終電を降りて、改札のシャッターが下りる音を聞きながら、すれ違う人を目で追ってしまう癖がついた。
もしも、あの夜みたいな奇跡がまた起きたら──。
なんて。馬鹿げた期待を、胸の奥でそっと抱く。

名前も知らないまま、恋をして。
触れなかったはずの心が、ほんの一瞬だけ重なって。
そして、すれ違っていった。

あの夜のことは、きっと誰にも言わない。
だけど今でも、終電のホームに立つたびに、思い出してしまうんだ。あの人を。


♢


あれは、去年の冬のこと。
社会人三年目の二十四歳。
終電のアナウンスが、構内に響き渡る。
駆け足で改札を抜けようとした若いサラリーマンは、ICカードの残高が足りなくて足止めを食らう。
その後ろで酔っ払ったサラリーマンが「急いでくれ」と、野次を飛ばす。
駅に隣接した飲食店の電気も消えていく。
今日が終わる。
つんと冷えた空気が、足元を撫でた。
それでも私は、動かなかった。

その日は送別会だった。
送り出される主役は、いつも笑顔で仕事熱心だった。頼み事をされても嫌な顔をしない。縁の下の力持ち。そんな人が、終始浮かない顔をしている。「むこうに行っても頑張ってね」なんて労いの言葉にも、愛想笑い。私はグラスを握って下を向いたまま、何も言えなかった。花束贈呈と写真撮影を終えて「また、どこかで会いましょう。解散しますか!」と、部長の声で、その場はお開きになった。二次会に⋯⋯なんて言葉は誰も口にせず。私も帰路につく電車に乗った。けど、最寄りの二つ手前の駅で降りる。なんとなく気分が晴れなくて、その足で駅前の適当なバーに入った。店内には客はまばら。からんと鳴る氷の音と、ミッドナイトジャズ。カウンターで物静かにグラスを拭いているマスター。誰かの存在を感じる穏やかな時間が、心地よかった。
つい気になったのか、無意識にコースターを整えた。仕事の癖がこんなところにも出てしまう。
三杯ほど飲んだところで、マスターに「もうすぐ終電ですよ」と言われ、頃合いを見て店を出た。
けど、私はロータリーのベンチに腰掛けたまま、改札のシャッターがゆっくりと降りていくのを、ぼんやりと見送っている。
さっきから、時計を見ては、ため息をついてるふりをする。仕方なく間に合わなかった⋯⋯と、誰にアピールするでもなく。そんな自分が嫌になる。
本当は知っていたから。あと三分で終電が出ることも、階段を駆け下りれば間に合ったことも。

わざとだった。
帰りたくなかった。
それだけ。

忘れかけていたのは、自分のことだった。
仕事に追われて、正しさに縛られて、ほんとうの『寂しさ』すら置き去りにしていた。
たぶん私が逃したのは、終電じゃなくて、もっとずっと前から、何か大切なものを見失っていたのかもしれない。
そんな気がした。

コートの襟をかき寄せて、吐き出す息を見上げる。
白く、頼りない温度の水蒸気が夜に溶けた。
「はぁ、私も消えたいよ」
苦笑いまじりに呟いた言葉も、誰にも届かずに消える。
まぁ、そんな勇気もないんだけど。
お酒が嫌なことを消してくれるわけじゃない。この衝動的な行動も、ある種、私の反抗心だ。
鞄の紐を握り直す。よし、コンビニでお酒でも買って歩くか。そう思って立ち上がった瞬間だった。

「あの。もしかして終電、逃しちゃいました?」

私の背中に、不意に、誰かが声をかけてきた。
驚いて振り返ると、うっすらと見覚えのある顔がある。
誰だっけ? ⋯⋯あっ、さっきまで飲んでいたバーのカウンターで、隣にいた男の人だ。タブレットを片手に、静かに飲んでいた姿が、なんとなく気になっていた。
座っていたときは気づかなかったけど、こうして見ると、私よりもずっと背が高い。ラフなジャケットをさらりと着こなしている。ゆるくセンター分けにされた髪は、毛先に軽くウェーブがかかっていて、今どきのモテる人だ。がっしりとした体格ではないけれど、無駄のない引き締まった肩まわりは、たぶん何かしらスポーツをしていた人のそれだろう。
なんとなくサッカー部っぽいな⋯⋯なんて思ってしまうのは、私の勝手な想像だけど。
気になった理由は、お酒が強そうに見えて、頼んでいたのはノンアルコールだったこと。
なんでバーに来たんだろう? って不思議に思った。
ぱっと見は陽キャっぽく見えるけど、どこか人混みに溶けきれない雰囲気がある。不意に俯いた横顔が、妙に静かで、どこか遠くを見ているように感じた。

「⋯⋯はい、まあ。酔いを覚ましてたら、つい」

なんとか答えると、彼は少しだけ笑った。
くしゃっとした笑顔に、思わず視線を奪われる。
無邪気なその笑い方に、どこか少年っぽさが混じっていた。
私も社交辞令程度に聞き返す。

「あなたも、ですか?」

「はい。似たようなもんです。仕事でバタついてて⋯⋯考え事しながら飲んでたら、気づいたら終わってました」

彼は駅を指さしながら、気まずそうに笑う。

「⋯⋯でも、お酒、飲んでませんでしたよね?」

「よく見てましたね。ええ、ノンアルのモスコミュールだけ。飲みたい気分じゃなかったんで」

「注文聞こえてきたんで⋯⋯。お酒、強そうなのに?」

「ははっ。よく、言われます。でも、今日は⋯⋯酔いたくなかったんですよ」

その言い方が、どこか自分を守るためみたいに聞こえた。軽く笑っているのに、瞳の奥だけが、どこか遠い。きっとこの人も、誰にも話せない夜を、抱えているんだろうな。

「どうして?」

彼は、顔をきりっとさせて「あなたが隣だったから⋯⋯って言ったら、ちょっと気持ち悪いですかね」と、言う。

ナンパにしては古臭くて、思わず笑ってしまった。彼も、いたずらっぽく肩をすくめる。
あまりにもさらりと言うから、逆にうまく返せない。顔が熱くなるのをごまかすみたいに、私は小さく笑った。

「俺、お酒入ると気持ちが溢れるの止められなくなっちゃうから」

「そうなんですね」

普段なら、絶対にしない。ティッシュを配るお姉さんや、繁華街で声をかけてくるキャッチのお兄さんにも無視を決め込むし。見知らぬ誰かと、名前も知らないまま立ち話なんて。でも、今日はきっと、少しだけ心のバランスがずれていたんだろう。わざと終電を逃した私を、誰かに見透かされるのが怖かったのかもしれない。

「あと、これ。忘れ物⋯⋯。マスターが追いかけろって。今どきドラマじゃないんだからって言ったんですけどね」

彼は、疲れた花束をわたしに差し出す。
さっき貰ったやつだ。誰にも気づかれないようにカウンターの下に隠すように置いていた。

「わざと、忘れてきたのにな⋯⋯」

また私のところに戻ってきた花束に、ちくりと心が痛む。

「早く花瓶に挿してあげたら、元気に咲きますよ。綺麗な花束ですね。贈り物ですか?」

どうやら私の声は聞こえてなかったようだ。

「ありがとうございます」

私はそれをしぶしぶ受け取り、抱き抱える。
もう用事は済んだろうと、軽く会釈をする。
すると「あなたは⋯⋯このあと、どうするんですか?」と、彼が聞いてきた。

「⋯⋯ちょっと歩こうかなって。どうせなら一駅ぶんくらい、散歩して帰ります。夜風も気持ちいいですし」

「じゃあ、俺もご一緒していいですか?」

「えっと⋯⋯えっ!?」

なんで? 一瞬だけ迷って、でも、うなずいた。彼はシラフだ。間違いは起きないはず。お酒の勢いに任せて誘ってきてるわけじゃないだろうし。けど、知らない男の人と夜道を歩くなんて、私には無謀だ。
でも、どうしてだろう?
学生時代、優等生を演じていた私は、恥ずかしながらこんな経験があるわけじゃない。社会人になったからといって、経験値は変わらず足踏みしてるまま。でも、この人の隣なら、ちょっとだけ大丈夫な気がした。丁寧な言葉遣いと、優しそうな顔に妙な安心感がある。

私の心は、いつもどこかで人生の誤字を探していた。これも仕事の癖。誰にも気づかれない小さなズレをそっと直すことばかりしてきた。この瞬間だって、私には誤字に見えるのに。

──でも、誰かの存在に甘えたい夜もある。

「じゃぁ、一駅だけなら⋯⋯」

「よかった。えっと、あなたの名前⋯⋯って聞いてもいいですか?」

「だめ、まだ。知らないまま歩く方が、ちょっと楽しそうだから」

こんな夜は、少しくらいの無茶も悪くないと思った。誤字を見過ごして、目を瞑りながら。名前も知らない人と、ほんの少しだけの回り道も。


♢


それでも落ち着かない私は、近くのコンビニで缶チューハイをひとつ手に取り「いっしょにどうですか?」と、彼を誘う。彼も「少しだけなら」と、頷いたから二缶レジで会計を済ませた。

「かんぱーーい!」

コツンと缶チューハイをぶつけて喉に流し込む。

「お酒強いんですね。美味しそうに飲むから」

彼は美味しそうにお酒を煽る私をまじまじと見つめる。

「どんなに飲んでも記憶は無くさないんです。忘れたいこともあるのにね」

ふたりで並んで歩く夜道は、不思議とあたたかかった。隣の彼は、年は少し上くらいかな? そんなことをぼんやり考えているうちに、駅前の喧騒から離れて、街の音が少しずつ遠ざかっていく。歩道にかかる街路樹の影が、オレンジ色の光に揺れていた。彼は「この光いい画になるなーー」なんて、呟いている。そっち系の仕事なのかな? 彼は私の方を振り向き、指でカメラのポーズをとる。

「よく終電、逃すんですか?」

「ううん、今日がはじめて」

「俺は、三回目ですね。あっ、今年入ってからだけですけど」

「うわーー。わりと逃してますね」

「俺、飲みすぎちゃうと記憶なくしちゃうタイプなんで。嫌なことは都合よく忘れちゃいます」

彼は意地悪に笑った。

「うわっ、ズルいなぁ」

「ジントニック三杯も飲んで平気な方が、俺からしたらずるいですよ」

「よく見てましたね」

「そりゃあ、ねぇ」

他愛のない会話が、夜の住宅街に響く。
急ぐわけでもなく、時間を惜しむわけでもなく、ごく普通のスピードで足を進める。


「この道は、よく歩くんですか?」

「私のお気に入りの散歩コースです。春は桜が綺麗だし、もうすぐ高台でしょ? ちょっとした夜景スポットなんですよ」

「へーー。知らなかった」

彼はキョロキョロと辺りを見渡す。その仕草に、大型の犬を連れて、初めてのお散歩コースを歩いてるみたいだなと、私は口元を隠して笑った。

「仕事で疲れたときとか、よく意味もなく一駅ぶん歩いて帰るんです。音が少ないから、気持ちが落ち着く気がして」

「わかります、それ。歩いてると、頭の中のノイズが整理される気がする」

「⋯⋯ねぇ、もしかして。逃げ癖って、あります?」

ぽつりと尋ねると、彼は少し驚いた顔をして、それから笑った。

「めちゃくちゃ、ありますよ。俺、フリーで映像編集してるんですけど、嫌な案件とかあると、よく考えるふりしてカフェに逃げるタイプです」

やっぱりそっち系の仕事なんだ。彼に、ちょっとした共通点を見つけて気分がいい。

「ははっ、それちょっと分かるかも」

「もしかして⋯⋯あなたも?」

「少しだけ、はい」

歩調を合わせながら、自然と笑いがこぼれる。
こんなふうに誰かと話して、少しずつ心がゆるむ感覚なんて、いつ以来だろう。
仕事も全速力で駆け抜けた。作り笑いをして、真面目を演じる。プライベートを犠牲にすることもあった。恋愛なんて遠い記憶。認められたくて、人一倍頑張ったのに。

「ここですか? さっき言ってた」

彼が立ち止まり、私に問いかける。私は地面を見つめていた顔を上げた。

「そうそう! 綺麗でしょ! ちょっと休憩する?」

高台の公園に着いて、ベンチに座りながら、ふたりで街の灯りをぼんやりと眺めた。
頭がふわふわする。
お酒のせいか、ふと、言葉が口から漏れた。

「⋯⋯実は、わたし来月から転勤なんです」

「へえ。引っ越しとか? 大変そうですね」

「そう。面倒くさくて、まだ何も準備してないんですけど⋯⋯」

「それって、ほんとは行きたくないってことですか?」

缶チューハイを口に運ぼうとした手が、ピタリと止まる。
言葉の隙間に、なにかを見透かされたような気がして。

「⋯⋯すごいですね。なんで分かったんですか?」

「雰囲気です。嫌なことから逃げ出したい人の声って、なんとなく分かりますから」

彼の声は、静かで、少しだけあたたかかった。
突き放すような鋭さじゃなくて、触れたくてそっと指を伸ばした、みたいな、そんなやさしい声だった。ダメだ。ダメよ。私は立ち上がると、公園の出口に向かって歩きながら戯けて言葉を返す。

「仕方ないよーー。仕事だもん。もう大人だし。東京を離れて、もっとずーーっと西のほうに行くんですよ? ⋯⋯って話しすぎたね。早く帰りましょ」

「聞いてもいいのかな⋯⋯仕事って?」

「あっ、私は校閲の仕事なんですけど。わかります? 校閲。紙の時代も終わりそうで、デジタル校正に移るらしくて」

彼は眉に皺を寄せて、考える仕草をした。

「校閲って、原稿の誤字とか直す⋯⋯あれですか?」

「そう。地味で、神経使って、ミスできないし、地味で⋯⋯って二回言いましたね。わたし酔ってるのかな?」

「でも、すごく合ってそう。しゃべり方が丁寧だから。コースターを何度も直してたでしょ? 几帳面な人ですもん」

「それ⋯⋯褒めてます?」

「もちろん。むしろ安心感あっていいです。繊細な人だなぁと」

──安心感か。
その言葉に、胸の奥がふっと熱くなる。
単純に嬉しかった。
私は鞄の紐を、気づけば何度も握り直していた。その紐だけが、今の自分を現実に繋ぎ止めてくれているみたいに。

「でも、そんな仕事でも、すごく好きだったんです。誰にも気づかれてないミスを直すときが、ちょっとだけ誇らしかったり」

「うん」

彼は少し考えたあとに、言葉を吐き出した。

「もしさ、わがまま言えたら、今すぐにでも逃げちゃいたいでしょ。転勤って現実から」

「だって、それは⋯⋯みんなそうでしょ? 栄転でもなんでもない。ただの人員整理だよ」

私は乾いた笑いを返した。

「どうして行きたくないのか、聞いてもいいですか?」

「んーー⋯⋯うまく言えないんですけど。ただ、ここを離れたくないだけで。この街が好きとか、仕事が充実してるとか、そういう立派な理由じゃないですよ?」

「うん」

「恋人もいないし。私に寄り添ってくれたこの道も、住み慣れた街も、通い慣れた本屋さんも、全部置いていかなきゃいけないし。いざ離れるってなると急に思うんです。私なんて、すぐ忘れられちゃうんだろうな。誰かに私がいたって覚えてて貰えたら⋯⋯なんて、ね。こう見えて、わたし寂しがり屋なんで」

ぽろりと本音を吐き出した瞬間、涙が出そうになった。
だけど、それを誤魔化したくて「空がきれいだなーー」なんて上を見上げたりする。
一筋、涙が頬を伝う。
彼は、何も言わなかった。
ただ、隣で静かに歩いてくれていた。
歩くたびに、足音が少しだけ重なっていく。
交わした言葉より、交わさい沈黙の方が、なんだか安心できた。
横断歩道の信号が点滅を始める。小走りすれば間に合うかな? なんて思っていると、彼が口を開いた。

「俺が覚えてますよ」

「えっ?」

「名前も、顔も知らなかった、たまたまバーで隣に座った変な男かもしれないけど。あなたと歩いたこの夜のことは、きっとずっと覚えてる」

なんでもない会話のはずなのに、胸の奥がきゅっとなる。
私たちは知らない者同士のまま。それでも、確かに今この瞬間だけは、誰より近くにいた。
赤信号を前に、ふたりで黙り込んでしまう。その沈黙が心地よかった。肩が触れそうで、触れない距離。頬を撫でた深夜の空気は、少しだけ冷たいのに、熱は冷めない。私の頬にも“止まれ”が灯る。

たった一駅ぶんの夜道に、私の心は揺れていた。
彼が先に歩き出して、私は慌ててついて行く。

「ちゃんと覚えておきたいんで、あなたの好きなもの聞いてもいいですか?」

横断歩道の途中で、彼がふいに言った。

「急だなぁ⋯⋯」

「なんでもいいですよ。食べ物でも映画でも。たとえば、あのバーに来た理由とか?」

私は足元を見ながら考える。

「⋯⋯この道、かな? やっぱり好きなんです。昼間は人通り多いけど、夜になると静かで。歩いてると少し寂しいけど、そのぶん、気持ちが軽くなる気がして。だから弱気になると来ちゃうし」

「俺も、歩いてるときがいちばん素直になれるから、わかるかも」

「素直に⋯⋯?」

「たとえば、今の俺。あなたと歩いてて、正直すごく楽しいんです。何も知らなかったはずなのに、話してて落ち着くっていうか」

その言葉に、胸の奥がふるえた。

──だめだよ。
そんなこと言われたら、勘違いしてしまう。
私は残っている缶チューハイを一気に飲み干した。
私は酔っている。酔ってるんだ。
気持ちを落ちつかせて、彼の肩をポンポンと叩く。

「またぁ。それ、女の子によく言ってますよね? 言い方が慣れてるもん」

「いえ。今日がはじめてです」

「⋯⋯ずるいですね、あなた」

「そうかもしれないです。でも、ずるくても、後悔するよりマシだと思って」

信号がまた赤に変わる。ふたりとも、無言のまま立ち止まった。
彼が、答えを待つように私の方を見ていた。私は、信号を見るふりをして、目をそらす。でも。

「私、ちゃんと好きになりそうで、こわいです。いなくなっちゃうのに」

声が震えていた。夜風のせいにしたかったけれど、それはきっと無理だった。何が私をそうさせたのか分からない。気がついたら口に出ていた。彼は何も言わず、ほんの少しだけ近づく。でも、私に触れようとはしなかった。静寂の中に、息を吸う音がふたつだけ。そして彼は覚悟を決めたように、ふぅと落ち着いて息を吐き出した。

「だったら、俺も言いますよ。ひと目見たときから。最初から好きです」

たった一駅の夜道で、恋に落ちるなんて。
そんなこと、信じたくなかったのに。
また、ひとつ。私は持っていけない未練を、ここに残してく。

「⋯⋯ずるいですね、本当に」

青になった信号が、背中を押すように光った。
そのまま歩き出さなきゃ、後戻りできない気がして横断歩道に踏み出した。歩きながら、今度は私から聞いた。

「⋯⋯このまま名前、知らないままでもいいの?」

「いいですよ。だって、また会いたいと思ってますから。知ったら会えなくなる気がするし」

「会えるって、保証ないですよ?」

「そうかもね。でも、期待しちゃうんです。また終電逃せばもしかしたらって。⋯⋯わざとだとしてもね」

「知ってたんだ」

私は、笑った。
うまく笑えたかは分からないけれど、それでもまた泣きそうになるのをごまかすには、十分だった。誰もいない隣駅の明かりが、近づいてくる。その光の下で、ふたりの影が少しだけ、重なった。

「駅、ですね。じゃあ⋯⋯僕はタクシーで」

そう言って、彼は手を振った。
軽く、でも、ちゃんと別れの仕草として。
くるりと背を向けて、彼は一歩、踏み出す。

「あのっ!」

ゆっくりと、彼はこちらを振り返る。

「今夜だけ、あと一駅ぶんだけ、好きでいてもいいですか?」

彼は、少しだけ目を見開いて、それから優しくうなずいた。

「夜の散歩の続きですね。もちろん。俺は、その先も好きでいるつもりですけど」

そう言って、はにかんだ笑顔を見せた。
そんな彼の隣で、隣駅に向かって、また一駅分ゆっくりと歩きだす。 

お互いの気持ちが、本物かどうかはわからない。
でも、言葉にしなくても、次が“終点”なんだと、お互いに分かっていた。わかっていても、それでも心は知ってたんだ。
私もこの人のこと、きっと忘れられないって。
名前を知らなくても、またどこかで出会えなくても。
わざと終電を逃した、ほんのわずかな夜の中で。
たった一駅ぶんの時間で、心をあたためてくれたあなたのことを。

たしかに、私は恋をした。
また終電を逃したら、思い出すんだろうな。
たった一駅ぶんの、短い恋を。


♢


二年後──。
またこの場所に戻ってきた。
この転勤は栄転だった。仕事ぶりが認められて本社に復帰したのだ。
街は変わったようで、変わってなかった。
馴染みの書店に顔を出すと、私を覚えていてくれた店員さんが嬉しそうに話しかけてくれた。
ふらりと立ち寄ったあのバーのマスターも、花束を忘れていった女の子と覚えていてくれたし。
私が持っていけなかったものを、ひとつ、ひとつ拾っていく。
だけど⋯⋯。
終電のアナウンスが駅に響く。
私は改札の前に立ち止まり、ふぅと息を吐く。シャッターが下りきるまで、改札を出てくる人を目で追ってみるけど。
いるはずなんてないか⋯⋯。

私は、好きな道をゆっくりと歩く。やっぱりこの道は落ち着く。桜の並木が見頃を迎えている。相変わらず綺麗で、ベンチに座った大学生のカップルが、お酒を片手に楽しそうだ。
私もお酒買っておけばよかったな⋯⋯。


「あの。もしかして終電、逃しちゃいました?」


「えっ⋯⋯?」

「今から、ひとりで花見でもしようと思ってたんですけど、いっしょにどうですか?」

懐かしい声だった。
忘れたくなくて、なんども頭で思い出していた。
コンビニの袋を指さして、その声の主はニカッと笑う。相変わらず爽やかな顔で。

「私、たくさん飲みますよ?」

「変わらないなぁ⋯⋯。ずっと気になってたんですけど。もう、名前聞いてもいいですか?」

「私、未来(みく)です。みらいって書いて、未来」

私の、長い長い回り道。

「⋯⋯あなたの名前は?」