「もう知らない!」

 私の怒鳴り声が、アスファルトに叩きつけられるヒールの音と共に、都会の夜空に虚しく吸い込まれていく。怒りに任せ、私は一目散に駅の改札を駆け抜けた。

 背後で、彼氏の圭太が驚いた顔で立ち尽くしているのが視界の端で捉えられた。

 私は、ホームへと続く階段を駆け上がる。

 視線の先で、最終電車のドアがまるで私を嘲笑うかのように、ゆっくりと閉まっていくのが見えた。

 間に合わなかったのではなく、間に合わせなかった。指先がドアに届きそうな距離……寸前で私は、足を止めたのだ。

葵子(きこ)!」

 圭太の叫び声が、駅のホームに響く。けれど、私は振り返らない。閉まっていく電車のドアの向こうに圭太の顔が映るのが嫌で、そのまま来た道を走り続ける。

 この電車に乗ってしまえば、喧嘩したまま彼の家に泊まることになり、明日の朝まで気まずい空気のまま顔を合わせ続けることになる。それだけは、絶対に嫌だった。かといって、今すぐ仲直りできるわけでもない。

 いっそこのまま、どこか遠くへ逃げてしまいたい。そんな衝動に突き動かされる。

 心臓がドクドクと激しい鼓動を打ち鳴らす。

 行き場のない感情は、まるで喉までせり上がった鉛の塊のように、私の中で膨れ上がっていた。

 ブルブルと、スマホが震える。圭太からだ。

 画面に表示された彼の名前を見て、また胸の奥底から熱いものがこみ上げてくる。

 私は迷わず着信を拒否し、そのままスマホの電源を切った。これで、彼と連絡を取る手段はなくなった。

 良かった、やっと一人になれた。圭太の顔をもう見なくて済む。なのに……なぜだろう。胸のあたりがズキリと痛んだ。

 山下葵子、二十三歳。都内の広告代理店でデザイナーとして働く社会人二年目だ。大学では、美術学部のデザイン科に在籍していた。

 圭太とは大学時代からの付き合いで、もう三年になる。彼との出会いは美術部の展覧会。初めて話したとき、圭太が少し照れながらも、私の描いたイラストを褒めてくれたのがきっかけだった。

 圭太は、黒髪を少し伸ばした爽やかな青年で、いつも笑顔で私の話を真剣に聞いてくれる彼に惹かれ、自然と隣にいるようになった。

 駅を出て、とぼとぼと当てもなく夜の道を歩き出す。ヒールがアスファルトを叩く音が、やけに大きく響いた。

 深夜だというのに、街はまだ煌々と輝き、ネオンサインの人工的な光が目に突き刺さるように痛い。どこへ行けばいいのか、全く分からなかった。この眩しさが、かえって私の孤独を際立たせるようだった。

 ただこの場から、圭太から、そして何より感情的に爆発してしまった自分から逃げ出したかった。

 どれくらい歩いただろう。ふと、白々と光るコンビニの明かりが目に入った。普段なら素通りするのに、今日はなぜか足が吸い寄せられるように向かう。

 自動ドアが開くと、冷気と共に電子レンジの「チーン」という小さな音が聞こえた。

 店内は深夜とは思えないほど明るく、煌々とした蛍光灯の光が、ひっそりと並ぶ商品棚を照らしている。奥のカウンターでは、店員さんが眠そうに体を揺らしていた。

 私はアイスコーナーで迷うことなく、カップに入った濃厚なバニラのソフトクリームを手に取った。白い渦巻きが、コンビニの照明を反射してきらめいている。

 レジへ向かい、袋も断って、そのまま店を出た。


 店の外に出ると、すぐにアイスの蓋を開け、冷たいスプーンをそっと差し込む。一口、口に運ぶと、ひんやりとしたバニラの甘さが舌の上に広がり、カッと熱くなっていた頭の奥が、じんわりと冷めていくのを感じた。

「……美味しい」

 冷たいアイスを口に運びながら、思う。普段、こんなふうに衝動的に何かをすることなんてめったにない。

 こんな時間に、こんな行動に突き動かされるなんて、まさに「終電を逃した夜の妙な解放感」なのかもしれない。普段の私なら、カロリーを気にして絶対手に取らない甘いものだが、今だけは、その甘さが、私の心を深く満たしていくのを感じた。

 アイスを食べながら歩いていると、ふと、見慣れない大きな公園の入り口が目に入った。普段、私が通る道からは少し外れた場所にある。

 街灯がまばらに道を照らし、昼間とは異なる静寂が漂う。何かに引き寄せられるように、私は公園の中へと足を踏み入れた。喧騒が遠ざかるにつれて、心にさざ波が立つように落ち着きを取り戻していくのを感じる。

 公園の奥には、ぽつんとベンチがあった。そこに腰を下ろし、私は大きく息を吐く。身体の震えが止まらない。今日のデートでの圭太とのやり取りが、頭の中で何度も繰り返された。

 季節は夏の終わり。夜風はわずかに熱を帯びていたものの、日中の蒸し暑さから解放された空気は心地よかった。

 今日は、私が行きたいと思っていたプロジェクションマッピングで彩られた、幻想的な水族館の夜間イベントがあったのに。結局、圭太が行きたがっていたVRゲームの新作発表会を兼ねたeスポーツ体験フェスに行くことになった。

 私が『どこでもいいよ』なんて言ったから、いけないんだ。
 そう、いつもそうだ。本当に言いたいことを飲み込んで、「どうでもいい」ふりをしてしまう。

『ねえ、圭太……』

 私は隣に立つ圭太の袖を、そっと引っ張った。彼は夢中になってVRヘッドセットを覗き込み、私の声にも気づかないふりだ。私は口を閉じた。イベント会場の熱気と、周囲の歓声が、まるで私だけを取り残しているようだった。

 隣で夢中になる圭太を見ていると、胸の奥に冷たい水が広がり、寂しさが募っていく。

『ねえ、圭太。私、正直、全然楽しくないんだけど……』

 私の声に、ようやく圭太はVRヘッドセットを外した。彼の顔には、心底楽しかったという高揚感が残っている。そして、私の言葉を聞いて、その表情がすっと曇るのが分かった。

『おい、葵子。こっちは、せっかく楽しもうとしてるのに、水を差すなよ』

 その一言が、私の心の引き金を引いた。まるで私の気持ち、私の存在そのものを否定されたように感じたのだ。

 ……なんで分かってくれないの?

 心の中で叫んだ。昔から、私の胸にはいつも、この叫びが響いている。

 ――『大丈夫だよ、葵子。俺がちゃんと見てるから』

 圭太は、私にいつもそう言ってくれた。私が少しでも悩んだり、不安な顔をしたりすると、すぐに気づいて優しい言葉をかけてくれる。

 大学時代、私が卒業制作のデザイン案で煮詰まって徹夜続きだったとき、彼は何も言わずに温かいコーヒーとサンドイッチを差し入れてくれた。
 ただ、それだけ。でも、その温かさが、私を丸ごと包み込んでくれるような優しさに思えて、すごく嬉しかった。

 この人なら、私の全てを受け入れてくれる。言葉にしなくても、きっと分かってくれる。そう強く感じたのだ。だから、私は圭太なら、私の言葉の裏にある本当の気持ちも、きっと分かってくれるはずだと信じていた。その信頼が、いつの間にか「言わなくても察してくれるはず」という、過度な期待に変わってしまっていた。

 ふと顔を上げると、驚くほど澄んだ夜空が広がっていた。都会の真ん中だというのに、こんなにもたくさんの星が見えるなんて。まるで宝石箱をひっくり返したように、無数の星々が瞬いている。吸い込まれるようなその輝きに、私の胸の奥に溜まっていた感情の塊が、少しずつ溶けていくのを感じた。

 公園の奥の、街灯の光が届かない木陰で、二つの小さな光が動いているのが見えた。野良猫の目だろうか。闇の中でひっそりと息づく命に、心がざわつく。
 足元に目をやれば、昼間の雨が残した小さな水たまりが、夜空の星を映し出し、まるで別の宇宙が広がっているようだった。

 深夜の公園は、昼間とは全く違う顔を見せる。非日常の空気が、私の心をゆっくりと浸食していく。星を見ていると、圭太と初めてデートした日のことを思い出した。

 あのときも、夜景の綺麗な場所に行ったっけ。二人の未来を語り合って、どんな些細なことでも笑い合えた。あの頃は、今よりもっと素直になれていたはずだ。
 それなのに……どうして私は、こんなにも意固地になってしまったのだろう。

「こんばんは。こんな夜更けに、珍しいわね」

 突如、優しい声が聞こえて、はっと顔を上げた。

 少し離れたベンチに、私と同じように夜空を見上げている女性がいた。すらりとした体躯で、黒のシンプルなワンピースを着ている。肩にかかるくらいの栗色の髪は毛先が緩く巻かれていて、都会的でありながら柔らかな印象だ。

 三十代後半くらいだろうか。落ち着いた雰囲気で、私と目が合うと、ふわりと微笑んでくれた。

 その微笑みは、押しつけがましくなく、ただそこにいる私を、受け入れてくれるような温かさがあった。

「あ、はい……」

 彼女は私の向かいのベンチに座っていたが、そっと立ち上がり、こちらへと近づいてくる。

「もし良かったら、隣に座ってもいいかしら?」

 彼女の穏やかな声に、なぜか心が緩んだ。私は小さく頷き、少しだけスペースを空けた。彼女は私の隣にそっと腰を下ろす。

 初対面なのに、不思議と警戒心はなかった。この星空の下という特別な空間が、そうさせたのかもしれない。それに、彼女の瞳の奥に、どこか私と同じような“何か”を抱えているような、そんな気配を感じたから。まるで、私と同じように、この夜の静寂を求めてここにいるのだと。

 彼女は何も尋ねず、ただ静かに私の隣に座って星を見上げている。その無言の優しさが、私の心の奥に溜まっていた重たいものを、少しずつ揺り動かしていく。

「あの……、私、今日、彼氏と喧嘩しちゃって……」

 気づいたら私は、まるで堰を切ったように、今日あった出来事をぽつりぽつりと話し始めていた。

 圭太との喧嘩のこと、終電を逃したこと。そして、いつも自分の本心を隠して強がってしまう自分の性分のこと。話し始めると、止まらなかった。きっと、誰かに話を聞いて欲しかったのだ。

 彼女は何も言わず、ただ静かに、私の言葉に耳を傾けてくれていた。その眼差しは、私を非難するわけでもなく、ただ受け止めてくれているようで、温かい。

 私の話を聞き終えると、彼女は少しだけ間を置いて、ゆっくりと話し始めた。

「感情的になるのは、誰にでもあることよ。私も若い頃はそうだったわ。言いたいことがあっても喉まで出てこなくて、結局飲み込んで後悔するばかり。それだけで、すれ違ってしまった人もいたわね」

 彼女は優しく微笑み、まっすぐに私を見つめた。その瞳には、過去の経験から得た確かな知恵と、私への温かい励ましが宿っているように見えた。

「でもね、その後にどうするかで、関係はいくらでも変わるの」

 彼女は、彩さんと名乗った。彩さんも、仕事のストレスで気分転換に星を見に来たのだという。

「私も昔、本当に好きだった人に、自分の本音を伝えるのが怖くて、結局すれ違ってしまったことがあるの。あのとき、もっと勇気を出して、素直になっていれば……って。今でも時々思うわ」

 彼女の言葉が、私の心に深く響いた。

「でも……そんな簡単には変われないんです。大事なときに、素直になれない……」

 私は俯き、膝を抱え込んだ。彩さんは私の言葉を遮らず、じっと見守ってくれていた。

「意地を張るのは、自分を守る術でもあるかもしれない。でもね、本当の気持ちを伝える勇気も、時には必要なのよ」

 彩さんのその言葉は、まるで私の心の壁をそっと撫でるようで。言われてみれば、確かにそうだ。素直になれないのは、自分が傷つくのが怖いからだ。

 気づいたら私は、今まで誰にも話せなかった過去の出来事を、彩さんに打ち明けていた。

「私……昔、大切な友達を失くしたことがあるんです」


 遠い記憶が、鮮明に蘇る。

 ――あれは、小学三年生の秋。

 クラスで一番仲良しだった親友のサツキと、私は些細な口喧嘩をしてしまった。新しい転校生がクラスに馴染めなくて困っている時、私は早く仲良くなりたい一心で、サツキに内緒で放課後遊ぶ約束をしたのだ。

 サツキはそれを知って、ひどく傷ついた顔をした。私の心が、ずるい気持ちと、サツキに嫉妬されることへの優越感でいっぱいになった。

 本当はサツキが一番大切なのに、その気持ちを認めるのが嫌で、私は『うるさいな! 私の勝手でしょ!?』と、まるで自分を守るように意地悪な言葉を投げつけてしまった。

 数日後。サツキが突然、転校することになったと知った。結局、謝ることも、仲直りすることもできないまま、彼女は私の前からいなくなった。そのとき、胸にぽっかりと穴が開いたような感覚に襲われた。あのときの後悔が、ずっと私を縛りつけている。

 幼い頃の痛みが胸の奥に蘇り、今もサツキの声が耳に残っているような気がした。


 その次は、高校生のとき。美術部に所属していた私は、同じ部にいた憧れの先輩に片思いをしていた。先輩はいつも優しくて、私の絵を褒めてくれた。

 先輩に片思いして、初めてのバレンタインデーの日。手作りのチョコレートを渡すチャンスは、いくらでもあったのに。

 私は、彼にだけ特別なチョコを渡すのが恥ずかしくて。わざと他のクラスメイトにも配り歩いたあとで、まるでついでであるかのように『これ、みんなにも渡してるので、先輩も良かったらどうぞ』と、あくまで“友達として”という顔をして渡してしまった。

 告白どころか、特別な気持ちさえ伝えることができなかった。あんな言い方しかできないなんて、自分でも本当に可愛くないと思った。手のひらで、ぎゅっと拳を握りしめる。

 この臆病な自分を、どうしようもなく情けなく感じた。

 そして、卒業式の日。先輩が美術室を出ていく後ろ姿を見送りながら、私は初めて、自分の臆病さがどれほど後悔に繋がるかを知った。

 あのとき、一言でも「先輩が好きです」と言えていたら、何か変わったかもしれないのに……。


「あのとき、もっと素直になれていたらって、ずっと後悔してるんです。だから、圭太とは、このままじゃダメなんだって、そう思って……。彼も、いつか私から離れていってしまうんじゃないかって、不安で」
「そうだったのね」

 彩さんは否定したりすることなく、静かに受け止めてくれた。その瞬間、私の心にあった重荷が、すっと軽くなったのを感じる。

「私、圭太に甘えすぎてたのかもしれません。彼なら、言わなくても分かってくれるはずだって……」
「大切な人だからこそ、ちゃんと伝える努力をするべきね」

 彩さんの言葉に、私は深く頷いた。

 星空を見上げながら、私は圭太と出会った頃の自分を思い出す。

 あの頃の私は、もっと素直で、小さな喜びにも感動できていたはずだ。いつの間にか、硬い殻をまとって、感情を隠すようになってしまった。

 夜空の星々が、まるで私自身の心の光を映しているように見えた。素直になれない自分、臆病な自分。でも、同時に、圭太を本当に大切に思っている自分も、確かにそこにいる。

「私……もう一度、圭太とちゃんと向き合いたいです。素直になりたい」

 私の口から、偽りのない言葉がこぼれた。

「葵子ちゃんなら、きっと大丈夫よ」

 彩さんは優しく微笑んで、私の肩をそっと叩いてくれた。その手は温かく、私に安心感を与えてくれる。

 彩さんも、私との会話を通して、自分自身の仕事に対する向き合い方を改めて見つめ直したと、話してくれた。
 私たちはお互いに、この夜の出会いが、何かを変えるきっかけになると感じていた。

 東の空が、ほんのりと白み始める。星々が、一つ、また一つと、夜空に溶け込んでいく。

 ……夜明けが近い。

 私たちはベンチから立ち上がり、公園の出口へと歩き出した。

「ねえ、葵子ちゃん。この先のお互いの人生、きっとこれからまだまだ、面白いことがたくさん待ってるわ」

 彩さんは、私に笑顔で言った。

「またいつかここで、今日のこの夜が、それぞれの未来にどんな変化をもたらしたか、そんな話をしましょうね」
「はい!」

 彩さんの言葉は、私にとって未来への希望の光のように感じられた。

「彩さん。今日は、本当にありがとうございました。お話できて良かったです」

「ふふ、私も。あなたに会えて良かったわ」

 彩さんと別れ、私は清々しい気持ちで駅へと向かう。昨夜の意地や後悔は、朝の光に溶けて消えたようだ。心には、温かい決意が芽生えている。

 駅のホームで電車を待つ間、私はスマホのメモ帳を開いた。圭太に伝えたいことを、頭の中で整理しながら書き出す。

『ごめんね』
『ありがとう』
『本当は、水族館に行きたかった』
『圭太と、もっと色々なことを共有したい』

 普段は言えないような素直な気持ちを文字にすることで、自分の気持ちがより明確になっていく。胸の奥に、じんわりと温かいものが広がるのを感じた。

 そうだ、これからはもっと言葉にして伝えよう。仕事での提案も、もっと自分の意見を積極的に出してみよう。

 そんな思いが自然と湧いてきた。

 私は、スマホの電源を入れる。途端に、圭太からの着信通知とメッセージが何件も届いた。私は一つ一つ開くことなく、新しいメッセージを作成した。

【昨日はごめんね。圭太に、ちゃんと話したいことがあるの。会えないかな?】

 送信ボタンを押すと、すぐに圭太から返信が来た。

【俺のほうこそ、ごめん。俺も葵子に会いたい。今からでも大丈夫?】

 そのメッセージを読んで、私の目に熱いものがこみ上げてきた。今度は、安堵と彼への感謝の気持ちで、涙が溢れて止まらない。

 夜を徹しての出来事が、まるで夢のようにも感じられる。けれど、星空の下で感じた感情も、彩さんとの出会いも、確かに私を変えた。

 あの夜があったから、私は一歩踏み出すことができた。

 夜明けの光が、私の顔を優しく照らす。

 私は圭太との待ち合わせ場所へと向かって、ゆっくりと歩き出した。

 その足取りは、昨日よりもずっと軽やかだった。

 【完】