今日は満月なんだな。
 旅館の窓の外に広がる光景を眺めていた。
 静かな空間の中に波の音だけが聞こえている。もう建物のすぐ近くは海になっていて、この窓からでもくりかえし揺れては返す波が見えている。
 すでに部屋の明かりは消しているので、空に浮かぶ月が良く目立っていた。とても丸くて、とても大きくて、いつも家から見えるのとはまるで別物のように感じる。
 月光はとても長く美しくきらめいていた。水面はもちろんこの部屋までも照らし、床に横たわる僕の頬や手足にきめ細かな光が降り注ぐ。
 その光を見つめていると、不思議な感覚におそわれる。
 ......僕は、何をしているんだろう。

 ・・・

 旅館に着いたときにはもう暗くなっていた。
 ふたり別々の空き部屋に招かれることになった。お互いにとなりのところだ。
 荷物を部屋の隅に置いて少し休憩していたら、夕飯を食べるかと尋ねてきた。食べるというと、すぐにひととおりの料理が運ばれてきた。
 あまりにも空腹だったので、奥様つまりは女将さんに笑われるほどに食べてしまった。さすがは高校生の男の子ですねと言われて、つい恥ずかしくなる。運動部ではあるけれど、いつも大量に食べることを強制されているわけではない。家だってそんなに食べない。
 栞の様子を訊いてみると、食事より先に寝ていたいとのことだった。疲れ切ってしまっているし食欲も湧かないだろうし、その方が良いだろう。それに、エアコンがあるのだからすぐに回復すると思う。
 ここで女将さんがからかってくるとはまったくの予想外だった。
 僕と彼女の関係を聞いてくるなんてどうかと思うけど、どう答えて良いかという答えを持ち合わせていないのも事実だった。
 僕はたまたま今日家出をしただけだ。
 彼女だってたまたまカフェに居ただけだ。
 たしかに、ふたりして今日出会っただけ。それ以上でもそれ以下でもないはずだ。
「まあ、友人というところですかね」
 こう無難に返しておくと、女将さんは青春ですねと言いながら後にした。
 もう僕たちは口にした言葉の通りなのかもしれない。そうだったら嬉しいと思うのはわずかに考える程度で、アンニュイな不安の方が勝っていた。
 もしこの関係に名前があるなら教えてほしいと思っている。そして、ほかにもふたりの知らない何かがあったとしたら、僕は身構えてしまう。
 ――もし別の出会いがあるというなら。
 
 それから入浴や洗濯を済ませていたら、こんな時間になっていた。
 敷いてくれた布団になぜか入ることができずに、その隣に横になっている。不思議と眠気を感じなかった。
 自分もだいぶ汗をかいていた。脱いだときに感じるシャツの重さに、今日一日動き回っていたなと実感させられる。
 いや、ほんとうにはしゃいでいたのは彼女の方だったかもしれない。
 元気な姿をや笑顔をたくさん見せていた。僕はその姿の後を追っていただけ。
 鳥になりたいから。ただ歩きたいから。
 栞はこう言っていたけれど、この感情だけでここまで活動的になるものだろうか。
 遠いところまで行きたくなって、どこにあるかも分からない四つ葉のクローバーを夢中で探して。熱中症のリスクを追ってまで、あり得るだろうか。
 今になって考えると、今日行かないと気が済まないという感じさえした。いや、今日を逃してしまったらもう二度と行けないとしたら......。
 足が悪いからと彼女は言った。
 遠くまで歩くのが大変だから連れていってほしいというのは分かるし、頼まれて無下にもできないし。連れていくのは別にかまわなかった。
 でも、なぜ自分だったのだろうか。
 あのカフェに来る人はとても少ないのだろう。それでも、来た人ならだれでもお願いするするのは何かおかしいところもある。そういう人物には決して思えなかった。
 あなたと行ってみたいという言葉に嘘偽りはないように思えた。誠実という印象は買いかぶりに聞こえるけれど、彼女にしてみたらほんとうのものなんだろう。
 だから、栞には彼女なりの理由があったんだ。わざわざ自分を誘う、何かが。

 ・・・

 ......ほんとうに、何を考えているのだろう。
 エアコンをつけようと思いながらも、最初は窓を開けてみた。そうして入ってきたよそ風が心地よかったから、ずっとこのままだった。
 海沿いの街は、地元とはだいぶ空気感がちがう。頬を撫でられたような気がして、少し冷静になれた。
 今日家を飛び出したのも、通ってきた道も。カフェで休憩したいというのも、すべてたったひとつの言葉で片付けられる。
 偶然。
 その通りだと思う。栞と出会ったことを巡り合わせという言い表すなんて、それはドラマの中の話だ。女将さんが言うような青春も、ロマンティックな出来事も、現実の中にある訳がないと思う。
 自分はリアリストだなって考えるときがある。
 高校選びにはひと悶着あったけれど、今となってはそれなりには満足している。クラスメイトや部活に恵まれて、学業やテストに一喜一憂したり部活で汗を流したりするのはとても楽しい。
 もし、浮いたような楽しい出来事があるのなら、その中に思い切り飛び込んでみたいとは思う。けれども、その出会いがないのだ。出会いたいとも考えたことがなかった。
 対して、栞はロマンチストなのかもしれない。
 彼女の生活を知っているわけではないけれど、四つ葉のクローバーを探すだけであんなに一生懸命になるだろうか。楽しめるだろうか。
 それにしてもたくさんの表情を見せてくれた。その仕草のひとつひとつは僕も嬉しかった。けれども、けっきょくは彼女に付き合わされただけではないだろうか。
 もし自分がカフェに現れなくても、ひとりで探しに行っていたかもしれない。現実問題、きっとそうなのだろう。
 
 ――あなたが楽しいなら良いじゃない。
 昔、こう言っていた人物がいた。姉の()希子(きこ)だ。
 引き取ってくれた夏川家のひとり娘。血はつながらないけれど、実の姉同然に接してくれた。
 やりたいこと最優先。
 そんなスタイルを地で行く彼女を中心に、この家は回っていた。
 居間で踊りを見せれば褒め称えられて、欲しいと言えばなんでも買ってもらえて。
 わがままな一面を見せられて、この家庭に入っていけるのかとても不安だった。
 ある日、いつものように部屋の隅で静かにしていた僕を、姉が公園に連れ出してくれた。
 これが、彼女を見直すことになるきっかけ。
 公園に行くと、集まっている子たちが代わる代わる僕を見つめてくる。
 緊張とか人見知りとか、色んな感情が混ざってしまった僕は姉の後ろに隠れてしまった。しかしながら、彼女は僕の身体を一気に押し出すと、胸を張って宣言するみたいに告げる。
「弟の光希だよ! 仲良くしてね!!」
 拍手で迎えられた僕は、まず姉の友達グループと仲良くなった。
 次第に公園に行く機会も増え、僕は少しずつ会話ができるようになっていく。ある程度経った頃には公園であった出来事を食事時に話すようになり、そこに乗じて自分も団らんの中に入っていく。
 こうして家庭と打ち解けることができた。
 その時に姉が言ってくれた。血がつながってもつながってなくても、あなたが楽しいなら良いじゃない、と。
 そんな彼女もバレリーナを目指していた。
 人生の岐路に立っていたけれど、彼女は我が家の天秤に金貨を置くことはなかった。いや、できなかった。
 それでも、僕にとっては大切な人物。
 ずいぶん久しぶりに思い出したことを、栞に話してみよう。明日は何をしようか、そんな期待を実感したら安心してくる。
 そういえば、ここはどこなんだろう。
 スマートフォンでここの位置情報を表示させてみる。すると、この旅館はほとんど海岸線沿いにあることが分かった。近くには何もなく、陸の孤島みたいな場所だった。おまけに、画面をスワイプさせてみても、辺りに何も見つけられない。
 クローバー畑はどこなんだろう。灯台のカフェはどこなんだろう。
 決して見つけられなくても、僕は期待を寄せてしまう。
 彼女と一緒なら、どこに行くのも楽しそうだ。
 
 やっと眠りにつくことができた。