午前三時五十五分、代々木動物メディカルセンターの受付は静かだった。白いカウンターの奥で、夜勤の獣医・星野亜季がカルテをめくりながら顔を上げる。
「どうされました?」
 駿は状況を簡潔に説明し、秀斗がジャケットに包んだ猫をそっと差し出した。灰白の縞は腹側が少し汚れており、後ろ脚の先に血が滲んでいる。
「名前は?」
「まだ決めていません。保護したばかりで」
 星野は頷き、猫を診察台に乗せた。音もなく体温計が差し込まれ、触診が終わるとレントゲン室へ。和奏は無言で同行し、モニターに映し出された画像を確かめる。
「外傷性の脱臼です。骨にはヒビがありません。応急処置で乗り切れます」
 手際よく固定具が巻かれ、星野は治療費を提示した。
「初診料と処置代で一万二千三百円。深夜割増込みです」
 駿は財布を開き、樹里がノートに「想定外費用:一二三〇〇」と書き足す。秀斗は深呼吸しながら一万円札を差し出した。
「割り勘で払います。領収書を四枚に分けてもらえますか?」
「了解しました」
 星野が笑い、四枚の領収書に「午前四時二十分」とプリントされた時刻が刻まれた。
 猫は包帯の色に合わせ、星野の提案で「ナガレボシ」と仮名が決まった。
「今夜はここで預かります。七時以降なら面会できます」
 手続きを終え、四人は病院を後にした。外は蒸し暑いはずだが、足取りは軽い。
 午前四時二十五分。代々木公園の入口で、樹里が腕時計を叩いた。
「始発まであと二十分。駅に急げば間に合うけど――」
「せっかくだし夜明けを見て行こう」
 駿が提案し、全員一致。公園の木立を抜け、大きな池の脇にある東屋に陣取った。夜露に濡れた木の香りが鼻をくすぐり、街の騒音が遠い。
 東の空が群青から朱色に変わると同時に、鳥の囀りが一斉に始まる。和奏はスマホを横向きに構え、インカメラで四人を収めた。
「はい、夜明け記念。ポーズ」
 シャッター音。背後には燃えるようなグラデーションの空。秀斗は思わず声を漏らす。
「高校時代の修学旅行より綺麗かも」
「それ、私も思った」
 和奏の頬がわずかに緩む。駿は腕時計に目をやり、次の行動を宣言した。
「四時四十。そろそろ駅へ向かう。七時に再集合してナガレボシのお迎え。異論ある?」
 誰も手を挙げない。
 午前五時一分、新宿駅南口。シャッターが上がり、始発列車に乗り込む乗客たちが静かに列を作る。駿たちは最後尾に並び、椅子取りゲームのようにクロスシートを確保した。
「朝五時でも人が多いな」
 秀斗が目を丸くし、和奏が答える。
「金曜の夜は帰らない人が一定数いるからね」
 車窓に映る薄桃色の空を眺めるうち、意識が遠のく。樹里は膝上のノートに最後のページを開き、縦に二本の線を引いた。左列に「失ったもの」、右列に「得たもの」。
 失ったもの:終電代、睡眠三時間、現金三〇〇〇円
 得たもの:夜明けの空、ナガレボシ、足湯の思い出、領収書四枚、仲間との絆
 ペンが止まると同時に、列車は下北沢に滑り込み、ドアが開いた。駿は背伸びをし、声を張る。
「家に帰って一時間仮眠! 六時半に改札前集合!」
 セミの声がかすかに聞こえる朝。四人は手を振り、ホームを散っていった。
 ――午前六時二十五分、下北沢駅北口のパン屋「朝靄ベーカリー」。
 和奏が店頭でスコーンを四つ購入し、秀斗がコーヒーをテイクアウト。駿は新聞スタンドで朝刊を買い、樹里は近くのベンチを確保。
「体力回復用の炭水化物。甘さで脳を覚醒。ここ重要」
 樹里はそう言って紙袋を差し出す。バターの香りが漂い、秀斗は嬉しそうにかぶりついた。
 十分後、スマホのアラームが鳴り、全員立ち上がる。
 午前六時四十五分、小田急線下北沢発の各駅停車・参宮橋行き。座席はほぼ空いている。駿たちはドア近くに立ち、三駅先の参宮橋で降りた。
 午前七時ちょうど、動物病院再訪。星野が笑顔で迎え、ナガレボシが包帯姿で小さく鳴く。治療費の残額を支払い、次回診察日を決める。
「とりあえず一週間後に再チェック。里親が見つかるまで、当院で預かります」
 星野の言葉に、秀斗が胸をなで下ろす。駿は握手をしながら、「お礼に宣伝を手伝わせてください」と申し出る。和奏は病院のSNSアカウントを確認し、「次の夜、写真を撮りに来ます」と約束した。
 樹里はノートに新しい目標を書き込む。
 ――『深夜動物救急マップ作成計画』――
 駿が苦笑しつつも、「それ、いい」と賛同。四人は病院前の歩道で円陣を組み、小さく拳を合わせた。
「終電を逃したら、次はもっと役に立つ行動を起こそう」
「じゃあテーマは“夜の恩返し”ね」
 樹里の命名に全員が吹き出した。
 午前七時二十五分、参宮橋駅前の交差点。車の流れが増え、通勤客が行き交う。空にはもう夏の強い陽射しが差し込み、蝉が本格的に鳴き始める。
「ここで解散しよう。今日の仕事、遅刻しないようにな」
 駿が言うと、秀斗が目をこすりながら敬礼。和奏は軽く手を振り、樹里は最後に一言。
「次の作戦会議は金曜の二十一時。場所は例のカラオケ前。議題は“夜の恩返し”ロードマップ」
「よし、了解!」
 駿は背筋を伸ばし、東の空へ目を向けた。朝の光がビルの窓を眩しく照らす。
 ――夜明けを越えた今、やるべきことが増えた。けれど不思議と、心は軽い。
 駿は胸ポケットから新しいビンゴカードを取り出し、一番上のマスにこう書いた。
「①夜の恩返し――スタートライン」