栞のことを、知りたかった。
話してくれたらいいなと思った。けれども、色んな出来事が起きては過ぎ去って、なかなかタイミングが許してくれなかった。
容姿しか分からない。
年上であることしか分からない。
そして、名前しか分からない。
彼女はどこから来て、どこへ帰るのだろう。クローバー畑のところで鳶が飛んでいるのを見かけた。自由に飛翔しては、自分の眠るところへと帰る。雛が生まれたなら、餌を探しているかもしれない。巣に戻っては卵を温めているのかもしれない。
一生懸命に子育てをしている姿は素晴らしい。
もちろん彼女がそんな年齢ではないくらいは分かっている。まだ高校生だ。
彼女のことをひとつも知らないけれど、少しずつ興味を持つようになっていた。
通う高校はどんなところだろうか。
好きな教科はあるのだろうか。
クラスの雰囲気は明るいのだろうか。
そして、家庭はあたたかいのだろうか。
栞がひとつだけ話してくれたことがある。
バレエだ。
夢がある姿は素晴らしいと思う。夢があるなら空も飛べるはずというのはピーターパンだったか。飛翔と跳躍はやはりちがうけれど、またいつか踊ってほしいと思う。
いつか足が治りますように。
いつかステージに立てますように。
少し心に熱が生まれた。はじめてロマンチストになれた気がする。
そんな彼女が僕のとなりで横になっている。
浴衣の背中を握りしめては、うずくまるように額を押しつけていた。もう肌が密着してしまいそうな距離だ。
背中から布団とは別の熱を感じる。洗ったあとの髪の香りを感じる。肌でさえも、なんだか甘そうに感じる。
静かな部屋の中に、お互いの鼓動が響いてしまっていた。
緊張のまま、上手くしゃべることができない。何て声をかければ良いのか分からない。
彼女が何をしたいのか、とても理解できなかった。真夜中という時間に部屋に来ては、自分の好きなことを口にしていた。感謝を伝えるだけなら、今でなくても、もっと別のタイミングがあるはずなのに。
彼女の喜ぶ笑顔に好感を持った。透き通るような声が素敵だと思った。年相応の、少女のようだと思っていた。
それなのに、こんなに大胆なことをするようには思えなかった。
彼女が小さくつぶやく。
「......わたしのこと、どう思う?」
栞のことを考えれば考えるほど、不思議だった。
・・・
「どうって、......何が?」
「だから、わたしの......こと」
振り返らないように、小声で質問する。
彼女について知らないことは多いけれど、知れたらいいなと思うのはこれからの話であって。いきなり問われても、どんな返答だって持ち合わせていない訳なのだから。
今日一日が楽しかった、ということなのか。
それとも、彼女の人物像なのか。
落ち着かない頭を必死に動かしては、色んな可能性を考えてみる。あれこれ想像しては、彼女が聞きたいことなのか、そうでないのかを一通り探っていた。
けれども、どれも違うように感じる。
今日一日の感想なんて、今話すことではないだろう。まだまだ先の長い旅行を続けているのだから、最後にまとめてでもよいのかもしれない。
彼女の人物像なんて、もっと場違いだろう。自分の容姿や性格を自慢する子なんていないはずだ。それはドラマの中の話になってしまう。
次に思いついたのは、色恋沙汰だった。
彼女にその気はないと、思う。
女将さんに伝えたことは事実なのかもしれない。けれども、たった一日でここまで仲良くなるのは不思議なことだった。今日出会っただけの、ふたりが。
偶然という言葉で片付けられるはず、なのに。
この関係に名前がほしいと思ったのはほんとうのことだ。
栞のことを知りたいと思ったのはほんとうのことだ。
一瞬だけ、波の音が聞こえなくなった気がした。
心の中が静かになって、ひとつの疑問が生まれた。僕は、なぜ彼女のことを知りたいのだろう。
自分の境遇を話したからだろうか。
お互いにフェアのゲームを望んだからだろうか。
どれもこれも考えてみても、上手くピースがはまらない。
今日の出来事を思い出してみる。この場所から、逆再生して。
ベンチでたくさんの話をした。
四つ葉のクローバーを探した。
自転車に乗って出かけた。
そして、あのカフェで出会った。
螺旋階段は薄暗かった。何があるのだろうと期待しながら登った。二階のフロアはひときわ明るかった。まるで舞台のようだと思った。
そこに、栞がいた。
ポーズを取っている姿が美しかったから。天使のようだと思ったから。
他意はなく、ただただ美しいと思った。
幼稚園のお遊戯も、学校の行事で観た演劇も。彼女の前では何もかもかすんでしまう。
――あの美しさに、焦がれたのだ。
彼女の魅力はどこから生まれたのだろう。僕はそれを知りたいんだ。やっと気づくことができた。
この気持ちを何て呼ぼうか。恋とも愛とも異なるものだと思った。とても純粋な何かが、心の中に生まれていた。
ひとりでに顔に朱色が差し込んでいく。
身体に伝わる熱が、身体を包み込んでいく。
あたたかさに身をゆだねて、少しだけ瞳を閉じた。
触れていく。心の、奥深いところへ。幼少の頃へ。――それは、僕たちのはじまりだった。
・・・
栞は小刻みに震えては、小さくつぶやく。
静かな部屋の中に、彼女の小声だけが広まっていた。
「わたし、ずっと......」
......ここにいたいよ。そう栞は言った。
思わず目を開けた。現実に戻された。わずかな言葉の中に、たくさんのメッセージを感じた。
ここはどこを指しているのだろう。
この部屋なのだろうか。いくら寂しさを感じても、わざわざこんなことをするだろうか。
そしたら、彼女との場面はあと数点しかなかった。
もしここから戻りたいと言っても、どうするつもりなのかまったく分からなかった。さすがに理解できないなと思って、一瞬だけ思考が止まる。
栞はどこまでも本気だった。
無理してカフェまでやって来て、夢中で四つ葉のクローバーを探して。全部、彼女がやりたいと言ったこと。僕はそれに付き合った。
自分も楽しそうだと思ったのは事実だけど、半ば付き合わされたようなものかもしれない。
スパゲッティを食べたいとも言っていた。
その先は、何があったのだろうか。出まかせとは思えないけれど、きっと彼女の中では考えていたのかもしれない。その場で思いついたことを口にしたのかもしれない。
今日一日の出来事が、ただの口実だとしたら。
この旅行を、永遠と続けたいとしたら。
自分と近いものを感じた。――まるで、家出のよう。
気づいてしまったら、心が震え出した。背中から彼女のものが伝わって、共振する。
栞は、僕のとなりから離れたくない。
「......ここにいたいって、どういうこと?」
もう尋ねるしかなかった。小声を維持したまま、少しだけはっきりと質問してみる。
きちんと話を聞いてあげないと、この場が収まらない。彼女の悲しみが止まらない。
このまま寝てしまうなんて、またしても置き去りにしてしまうから。
「......いやだ」
かぶりを振った言葉が、心をわしづかみにする。耳から流れ込んできた言葉は濁流となって、頭の中で深く大きな池を作り出してしまう。あっという間に溢れんばかりに溜まってしまう。
栞は無我夢中だった。必死に、心の中の心情を吐き出していた。
いやだ、と。
行っちゃいやだ、と。
別れるのいやだ、と。
......忘れらないあの日と、あの時と、同じだった。
つなげることはおかしいと思っていた。彼女が言っていたことと、昔の出来事とを。
それが今、出来事のデジャヴが起きている。
少しずつ記憶の扉が開かれようとしていた......。
養護施設で出会った女の子がいた。
右も左も分からない僕は、誰とも遊べなかった。
そんな僕に、いちばん最初に話しかけてくれた。
桜色のワンピースを着ていた。
うさぎのぬいぐるみを抱えていた。
それから、ずっと一緒だった。僕が先に引き取られるまで、ずっと。
わたしのこと、置いていかないで。と彼女は言った。
その子を忘れたことはなかった。だけど、どうして名前だけが飛び去ってしまったのだろう。
布団の上でゆっくりと身体を起こす。
目の前の人物は、何事か分からなくてこちらを見上げる。震えている手を、そっと握ってあげる。
彼女の首元を見つめる。
ずっと身に着けていた首飾りが気になっていた。年季の入ったものを、ずっと聞いてみたかった。
「ねえ、そのペンダントって......」
「これ? 昔、大切な人にもらったんだよ」
ずっと捨てられないものだけど、今日はたまたま着けて行きたくなったんだ。そう教えてくれた。
......ああ、これだ。
......僕が、小さい頃にプレゼントしたもの。
「ねえ。やっと会えたね、栞」
「光希くん。もしかして、きみは......」
やはり、僕たちは小さい時に会っていたんだ。
エメラルドの色に輝くペンダントトップが、月光で輝いていた。
話してくれたらいいなと思った。けれども、色んな出来事が起きては過ぎ去って、なかなかタイミングが許してくれなかった。
容姿しか分からない。
年上であることしか分からない。
そして、名前しか分からない。
彼女はどこから来て、どこへ帰るのだろう。クローバー畑のところで鳶が飛んでいるのを見かけた。自由に飛翔しては、自分の眠るところへと帰る。雛が生まれたなら、餌を探しているかもしれない。巣に戻っては卵を温めているのかもしれない。
一生懸命に子育てをしている姿は素晴らしい。
もちろん彼女がそんな年齢ではないくらいは分かっている。まだ高校生だ。
彼女のことをひとつも知らないけれど、少しずつ興味を持つようになっていた。
通う高校はどんなところだろうか。
好きな教科はあるのだろうか。
クラスの雰囲気は明るいのだろうか。
そして、家庭はあたたかいのだろうか。
栞がひとつだけ話してくれたことがある。
バレエだ。
夢がある姿は素晴らしいと思う。夢があるなら空も飛べるはずというのはピーターパンだったか。飛翔と跳躍はやはりちがうけれど、またいつか踊ってほしいと思う。
いつか足が治りますように。
いつかステージに立てますように。
少し心に熱が生まれた。はじめてロマンチストになれた気がする。
そんな彼女が僕のとなりで横になっている。
浴衣の背中を握りしめては、うずくまるように額を押しつけていた。もう肌が密着してしまいそうな距離だ。
背中から布団とは別の熱を感じる。洗ったあとの髪の香りを感じる。肌でさえも、なんだか甘そうに感じる。
静かな部屋の中に、お互いの鼓動が響いてしまっていた。
緊張のまま、上手くしゃべることができない。何て声をかければ良いのか分からない。
彼女が何をしたいのか、とても理解できなかった。真夜中という時間に部屋に来ては、自分の好きなことを口にしていた。感謝を伝えるだけなら、今でなくても、もっと別のタイミングがあるはずなのに。
彼女の喜ぶ笑顔に好感を持った。透き通るような声が素敵だと思った。年相応の、少女のようだと思っていた。
それなのに、こんなに大胆なことをするようには思えなかった。
彼女が小さくつぶやく。
「......わたしのこと、どう思う?」
栞のことを考えれば考えるほど、不思議だった。
・・・
「どうって、......何が?」
「だから、わたしの......こと」
振り返らないように、小声で質問する。
彼女について知らないことは多いけれど、知れたらいいなと思うのはこれからの話であって。いきなり問われても、どんな返答だって持ち合わせていない訳なのだから。
今日一日が楽しかった、ということなのか。
それとも、彼女の人物像なのか。
落ち着かない頭を必死に動かしては、色んな可能性を考えてみる。あれこれ想像しては、彼女が聞きたいことなのか、そうでないのかを一通り探っていた。
けれども、どれも違うように感じる。
今日一日の感想なんて、今話すことではないだろう。まだまだ先の長い旅行を続けているのだから、最後にまとめてでもよいのかもしれない。
彼女の人物像なんて、もっと場違いだろう。自分の容姿や性格を自慢する子なんていないはずだ。それはドラマの中の話になってしまう。
次に思いついたのは、色恋沙汰だった。
彼女にその気はないと、思う。
女将さんに伝えたことは事実なのかもしれない。けれども、たった一日でここまで仲良くなるのは不思議なことだった。今日出会っただけの、ふたりが。
偶然という言葉で片付けられるはず、なのに。
この関係に名前がほしいと思ったのはほんとうのことだ。
栞のことを知りたいと思ったのはほんとうのことだ。
一瞬だけ、波の音が聞こえなくなった気がした。
心の中が静かになって、ひとつの疑問が生まれた。僕は、なぜ彼女のことを知りたいのだろう。
自分の境遇を話したからだろうか。
お互いにフェアのゲームを望んだからだろうか。
どれもこれも考えてみても、上手くピースがはまらない。
今日の出来事を思い出してみる。この場所から、逆再生して。
ベンチでたくさんの話をした。
四つ葉のクローバーを探した。
自転車に乗って出かけた。
そして、あのカフェで出会った。
螺旋階段は薄暗かった。何があるのだろうと期待しながら登った。二階のフロアはひときわ明るかった。まるで舞台のようだと思った。
そこに、栞がいた。
ポーズを取っている姿が美しかったから。天使のようだと思ったから。
他意はなく、ただただ美しいと思った。
幼稚園のお遊戯も、学校の行事で観た演劇も。彼女の前では何もかもかすんでしまう。
――あの美しさに、焦がれたのだ。
彼女の魅力はどこから生まれたのだろう。僕はそれを知りたいんだ。やっと気づくことができた。
この気持ちを何て呼ぼうか。恋とも愛とも異なるものだと思った。とても純粋な何かが、心の中に生まれていた。
ひとりでに顔に朱色が差し込んでいく。
身体に伝わる熱が、身体を包み込んでいく。
あたたかさに身をゆだねて、少しだけ瞳を閉じた。
触れていく。心の、奥深いところへ。幼少の頃へ。――それは、僕たちのはじまりだった。
・・・
栞は小刻みに震えては、小さくつぶやく。
静かな部屋の中に、彼女の小声だけが広まっていた。
「わたし、ずっと......」
......ここにいたいよ。そう栞は言った。
思わず目を開けた。現実に戻された。わずかな言葉の中に、たくさんのメッセージを感じた。
ここはどこを指しているのだろう。
この部屋なのだろうか。いくら寂しさを感じても、わざわざこんなことをするだろうか。
そしたら、彼女との場面はあと数点しかなかった。
もしここから戻りたいと言っても、どうするつもりなのかまったく分からなかった。さすがに理解できないなと思って、一瞬だけ思考が止まる。
栞はどこまでも本気だった。
無理してカフェまでやって来て、夢中で四つ葉のクローバーを探して。全部、彼女がやりたいと言ったこと。僕はそれに付き合った。
自分も楽しそうだと思ったのは事実だけど、半ば付き合わされたようなものかもしれない。
スパゲッティを食べたいとも言っていた。
その先は、何があったのだろうか。出まかせとは思えないけれど、きっと彼女の中では考えていたのかもしれない。その場で思いついたことを口にしたのかもしれない。
今日一日の出来事が、ただの口実だとしたら。
この旅行を、永遠と続けたいとしたら。
自分と近いものを感じた。――まるで、家出のよう。
気づいてしまったら、心が震え出した。背中から彼女のものが伝わって、共振する。
栞は、僕のとなりから離れたくない。
「......ここにいたいって、どういうこと?」
もう尋ねるしかなかった。小声を維持したまま、少しだけはっきりと質問してみる。
きちんと話を聞いてあげないと、この場が収まらない。彼女の悲しみが止まらない。
このまま寝てしまうなんて、またしても置き去りにしてしまうから。
「......いやだ」
かぶりを振った言葉が、心をわしづかみにする。耳から流れ込んできた言葉は濁流となって、頭の中で深く大きな池を作り出してしまう。あっという間に溢れんばかりに溜まってしまう。
栞は無我夢中だった。必死に、心の中の心情を吐き出していた。
いやだ、と。
行っちゃいやだ、と。
別れるのいやだ、と。
......忘れらないあの日と、あの時と、同じだった。
つなげることはおかしいと思っていた。彼女が言っていたことと、昔の出来事とを。
それが今、出来事のデジャヴが起きている。
少しずつ記憶の扉が開かれようとしていた......。
養護施設で出会った女の子がいた。
右も左も分からない僕は、誰とも遊べなかった。
そんな僕に、いちばん最初に話しかけてくれた。
桜色のワンピースを着ていた。
うさぎのぬいぐるみを抱えていた。
それから、ずっと一緒だった。僕が先に引き取られるまで、ずっと。
わたしのこと、置いていかないで。と彼女は言った。
その子を忘れたことはなかった。だけど、どうして名前だけが飛び去ってしまったのだろう。
布団の上でゆっくりと身体を起こす。
目の前の人物は、何事か分からなくてこちらを見上げる。震えている手を、そっと握ってあげる。
彼女の首元を見つめる。
ずっと身に着けていた首飾りが気になっていた。年季の入ったものを、ずっと聞いてみたかった。
「ねえ、そのペンダントって......」
「これ? 昔、大切な人にもらったんだよ」
ずっと捨てられないものだけど、今日はたまたま着けて行きたくなったんだ。そう教えてくれた。
......ああ、これだ。
......僕が、小さい頃にプレゼントしたもの。
「ねえ。やっと会えたね、栞」
「光希くん。もしかして、きみは......」
やはり、僕たちは小さい時に会っていたんだ。
エメラルドの色に輝くペンダントトップが、月光で輝いていた。


