ふと目が覚めた。
スマートフォンで時間を確認すると、27時を回ったところだった。中途半端な時間だなと思いながら、部屋を出てトイレに行く。
廊下を歩きながら隣の部屋を見てみると、襖が閉まったままだった。もちろん入る訳にはいかないので、彼女の様子をうかがい知ることはできない。
今度はしっかりと布団に潜り込んだ。
栞はだいじょうぶだっただろうか。
夜中になってよりいっそう涼しくなってきた。旅館に着いてすぐ横になったとしても、ずっと寝ていられるだろうか。お腹が空いたりしないだろうか。
また会ったら、いろいろ聞いてみよう。
明日やりたいことを考えてみる。
朝いちばんに旅館の人にお礼を伝えよう。ていねいに頭を下げよう。
こういうときは何か持っていくんだろうか。どこかで菓子折りが売っていたらいいなと思う。それとも仕事を手伝う方が良いのだろうか。
そしたら、またカフェに行こう。美味しいスパゲッティのお店があるとか言っていたっけ。
この辺りの土地を案内してもらうのも楽しそうだ。
僕はまだ、旅行の青写真を描いていた......。
もうひとつ気になっていることがある。
わたしを置いていかないでと栞は言っていた。あれはただのうわ言だと思う。けれども、いざ耳に入ってくると、頭の整理が追い付かない。
思い出すのは、忘れてしまったわけではない、昔の記憶。
何年も前――養護施設での出来事だ。
いつも一緒に遊んでいる女の子がいた。施設の中でも外にお出かけするときでも、ずっと僕の近くにいた。何年も、僕たちはずっとふたりでいた。
僕が今の苗字をもらった日。つまりは養護施設を離れて、新しい親元に引き取られるときに。もう名前を忘れてしまった彼女が、言ったのだ。
いやだ、と。
行っちゃいやだ、と。
別れるのいやだ、と。
親元の車に乗ろうとする僕に抱きついては、色んなことを口にしていた。親もスタッフもうろたえる中、彼女だけが必死だった。
自分だってどう慰めたかなんて覚えていない。けっきょく、スタッフに力任せに引きはがされていた。
そして、扉が閉まる直前。僕の背中に向かって叫んでいた。
わたしを置いていかないで、と。
つなげることはおかしいだろう。彼女が言っていたことと、昔の出来事とを。
それらは別々の問題だろうと決めつけて、もう寝てしまおうと思った。何気なく寝返りを打って、窓の方に身体を向ける。
月の位置が少し傾いていた。それでも相変わらず部屋の中にまで月の光が届いている。むしろちょうど窓の正面から照らされていた。かまわず瞳を閉じた。
月光はスポットライトだったのだろうか。
公演は真っ黒な闇からはじまる。
開演前に、舞台も観客席もすべての照明が落とされる。
ここから公演が始まるんだと、観客の期待で会場は包まれる。それから、ひとつひとつ照明が点灯していき、いちばんに舞台が明るくなると演者が現れる。
......この部屋に栞がやってくるなんて、思いもしなかった。
・・・
襖の開いた音がした。
こちらに近づく足音が聞こえた。
何が起きたか分からなかった。
足音は静かにゆっくりとこちらに近づいては、僕のすぐとなりで止まった。わずかに聞こえる浴衣の擦れる音で、その場にしゃがんだと分かった。
布団から出ようとして、慌てて身体を起こそうとする。しかしながら、手で制されてしまった。ここからわずかに見えたのは、伏し目がちな表情と口の前に人差し指を添えた仕草だった。
「よかった、まだ起きてたんだね」
栞はそっとつぶやく。
静かにしてね、こっちを向かないでね。彼女からそういうテレパシーを感じる。
それどころじゃない、何が起きているか分からず、ただただ緊張してしまう。
慌てながら小声で、どうしたのと聞いてみる。
「光希くんが部屋から出てくるの分かったから。まだ起きてるんだな、って」
わたしも途中で起きちゃって、そう説明してくれる。
「は、恥ずかしいんだけど......。今、感謝を言わないと、なんだか寝れなくて......」
少し声が上ずっていた。
体調はだいじょうぶだったのだろうか。それにしても、わざわざ部屋に来なくてもよいと思う。訴えようとするも、彼女はまたしても静かにと念を押した。
「あれからだいぶ良くなったよ。部屋で寝たあとに、少しご飯を食べさせてもらえたの。とても美味しかった。ちゃんとお風呂も浴びたよ。色んな人に感謝しないといけないなって思ったんだ。ここの人にも、もちろんきみにも」
栞も誠実なんだな。
でも、こんな時間帯じゃなくてもよいと思う。朝になったら旅館の人にお礼を伝えるから、彼女も一緒に行動すればよいだけだ。
なんだか不安を感じた。そう、なんで今なんだろう。
「寝てるところ邪魔しちゃって、ほんとうにごめんなさい。ここにいたいって思ったら、居ても立っても居られなかった。......こうしないと、わたし......」
急に話題が切り替わる。何を、伝えたいのだろう。
こうしないとなんて言うものだから、眠気なんてとっくに飛んで行ってしまった。
そのままの姿勢を保って、話の続きを待つしかなかった。
彼女はひと呼吸置いて語りだした。
「わたしね、幸せを感じてるよ。色んな人に迷惑をかけちゃったけど、今こうして助けてもらえたから」
助けるなんて、別に大切なことをしただけ。
あの場で逃げ出す人なんて決していない。僕が動かないといけないという判断をしただけ。
「わたしってほんとうに駄目だなあ。すぐ目の前のことに夢中になっちゃって、周りのことなんてまったく見向きもしなくなっちゃう。小さい頃からそういうことばかりなんだ」
なにかに集中してしまうことは良くあることだ。これからお互いに気を付けていけたらいいだけだ。僕も彼女の様子を注意深く見ていけたらよいと思う。
「わたし、忘れられないことがあってね。小さい頃に家を抜け出して、遠くまで歩いては遅くまで帰ってこなかった。ご飯を食べる前に、たくさん怒られた。そしたら最後に抱きしめてくれたの」
心配してたからだよ、って彼女は言う。
親御さんが不安になるなんてよくあることだ。自分も遅くなるまで遊んでは親や姉に𠮟られたことがあった。
でも、ちょっとした不安を覚えた。
これまでの出来事を断片的に並べてみる。
ただの散歩だと言った。
遅い時間までずっとクローバーを探していた。
夕方になったのにこれから食事をしたいと言った。
......そして、親がいないと言った。
うすら寒い感情を感じないわけにはいかなかった。彼女は今回も同じことをしているとしたら。
どこから歩いてきたのだろうか。
"家"はほんとうに家庭なのだろうか。
今の言葉に登場した、𠮟ってくれた人は誰なのだろうか。
僕の心配をよそに、彼女は話を続ける。
「ううん、今回だけのことじゃないだよ。倒れちゃったのはもちろんわたしが悪いんだけど、きみがいてくれてほんとうに嬉しかった」
たくさん感謝しているよ。
まるで彼女の姿がたくさんの気持ちで包まれているよう。
僕としてはただ当たり前のことをしただけ。それなのに、溢れんばかりの感謝を告げてくる。
温かい言葉のシャワーを浴びて、不安だった心が落ち着いてくる。
――彼女が無事でよかった。それだけでよいじゃないか。
もう心のグラスは表面張力を超えて、こぼれてしまった。
受け止めきれない。彼女はこんなにもお礼を伝えてくれるのに、僕の心は嬉しさでいっぱいだ。もう抱えきれないほどにあたたかい気持ちに包まれている。
「栞、ほんとうによかったね」
「ありがとう。......きみはずっと、優しいんだね」
実はきちんと身体を起こして、姿勢を正して言いたかった。けれども、ここで彼女の顔を見たらいけないと思った。感動で泣いてしまいそうだったから。
・・・
もう夜のとばりが降りている。
お互いに寝て、朝早くから起きよう。そう伝えようとした。
また一緒にお礼を伝えよう。
また一緒に出掛けよう。
僕の考えが伝わったのか、彼女も小さくつぶやいた。
「また、......色んなところ行きたいね」
そうだね、と小さく返しておく。
僕たちには明日があるのだから。夏休みはまだ続くのだから。
そう信じて疑わなかった。
大きな波が生まれては消えた。
先ほどまでと違った大きな音が、ここまで届く。
彼女の言い方に妙な違和感を感じた。消え入りそうな声に。湿り気のある口調に。
きちんと話を聞いてあげないといけない。
身体を起こして、姿勢を正して聞いてあげないといけない。
けれども、僕はそのひとつもすることができなかった。
栞は、布団で寝ている僕のとなりに横になった。何を思ったか身体を密着させるように近づけてくる。
思わずどきりとする。想像していなかったことに、何の反応もできなかった。
しっかりと、彼女の名前を呼ぶことができない
「......しお、......り?」
「わたし、わたし......」
ここで、途切れた。
栞は何を言いたいんだろう。言葉を待った、ずっと待った。けれども、なかなか口にはしなかった。
わずかな波の音が永遠と続いていた。
スマートフォンで時間を確認すると、27時を回ったところだった。中途半端な時間だなと思いながら、部屋を出てトイレに行く。
廊下を歩きながら隣の部屋を見てみると、襖が閉まったままだった。もちろん入る訳にはいかないので、彼女の様子をうかがい知ることはできない。
今度はしっかりと布団に潜り込んだ。
栞はだいじょうぶだっただろうか。
夜中になってよりいっそう涼しくなってきた。旅館に着いてすぐ横になったとしても、ずっと寝ていられるだろうか。お腹が空いたりしないだろうか。
また会ったら、いろいろ聞いてみよう。
明日やりたいことを考えてみる。
朝いちばんに旅館の人にお礼を伝えよう。ていねいに頭を下げよう。
こういうときは何か持っていくんだろうか。どこかで菓子折りが売っていたらいいなと思う。それとも仕事を手伝う方が良いのだろうか。
そしたら、またカフェに行こう。美味しいスパゲッティのお店があるとか言っていたっけ。
この辺りの土地を案内してもらうのも楽しそうだ。
僕はまだ、旅行の青写真を描いていた......。
もうひとつ気になっていることがある。
わたしを置いていかないでと栞は言っていた。あれはただのうわ言だと思う。けれども、いざ耳に入ってくると、頭の整理が追い付かない。
思い出すのは、忘れてしまったわけではない、昔の記憶。
何年も前――養護施設での出来事だ。
いつも一緒に遊んでいる女の子がいた。施設の中でも外にお出かけするときでも、ずっと僕の近くにいた。何年も、僕たちはずっとふたりでいた。
僕が今の苗字をもらった日。つまりは養護施設を離れて、新しい親元に引き取られるときに。もう名前を忘れてしまった彼女が、言ったのだ。
いやだ、と。
行っちゃいやだ、と。
別れるのいやだ、と。
親元の車に乗ろうとする僕に抱きついては、色んなことを口にしていた。親もスタッフもうろたえる中、彼女だけが必死だった。
自分だってどう慰めたかなんて覚えていない。けっきょく、スタッフに力任せに引きはがされていた。
そして、扉が閉まる直前。僕の背中に向かって叫んでいた。
わたしを置いていかないで、と。
つなげることはおかしいだろう。彼女が言っていたことと、昔の出来事とを。
それらは別々の問題だろうと決めつけて、もう寝てしまおうと思った。何気なく寝返りを打って、窓の方に身体を向ける。
月の位置が少し傾いていた。それでも相変わらず部屋の中にまで月の光が届いている。むしろちょうど窓の正面から照らされていた。かまわず瞳を閉じた。
月光はスポットライトだったのだろうか。
公演は真っ黒な闇からはじまる。
開演前に、舞台も観客席もすべての照明が落とされる。
ここから公演が始まるんだと、観客の期待で会場は包まれる。それから、ひとつひとつ照明が点灯していき、いちばんに舞台が明るくなると演者が現れる。
......この部屋に栞がやってくるなんて、思いもしなかった。
・・・
襖の開いた音がした。
こちらに近づく足音が聞こえた。
何が起きたか分からなかった。
足音は静かにゆっくりとこちらに近づいては、僕のすぐとなりで止まった。わずかに聞こえる浴衣の擦れる音で、その場にしゃがんだと分かった。
布団から出ようとして、慌てて身体を起こそうとする。しかしながら、手で制されてしまった。ここからわずかに見えたのは、伏し目がちな表情と口の前に人差し指を添えた仕草だった。
「よかった、まだ起きてたんだね」
栞はそっとつぶやく。
静かにしてね、こっちを向かないでね。彼女からそういうテレパシーを感じる。
それどころじゃない、何が起きているか分からず、ただただ緊張してしまう。
慌てながら小声で、どうしたのと聞いてみる。
「光希くんが部屋から出てくるの分かったから。まだ起きてるんだな、って」
わたしも途中で起きちゃって、そう説明してくれる。
「は、恥ずかしいんだけど......。今、感謝を言わないと、なんだか寝れなくて......」
少し声が上ずっていた。
体調はだいじょうぶだったのだろうか。それにしても、わざわざ部屋に来なくてもよいと思う。訴えようとするも、彼女はまたしても静かにと念を押した。
「あれからだいぶ良くなったよ。部屋で寝たあとに、少しご飯を食べさせてもらえたの。とても美味しかった。ちゃんとお風呂も浴びたよ。色んな人に感謝しないといけないなって思ったんだ。ここの人にも、もちろんきみにも」
栞も誠実なんだな。
でも、こんな時間帯じゃなくてもよいと思う。朝になったら旅館の人にお礼を伝えるから、彼女も一緒に行動すればよいだけだ。
なんだか不安を感じた。そう、なんで今なんだろう。
「寝てるところ邪魔しちゃって、ほんとうにごめんなさい。ここにいたいって思ったら、居ても立っても居られなかった。......こうしないと、わたし......」
急に話題が切り替わる。何を、伝えたいのだろう。
こうしないとなんて言うものだから、眠気なんてとっくに飛んで行ってしまった。
そのままの姿勢を保って、話の続きを待つしかなかった。
彼女はひと呼吸置いて語りだした。
「わたしね、幸せを感じてるよ。色んな人に迷惑をかけちゃったけど、今こうして助けてもらえたから」
助けるなんて、別に大切なことをしただけ。
あの場で逃げ出す人なんて決していない。僕が動かないといけないという判断をしただけ。
「わたしってほんとうに駄目だなあ。すぐ目の前のことに夢中になっちゃって、周りのことなんてまったく見向きもしなくなっちゃう。小さい頃からそういうことばかりなんだ」
なにかに集中してしまうことは良くあることだ。これからお互いに気を付けていけたらいいだけだ。僕も彼女の様子を注意深く見ていけたらよいと思う。
「わたし、忘れられないことがあってね。小さい頃に家を抜け出して、遠くまで歩いては遅くまで帰ってこなかった。ご飯を食べる前に、たくさん怒られた。そしたら最後に抱きしめてくれたの」
心配してたからだよ、って彼女は言う。
親御さんが不安になるなんてよくあることだ。自分も遅くなるまで遊んでは親や姉に𠮟られたことがあった。
でも、ちょっとした不安を覚えた。
これまでの出来事を断片的に並べてみる。
ただの散歩だと言った。
遅い時間までずっとクローバーを探していた。
夕方になったのにこれから食事をしたいと言った。
......そして、親がいないと言った。
うすら寒い感情を感じないわけにはいかなかった。彼女は今回も同じことをしているとしたら。
どこから歩いてきたのだろうか。
"家"はほんとうに家庭なのだろうか。
今の言葉に登場した、𠮟ってくれた人は誰なのだろうか。
僕の心配をよそに、彼女は話を続ける。
「ううん、今回だけのことじゃないだよ。倒れちゃったのはもちろんわたしが悪いんだけど、きみがいてくれてほんとうに嬉しかった」
たくさん感謝しているよ。
まるで彼女の姿がたくさんの気持ちで包まれているよう。
僕としてはただ当たり前のことをしただけ。それなのに、溢れんばかりの感謝を告げてくる。
温かい言葉のシャワーを浴びて、不安だった心が落ち着いてくる。
――彼女が無事でよかった。それだけでよいじゃないか。
もう心のグラスは表面張力を超えて、こぼれてしまった。
受け止めきれない。彼女はこんなにもお礼を伝えてくれるのに、僕の心は嬉しさでいっぱいだ。もう抱えきれないほどにあたたかい気持ちに包まれている。
「栞、ほんとうによかったね」
「ありがとう。......きみはずっと、優しいんだね」
実はきちんと身体を起こして、姿勢を正して言いたかった。けれども、ここで彼女の顔を見たらいけないと思った。感動で泣いてしまいそうだったから。
・・・
もう夜のとばりが降りている。
お互いに寝て、朝早くから起きよう。そう伝えようとした。
また一緒にお礼を伝えよう。
また一緒に出掛けよう。
僕の考えが伝わったのか、彼女も小さくつぶやいた。
「また、......色んなところ行きたいね」
そうだね、と小さく返しておく。
僕たちには明日があるのだから。夏休みはまだ続くのだから。
そう信じて疑わなかった。
大きな波が生まれては消えた。
先ほどまでと違った大きな音が、ここまで届く。
彼女の言い方に妙な違和感を感じた。消え入りそうな声に。湿り気のある口調に。
きちんと話を聞いてあげないといけない。
身体を起こして、姿勢を正して聞いてあげないといけない。
けれども、僕はそのひとつもすることができなかった。
栞は、布団で寝ている僕のとなりに横になった。何を思ったか身体を密着させるように近づけてくる。
思わずどきりとする。想像していなかったことに、何の反応もできなかった。
しっかりと、彼女の名前を呼ぶことができない
「......しお、......り?」
「わたし、わたし......」
ここで、途切れた。
栞は何を言いたいんだろう。言葉を待った、ずっと待った。けれども、なかなか口にはしなかった。
わずかな波の音が永遠と続いていた。


