追放から一月。高階家の辿る運命に思いを馳せつつ、渚子は、帝都に程近い山を仮寝の宿としていた。その姿は、実家の生き神様であった頃よりずっと活き活きとしている。何しろ二百年ぶりの解放、全力で自由を謳歌して然るべきだろう。

 今日も見晴らしのいい巨岩の上、鼻唄交じりに、膝上に載せた白く立派な尾の毛づくろいをしている様子は、とても楽しげであった。しかし渚子の上機嫌とは裏腹に、白い尾が辟易としたようにはたりと動く。

「……なあお嬢、いい加減飽きないか?」

 白い尾の持ち主、狼……のように巨大な犬、いや狐の口から漏れた成人男性の声に、渚子はびっくりして尾を愛でていた手を止めた。但し驚いたのは、白狐が喋ったこと自体ではなく、その台詞に、である。

「えっ、ごめんなさい。だって有明(ありあけ)様の毛並み、とっても綺麗で手触りがいいんですもの。飽きるだなんて、ずっとこうして撫でていたいくらいなのに」

 手放しに褒められれば悪い気はしないのか、有明と呼ばれた白狐は、前脚に顎を伏せたまま苦虫を噛んだように喉奥で唸る。

「いやまあ、褒めてくれるのはありがたいんだけどな。俺より構ってやるべき相手がいるだろと言うか」
「そうだぞ有明、そこは私の枕だ」
「哉宵様!」

 木立の向こうから現れた二十歳過ぎの青年に、渚子はいっそう弾んだ声を上げた。法師姿ではあるが、剃髪はしておらず、背にかかる黒髪を緩く束ねている。そんな哉宵は、敢えて有明との間に割り込むようにして渚子の隣に腰を下ろした。短くなってしまった渚子の髪先に触れ、やわらかく笑う。

「随分、髪や肌に色艶が戻ってきたな」
「御山の皆様のおかげです」

 手荒に切られた髪は綺麗に切り揃えて花簪を飾り、爪の先まで磨かれて、鮮やかな着物が選り取り見取り。一月の間、眷属たちによってたかって世話を焼かれた渚子は、すっかり華族の令嬢らしい優美さを取り戻していた。

 はきはきとした渚子の受け答えに目許を和ませる哉宵の背には、僧服に誂えたような、或いは渚子や有明の白毛とは対照的な、漆黒の翼。

 哉宵と有明は、故郷の山より勧請され、帝都の某家に火防厄除の神として祀られていた天狗だった。しかし三年前、やはり改築の際に社を取り壊され、帰郷の途中、高階家の離れで空を見上げていた渚子と目が合ったのだ。

 彼らはそのまま飛び去らず、離れの庭に降り立ち、孤独な渚子の話し相手になってくれた。高名な大天狗の分霊である哉宵の眼は、渚子が語るまでもなく、その本性も、足枷の呪いも見透かしていた。その後も結局郷山には戻らず、同じく分霊の治めるこの山で暮らしていたのだと言う。そして有明の鼻が渚子の解放を嗅ぎ取り、急ぎ帝都へと駆けつけた。

「では、今度こそ正式に申し込ませてもらおうか」
「え?」

 いつになく真摯な声に、思わず渚子も背筋を伸ばす。それでもなんとなく、予想はついていた。この一月、幾度も冗談交じりに受けた誘いだったから。

 小さな膝上に置いた渚子の手に掌を重ね、哉宵は告げた。

「三年間、私は君を忘れられず、帝都を離れられなかった。――――どうか、私の妻になってくれないだろうか」
「…………」

 真っ直ぐな求婚の言葉、眼差しに、渚子は目を伏せてしまいそうになる怯懦の心を必死に押し殺す。高階の家に囚われ、ぞんざいな扱いを受けるようになって身に染み付いた悪い癖だ。

 再会して一身に浴びた哉宵の想いは嬉しい。けれど、渚子にはそれを無邪気に受け入れることができなかった。

「身に余る光栄です。でも……それはやっぱり、わたしが家に幸福を招く『座敷童』ゆえなのでしょうか」

 高階家に繁栄をもたらし、本家の女によって継承されてきた霊力。大天狗の分霊である哉宵もまた、それを欲して自分を求めているのではないか。渚子の懸念を、哉宵は頓着なく一蹴する。

「勿論、共に山に来てくれれば嬉しい。だが元来、座敷童は一所(ひとところ)に落ち着かない性分、好きな家を渡り歩けばいい。そこに私が通おう。古式ゆかしい妻問い婚だな。北の最果て南の孤島、どこへでも行く」
「簡単に言ってくれるけどな、ショウをそこまで運ぶのは俺なんだぞ」
「相棒の妻問いだ、四の五の言わず付き合え」

 それまで黙って様子を見ていた有明がつい口を挟んできたが、哉宵の反応はにべもない。互いに気を許した間柄だからこその遣り取りに、つい渚子も頬を緩めた。

 そこまで言ってくれるのであれば、渚子の返事はひとつしかない。

「……不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」

 哉宵の手に更に掌を載せ、渚子はこの上なく満ち足りた心で応じた。哉宵もまた、見惚れるほどの微笑を浮かべて渚子の髪に頬をすり寄せる。

「本当は三年前、あのまま邸から連れ出せればよかったのだが」

 渚子を……白髪の座敷童を「雪御前」として高階家に縛りつける呪いは、大天狗の名代たる哉宵ですら解けるものではなかった。解けるのは高階本家の当主のみ。

「……最初の頃は、きちんと屋敷神として敬われていたんですよ。だけどだんだん、待遇が粗雑になっていって」

 当代の雪御前たる渚子には、霊力と共に受け継がれてきた歴代の記憶がある。

 始まりは、質屋であった高階家の庭に迷い込んだ名もなき座敷童だった。心映えのいい店主夫婦は白髪の迷い子に人としての名を与えて慈しみ、跡取り息子の嫁に迎えた。家業が軌道に乗り始めたのはその頃だ。彼女が亡くなると娘の一人が白髪に転じ、店はますます繁盛した。次の代も同じで、高階家は更に商売の幅を広げた。白髪の娘が現れてから、面白いほどすべてが順調に進んだ。

 数々の文献や口伝を漁って白髪の女の正体に辿り着いた当主は、彼女を家の守り神として祀り上げた。庭に社を拵え、丁重にもてなし、その一方で家を離れられないよう呪いを施した。

 呪いで家を離れられないのであれば、下にも置かない扱いをする必要もない。代を重ねるにつれ、混じりけなく白い髪は神々しさではなく不気味なものと見做され、社は座敷牢と化し、時代の変わった最後には下女へと貶められた。

「不敬にも程があるな。もし我が山に来る場合も、決してそのような扱いはしないと誓おう、渚子」
「……ああ、そう言えば」

 慈しむように名を囁かれ、渚子は、おそらく最後の高階家当主となった異母妹の言葉を思い出す。

「わたし、その名前は捨ててきたんです。取り上げられたと言うか」
「何?」
「でも却ってよかったんです。名前もまた、わたしたちを高階家に縛り続けた呪いのひとつですから」

 眉をひそめた哉宵に、かつて渚子と呼ばれた女は明るく言う。名を奪われてようやく、最初の名もなき座敷童へと立ち帰ることができた。

「だが名前がなければ不便だろう」
「俺は別に『お嬢』呼びでもいいけどな」
「妻の名を呼ぶのは夫の特権に決まっている」

 混ぜ返す有明とさりげなく惚気る哉宵を微笑ましく見つめ、真名も綽名も捨ててきた女は屈託なく笑う。

「ええ。ですから、結納の品として、哉宵様から名前をいただきとうございます。そうすれば、人の身に生まれたわたしも、哉宵様と同じ時を生きることができますから」

 夫から賜ることで、その名は天狗たる彼と添い遂げるための呪物となる。

「そうか。では……」

 哉宵はしばし黙考し、やがて新妻の掌をとって指先で字を書いた。

「……蝶子(ちょうこ)、ではどうだろう」
「蝶子」

 新妻は、たった今与えられたばかりの名前を唇に載せる。

「あの邸にいたとき、君は空を舞う鳥どころか、庭先に遊ぶ蝶にすら羨望の眼差しを向けていただろう。蝶は春の季語、自由な魂の象徴だ。『蛹姫』から脱皮し、『雪御前』の呪いから解放されて、花から花へ、庭から空へ、どこへでも飛んでいける」
「――――叶うなら、哉宵様と共に」

 渚子の名を脱ぎ捨て、蝶子と名づけられた女は、愛しげに夫の名を呼んだ。それからふふっと、翅をふるわせるように笑う。

「お返しに、わたしからの持参品も受け取っていただけませんか」
「持参品?」
「わたしの名を呼ぶのはあなただけ。でしたらわたしも、『哉宵(やよい)様』と、わたしだけの呼び方でお呼びしたいのです」

 有明が哉宵を「ショウ」と呼ぶのを聞いて思いついたことだ。

「やよい、か。……うん、いい。気に入った。私をそう呼べるのは蝶子だけだ」

 蝶子の申し出を、哉宵は偽りない笑顔で承諾する。

「わたしも、ずっとお慕いしておりました。どうぞ、哉宵様と共に連れて行ってください」
「私の郷で構わないのか?」
「ええ。長いことひとつの邸に居続けて、引越し好きの本能が薄れてしまいました。それに、もともとわたし、哉宵様の山に向かおうとしていたんです」

 けれども先に、哉宵が蝶子を迎えに来てくれた。

「御一新を迎え、古い闇は新しい光に急速に掃われようとしています。わたしや哉宵様の社が棄却されたように、人でなし(●●●●)人間(じんかん)を離れ身を隠すのも、抗いがたい時代の流れなのでしょう」
「そうかもしれないな」
「わたしのこと、見つけてくれて、覚えていてくださって、ありがとうございます」
「礼を言うのは私のほうだ。求婚を受け入れてくれてありがとう。生涯、大切にする」

 そう言って、哉宵は蝶子を抱き寄せる。蝶子は素直に全身を夫に預け、二人を眺めていた有明は食傷気味にぱたりと尾を振り目を伏せた。

 雪御前……座敷童は、禍福をもたらす者。

 けれど、夫の腕の中、蝶子は今、自分が世界でいちばん幸せだと思った。