森の中で風が吹いていた。
 たとえそよ風であっても、健気に吹いては木々を揺らしている。かすかな音を立てていた。
 枝の先端に小鳥がいた。
 あたりを見渡していると、空に向かって飛んでいった。
 
 わたしたちは豊かな自然の音に耳をすませて生きている。
 もし、だよ。だれもこれらの光景を見ていなかったら、それらは起こりえたと言えるのだろうか。風は吹いたのでしょうか、鳥は飛んでいったのでしょうか。
 こんな考えが古くから人類の間に眠っている。
 だれにも注目されなければ、とても悲しい。
 だれにも声をかけてもらえなければ、光景の中にいても気づいてもらえない。
 夕暮れの光が作り出す影が、ひとりで遊んでいる子どもを包み込むような感覚に似ている。
 
 わたしはひとり階段を登る。
 手すりに手をかけて、重たい足を引きずりながら。一歩一歩を踏みしめるように登っていく。ぐるりぐるりとその先を目指して登っていく。
 たっぷりと時間をかけて、二階へと上がった。
 部屋のいちばん奥には大きな窓があって、レースのカーテンがかけられていた。
 窓を開け放つと、一気に風が流れて、わたしの髪を揺らす。目の前に青い空と白い雲が見える。そして海がきらめいていた。
 
 ――この景色を、わたしは見たかった。
 
 風を、自然を感じるのが好きだった。
 だれも見ていなくても、それらは起こりえるんだ。だれかが見ていないと意味がないなんて、悲しいことは言いたくない。
 観客がいないバレリーナ。
 美しく懸命に踊っている姿こそ生まれる価値を信じたい。
 たとえ、わたしが生きる意志を失ったとしても。

 ・・・

 窓際のテーブルに腰を下ろした。
 椅子に座るなり、どっと疲れが押し寄せるのを感じる。
 遠いところまで歩いたことを褒めてあげよう。がんばって自分の身体を支えてくれたことに感謝しよう。その気持ちを込めて、長い足をそっとなでた。
 ありがとう。
 そうだ、ちょっとやってみたいことを思いついた。
 だれも見ていないからだいじょうぶ。ゆっくりと立ち上がると、椅子の背もたれに手をかけた。そのまま足を上げるくらいならできるかもしれない。
 ピルエットを、踊ってみよう。
 
 わたしたちは丸い地球の中で生きている。
 祈りをささげ、キスをしてきた。古くから続く歴史の中で、人を愛する姿はずっと変わらずに受け継がれている。まるで地中に眠る鉱物のよう。
 鉱物を磨くと宝石になる。
 宝石は人々を美しく引き立てる。
 
 わたしのこと産んでくれた人がいる。
 (しおり)という名前をつけてくれた人がいる。
 
 そうしてわたしは人生を歩み出した。そして、愛の巡り合わせがあるなんて思いもしないだろう。今日、ここで。
 
 抱きしめたい出会いは宝石のように輝く。