「お姉様、あなたにはこの邸を出て行ってもらいます」
「え……?」

 汀子(みぎわこ)の高らかな宣告に、広縁に膝をついた異母姉の瞳が揺れる。憤るでも嘆くでもない、ただ怯えたようなその反応が、昔から汀子の癇に障った。

 みっつ年上の、母親の命と引き換えに生まれた異母姉。半分とは言え汀子とも血のつながりがあるため、造作自体は整っていると言っていい。けれど生まれ持ったその素養が本領を発揮するのは、汀子のように、丁寧に髪を梳ってきちんと結い上げ、肌を磨き、似合いの化粧を施し華やかな着物をまとってこそ。擦り切れた小袖、荒れた指先、乾いた唇は、華族の令嬢どころか、それに傅く下女にしか見えなかった。

 実際、異母姉・渚子(なぎさこ)は令嬢として育てられてはいなかった。汀子が物心ついた頃には、渚子は邸の隅にある古い離れに一人で暮らしていて、それなりの着物や食事は与えられていたが、学校に通うことも家庭教師を付けられることもなかった。

 それはおそらく、彼女の見た目――――腰まで伸びた髪のせいだろう。素っ気なく首許で括られた渚子の髪は、老婆のような見事な白髪だった。「霜雪令嬢」と揶揄される由縁だ。生まれつきではなく突然変異らしいが、そんな異形を、爵位まで賜った華族の娘として外に出せるはずもない。

 幽閉同然だった彼女に使い道(●●●)を見出したのは父の後妻、汀子の母だった。義理の娘を「只飯食らい」と呼び、様々な用事を言いつけては些細な失敗を責め立てた。時にはそれが罵倒のみならず折檻に至ることもあったが、彼女を邸外に出そうとしない限りは父も反対しなかった。

 前妻の実家は零落したが旧堂上家、汀子の母の実家より位が高い。そんな血を引く義娘を顎でこき使いいたぶることで母の自尊心と嗜虐心は満たされ、汀子もそれに倣うようになった。

 そして、渚子は完全に高階家(たかしなけ)の息女から下女へと転がり落ちたのだ。

「……お父様が急に亡くなられて、汀子様がこの家の当主になったと奥様より伺っていますが」
「ええそう。あいにくお父様の子供はわたくしたちだけ、学校に通ったことすらないお姉様がこの家を、家業を継げるはずもないでしょう?」

 高階家は暖簾分けした質屋から始まり、僅か数代でこの国有数の廻船問屋に成り上がった一族だ。御一新ののちは華族に列せられ、今も貿易商として巨万の富を得ている。

「その汀子様が、わたしを追い出すと言うのですか。どうして」
「お母様から聞いてない? お父様の喪が明けたらわたくしは結婚して夫を迎えます。だからこの機会に邸を改装することにしたの。流行りの西洋風にね」

 今いる座敷も、開け放った障子戸から臨む築山と池の庭も、広大な高階家はすべて純和風の趣きをしている。けれども今、華族の間では洋風建築が流行の最先端であり、至るところで解体と建築が進められていた。洋風への傾倒は庶民の間ですら顕著だ。この流れに乗れなければ、前妻の実家のように時代に取り残されてしまうだろう。

「当然、お姉様の住む離れも取り壊すわ。だからよ」

 一応は堂上家の孫娘だから「お姉様」と呼ぶものの、そこに敬意は微塵もない。これが妾腹であれば、使用人たちが「なぎさ」をもじって「さなぎ」と呼ぶように、盛大に罵ってやれたのだが。

「それに、お姉様はご存知ないでしょうけど、お姉様は戸籍上、もう高階家の者ではないの」

 汀子は袖の陰で大仰に溜め息をつき、憐憫と愉悦の入り混じった眼差しを異母姉に向ける。

 汀子も、相続のあれこれの際に初めて知った。渚子は幼少期、おそらく白髪に変じた頃に亡くなったものとされ、高階家の戸籍から抜かれていたのだ。だから学校にも通わせず、社交界にもその存在を公にしなかった。それでも実際に葬り去るのではなく養い続けたのは、父親としての最後の情か。

 ――――だが、それを引き続き汀子に求めるのは愚かと言うもの。

 汀子は華族の令嬢として産まれ、財閥の跡取りとして育てられた。美貌も才覚も申し分ないと自負している。欲しいものはすべて手に入って当たり前であり、要らないものもすべて捨ててしまわなければ気が済まない。

 嫁どころかただ表に出すこともできない異形の穀潰しを、成人後も養い続ける義理は汀子にはなかった。

「そんな赤の他人を邸に置いておく道理がないわ。使用人や従業員も充分に足りてることですし」
「……そうですか」

 渚子は沈痛な面持ちで俯く。「汀子様」「奥様」と呼ぶように、異母姉は自分たち母娘には逆らえない。解ってはいるが、涙のひとつも見せず殊勝に勘当を受け入れる様子は、それはそれで汀子を苛立たせた。

 着物や簪、人形から尊厳に至るまで、汀子は渚子からあらゆるものを取り上げてきた。だから最後に、もうひとつ取り上げても構わないだろう。

「ああそれと、お姉様はもう高階家の長女ではないのだから、今後は『渚子』と名乗らないでちょうだい」
「……名前まで奪おうと言うのですか」
「万が一、高階家長女のことを覚えている人に出会ったら面倒なことになるでしょう。死んだはずの娘、何よりその髪」
「…………」

 詭弁だが、やはり渚子は何も言い返せず項垂れた。それを見て、汀子は更にもうひとつ、取り上げることにする。

 床の間に飾られた大小二本の刀のうちの脇差を手に取り、すらりと鞘から引き抜いた。その冷たい音に顔を上げた渚子が目を瞠る。明確な恐怖を浮かべるその顔を満足げに見遣り、汀子は括っただけの渚子の白髪を無造作に鷲掴むと、結紐ぎりぎりのところで力任せに断ち切った。

「……!」

 声にならない悲鳴が軒先に消える。

 傷んだ白髪が、板間にばさりと広がった。結紐も解け、不揃いに残った髪が渚子の肩に落ちる。

「そんなに長いと目立つでしょう。隠しやすいように短くしてあげたわ」
「…………」

 汀子は親切心だとばかりに嫣然と微笑みかけるが、霜雪令嬢は乱雑に切り捨てられた髪を茫然と見下ろすばかりだ。

「明日がお父様の初七日だから、明後日には出て行ってもらいます。……それと、この髪も自分で片付けなさいよ。竈にでもくべておきなさい」

 それだけ言い捨て、汀子は脇差や鞘もそのままに座敷を後にする。蛹のように肩を丸めた異母姉の表情など、知ったことではなかった。