壁の時計の短針が「1」を指したとき、わたしの仕事は一区切りついた。あとはクライアントにメールを送れば完了だ。
誰もいない、しんとしたオフィス。明るいのはわたしのいるエリアだけ。
一時は一時でも、今は午前一時。はめ殺しの窓の外は、真っ黒な闇に塗りつぶされている。
アイシャドウがよれるのも、マスカラが落ちて目の周りが黒ずむのも構わず、わたしは目をこすりながら、かすんだ画面に顔を近づける。
「えっと、宛先に坂田様と、石塚様、それからCCに課長と、営業の渡辺さん……」
昼休みが終わった十三時から、十二時間、トイレと飲み物を買う以外、ノンストップで働いている。脳の活動量は限界だ。
ろくに働かない頭で、メールを誤送付してしまったら大問題。宛先、内容、添付ファイル。一つ一つ指差し確認をする。
「大丈夫、間違いない……」
わたしは震える指でメールの送信ボタンを押した。
十一階建てのスタイリッシュなオフィスビルの五階に、わたしが在籍する会社は入っている。普段、ガラス張りの豪奢なロビーは光がたっぷりと入り、アロマの香りに包まれた華やかな空間なのに、今はぽつぽつと常夜灯が寂しく光るだけだ。外の空気をダイレクトに受け止めて冷えたロビーでは、大胆に活けられた花すらくすんで見える。
自動ドアは鍵をかけられ、その外側には鉄の柵が降りている。そうだった。この時間はもう、表玄関から外には出られない。
わたしは踵を返してエレベーターホールのもう一つ奥の区画へと向かった。終電に間に合うか、ギリギリだ。自然と早足になる。
そこは守衛室だった。年末年始の休暇中や深夜早朝など、表玄関が閉まっているときは、この守衛室のある裏口から外に出なければならない。
「お疲れ様です。すみません」
わたしは守衛室の小さな窓に声を掛ける。二人の男性の後ろ姿が見える。警官の制服によく似た、警備員の制服姿の男性一人、廊下側窓の前に座っている。若い男性だ。わたしの存在に気付き、窓が開いた。
「お疲れ様です。入退出の名簿、お願いします」
裏口は昼間でも使えるが、今のように表玄関が閉まっているときのビルへの入退出は、名簿に入退出時間、それから会社名と氏名を記載しなければならない。年季の入ったクリップボードを受け取る。
深夜残業常連のわたしは、よくこの手続きをする。この時間の窓口対応は、松井さんというおじいさんが行っていることが多い。しかし、今、目の前にいるのは、若い男性。帽子と廊下の闇で顔が隠れて見えづらい。
新しい人が入ったのかな、と思いながら、わたしは腕時計を見る。クリップボードに挟まれた名簿に、時間と会社名と氏名を書いた。
「お願いします」
「はい、ありがとうございます。気をつけて……え?」
「どうしましたか?」
わたしが訊いても返事はすぐに返ってこない。不思議に思っていると、若い守衛は窓からわたしを覗き込むように見た。
「藤堂千紗希? 違ったら申し訳ないけど、もしかして、榮陵大学社会学部?」
「え! そうですけど……」
出身大学を言い当てられて、わたしは肝を潰す。守衛は、胸についた名札を引っ張ってわたしに見せた。
「覚えていないかもしれないけど」
その名札には《湊脩真》とあった。
「湊くん!?」
この珍しい名前で、同姓同名がそうたくさんいるとは思えなかった。守衛は帽子を取る。少し大人びた、でも確かに記憶の面影がある笑顔が見えた。
「覚えててくれた?」
「もちろん! 英語の必修が同じクラスだったよね。わぁ、久しぶり。元気?」
「俺はね。藤堂さんこそ、こんな遅い時間までどうしたの」
苦々しくため息をつく。
「残業だよ……」
「それはそうか。ごめん」
「謝ってもらうことでもないけどね」
クスクスと笑う。湊くんは守衛室側のカウンターに手をついて言う。
「まさか会えると思わなかった。今、時間ある?」
わたしはもう一度腕時計を見る。今から急いで駅に向かっても、終電には間に合わないだろう。
「終電逃しちゃった」
「え、大丈夫?」
「うん、どちらにしろギリギリだったから半分諦めていた。タクシーで帰れば良いから大丈夫だよ」
湊くんは申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「ごめん。でも、良かったら少し外で話そうよ」
「良いの? 仕事中でしょ」
湊くんは背後でストーブにあたっている、いつものおじいさんに声を掛ける。
「松井さん。俺ちょっと出てくるわ」
「はいよ」
あっさりと許可は下りたようだ。窓の左横にある扉から、警備員の制服にダウンコートを羽織った湊くんが出てきた。
「ちょっとコーヒーでも飲もうよ。缶コーヒーで悪いけど、おごるよ」
裏口を出てすぐのところにある自動販売機で、湊くんは温かい缶コーヒーを二本買った。
「はい」
「良いの? ありがとう」
わたしは、湊くんの厚意に素直に甘えることにした。パキッというタブの音が冬の夜空に響いた。微糖のコーヒーは、脳に染み渡るほどに甘く感じた。
「こんな時間まで残業お疲れ様」
「そうだなぁ。最近は残業が多くて、裏口から帰る常連になってるよ」
自嘲しながら、ちらりと湊くんを見る。大人になったけれど、纏う雰囲気は変わっていない。
「いつからここの守衛さんに? 少し前まではいなかったよね」
「この警備会社に入ってからは長いんだけど、このビルに欠員が出て、今週から急遽異動になったんだ」
「そうなんだ。こんなところで会えるなんて、嬉しいよ」
会話が途切れる。わたしは、缶コーヒーを掌で包みこんだ。
心臓のリズムが速くなる。訊いても良いのだろうか。訊きたい。
「……何があったの」
「何って?」
そう言って、目を細める。何かごまかしているときの湊くんの癖だ。
「大学、来なくなったと思ったら、いつの間にか退学していた。湊くんは成績も良かったし、びっくりした」
湊くんは星の見えない黒い空を見上げる。
「ああ……。俺、母子家庭なんだけど、一年生のときに母親が脳梗塞で倒れたんだ」
わたしは息を飲む。湊くんはわたしに視線を戻して続ける。
「入院とか、いろんな手続きとか、お金のこととか、バタバタしていたら、後期はほとんど大学に通えなくて、進級に必要な必修の授業を全部落とした。留年が確定になって……俺は奨学金で通っていたんだけど、在学期間が延びて余分に奨学金を借りることは無理だった。後遺症が残った母親の介護のこともあるし、俺自身も生活していけないと思って、退学したんだ」
わたしは何も言えない。何も言わずにいなくなった湊くんのことは、ずっと気にしていた。まさか、そんな大変なことが起きていたなんて。
「何も言わずに辞めたのは悪かったよ。ごめん」
「お母さんは……」
「今は、障害者グループホームで暮らしているよ」
「そう……なんだ」
わたしは目線をコンクリートの地面に落とす。
「ごめんね、辛気臭い話で」
「ううん、わたしが訊いたから」
「藤堂さんは無事卒業したんだね」
「うん。このビルに入っている会社で働き始めて、三年目」
「良かった」
ふと顔を上げると、湊くんがLED照明に照らされて、優しく微笑んでいた。心臓が大きく跳ねた。
わたしは、大学時代、湊くんのことが気になっていた。明るくて、誰にでも分け隔てなく接する、真面目な男の子だった。思わぬ再会で、わたしは動揺している。湊くんの顔を直視できない。
「それにしても、藤堂さん、疲れた顔をしているなぁ。こんな時間まで働いていたら、そうなるか」
「もう夜中の一時半だもんね」
湊くんが、腕時計を見る。
「……ねぇ、あと三十分、俺に時間をくれない?」
「え?」
本来なら早く帰って眠りたい。しかし、今は湊くんとの再会の喜びと、好奇心が勝った。
「うん。良いよ」
「ちょっと待ってて」
湊くんと一緒に裏口からビルに入り直す。湊くんは一度守衛室に戻ると、すぐに廊下に戻ってきた。
「ついてきて」
わたしは、湊くんの後ろを歩いた。
エレベーターで十一階まで上がり、フットランプと湊くんの懐中電灯の光を頼りに、暗い廊下を進んでいく。知らない会社名の前を通り過ぎていく。
「わ!」
わたしは、廊下の絨毯につまさきを引っ掛けて転んだ。
「大丈夫?」
湊くんが振り向いて、しゃがみ込む。
「怪我は?」
「ないよ。足もひねっていないみたい」
「コーヒーはこぼれなかった?」
わたしは左手につまむように持っていた缶コーヒーを見る。
「半分も残っていなかったみたいだし、こぼれなかった。運が良いな」
「良かった。行こう」
湊くんは立ち上がり、わたしに手を差し伸べた。暗い廊下、わたしはその手を握って立ち上がった。ゴツゴツとした、皮の分厚い掌は温かかった。
わたしたちは、手をつないだまま歩いた。
ビルの端にある非常階段の前までやってきた。その隣に、見慣れない扉がある。湊くんは、ポケットから鍵束を出して、そのうちの一つを鍵穴に差し込む。カチャリと気持ちの良い音がして、解錠した。
奥には、暗い階段が続いていた。
「上るの?」
「うん、大丈夫だから」
わたしは、右手を湊くんと繋ぎ、左手で缶コーヒーを持って階段を上っていく。湊くんがわたしの一段先を上って、導いてくれる。暗闇に紛れる段差に足を取られないよう、慎重に踏みしめる。
この胸の高鳴りは、これから起こることへの高揚感か、湊くんのぬくもりを感じる右手のせいか、原因がわからない。
踊り場を折れてさらに上ると、重そうな鉄扉が見えた。その鉄扉も、湊くんが解錠した。
鉄扉が開かれた。
冷たい風が吹き込んでくる。屋上だ。
「わぁ!」
黒い空に、夜景が広がっていた。
建物の屋上に立つのは初めてだ。学校の屋上は封鎖されていたし、住んでいるマンションも同様だ。下ろした長い髪が柔らかく空気を含んだ。黒い髪は空の闇に溶けてしまいそうだ。
わたしは湊くんの手を離し、思わず駆け出した。コンクリートが靴の裏に固い。肩にかけたトートバッグがずり落ちそうになる。
目の前には、光が散りばめられていた。
遠くに闇に力強く光るタワーや高層ビルが見える。
屋上の端の柵につかまり、地上を見下ろす。天地がひっくり返ったようだ。地上にきらめく星屑は、わたしの頭を一気に覚醒させた。
遠くで電車の音がする。わたしが乗るはずだった終電が走り去ったのだろう。
「急に走り出したら危ないよ」
湊くんがわたしの隣にやってきた。吐く息が白い。
「良いだろ? 守衛の特権。今はイルミネーションもあるから、特にきれいなんだ」
「そっか、あの光の列は、街路樹のイルミネーションね!」
わたしはすっかり興奮していた。
小さく動く人々。車のライト。このビルよりも低い建物の灯り。その光は、澄んだ冬の空気によって何ものにも遮られず、わたしのもとへと届いた。
星が地上に降りたようだ。
「気に入った?」
「すごく!」
「元気になって良かった。しんどそうな顔だったから」
湊くんが飲みかけの缶コーヒーを掲げる。
「メリークリスマス」
仕事に没頭して、すっかり忘れていた。今日はクリスマスイブだ。いや、午前零時を越えたから、クリスマスだ。
「メリークリスマス!」
わたしは、湊くんの缶に自分の缶を当てる。
「缶コーヒーなんかで悪いけど」
「そんなことない! それに、夜景を見ながら、終電後の寒いビルの屋上で冷めた缶コーヒーの乾杯をしたクリスマスなんて、絶対に忘れられないよ!」
湊くんは体を折って笑った。
「確かにそうだ!」
冷えた風は、いつもならつらいだけなのに、妙に心地良い。体がほてっているのだろうか。わたしは、ずっと眼下を眺め続ける。
「きれいだなぁ」
「この辺りは高台だし、近くにこのビルより高い建物がないから、この場所が一番の夜景スポットなんだよ。でも、ここは一般人を入れてはいけないから、屋上に入ったことは二人だけの秘密だよ」
「わかった」
──二人だけの秘密。その甘酸っぱい響きの言葉に、胸がきゅうと締め付けられる。
自然と右手の小指が触れ合う。そのまま、指切りをする。真冬の空気の中、右手の小指一本が暖炉のように温かい。
「ごめんね」
湊くんが悲しげに言う。わたしは首を傾げて、話を促した。
「何も言わずに、大学を辞めてごめん。いつも仲良くしていた、英語の授業のチームメンバーには言おうか迷ったんだけど……言ったら、迷ってしまいそうだったから」
「だから、連絡先もブロックして、いなくなったの?」
「本当にごめん」
小指が離れる。
「……事情はさっき聞いたから……何も言えないけど、わたしは寂しかったよ」
「うん」
パアン、と大きい音がはるか下の道路から聞こえた。自動車のクラクションだろう。
「藤堂さんは、変わらないね」
「そう?」
「うん。しっかりしていて、頑張り屋で。今日もこんな遅くまで残業している」
「可愛げがないって言われてるよ」
わたしは遠くを見つめる。眠りにつき始めた街を見る。ビルの灯りが消えていく。
「わたし、来年度、昇進する予定なの。同期で一番早い。だから、裏でいろいろ言われているんだ」
再会したばかりの湊くんに余計なことを言ってしまうのは、眠いからだ。疲れているからだ。そして、素敵な景色を見たからだ。すべての要素がわたしから判断力を奪う。
余計な思考が削ぎ落とされていく。残るのは、ごまかすことのできない感情だ。
「藤堂さんは、可愛いよ」
ストレートな表現に驚いて、隣に立つ湊くんを見上げる。
「そんなにびっくりしなくても」
「いや、びっくりするでしょう」
「こんなに努力している人を可愛げがないなんて貶めるほうがどうかしている。藤堂さんは、大学のときから、ずっと可愛い」
「ちょっとやめて。恥ずかしいでしょ」
わたしは声を上げて、真っ黒な夜空に笑う。一通り笑うと、湊くんに向き合うように立った。
「ありがとう」
「何もお礼を言われることはしていないよ。俺は、この景色を藤堂さんと見られて満足。でも、あまり頑張りすぎないようにね。帰り道は危ないし、過労も心配だから」
「うん。でも、わたし今の仕事が楽しいんだ。だから、大丈夫」
湊くんは缶コーヒーを飲み干す。そして、わたしのほうを向いた。
「……触れて良い?」
頷く。
湊くんの大きな手が、まるでガラス細工を扱うようにわたしの頬に触れる。わたしはその手の上から、自分の手を重ねる。
視線が絡み合う。言葉はいらない。目を閉じた。
冷えた唇が触れ合う。甘いコーヒーの香りが、鼻腔をくすぐる。甘いのは、コーヒーか、湊くんか。
地上にあふれる星屑の海の中、ぽっかりと残された闇の島の頂上で、わたしたちは確かに二人、そこにいた。
十二月の夜。まだ、朝は遠い。
〈了〉
誰もいない、しんとしたオフィス。明るいのはわたしのいるエリアだけ。
一時は一時でも、今は午前一時。はめ殺しの窓の外は、真っ黒な闇に塗りつぶされている。
アイシャドウがよれるのも、マスカラが落ちて目の周りが黒ずむのも構わず、わたしは目をこすりながら、かすんだ画面に顔を近づける。
「えっと、宛先に坂田様と、石塚様、それからCCに課長と、営業の渡辺さん……」
昼休みが終わった十三時から、十二時間、トイレと飲み物を買う以外、ノンストップで働いている。脳の活動量は限界だ。
ろくに働かない頭で、メールを誤送付してしまったら大問題。宛先、内容、添付ファイル。一つ一つ指差し確認をする。
「大丈夫、間違いない……」
わたしは震える指でメールの送信ボタンを押した。
十一階建てのスタイリッシュなオフィスビルの五階に、わたしが在籍する会社は入っている。普段、ガラス張りの豪奢なロビーは光がたっぷりと入り、アロマの香りに包まれた華やかな空間なのに、今はぽつぽつと常夜灯が寂しく光るだけだ。外の空気をダイレクトに受け止めて冷えたロビーでは、大胆に活けられた花すらくすんで見える。
自動ドアは鍵をかけられ、その外側には鉄の柵が降りている。そうだった。この時間はもう、表玄関から外には出られない。
わたしは踵を返してエレベーターホールのもう一つ奥の区画へと向かった。終電に間に合うか、ギリギリだ。自然と早足になる。
そこは守衛室だった。年末年始の休暇中や深夜早朝など、表玄関が閉まっているときは、この守衛室のある裏口から外に出なければならない。
「お疲れ様です。すみません」
わたしは守衛室の小さな窓に声を掛ける。二人の男性の後ろ姿が見える。警官の制服によく似た、警備員の制服姿の男性一人、廊下側窓の前に座っている。若い男性だ。わたしの存在に気付き、窓が開いた。
「お疲れ様です。入退出の名簿、お願いします」
裏口は昼間でも使えるが、今のように表玄関が閉まっているときのビルへの入退出は、名簿に入退出時間、それから会社名と氏名を記載しなければならない。年季の入ったクリップボードを受け取る。
深夜残業常連のわたしは、よくこの手続きをする。この時間の窓口対応は、松井さんというおじいさんが行っていることが多い。しかし、今、目の前にいるのは、若い男性。帽子と廊下の闇で顔が隠れて見えづらい。
新しい人が入ったのかな、と思いながら、わたしは腕時計を見る。クリップボードに挟まれた名簿に、時間と会社名と氏名を書いた。
「お願いします」
「はい、ありがとうございます。気をつけて……え?」
「どうしましたか?」
わたしが訊いても返事はすぐに返ってこない。不思議に思っていると、若い守衛は窓からわたしを覗き込むように見た。
「藤堂千紗希? 違ったら申し訳ないけど、もしかして、榮陵大学社会学部?」
「え! そうですけど……」
出身大学を言い当てられて、わたしは肝を潰す。守衛は、胸についた名札を引っ張ってわたしに見せた。
「覚えていないかもしれないけど」
その名札には《湊脩真》とあった。
「湊くん!?」
この珍しい名前で、同姓同名がそうたくさんいるとは思えなかった。守衛は帽子を取る。少し大人びた、でも確かに記憶の面影がある笑顔が見えた。
「覚えててくれた?」
「もちろん! 英語の必修が同じクラスだったよね。わぁ、久しぶり。元気?」
「俺はね。藤堂さんこそ、こんな遅い時間までどうしたの」
苦々しくため息をつく。
「残業だよ……」
「それはそうか。ごめん」
「謝ってもらうことでもないけどね」
クスクスと笑う。湊くんは守衛室側のカウンターに手をついて言う。
「まさか会えると思わなかった。今、時間ある?」
わたしはもう一度腕時計を見る。今から急いで駅に向かっても、終電には間に合わないだろう。
「終電逃しちゃった」
「え、大丈夫?」
「うん、どちらにしろギリギリだったから半分諦めていた。タクシーで帰れば良いから大丈夫だよ」
湊くんは申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「ごめん。でも、良かったら少し外で話そうよ」
「良いの? 仕事中でしょ」
湊くんは背後でストーブにあたっている、いつものおじいさんに声を掛ける。
「松井さん。俺ちょっと出てくるわ」
「はいよ」
あっさりと許可は下りたようだ。窓の左横にある扉から、警備員の制服にダウンコートを羽織った湊くんが出てきた。
「ちょっとコーヒーでも飲もうよ。缶コーヒーで悪いけど、おごるよ」
裏口を出てすぐのところにある自動販売機で、湊くんは温かい缶コーヒーを二本買った。
「はい」
「良いの? ありがとう」
わたしは、湊くんの厚意に素直に甘えることにした。パキッというタブの音が冬の夜空に響いた。微糖のコーヒーは、脳に染み渡るほどに甘く感じた。
「こんな時間まで残業お疲れ様」
「そうだなぁ。最近は残業が多くて、裏口から帰る常連になってるよ」
自嘲しながら、ちらりと湊くんを見る。大人になったけれど、纏う雰囲気は変わっていない。
「いつからここの守衛さんに? 少し前まではいなかったよね」
「この警備会社に入ってからは長いんだけど、このビルに欠員が出て、今週から急遽異動になったんだ」
「そうなんだ。こんなところで会えるなんて、嬉しいよ」
会話が途切れる。わたしは、缶コーヒーを掌で包みこんだ。
心臓のリズムが速くなる。訊いても良いのだろうか。訊きたい。
「……何があったの」
「何って?」
そう言って、目を細める。何かごまかしているときの湊くんの癖だ。
「大学、来なくなったと思ったら、いつの間にか退学していた。湊くんは成績も良かったし、びっくりした」
湊くんは星の見えない黒い空を見上げる。
「ああ……。俺、母子家庭なんだけど、一年生のときに母親が脳梗塞で倒れたんだ」
わたしは息を飲む。湊くんはわたしに視線を戻して続ける。
「入院とか、いろんな手続きとか、お金のこととか、バタバタしていたら、後期はほとんど大学に通えなくて、進級に必要な必修の授業を全部落とした。留年が確定になって……俺は奨学金で通っていたんだけど、在学期間が延びて余分に奨学金を借りることは無理だった。後遺症が残った母親の介護のこともあるし、俺自身も生活していけないと思って、退学したんだ」
わたしは何も言えない。何も言わずにいなくなった湊くんのことは、ずっと気にしていた。まさか、そんな大変なことが起きていたなんて。
「何も言わずに辞めたのは悪かったよ。ごめん」
「お母さんは……」
「今は、障害者グループホームで暮らしているよ」
「そう……なんだ」
わたしは目線をコンクリートの地面に落とす。
「ごめんね、辛気臭い話で」
「ううん、わたしが訊いたから」
「藤堂さんは無事卒業したんだね」
「うん。このビルに入っている会社で働き始めて、三年目」
「良かった」
ふと顔を上げると、湊くんがLED照明に照らされて、優しく微笑んでいた。心臓が大きく跳ねた。
わたしは、大学時代、湊くんのことが気になっていた。明るくて、誰にでも分け隔てなく接する、真面目な男の子だった。思わぬ再会で、わたしは動揺している。湊くんの顔を直視できない。
「それにしても、藤堂さん、疲れた顔をしているなぁ。こんな時間まで働いていたら、そうなるか」
「もう夜中の一時半だもんね」
湊くんが、腕時計を見る。
「……ねぇ、あと三十分、俺に時間をくれない?」
「え?」
本来なら早く帰って眠りたい。しかし、今は湊くんとの再会の喜びと、好奇心が勝った。
「うん。良いよ」
「ちょっと待ってて」
湊くんと一緒に裏口からビルに入り直す。湊くんは一度守衛室に戻ると、すぐに廊下に戻ってきた。
「ついてきて」
わたしは、湊くんの後ろを歩いた。
エレベーターで十一階まで上がり、フットランプと湊くんの懐中電灯の光を頼りに、暗い廊下を進んでいく。知らない会社名の前を通り過ぎていく。
「わ!」
わたしは、廊下の絨毯につまさきを引っ掛けて転んだ。
「大丈夫?」
湊くんが振り向いて、しゃがみ込む。
「怪我は?」
「ないよ。足もひねっていないみたい」
「コーヒーはこぼれなかった?」
わたしは左手につまむように持っていた缶コーヒーを見る。
「半分も残っていなかったみたいだし、こぼれなかった。運が良いな」
「良かった。行こう」
湊くんは立ち上がり、わたしに手を差し伸べた。暗い廊下、わたしはその手を握って立ち上がった。ゴツゴツとした、皮の分厚い掌は温かかった。
わたしたちは、手をつないだまま歩いた。
ビルの端にある非常階段の前までやってきた。その隣に、見慣れない扉がある。湊くんは、ポケットから鍵束を出して、そのうちの一つを鍵穴に差し込む。カチャリと気持ちの良い音がして、解錠した。
奥には、暗い階段が続いていた。
「上るの?」
「うん、大丈夫だから」
わたしは、右手を湊くんと繋ぎ、左手で缶コーヒーを持って階段を上っていく。湊くんがわたしの一段先を上って、導いてくれる。暗闇に紛れる段差に足を取られないよう、慎重に踏みしめる。
この胸の高鳴りは、これから起こることへの高揚感か、湊くんのぬくもりを感じる右手のせいか、原因がわからない。
踊り場を折れてさらに上ると、重そうな鉄扉が見えた。その鉄扉も、湊くんが解錠した。
鉄扉が開かれた。
冷たい風が吹き込んでくる。屋上だ。
「わぁ!」
黒い空に、夜景が広がっていた。
建物の屋上に立つのは初めてだ。学校の屋上は封鎖されていたし、住んでいるマンションも同様だ。下ろした長い髪が柔らかく空気を含んだ。黒い髪は空の闇に溶けてしまいそうだ。
わたしは湊くんの手を離し、思わず駆け出した。コンクリートが靴の裏に固い。肩にかけたトートバッグがずり落ちそうになる。
目の前には、光が散りばめられていた。
遠くに闇に力強く光るタワーや高層ビルが見える。
屋上の端の柵につかまり、地上を見下ろす。天地がひっくり返ったようだ。地上にきらめく星屑は、わたしの頭を一気に覚醒させた。
遠くで電車の音がする。わたしが乗るはずだった終電が走り去ったのだろう。
「急に走り出したら危ないよ」
湊くんがわたしの隣にやってきた。吐く息が白い。
「良いだろ? 守衛の特権。今はイルミネーションもあるから、特にきれいなんだ」
「そっか、あの光の列は、街路樹のイルミネーションね!」
わたしはすっかり興奮していた。
小さく動く人々。車のライト。このビルよりも低い建物の灯り。その光は、澄んだ冬の空気によって何ものにも遮られず、わたしのもとへと届いた。
星が地上に降りたようだ。
「気に入った?」
「すごく!」
「元気になって良かった。しんどそうな顔だったから」
湊くんが飲みかけの缶コーヒーを掲げる。
「メリークリスマス」
仕事に没頭して、すっかり忘れていた。今日はクリスマスイブだ。いや、午前零時を越えたから、クリスマスだ。
「メリークリスマス!」
わたしは、湊くんの缶に自分の缶を当てる。
「缶コーヒーなんかで悪いけど」
「そんなことない! それに、夜景を見ながら、終電後の寒いビルの屋上で冷めた缶コーヒーの乾杯をしたクリスマスなんて、絶対に忘れられないよ!」
湊くんは体を折って笑った。
「確かにそうだ!」
冷えた風は、いつもならつらいだけなのに、妙に心地良い。体がほてっているのだろうか。わたしは、ずっと眼下を眺め続ける。
「きれいだなぁ」
「この辺りは高台だし、近くにこのビルより高い建物がないから、この場所が一番の夜景スポットなんだよ。でも、ここは一般人を入れてはいけないから、屋上に入ったことは二人だけの秘密だよ」
「わかった」
──二人だけの秘密。その甘酸っぱい響きの言葉に、胸がきゅうと締め付けられる。
自然と右手の小指が触れ合う。そのまま、指切りをする。真冬の空気の中、右手の小指一本が暖炉のように温かい。
「ごめんね」
湊くんが悲しげに言う。わたしは首を傾げて、話を促した。
「何も言わずに、大学を辞めてごめん。いつも仲良くしていた、英語の授業のチームメンバーには言おうか迷ったんだけど……言ったら、迷ってしまいそうだったから」
「だから、連絡先もブロックして、いなくなったの?」
「本当にごめん」
小指が離れる。
「……事情はさっき聞いたから……何も言えないけど、わたしは寂しかったよ」
「うん」
パアン、と大きい音がはるか下の道路から聞こえた。自動車のクラクションだろう。
「藤堂さんは、変わらないね」
「そう?」
「うん。しっかりしていて、頑張り屋で。今日もこんな遅くまで残業している」
「可愛げがないって言われてるよ」
わたしは遠くを見つめる。眠りにつき始めた街を見る。ビルの灯りが消えていく。
「わたし、来年度、昇進する予定なの。同期で一番早い。だから、裏でいろいろ言われているんだ」
再会したばかりの湊くんに余計なことを言ってしまうのは、眠いからだ。疲れているからだ。そして、素敵な景色を見たからだ。すべての要素がわたしから判断力を奪う。
余計な思考が削ぎ落とされていく。残るのは、ごまかすことのできない感情だ。
「藤堂さんは、可愛いよ」
ストレートな表現に驚いて、隣に立つ湊くんを見上げる。
「そんなにびっくりしなくても」
「いや、びっくりするでしょう」
「こんなに努力している人を可愛げがないなんて貶めるほうがどうかしている。藤堂さんは、大学のときから、ずっと可愛い」
「ちょっとやめて。恥ずかしいでしょ」
わたしは声を上げて、真っ黒な夜空に笑う。一通り笑うと、湊くんに向き合うように立った。
「ありがとう」
「何もお礼を言われることはしていないよ。俺は、この景色を藤堂さんと見られて満足。でも、あまり頑張りすぎないようにね。帰り道は危ないし、過労も心配だから」
「うん。でも、わたし今の仕事が楽しいんだ。だから、大丈夫」
湊くんは缶コーヒーを飲み干す。そして、わたしのほうを向いた。
「……触れて良い?」
頷く。
湊くんの大きな手が、まるでガラス細工を扱うようにわたしの頬に触れる。わたしはその手の上から、自分の手を重ねる。
視線が絡み合う。言葉はいらない。目を閉じた。
冷えた唇が触れ合う。甘いコーヒーの香りが、鼻腔をくすぐる。甘いのは、コーヒーか、湊くんか。
地上にあふれる星屑の海の中、ぽっかりと残された闇の島の頂上で、わたしたちは確かに二人、そこにいた。
十二月の夜。まだ、朝は遠い。
〈了〉



