七月十二日、金曜日の午後十一時五十七分。新宿三丁目の雑居ビル九階、創作居酒屋「酔いどれ電球」の個室で、会社の送別会はようやくお開きになった。幹事の駿はテーブルに並ぶ空きジョッキを見回し、胸の内で計算を終える。今日は三十五品、飲み放題三時間、会計は人数割で一人三千九百円――ここまでは完璧な段取りだった。
だが、時計の針は最終列車発車まで三分を示している。エレベーターを待つ余裕などない。駿は即座に判断し、同行する三人へ声を張り上げた。
「秀斗、階段を使うぞ! 和奏は領収書を受け取ったら先に降りろ! 樹里は忘れ物がないか三秒でチェック!」
冷房の効きすぎた廊下に号令が響き、四人は雪崩のように非常階段へ飛び込んだ。
踊り場でヒールを鳴らす和奏の表情は涼しいままだが、手の中のスマホには「小田急線・下北沢行き終電二十三時五十九分」の赤い表示。秀斗はスーツのジャケットを脱ぎ、心臓の鼓動を押さえつけるように胸元を握った。樹里は非常灯の緑色に照らされながら、肩掛けバッグから蛍光ペンを取り出して何かを書き込んでいる。
地上へ飛び出した瞬間、駅前通りの信号が無情にも赤に変わった。駿が腕時計を確かめる。同時刻、改札口の自動扉は冷たい電子音とともに閉まるはずだ。
「アウト。完全に逃した」
駿は白旗を上げた。四人は呼吸を整えながら、煌々と光る新宿駅南口を眺める。
――五分後。
甲州街道の歩道橋下、ビル風がシャツを揺らす。駿は早速リーダーシップを発揮し、今夜の行動指針を宣言した。
「始発は午前四時四十五分。残り約五時間。安全を確保しつつ、費用を抑えつつ、なるべく楽しく時間を潰す。まずは拠点探しだ」
和奏が冷静に賛同し、スマホで深夜営業の店を検索する。秀斗は「夜更かしも悪くないか」と笑みを作るが、揺れる瞳にかすかな不安が走る。樹里は早速バッグから小さなノートを取り出し、タイトルになじみのない英語を太いマーカーで書き込む。
「“Midnight Survival Manual”――終電を逃した夜の心得ってところね」
「どこでそんなもの用意してたんだ」
「今じゃないわ、昨日の夜よ。備えあれば憂いなしって言うでしょ」
駿は苦笑しつつ、深夜営業のカラオケ店「歌劇場・新宿南口本館」を指差した。
「フリータイム、一室一四〇〇円。朝五時まで。ドリンクバー付き」
「そこ拠点に決定」
和奏は即答し、秀斗と樹里が頷く。四人はネオンが瞬く入り口へ足を運んだ。
受付で身分証を提示し、部屋番号「エトワール7」を割り当てられる。廊下の壁には最新アイドルのポスターが貼られ、ミラーボールは紫色の光を落としている。部屋へ入ると、樹里は素早くテーブルを整理し、ノートパソコンとUSBケーブルを準備。
「三カメ体制で録画するわよ。比較検証の資料になるから」
「何の比較検証だよ」
駿が突っ込む間に、和奏はタッチパネルから「夜を楽しく乗り切る選曲リスト」を素早く作成。トップバッターはアメリカンロックの『Don’t Stop Me Now』、キー+2。秀斗がマイクを握り、躊躇なく歌い出した。
サビの「I’m a rocket ship on my way to Mars」に合わせ、狭い部屋で四人が手を突き上げる。背後から鳴り響くドラムの電子音に合わせ、駿は今夜の費用の計算を終え、白板に「1人目安:二千円以内」と記した。
曲が終わるころ、秀斗の額には汗。彼はハイタッチを求めつつも「実はステージに立つのは苦手なんだ」と小声で吐露する。駿は肩を叩き、「緊張は行動の燃料だ」と励ます。
続く曲は和奏の選んだジャズアレンジの『Fly Me to the Moon』。低音域を響かせる彼女の声に、駿は「この人が同じ営業チームか」と今さらながら感嘆する。樹里はメトロノームアプリでテンポを測り、「彼女のベストBPMは一一二」などとメモ。
午前一時十五分、テーブルの上にはドリンクバーで得たオレンジジュース、コーヒー、謎の紫色ソーダが並ぶ。秀斗がソーダを口にし、眉をしかめる。
「グレープかと思ったらブルーベリーだった。深夜の自販機って性格悪いよな」
「いや、それは単に飲料メーカーの配合だろ」
駿と秀斗の言い合いがヒートアップしそうになると、和奏が一言で場を締めた。
「今は楽しく過ごすことが優先。喧嘩している時間がもったいない」
冷静で柔軟な提言に、二人は同時に恐縮し、ハイボール風ノンアルを分け合った。樹里はその様子を観察し、「深夜二十四時以降、炭酸飲料の譲歩率80%」とまたメモを取る。
午前二時。張り紙「深夜フリータイム終了まで三時間」の下、四人は作戦会議第二ラウンドを開始した。
「このまま歌い続けてもいいが、体力が尽きる。次の場所で気分転換を図ろう」
駿が提案すると、樹里が即座に候補を示す。
「徒歩十分、足湯カフェ『湯けむりハーブ』。席料七百円、ハーブティー飲み放題」
「よし、決まり。和奏、ルート検索を」
和奏は地図アプリを開き、五つの交差点と二本の裏道を組み合わせた最短ルートを提示。秀斗が「未知の店へ行くのは少し怖い」と呟いたが、駿が肩を押し、「夜を楽しむ隊長は君だから」と背中を預ける。
店を出てからの十分間、甲州街道の歩道橋で吹く風は熱帯夜を忘れさせた。タクシーの列、外国人観光客の笑い声、コンビニの白い灯り――真夜中の街は昼とは違う呼吸を持っていた。
足湯カフェは雑居ビルの二階、木製の引き戸の奥から檜の香りが漂う。受付でタオルを受け取り、湯船型カウンターに並んで腰を下ろすと、ふくらはぎを包む湯温は四十二度。ローズマリーの小枝が浮かび、照明は月明かりを模したアンバー色。
秀斗が湯面を眺めながら呟く。
「駿、会社辞めたくなったらこういう店やれば?」
「いや、集客が大変そうだ。夜中に足湯に来る人の統計がない」
「統計なら今から取れるわ」
樹里がニヤリと笑い、自前のアンケートフォームを作成し始めた。駿は手を合わせ、「頼むから店員さんに怒られない範囲でやってくれ」と懇願。
午前三時。ハーブティー三杯目で体が芯から温まり、目の奥の疲労が溶けていく。和奏は椅子にもたれ、吐息混じりに呟く。
「夜中って、余計な情報が少ないから、本当に必要な言葉だけが残る気がするわ」
駿はその言葉を聞き、ポケットからメモ帳を取り出して一行書いた。
――『夜は情報のフィルター』――
おかげで次の発言は、昼間よりずっと素直になれた。
「和奏、今日助かった。冷静なアシストがなければパニックになってた」
「礼なら始発が動いてから。まだ任務は半分も終わってないわ」
目尻をわずかにゆるめる彼女を見て、駿は胸が軽くなった。
午前三時三十二分。足湯カフェを出た瞬間、路地の奥から猫の鳴き声。白と灰色の縞模様、後ろ脚を引きずっている。秀斗は足を止め、かがみ込む。
「ケガしてるみたいだ。近くに動物の救急病院は?」
「徒歩七分、代々木動物メディカルセンター。二十四時間受付」
樹里が即答し、駿は腕を組む。タクシー移動なら千円、診察料は不明。財布の中身を計算すると微妙な金額だ。だが、駿は十秒後に決断を下す。
「行こう。時間と金は取り返せるけど、生き物の命は待ってくれない」
和奏が頷き、秀斗がジャケットを脱いで簡易キャリーバッグを作り、樹里がパラコードで固定。四人と一匹は再び夜の街を走り出す。
――この瞬間、駿はふと気づく。終電を逃してからの三時間、失ったものより得たものの方が確実に多い。未体験の店、知らない香り、誰かの優しさ。
新宿という巨大な街が、深夜にしか開かない引き出しを差し出している――。
午前三時五十二分、動物病院の白い灯りが見えてきた。駆け込みでドアを開けた瞬間、甘い消毒液の匂いが鼻を刺す。受付台の上には深紅のデジタル時計が点滅していた。
だが、時計の針は最終列車発車まで三分を示している。エレベーターを待つ余裕などない。駿は即座に判断し、同行する三人へ声を張り上げた。
「秀斗、階段を使うぞ! 和奏は領収書を受け取ったら先に降りろ! 樹里は忘れ物がないか三秒でチェック!」
冷房の効きすぎた廊下に号令が響き、四人は雪崩のように非常階段へ飛び込んだ。
踊り場でヒールを鳴らす和奏の表情は涼しいままだが、手の中のスマホには「小田急線・下北沢行き終電二十三時五十九分」の赤い表示。秀斗はスーツのジャケットを脱ぎ、心臓の鼓動を押さえつけるように胸元を握った。樹里は非常灯の緑色に照らされながら、肩掛けバッグから蛍光ペンを取り出して何かを書き込んでいる。
地上へ飛び出した瞬間、駅前通りの信号が無情にも赤に変わった。駿が腕時計を確かめる。同時刻、改札口の自動扉は冷たい電子音とともに閉まるはずだ。
「アウト。完全に逃した」
駿は白旗を上げた。四人は呼吸を整えながら、煌々と光る新宿駅南口を眺める。
――五分後。
甲州街道の歩道橋下、ビル風がシャツを揺らす。駿は早速リーダーシップを発揮し、今夜の行動指針を宣言した。
「始発は午前四時四十五分。残り約五時間。安全を確保しつつ、費用を抑えつつ、なるべく楽しく時間を潰す。まずは拠点探しだ」
和奏が冷静に賛同し、スマホで深夜営業の店を検索する。秀斗は「夜更かしも悪くないか」と笑みを作るが、揺れる瞳にかすかな不安が走る。樹里は早速バッグから小さなノートを取り出し、タイトルになじみのない英語を太いマーカーで書き込む。
「“Midnight Survival Manual”――終電を逃した夜の心得ってところね」
「どこでそんなもの用意してたんだ」
「今じゃないわ、昨日の夜よ。備えあれば憂いなしって言うでしょ」
駿は苦笑しつつ、深夜営業のカラオケ店「歌劇場・新宿南口本館」を指差した。
「フリータイム、一室一四〇〇円。朝五時まで。ドリンクバー付き」
「そこ拠点に決定」
和奏は即答し、秀斗と樹里が頷く。四人はネオンが瞬く入り口へ足を運んだ。
受付で身分証を提示し、部屋番号「エトワール7」を割り当てられる。廊下の壁には最新アイドルのポスターが貼られ、ミラーボールは紫色の光を落としている。部屋へ入ると、樹里は素早くテーブルを整理し、ノートパソコンとUSBケーブルを準備。
「三カメ体制で録画するわよ。比較検証の資料になるから」
「何の比較検証だよ」
駿が突っ込む間に、和奏はタッチパネルから「夜を楽しく乗り切る選曲リスト」を素早く作成。トップバッターはアメリカンロックの『Don’t Stop Me Now』、キー+2。秀斗がマイクを握り、躊躇なく歌い出した。
サビの「I’m a rocket ship on my way to Mars」に合わせ、狭い部屋で四人が手を突き上げる。背後から鳴り響くドラムの電子音に合わせ、駿は今夜の費用の計算を終え、白板に「1人目安:二千円以内」と記した。
曲が終わるころ、秀斗の額には汗。彼はハイタッチを求めつつも「実はステージに立つのは苦手なんだ」と小声で吐露する。駿は肩を叩き、「緊張は行動の燃料だ」と励ます。
続く曲は和奏の選んだジャズアレンジの『Fly Me to the Moon』。低音域を響かせる彼女の声に、駿は「この人が同じ営業チームか」と今さらながら感嘆する。樹里はメトロノームアプリでテンポを測り、「彼女のベストBPMは一一二」などとメモ。
午前一時十五分、テーブルの上にはドリンクバーで得たオレンジジュース、コーヒー、謎の紫色ソーダが並ぶ。秀斗がソーダを口にし、眉をしかめる。
「グレープかと思ったらブルーベリーだった。深夜の自販機って性格悪いよな」
「いや、それは単に飲料メーカーの配合だろ」
駿と秀斗の言い合いがヒートアップしそうになると、和奏が一言で場を締めた。
「今は楽しく過ごすことが優先。喧嘩している時間がもったいない」
冷静で柔軟な提言に、二人は同時に恐縮し、ハイボール風ノンアルを分け合った。樹里はその様子を観察し、「深夜二十四時以降、炭酸飲料の譲歩率80%」とまたメモを取る。
午前二時。張り紙「深夜フリータイム終了まで三時間」の下、四人は作戦会議第二ラウンドを開始した。
「このまま歌い続けてもいいが、体力が尽きる。次の場所で気分転換を図ろう」
駿が提案すると、樹里が即座に候補を示す。
「徒歩十分、足湯カフェ『湯けむりハーブ』。席料七百円、ハーブティー飲み放題」
「よし、決まり。和奏、ルート検索を」
和奏は地図アプリを開き、五つの交差点と二本の裏道を組み合わせた最短ルートを提示。秀斗が「未知の店へ行くのは少し怖い」と呟いたが、駿が肩を押し、「夜を楽しむ隊長は君だから」と背中を預ける。
店を出てからの十分間、甲州街道の歩道橋で吹く風は熱帯夜を忘れさせた。タクシーの列、外国人観光客の笑い声、コンビニの白い灯り――真夜中の街は昼とは違う呼吸を持っていた。
足湯カフェは雑居ビルの二階、木製の引き戸の奥から檜の香りが漂う。受付でタオルを受け取り、湯船型カウンターに並んで腰を下ろすと、ふくらはぎを包む湯温は四十二度。ローズマリーの小枝が浮かび、照明は月明かりを模したアンバー色。
秀斗が湯面を眺めながら呟く。
「駿、会社辞めたくなったらこういう店やれば?」
「いや、集客が大変そうだ。夜中に足湯に来る人の統計がない」
「統計なら今から取れるわ」
樹里がニヤリと笑い、自前のアンケートフォームを作成し始めた。駿は手を合わせ、「頼むから店員さんに怒られない範囲でやってくれ」と懇願。
午前三時。ハーブティー三杯目で体が芯から温まり、目の奥の疲労が溶けていく。和奏は椅子にもたれ、吐息混じりに呟く。
「夜中って、余計な情報が少ないから、本当に必要な言葉だけが残る気がするわ」
駿はその言葉を聞き、ポケットからメモ帳を取り出して一行書いた。
――『夜は情報のフィルター』――
おかげで次の発言は、昼間よりずっと素直になれた。
「和奏、今日助かった。冷静なアシストがなければパニックになってた」
「礼なら始発が動いてから。まだ任務は半分も終わってないわ」
目尻をわずかにゆるめる彼女を見て、駿は胸が軽くなった。
午前三時三十二分。足湯カフェを出た瞬間、路地の奥から猫の鳴き声。白と灰色の縞模様、後ろ脚を引きずっている。秀斗は足を止め、かがみ込む。
「ケガしてるみたいだ。近くに動物の救急病院は?」
「徒歩七分、代々木動物メディカルセンター。二十四時間受付」
樹里が即答し、駿は腕を組む。タクシー移動なら千円、診察料は不明。財布の中身を計算すると微妙な金額だ。だが、駿は十秒後に決断を下す。
「行こう。時間と金は取り返せるけど、生き物の命は待ってくれない」
和奏が頷き、秀斗がジャケットを脱いで簡易キャリーバッグを作り、樹里がパラコードで固定。四人と一匹は再び夜の街を走り出す。
――この瞬間、駿はふと気づく。終電を逃してからの三時間、失ったものより得たものの方が確実に多い。未体験の店、知らない香り、誰かの優しさ。
新宿という巨大な街が、深夜にしか開かない引き出しを差し出している――。
午前三時五十二分、動物病院の白い灯りが見えてきた。駆け込みでドアを開けた瞬間、甘い消毒液の匂いが鼻を刺す。受付台の上には深紅のデジタル時計が点滅していた。



