっていた。
 しばらくは病院で過ごすことになって、色んな人と出会った。その中でこう言ってくる人がいた。
 自分ひとりだけ生き残っていて、運が良かったね。
 そういう風に言ってほしくなかった。両親の愛を失った自分には慰めが重かった。
 もう何も考えられなかった。
 僕は必死に消してしまった。事故の記憶を、病院での生活を。
 
 それから養護施設で僕たちは出会った。
 ここに来る子どもたちは誰だって、何かしらの原因を背負ってしまっている。
 僕だって、もちろん栞だって。