*
ーー……運命の、夜だと思った。
何となくライブハウスに立ち寄って、一目惚れをした。
顔も声も仕草も、歌声も。大好きになった。
初めて、わたしに「推し」という存在ができた。
*
パワハラを、実際に自分が経験するなんて思っていなかった。
それもまだ二十四という若さで。
もちろん仕事を辞めることは何度も考えた。悩みに悩みまくって出した答えは、辞めないだった。
わたしはこの仕事がたまらなく好きだったから。
「おい、一ノ瀬」
「はい」
「今日提出の資料は? 何で俺に出さねぇの? まさかやってないなんて言うんじゃねぇよな?」
「すみません、一晩では終わりませんでした」
そう言うと、パワハラ上司の川口さんはドン、と机を叩く。
「ふざけんなよ。“Akira”のページをやりたいって言ったのはお前だろ!?」
「はい、すみませんでした。今日中に必ず終わらせます」
「はぁ、使えない人間はこの会社にはいらねぇんたけど」
知らねぇよ。お前はこの世界においていらないと思うんだけど。
でも実際、わたしが担当の仕事を終わらせていないのは事実だ。
分かっているけれど、説教の仕方というものがあるでしょ。
この会社は、ファッション雑誌の編集部だ。
わたしの推しアーティスト、「Akira」が新ブランドの洋服を着て撮影をすることになった。
そんなAkiraを紹介するページは、わたしが作りたいと立候補した。
「大丈夫? 一ノ瀬さん」
「菊池さん。ありがとうございます」
「今日はいつもより機嫌悪いねー、川口さん」
「ですね」
先輩の菊池さんは、慰めてくれる優しい人だ。
仕事ができるから川口さんにも認められているので、わたしは尊敬している。
「ていうか一ノ瀬さん、Akira好きなの?」
「はい。めちゃくちゃ好きです」
「ふーん。アーティストだっけ? いつから好きなの?」
「初期の頃からです。高校生のときにライブハウスに行ったら虜になっちゃって。身近で見たAkiraはイケメンでした」
わたしは推しのAkiraを語った。
最近歌番組にも出ているくらい有名になってきているのに、菊池さんは知らないなんて。
Akiraを知らない人生なんてもったいないと思う。
「そうなんだ。じゃあ良かったね、たまたまうちの雑誌にAkiraのページが載るなんて」
「はい、推しの紹介ページを作れるなんて夢みたいです」
「あはは、推しかー。さすが最近の若い子はおばさんとは違うね」
そう言って、菊池さんは左手の薬指の婚約指輪を光らせる。
五つくらいしか年の差がないのに、仕事も結婚もできるなんて羨ましい。
「あ、そうだ。昨日子どもが熱出して、今日ちょっと早めに帰らないといけなくて。でも明日までの資料が残ってるんだよね」
「そうなんですか。大変ですね、お子さん」
「そうなのよ。どうしよう、誰かに頼むしかないなぁ」
「わたし、今日暇なのでやりましょうか?」
そう言うと、菊池さんは目を輝かせた。
「いいの、一ノ瀬さん!」
「はい。その代わり、今度パフェ奢りですからね」
「もっちろん。特大パフェ奢ってあげる。ありがとう、じゃあまた明日ね」
「お子さん、お大事に」
……はぁ。また仕事を自ら増やしてしまった。
けれど、やっぱり雑誌作りの手伝いができるこの会社は好きだ。
いくらパワハラ上司を憎んでも、仕事量が多くても。
わたしは推しのAkiraがいるから、頑張れる。
*
時計を見ると、もう十一時を上回っていた。
Akiraのページは作り終わったものの、菊池さんに頼まれた資料がまだ少し残っていた。
わたしが終わらせないと川口さんに怒られてしまうのは菊池さんなので、わたしは責任を持って終わらせようと取り組んだ。
そしてやっと資料が終わり、帰宅しようとしたところ。
「……え、嘘っ」
時計を見ると、もうあと十分で終電だった。
急いで会社を出て、駅のホームへ向かう。
改札を通った瞬間、「一番線、ドアが閉まります。ご注意ください」とアナウンスが聞こえた。
「間に、合わなかった……」
こんなに走ったのは学生の体育の授業以来ではないだろうか。それで走ったのに終電に間に合わないなんて。
わたしはバッグに付けているAkiraのキーホルダーをぎゅっと握りしめる。
……わたし、本当にバカだな。
これからどうしよう。
漫画喫茶にでも行くか、カラオケで過ごすか。ホテルはこの近くに無いはず。
終電を逃すなんて初めてのことなので、何をすれば良いか分からず立ちすくんでいると。
「ねぇ、もしかしてきみも終電逃した?」
「えっーー」
頷こうとした瞬間、声を掛けてくれた人の顔を見る。
わたしは、一瞬で分かった。
「……Akira?」
「え、もしかして俺のこと知ってる? あ、本当だ。キーホルダー付けてくれてるじゃん。しかも初期のやつ!?」
高校生で初めてライブハウスに立ち寄ったときに購入したキーホルダーを気づいてくれた。
……本当に? 本当に、ホンモノ?
こんな近くに推しがいるなんて。これは夢じゃないのだろうか。夜の風に吹かれながら、そう思った。
「あの……Akira……さん。わたし、すごく、大好きです」
「嬉しいなー、ありがとう。てか、さっき呼び捨てだったじゃん。Akiraでいいよ」
「は、はいっ」
くしゃっと笑うその笑顔は、Akira本物だった。
わたしは知らないうちに涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「え、ちょ、大丈夫?」
「はい、今日残業で終電逃しちゃって……上司にパワハラされてるんですけど、いつもAkiraを見て頑張れてて……その、終電逃したおかげでAkiraに会えて嬉しくて……すみません、ごちゃごちゃになってますよね。伝えたいこといっぱいあって」
「あはは、大丈夫だよ。そうなんだ、そんな会社辞めたほうが良いって言いたいところだけど……それでも残ってるってことは、好きなんだね」
わたしは首をブンブンと縦に振る。
Akira、やっぱり現実でも優しい。ファンの対応に慣れているのか、わたしが混乱していても優しく話しかけてくれる。
そして、Akiraと念願のツーショットを撮れた。
「ありがとうございます、宝物にします……!」
「うん、良かった。ねぇ、きみの名前なんて言うの?」
「い、一ノ瀬侑と言います」
「侑ちゃんね。侑ちゃん、ちょっと飲まない?」
推しからの、名前呼びーー……。
頭がふわふわしていたからか、わたしは気がついたら頷いていた。
*
Akiraの行きつけの店に連れて行かれ、わたしはAkiraと一緒に食事をすることになった。
こんな時間だから、貸し切り状態だ。
すぐ隣にはAkiraがいて、直視できない……。
「マスター、いつもので」
「おっけー、Akiraくん。お嬢さんはどうする?」
「わたしは、えっと……Akiraは何頼んだんですか?」
「人気メニューの鮎の塩焼き。酒と合わせると美味しいんだよねー」
と、Akiraが言うので。
「じゃあ、Akiraと同じのでお願いします」
「了解でーす」
料理の待ち時間、わたしは緊張でバクバクだった。
だってついさっきまで遠い存在の推しだったのに、今はこんな至近距離にいるなんて。
メイク崩れてない? 髪乱れてない? はぁ、心配。
「ねぇ、侑ちゃんはさ。俺のこといつから推してくれてるの? 初期のキーホルダー持ってるけど」
「えっと……Akiraがライブハウスで歌っていたときからです」
「あー、そのときかぁ。すごいな、それ。何年も前じゃん。俺のどこが好きなの?」
「えぇっ」
Akiraはニヤニヤしながらそんな質問をする。
本人がいる前で好きなところを言うなんて恥ずかしい。
「全部好きです。顔も、声も、仕草も……一番は歌声、です」
「全部って、あははっ。侑ちゃんおもしろいね。恋人とかいるの?」
「い、いません! Akiraが一番です!」
そう言うと、Akiraは安心したように、
「そっか」
と一言答えた。
それから料理が届き、わたしたちは雑談しながら食事をした。
パワハラで悩んでいるわたしの悩みを聞いて、アドバイスをしてくれた。
「俺もさ、もう芸能界やめたい! って思うときあるよー」
「え……Akiraも?」
「うん。だって疲れるし。いつもニコニコしてないといけないでしょ? 疲れた顔や涙を見せられないのって、苦しいからねー」
「じゃあ、Akiraはどうしてアーティストを続けるんですか?」
そう言うと、Akiraはわたしの頭を優しくぽんぽんと撫でた。
「そんなのひとつしかないじゃん。俺のファンがいるからだよ」
「ファン……」
「ひとりでも俺のファンがいるなら、その人のために頑張ろうって思う。十人でも千人でも、それは変わらないんだ」
ファンがいるから、頑張るーー……。
わたしと、一緒だ。わたしも推しのAkiraがいてくれるから、嫌な仕事も頑張れる。
親近感が湧いて、嬉しくなった。
「こんな近くにもいるしね。俺のファン」
「……っ!」
「あはは、侑ちゃん顔真っ赤。かーわい」
か、かわいい……!?
推しにかわいいと褒められて嬉しいと思っていると、Akiraはわたしの頬を指ですーっと撫でる。
……なに?
「ねぇ、侑ちゃん。彼氏いないんだよね」
「え……はい」
わたしはそう答えると、いきなり手をグイッと引っ張られた。
Akiraが席を立ったので、わたしも慌てて立つ。
Akiraはマスターにクレジットカードで会計を済ませ、素早く店を出た。
*
「あ、あの、お金」
わたしは財布を取り出すけれど、Akiraは首を横に振った。
奢ってもらうなんて申し訳ない。
「いいよ、お金は。それより」
Akiraはそう言って、わたしの手を取った。
……うそ。もしかして、この流れ。
向かった先は、一軒家だった。
「ここ、俺ん家」
「え、Akiraの?」
「そう。おいで、侑ちゃん」
わたしは言われるがまま、Akiraの家に足を踏み入れる。
家のなかは綺麗に片付いていて、掃除もピカピカにされている感じだった。
……どうしよう。わたし、心の準備ができていない。
推しの家に行くなんて、本当にいいのだろうか。
「あの、わたしーー」
Akiraはわたしの口を塞ぐように、強引にキスをした。
慣れているような舌使い。わたしはその瞬間、自分が今何をしているのか、やっと理解した。
「Akiraっ、わたし!」
「……帰るの? 俺、もう我慢できないから。帰るなら今のうちだよ」
わたしは急いで床に落としたバッグを拾い上げる。
……胸が、焼けるように痛い。苦しい。
玄関のドアを開ける前に、わたしはAkiraの目を見つめた。
「Akiraのこと、誰よりも大好きな推しだから。だから傷つけたくありません。Akiraのことも、Akiraのファンのことも」
そう言うと、Akiraは無理やり微笑んだように見えた。
「やっぱり侑ちゃんはおもしろいね。……そういうの好きだよ」
「わたしも、Akiraのことずっと好きです。これからもーーファンの一員として」
Akiraの輝いている瞳を見ると、わたしは引き返したくなる。
だけどここで過ちを犯してしまうことは許されないのだ。
「また一緒に飲もうね、侑ちゃん」
「……はい」
たぶん、それはきっと叶わない。
もう、飲むことはない。
だけどそう言っておきたかった。Akiraとのひとつひとつの出来事が、宝物になったから。
わたしは、Akiraの家を出た。
夜道をひとりで歩きながら、静かに思う。
……これで良かったんだ。あのとき流されてしまって、もし写真が流出なんてことになると、きっと問題になる。
Akiraのことも、わたしと同じAkiraのファンのことも。絶対に傷つけたくないと思った。
Akiraの“ファン”として、わたしは正しいことをした。
「……これで、良かったんだよね」
暗闇のなかに、満月と小さい星がたくさん輝いている。
まるで満月がAkiraで、たくさんの小さい星がわたしたちファンのように。
それを見ると、ふと思ってしまう。
あのままAkiraに流されていたら、Akiraと交際なんてできたのかな、と。
いや、慣れている手つきを思い出せば分かる。何人もの女の子を虜にしたのかもしれない、なんて。
そのうちのひとりがわたし。たまたまわたしだっただけなのかもしれない。
「……バカみたい。みんなバカみたい」
わたしはワイヤレスイヤホンを耳に装着し、Akiraの曲を流す。
……やっぱりわたしは、プライベートのAkiraではなく、アーティストとしてのAkiraが好きなんだ。
終電を逃してしまったことがきっかけの、推しと過ごす一夜は夢のようだった。
次の推しのライブも楽しみだな、なんて思って見上げた夜空は、たまらなく美しかった。
ーー……運命の、夜だと思った。
何となくライブハウスに立ち寄って、一目惚れをした。
顔も声も仕草も、歌声も。大好きになった。
初めて、わたしに「推し」という存在ができた。
*
パワハラを、実際に自分が経験するなんて思っていなかった。
それもまだ二十四という若さで。
もちろん仕事を辞めることは何度も考えた。悩みに悩みまくって出した答えは、辞めないだった。
わたしはこの仕事がたまらなく好きだったから。
「おい、一ノ瀬」
「はい」
「今日提出の資料は? 何で俺に出さねぇの? まさかやってないなんて言うんじゃねぇよな?」
「すみません、一晩では終わりませんでした」
そう言うと、パワハラ上司の川口さんはドン、と机を叩く。
「ふざけんなよ。“Akira”のページをやりたいって言ったのはお前だろ!?」
「はい、すみませんでした。今日中に必ず終わらせます」
「はぁ、使えない人間はこの会社にはいらねぇんたけど」
知らねぇよ。お前はこの世界においていらないと思うんだけど。
でも実際、わたしが担当の仕事を終わらせていないのは事実だ。
分かっているけれど、説教の仕方というものがあるでしょ。
この会社は、ファッション雑誌の編集部だ。
わたしの推しアーティスト、「Akira」が新ブランドの洋服を着て撮影をすることになった。
そんなAkiraを紹介するページは、わたしが作りたいと立候補した。
「大丈夫? 一ノ瀬さん」
「菊池さん。ありがとうございます」
「今日はいつもより機嫌悪いねー、川口さん」
「ですね」
先輩の菊池さんは、慰めてくれる優しい人だ。
仕事ができるから川口さんにも認められているので、わたしは尊敬している。
「ていうか一ノ瀬さん、Akira好きなの?」
「はい。めちゃくちゃ好きです」
「ふーん。アーティストだっけ? いつから好きなの?」
「初期の頃からです。高校生のときにライブハウスに行ったら虜になっちゃって。身近で見たAkiraはイケメンでした」
わたしは推しのAkiraを語った。
最近歌番組にも出ているくらい有名になってきているのに、菊池さんは知らないなんて。
Akiraを知らない人生なんてもったいないと思う。
「そうなんだ。じゃあ良かったね、たまたまうちの雑誌にAkiraのページが載るなんて」
「はい、推しの紹介ページを作れるなんて夢みたいです」
「あはは、推しかー。さすが最近の若い子はおばさんとは違うね」
そう言って、菊池さんは左手の薬指の婚約指輪を光らせる。
五つくらいしか年の差がないのに、仕事も結婚もできるなんて羨ましい。
「あ、そうだ。昨日子どもが熱出して、今日ちょっと早めに帰らないといけなくて。でも明日までの資料が残ってるんだよね」
「そうなんですか。大変ですね、お子さん」
「そうなのよ。どうしよう、誰かに頼むしかないなぁ」
「わたし、今日暇なのでやりましょうか?」
そう言うと、菊池さんは目を輝かせた。
「いいの、一ノ瀬さん!」
「はい。その代わり、今度パフェ奢りですからね」
「もっちろん。特大パフェ奢ってあげる。ありがとう、じゃあまた明日ね」
「お子さん、お大事に」
……はぁ。また仕事を自ら増やしてしまった。
けれど、やっぱり雑誌作りの手伝いができるこの会社は好きだ。
いくらパワハラ上司を憎んでも、仕事量が多くても。
わたしは推しのAkiraがいるから、頑張れる。
*
時計を見ると、もう十一時を上回っていた。
Akiraのページは作り終わったものの、菊池さんに頼まれた資料がまだ少し残っていた。
わたしが終わらせないと川口さんに怒られてしまうのは菊池さんなので、わたしは責任を持って終わらせようと取り組んだ。
そしてやっと資料が終わり、帰宅しようとしたところ。
「……え、嘘っ」
時計を見ると、もうあと十分で終電だった。
急いで会社を出て、駅のホームへ向かう。
改札を通った瞬間、「一番線、ドアが閉まります。ご注意ください」とアナウンスが聞こえた。
「間に、合わなかった……」
こんなに走ったのは学生の体育の授業以来ではないだろうか。それで走ったのに終電に間に合わないなんて。
わたしはバッグに付けているAkiraのキーホルダーをぎゅっと握りしめる。
……わたし、本当にバカだな。
これからどうしよう。
漫画喫茶にでも行くか、カラオケで過ごすか。ホテルはこの近くに無いはず。
終電を逃すなんて初めてのことなので、何をすれば良いか分からず立ちすくんでいると。
「ねぇ、もしかしてきみも終電逃した?」
「えっーー」
頷こうとした瞬間、声を掛けてくれた人の顔を見る。
わたしは、一瞬で分かった。
「……Akira?」
「え、もしかして俺のこと知ってる? あ、本当だ。キーホルダー付けてくれてるじゃん。しかも初期のやつ!?」
高校生で初めてライブハウスに立ち寄ったときに購入したキーホルダーを気づいてくれた。
……本当に? 本当に、ホンモノ?
こんな近くに推しがいるなんて。これは夢じゃないのだろうか。夜の風に吹かれながら、そう思った。
「あの……Akira……さん。わたし、すごく、大好きです」
「嬉しいなー、ありがとう。てか、さっき呼び捨てだったじゃん。Akiraでいいよ」
「は、はいっ」
くしゃっと笑うその笑顔は、Akira本物だった。
わたしは知らないうちに涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「え、ちょ、大丈夫?」
「はい、今日残業で終電逃しちゃって……上司にパワハラされてるんですけど、いつもAkiraを見て頑張れてて……その、終電逃したおかげでAkiraに会えて嬉しくて……すみません、ごちゃごちゃになってますよね。伝えたいこといっぱいあって」
「あはは、大丈夫だよ。そうなんだ、そんな会社辞めたほうが良いって言いたいところだけど……それでも残ってるってことは、好きなんだね」
わたしは首をブンブンと縦に振る。
Akira、やっぱり現実でも優しい。ファンの対応に慣れているのか、わたしが混乱していても優しく話しかけてくれる。
そして、Akiraと念願のツーショットを撮れた。
「ありがとうございます、宝物にします……!」
「うん、良かった。ねぇ、きみの名前なんて言うの?」
「い、一ノ瀬侑と言います」
「侑ちゃんね。侑ちゃん、ちょっと飲まない?」
推しからの、名前呼びーー……。
頭がふわふわしていたからか、わたしは気がついたら頷いていた。
*
Akiraの行きつけの店に連れて行かれ、わたしはAkiraと一緒に食事をすることになった。
こんな時間だから、貸し切り状態だ。
すぐ隣にはAkiraがいて、直視できない……。
「マスター、いつもので」
「おっけー、Akiraくん。お嬢さんはどうする?」
「わたしは、えっと……Akiraは何頼んだんですか?」
「人気メニューの鮎の塩焼き。酒と合わせると美味しいんだよねー」
と、Akiraが言うので。
「じゃあ、Akiraと同じのでお願いします」
「了解でーす」
料理の待ち時間、わたしは緊張でバクバクだった。
だってついさっきまで遠い存在の推しだったのに、今はこんな至近距離にいるなんて。
メイク崩れてない? 髪乱れてない? はぁ、心配。
「ねぇ、侑ちゃんはさ。俺のこといつから推してくれてるの? 初期のキーホルダー持ってるけど」
「えっと……Akiraがライブハウスで歌っていたときからです」
「あー、そのときかぁ。すごいな、それ。何年も前じゃん。俺のどこが好きなの?」
「えぇっ」
Akiraはニヤニヤしながらそんな質問をする。
本人がいる前で好きなところを言うなんて恥ずかしい。
「全部好きです。顔も、声も、仕草も……一番は歌声、です」
「全部って、あははっ。侑ちゃんおもしろいね。恋人とかいるの?」
「い、いません! Akiraが一番です!」
そう言うと、Akiraは安心したように、
「そっか」
と一言答えた。
それから料理が届き、わたしたちは雑談しながら食事をした。
パワハラで悩んでいるわたしの悩みを聞いて、アドバイスをしてくれた。
「俺もさ、もう芸能界やめたい! って思うときあるよー」
「え……Akiraも?」
「うん。だって疲れるし。いつもニコニコしてないといけないでしょ? 疲れた顔や涙を見せられないのって、苦しいからねー」
「じゃあ、Akiraはどうしてアーティストを続けるんですか?」
そう言うと、Akiraはわたしの頭を優しくぽんぽんと撫でた。
「そんなのひとつしかないじゃん。俺のファンがいるからだよ」
「ファン……」
「ひとりでも俺のファンがいるなら、その人のために頑張ろうって思う。十人でも千人でも、それは変わらないんだ」
ファンがいるから、頑張るーー……。
わたしと、一緒だ。わたしも推しのAkiraがいてくれるから、嫌な仕事も頑張れる。
親近感が湧いて、嬉しくなった。
「こんな近くにもいるしね。俺のファン」
「……っ!」
「あはは、侑ちゃん顔真っ赤。かーわい」
か、かわいい……!?
推しにかわいいと褒められて嬉しいと思っていると、Akiraはわたしの頬を指ですーっと撫でる。
……なに?
「ねぇ、侑ちゃん。彼氏いないんだよね」
「え……はい」
わたしはそう答えると、いきなり手をグイッと引っ張られた。
Akiraが席を立ったので、わたしも慌てて立つ。
Akiraはマスターにクレジットカードで会計を済ませ、素早く店を出た。
*
「あ、あの、お金」
わたしは財布を取り出すけれど、Akiraは首を横に振った。
奢ってもらうなんて申し訳ない。
「いいよ、お金は。それより」
Akiraはそう言って、わたしの手を取った。
……うそ。もしかして、この流れ。
向かった先は、一軒家だった。
「ここ、俺ん家」
「え、Akiraの?」
「そう。おいで、侑ちゃん」
わたしは言われるがまま、Akiraの家に足を踏み入れる。
家のなかは綺麗に片付いていて、掃除もピカピカにされている感じだった。
……どうしよう。わたし、心の準備ができていない。
推しの家に行くなんて、本当にいいのだろうか。
「あの、わたしーー」
Akiraはわたしの口を塞ぐように、強引にキスをした。
慣れているような舌使い。わたしはその瞬間、自分が今何をしているのか、やっと理解した。
「Akiraっ、わたし!」
「……帰るの? 俺、もう我慢できないから。帰るなら今のうちだよ」
わたしは急いで床に落としたバッグを拾い上げる。
……胸が、焼けるように痛い。苦しい。
玄関のドアを開ける前に、わたしはAkiraの目を見つめた。
「Akiraのこと、誰よりも大好きな推しだから。だから傷つけたくありません。Akiraのことも、Akiraのファンのことも」
そう言うと、Akiraは無理やり微笑んだように見えた。
「やっぱり侑ちゃんはおもしろいね。……そういうの好きだよ」
「わたしも、Akiraのことずっと好きです。これからもーーファンの一員として」
Akiraの輝いている瞳を見ると、わたしは引き返したくなる。
だけどここで過ちを犯してしまうことは許されないのだ。
「また一緒に飲もうね、侑ちゃん」
「……はい」
たぶん、それはきっと叶わない。
もう、飲むことはない。
だけどそう言っておきたかった。Akiraとのひとつひとつの出来事が、宝物になったから。
わたしは、Akiraの家を出た。
夜道をひとりで歩きながら、静かに思う。
……これで良かったんだ。あのとき流されてしまって、もし写真が流出なんてことになると、きっと問題になる。
Akiraのことも、わたしと同じAkiraのファンのことも。絶対に傷つけたくないと思った。
Akiraの“ファン”として、わたしは正しいことをした。
「……これで、良かったんだよね」
暗闇のなかに、満月と小さい星がたくさん輝いている。
まるで満月がAkiraで、たくさんの小さい星がわたしたちファンのように。
それを見ると、ふと思ってしまう。
あのままAkiraに流されていたら、Akiraと交際なんてできたのかな、と。
いや、慣れている手つきを思い出せば分かる。何人もの女の子を虜にしたのかもしれない、なんて。
そのうちのひとりがわたし。たまたまわたしだっただけなのかもしれない。
「……バカみたい。みんなバカみたい」
わたしはワイヤレスイヤホンを耳に装着し、Akiraの曲を流す。
……やっぱりわたしは、プライベートのAkiraではなく、アーティストとしてのAkiraが好きなんだ。
終電を逃してしまったことがきっかけの、推しと過ごす一夜は夢のようだった。
次の推しのライブも楽しみだな、なんて思って見上げた夜空は、たまらなく美しかった。



